富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「あなたがたは聖霊の宿る神殿です」 コリントの信徒への手紙一,3章10~17節

2022-01-27 22:55:13 | キリスト教

        ↑ 「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。」(1コリント3:16)

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会    

週    報

降誕節第6主日 2022年1月30日(日)  午後5時~5時50分

年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を

成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆく。」(エフェソ4・16)

                            礼 拝 順 序

                                                                     司会 辺見順子姉                 前 奏              

讃美歌(21)   4(世にあるかぎりの)

交読詩編   51:12-21(神よ、わたしの内に清い心を創造し)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)コリントの信徒への手紙一,3章10~17節(新p302)

説  教     「あなたがたは聖霊の宿る神殿です」

辺見宗邦牧師

祈 祷                                                            

讃美歌(21) 451(くすしき恵み)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

〇オンラインで礼拝に参加できます。設定担当は、斎藤美保姉です。

申し込み先:Eメール munekuni-hemmi@vesta.ocn.ne.jp

               次週礼拝 2月6日(日)  午後5時~5時50分

               聖書 歴代誌下6章12-23,28-31節

               説教題 「ソロモン王の祈り」

               讃美歌(21) 13 355 27 交読詩編 109:21-31  

本日の聖書

3:10わたしは、神からいただいた恵みによって、熟練した建築家のように土台を据えました。そして、他の人がその上に家を建てています。ただ、おのおの、どのように建てるかに注意すべきです。11イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできません。12この土台の上に、だれかが金、銀、宝石、木、草、わらで家を建てる場合、13おのおのの仕事は明るみに出されます。かの日にそれは明らかにされるのです。なぜなら、かの日が火と共に現れ、その火はおのおのの仕事がどんなものである かを吟味するからです。14だれかがその土台の上に建てた仕事が残れば、その人は報いを受けますが、15燃え尽きてしまえば、損害を受けます。ただ、その人は、火の中をくぐり抜けて来た者のように、救われます。16あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。17神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたはその神殿なのです。

本日の説教

 当時コリントの教会には、さまざまな道徳上の問題や分派争いがありました。コリントからエフェソにいるパウロのもとにやってきた人々からコリントの教会の事情を聞き、さらに具体的な問題に関する質問もあったので、パウロがさっそく書いたのがこの手紙です。他の手紙と同じように、挨拶(1:1-3)と感謝(1:4-9)につづいて、具体的な勧告に入ります。1章10節から4章21節までは、コリントの教会における党派争いに関する箇所です。

コリントの人々は「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」(アポロは使18:24によると、アレキサンドリア生まれのユダヤ人雄弁家)つく、という党派意識を持っていました。パウロはこのようなコリントの信徒を、<ただの人にすぎない>と批判し、キリストの霊による「キリストの思い」を抱かせ、彼らの霊的な誇りを戒めました。

3章9節では、「私たちは神のために力を合わせて働く者であり、あなたがたは神の畑、神の建物なのです」と、パウロは語ります。<畑>、<建物>という語は、ここでは教会という共同体の形成を意味します。農業の比喩では、植える者(パウロ)も水を注ぐ者(アポロ)も<神のために力を合わせて働く者であ>ることを強調します。<建物>の比喩では、パウロは、神からいただいた恵みによって、熟練した建築家のように土台を据えたと述べます。パウロが土台を据えたのは、「神からいただいた恵みによって」でした。これによってパウロは彼の使徒職は神からの委託によることを意味しています。その土台の上に家を建てるとき、「おのおのどのよう建てるかを注意すべきです」と勧告します。教会で教えたり、指導する人すべてに向けた警告です。

次にパウロは土台を据えるというイメージで何を暗示しているかを語ります。唯一の土台はイエス・キリストという土台です。十字架につけられたキリストが教会の土台です(1: 23、2:2)。建物(教会)の上部構造は土台と一致していなくてはなりません。そうでなければ、ゆがんで不安定になります。教会の建築の固定した基礎は、十字架につけられたキリストの教えです。

 この土台の上に、だれかが金、銀、宝石、木、草、わらで家を建てる場合、おのおのの仕事は明るみに出されます。かの日にそれは明らかにされる、というのです。「かの日」とは神が全ての人間の業を試し、裁き、終末的正義をうち立てる、主の日を指しています。ここでパウロは火による最後の審判のイメージを個人の運命ではなく、おのおのの教会の指導者たちによって建てられた教会の堅実さを試す最後の神吟味について語ります。

 六つの異なる建物の材料、「金、銀、宝石、木、草、わら」の比喩は、恐らく価値の下がるものへと配置されています。最後の三つは燃えやすく、最初の三つは燃えにくいという事実以上に、特別な意味はありません。パウロの主張は、ある指導者は耐火性のある材料で建て(キリストが十字架につけられたという福音)、他の者は燃えやすいもの(人間の知恵という一時的な熱中)で建てており、来るべき神の視察の炎で焼き尽くされてしまうというのです。

 建築家のだれかが土台の上に建てた仕事が残れば賃金をもらうでしょう。しかし不十分な仕事をした建築家たちには罰金が科せられるでしょう。無能な下請け建築家たちは、仕事は燃え尽きても、かろうじて救われるだろう、というのです。

 パウロの三番目の比喩的表現は、教会という共同体は普通の建物ではなく、神の神殿であり、神の霊がとどまる所であると語ります。原文では、「あなたがたは(複数)、あなた方自身(複数)が神の神殿(単数)であり、神の霊(単数)があなたがた(複数)の内に住んでいることを知らないのですか」と問いかけています。ここでは神の霊がキリスト者個人ではな、集められた共同体、信仰者の集まりに住んでいるというのです。それは教会堂という建物のことではありません。パウロが神の霊が神殿に住んでいるという時の神殿は、異教世界の神々や神殿ではなく、エルサレムにある神殿にいますイスラエルの神の霊です。なぜ教会が神殿に取って代ったのかというと、パウロは神の霊が神に選ばれた人々の集う共同体(教会)に生きており、今や共同体が讃美と礼拝が正しく神に捧げられる場所であると信じたからです。神の霊はもはや聖なる建物に制限されないのです。パウロが共同体を神殿であると言うのは、信仰者の行いによるのではなく、聖霊が共同体に生きているからです。犠牲を捧げることによるのでなく、共同体が神のいます所だからです。

 もし教会が神のいます所であうなら、教会を堕落させたり、傷つける者は、神を怒らせ、自分たちの頭の上に神の裁きを引き起こします。神の神殿である教会を自らの傲慢や虚栄心を満足させる場に変える者は、厳かに警告されています。パウロはもう一度、ここでのたとえを強調して、「あなたがたは(複数)その神の神殿なのです」と言って終わります。

 パウロの読者たちへの呼びかけは、土台として据えた主イエス・キリストは、十字架につけられたキリストです。私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さり、復活して下さった主イエス・キリストこそ、教会の、そしてそこに連なる私たちの人生の確固たる土台であり、私たちはその上に、神の建物、神殿として建て上げられていくのです。
 私たちは神殿というと、例えば日本の神社などのように、本殿に何らかのご神体が祭られていて、神様がそこにおられると考えられている建物のことを想像します。しかしイスラエルの神殿はそういうものではありません。ソロモン王が紀元前10世紀に建てた最初の神殿の中心部分、至聖所と呼ばれる所には、契約の箱が安置され、その中には十戒の石の板が納められていました。しかしその箱や十戒の板は「ご神体」ではありません。それらを神として拝んだわけではないのです。そこは、主なる神様がご臨在下さり、そこで民と出会って下さる場所です。

契約の箱と十戒の書かれた石の板は、バビロニアによるユダ王国の滅亡とエルサレムの破壊、ソロモンの建てたこの神殿の焼失の時に失われてしまいました。バビロン捕囚からの解放後の紀元前515年にゼルバベルの指揮でほぼ同じ場所に再建された第二神殿(エズラ記6章13節以下)には、契約の箱に代るものは何も置かれませんでした。契約の箱が失われて以来、エルサレム神殿の中心は何もない空間なのです。契約の箱や十戒の石の板を「ご神体」として拝んでいるのではないのです。神様がイスラエルの神となり、イスラエルはこの神様の民となる、そういう特別の関係を、神様がイスラエルとの間に結んで下さった、この契約の恵みに基づいて、イスラエルの民は主なる神様を礼拝し、犠牲をささげ、祈ることができたのです。そのことが行われる場が神殿です。第二神殿は、紀元前20年にヘロデ大王によって完全改築に近い形で大拡張され、ヘロデ神殿と呼ばれました。しかし、紀元70年、ユダヤ戦争が終わると神殿はエルサレムの市街ともどもローマ帝国によって破壊され、エルサレムと神殿はユダヤ教の信仰生活の中心ではなくなりました。

神の霊がキリスト者個人ではなく、集められた共同体に住んでいることが記されています。パウロは教会のイメージとして「神殿」を使う時は、全体として共同性を言う時でした。だが、6章19節では、「あなたがたの体(単数)は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです」とあります。ここではパウロは「神殿」の比喩を個人にあてはめています。教会という集団ではなくて、信仰者個人のことを語っています。信仰者の群れである教会はキリストの体であり、聖霊の宿る神殿です。私たちは主イエス・キリストを信じて洗礼を受け、教会に加えられ、キリストの体の一部とされます。そのことによって私たち一人一人の体も、聖霊の宿る神殿となります。神様が私たちの体に聖霊を宿らせて下さるのです。個人の体も聖霊が宿るにふさわしい、聖なる器として保たなけれならないのです。パウロは「あなたの体を聖く保ちなさい。そうすれば神が霊をくださる」とは言わず、「聖霊がすでに宿っているから、みだらな行いから離れなさい」と言うのです。悪い霊は私たちの罪に働きかけ、私たちを誘惑し、御国に向かっての歩みを妨げようとします。イエス様は私たちに「我らを、こころみにあわせず、悪より救い出したまえ」と祈ることを教えてくださいました。この祈りを捧げつつ歩む中で、私たちは神様の栄光を現す者としてしっかり歩んでいきましょう。

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「老いても、神よ、捨てないでください。」 詩篇71篇9-24節

2022-01-21 22:28:00 | キリスト教

  ↑「老いの日にも見放さず、わたしに力が尽きても捨て去らないでください。」 詩篇71篇9節  

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会    週  報

降誕節第5主日 2022年1月23日(日)   午後5時~5時50分

年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を

成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆく。」(エフェソ4・16)

                           礼 拝 順 序

                                                             司会 斎藤 美保姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 441(信仰をもて)

交読詩編   71(主よ、御もとに身を寄せます)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳) 詩篇71篇9-24節(旧p.904)

説  教 「老いても、神よ、捨てないでください。」辺見宗邦牧師

祈 祷                                                            

讃美歌(21) 449(千歳の岩よ)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

〇 オンラインで礼拝に参加できます。設定担当は、斎藤美保姉です。

申し込み先:Eメール munekuni-hemmi@vesta.ocn.ne.jp

                                                 次週礼拝 1月30日(日) 午後5時―5時50分

                                                    聖書  コリントの信徒への手紙一、3章10~17節

                                                   説教題 「あなたがたは聖霊の宿る神殿です。」

                                                  讃美歌(21) 4 451 27 交読詩編 51:12-21節 

本日の聖書

71:1主よ、御もとに身を寄せます。とこしえに恥に落とすことなく、2恵みの御業によって助け、逃れさせてください。あなたの耳をわたしに傾け、お救いください。
3常に身を避けるための住まい、岩となり、わたしを救おうと定めてください。あなたはわたしの大岩、わたしの砦。
4わたしの神よ、あなたに逆らう者の手から、悪事を働く者、不法を働く者の手から、わたしを逃れさせてください。
5主よ、あなたはわたしの希望。主よ、わたしは若いときからあなたに依り頼み、6母の胎にあるときから、あなたに依りすがって来ました。あなたは母の腹から、わたしを取り上げてくださいました。わたしは常にあなたを賛美します。
7多くの人はわたしに驚きます。あなたはわたしの避けどころ、わたしの砦。8わたしの口は賛美に満ち、絶えることなくあなたの輝きをたたえます。
9老いの日にも見放さず、わたしに力が尽きても捨て去らないでください。
10敵がわたしのことを話し合い、わたしの命をうかがう者が共に謀り、11言っています。「神が彼を捨て去ったら、追い詰めて捕えよう。彼を助ける者はもういない」と。
12神よ、わたしを遠く離れないでください。わたしの神よ、今すぐわたしをお助けください。
13わたしの魂に敵対する者が恥に落とされ、滅ぼされますように。わたしが災いに遭うことを求める者が、嘲りと辱めに包まれますように。14わたしは常に待ち望み、繰り返し、あなたを賛美します。
15わたしの口は恵みの御業を、御救いを絶えることなく語り
なお、決して語り尽くすことはできません。
16しかし主よ、わたしの主よ、わたしは力を奮い起こして進みいで、ひたすら恵みの御業を唱えましょう。
17神よ、わたしの若いときから、あなた御自身が常に教えてくださるので、今に至るまでわたしは、驚くべき御業を語り伝えて来ました。
18わたしが老いて白髪になっても、神よ、どうか捨て去らないでください。御腕の業を、力強い御業を、来るべき世代に語り伝えさせてください。
19神よ、恵みの御業は高い天に広がっています。あなたはすぐれた御業を行われました。神よ、誰があなたに並びえましょう。
20あなたは多くの災いと苦しみを、わたしに思い知らせられましたが、再び命を得させてくださるでしょう。地の深い淵から、再び引き上げてくださるでしょう。
21ひるがえって、わたしを力づけ、すぐれて大いなるものとしてくださるでしょう。
22わたしもまた、わたしの神よ、琴に合わせてあなたのまことに感謝をささげます。イスラエルの聖なる方よ、わたしは竪琴に合わせてほめ歌をうたいます。
23わたしの唇は喜びの声をあげ、あなたが贖ってくださったこの魂は、あなたにほめ歌をうたいます。
24わたしの舌は絶えることなく、恵みの御業を歌います。わたしが災いに遭うことを望む者が、どうか、恥と辱めに落とされますように。

本日の説教

 この詩篇は「救いを求める祈り」の歌に属しますが、全体通じて神への強い信頼がみなぎっています。主よ、御もとに身を寄せます」ということばが最初にあります。そして、「とこしえに恥に落とすことなく、恵みの御業によって助け、逃れさせてください。あなたの耳をわたしに傾け、お救いください」と悪い者からの救いを求める願いが続きます。

悪い者とは、「神に逆らう者、悪事を働く者、不法を働く者」たちです。彼らの「手から、わたしを逃れさせてください」と詩人は神に救いを求めます。

「主よ、あなたはわたしの希望。主よ、わたしは若いときからあなたに依り頼み、母の胎にあるときから、あなたに依りすがって来ました」と、主こそが詩人の希望であり、若いときから信頼する方であることを述べます。

「あなたは母の腹から、わたしを取り上げてくださいました」と母の腹からの誕生も神の御意志によることを告げ、主こそが信頼と希望の源であるを述べ、「わたしは常にあなたを賛美します」と生涯を御手によって支えて護ってくださる神をほめたたえます。

この詩人は人並みに苦しみや悲しみや試練に遭ったと思います。しかし、彼のことばには神への賛美が溢れています。

 このような詩人に、「多くの人は驚きます」と言います。正しい者の苦しみに人々は驚き、しかし、救いだされる神の恵みに驚くと言います。詩人は、「あなたはわたしの避けどころ、わたしの砦。わたしの口は賛美に満ち、絶えることなくあなたの輝きをたたえます」。

 生涯を振り返って見てきた詩人は、年老いた者の一人として語り出します。「老いの日にも見放さず、わたしに力が尽きても捨て去らないでください」と、老齢の弱さを告白しつつ、神が見放すことのないように祈り求めます。なぜなら、「敵がわたしのことを話し合い、わたしの命をうかがう者が共に謀り、『神が彼を捨て去ったら、追い詰めて捕えよう。彼を助ける者はもういない』と」言っているからです。

 詩人は、「神よ、わたしを遠く離れないでください。わたしの神よ、今すぐわたしをお助けください。わたしの魂に敵対する者が恥に落とされ、滅ぼされますように。わたしが災いに遭うことを求める者が、嘲りと辱めに包まれますように」と祈ります。詩人にとって最後的に問題となるのは、生命を脅かす敵からの救出というよりはむしろ、自分が老いた日々を送る中で、今神から捨てられ投げ出されないかという心の憂いです。詩人の信仰生活がかかっている神との信頼関係が揺り動かされないように。それが今の苦難の中で改めて真価を現わすように詩人は願っています。

 再び詩人は、その全生活がどれほど賛美で占められているかを描くことによって、主にある信頼を表白します。 「わたしは常に待ち望み、繰り返し、あなたを賛美します。わたしの口は恵みの御業を、御救いを絶えることなく語り
なお、決して語り尽くすことはできません。しかし主よ、わたしの主よ、わたしは力を奮い起こして進みいで、ひたすら恵みの御業を唱えましょう。」

年老いた詩人の願いが、再び語られます。「神よ、わたしの若いときから、あなた御自身が常に教えてくださるので、今に至るまでわたしは、驚くべき御業を語り伝えて来ました。わたしが老いて白髪になっても、神よ、どうか捨て去らないでください。御腕の業を、力強い御業を、来るべき世代に語り伝えさせてください」と願っています。そして、「神よ、恵みの御業は高い天に広がっています。あなたはすぐれた御業を行われました。神よ、誰があなたに並びえましょう」と賛美しています。「恵みの御業」とは、ヘブライ語では「あなたの義(ツェディク)」です。「義」には、恵み・救い・憐れみなどの意味を含みます。(新約では、神が人間に求めるふさわしい生きたであり、パウロの手紙では、人間が義とされるとは、神の前で正しい者とされることであり、救われることを意味します。)

詩人は、神がこれまで、「多くの災いと苦しみを、わたしに思い知らせられましたが、再び命を得させてくださるでしょう。地の深い淵から、再び引き上げてくださるでしょう」と歌います。「ひるがえって、わたしを力づけ、すぐれて大いなるものとしてくださるでしょう」とは、これまでの苦しみと悩みに遭遇した人生とは反対に、わたしを力づけ、わたしをもっと高く引き上げるでしょう(文字どおり訳すと、「あなたはわたしの大きさを増されます」)。主イエスは地の深い淵、黄泉から、高く引き上げられて、あらゆる名にまさる名を与えられました。「すぐれて大いなるもの」されることは、「名誉を増す、偉大さを増す」と訳すことも可能でしょう。詩人は神が力づけてくださることを確信し、神殿の礼拝で、琴に合わせて神に感謝し、竪琴に合わせて、「イスラエルの聖なる方」に讃美することを誓って、この詩を閉じます。

詩人は、「あなたは母の腹から、わたしを取り上げてくださいました」と自分が世に生まれる時も、神のご支配があったことを告白しています。神は、神の目的がああって、あなたの父母を通して、あなたを世に送られたのです。それは、神の愛に生きるためです。それを知らせてくださるために、父なる神は御子を世に送られました。御子イエス・キリストの救いにあずかることによって、私たちが世に生まれたのは、神を愛し、自分を愛し、隣人を愛し、神と人に愛されるためです。

こうして愛を学んだものの、やがて年老いて行きます。だれもが迎えなければならない人生の終末です。若く壮健な時に、自分の健康に自信があり、自分の役職や実績、能力を示せる間は、多くの人が自分に関心を向け、ふり向いてくれました。しかし、体が衰え、地位も権力も財も失った時に、この世の中で自分をふり向いてくれる人は極端に少なくなります。 だから、今日の詩人のことばのように、「私が年老いた時、私を見離さないでください。私が力衰えた時、私を見捨てないでください」という祈りがあるのです。

詩人は、「主は、ひるがえって、わたしを力づけ、すぐれて大いなるものとしてくださるでしょう」と信仰の告白をしています。神は高齢者の人生の苦労にも振り向いて力づけて下さる方であり、主の義を与えて、死の恐怖からも解放し、永遠の命を与えて、主の御国に迎えてくださる方です。主はこう言われます。「わたしはあなたがたの年老いるまで変らず、白髪となるまで、あなた方を持ち運ぶ。わたしは造ったゆえ、必ず負い持ち運び、かつ救う」(イザヤ46:4)。神は、目的をもってわたしたちを世に生みだしてくださったがゆえに、最後まで責任を負ってくださるお方です。神御自身が「わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない」(ヘブライ13:5)と言われています。「死から復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです」(ローマ8:34b)。このような全能の神である父・子・聖霊のひとりの主を賛美しましょう。 

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「宣教の開始」 マルコによる福音書1章21-28節

2022-01-16 01:36:22 | キリスト教

                        ↑ 「イエス、悪霊を追い出す。」

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会    週  報

降誕節第4主日 2022年1月16日(日)   午後5時~5時50分

年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆく。」(エフェソ4・16)

                           礼 拝 順 序

                                                              司会 斎藤 美保姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21)  57(ガリラヤの風かおる丘で)

交読詩編  100(全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)マルコによる福音書1章21-28節(新p.62)

説  教       「宣教の開始」   辺見宗邦牧師

祈 祷                                                                 

聖餐式    78(わが主よ、ここに集い)

讃美歌(21) 510(主よ、終わりまで)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

〇 オンラインで礼拝に参加できます。設定担当は、斎藤美保姉です。

申し込み先:Eメール munekuni-hemmi@vesta.ocn.ne.jp

                                                                            次週礼拝 1月23日(日) 午後5時―5時50分

                                                                            聖書  詩篇51篇12~21節

                                                                              説教題 「清い心を創造する神」

                                                                              讃美歌(21)441 449 27 交読詩編 51篇

   本日の聖書

1:21一行はカファルナウムに着いた。イエスは、安息日に会堂に入って教え始められた。 22人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。 23そのとき、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。 24「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」 25イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、 26汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。 27人々は皆驚いて、論じ合った。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」 28イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった。

 本日の説教

「一行はカファルナウムに着いた。」一行とは、イエスと四人の弟子たちです。四人はガリラヤ湖の漁師たちで、シモン(ペトロ)とその兄弟のアンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネの四人ですカファルナウム(今日のカペナウム)は、ガリラヤ湖北西岸の町です。シモンとアンデレの家もこの町にありました。この町には収税所があり徴税人マタイはイエスの弟子になりました(マタイ9:9)。イエスはナザレを離れて、この湖畔の町を本拠としてガリラヤ伝道をされました。

     

                          ガリラヤでのイエスの宣教

イエスは安息日にカファルナウムの会堂に入って教え始めました。安息日はユダヤ教の休日で、今日の土曜日にあたります。ユダヤ教の会堂は、律法の講義をしたり、宗教教育を行う場所で、安息日には礼拝を行う場所です。会堂司(つかさ)の許可があれば、だれでも自由に説教をすることが出来ました。イエスは安息日に会堂に入って教え始められました。

人々はその教えに驚きました。律法学者のようにではなく、神の権威をおびた者として教えられたからです。律法学者の主要な職務は律法の戒めを新しい状況に適用するための解釈とそれに基ずく規則を教えることです。しかし彼らは、律法を形式的に解釈し、伝承の権威に基づいて、その戒律を人に強いるだけで、律法を与えた神のみ心を理解し、そのみ心に生きることをしませんでした。

イエスは単なる律法の解釈者ではなく、律法を与えた神のみ心を知り、これに生き、律法の愛の精神を実行できる方でした。イエスは「父の名によって地上に来られた方」であり(ヨハネ5:43)、神の権威を帯びておられました。

イエスは律法を完成させるために来られた方です(マタイ5:17)。主イエスはすべて御自身の確信するところを語られました。マタイ5章~7章に記されている山上の説教は、の権威を示しています。神の支配がイエスと共に始まったということがよく分かるような言葉で語ったイエスの教えが会堂にいる聴衆の魂に迫ったのです。

そのときこの会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて、叫びました。それまでは、この人は会堂に自由に出入りしていたのです。彼は、「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ」と叫んだのです。

「汚れた霊」は悪霊を表すユダヤ的表現です。<汚れた>という形容詞は人間を宗教的に汚れた者にし、神への礼拝、神との交わりを不可能にする悪霊を指すと思われます。「汚れた霊」は、神の支配に逆らう力です。

「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」この叫びはイエスに対する防御と拒絶の言葉です。「我々」は仲間の悪霊すべてを表します。イエスがこの世界に来たのは悪魔的な力をことごとく滅ぼすためです。汚れた霊はイエスがだれであるかを超能力をもって知り、それを言い表すことによってイエスを支配しようとします。「神の聖者だ」はメシア(救世主)の称号ではなく、イエスが神に属する聖なる者、超越的・神的存在であることを意味するものと思われます。いずれにせよ<汚れた霊>と<神の聖者>が対立します。

しかし、イエスが、「黙れ。この人から出て行け」と、より強力な沈黙命令によって叱り、その試みを抑え、汚れた霊を追放すると、汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行きました。その人は汚れた霊から解放され、癒されたのです。<叱る>は、この語によってイエスの神的権威が暗示されます。イエスはガリラヤで神の福音を宣べ伝えたとき、「時は満ち、神の国は近づいた」(マルコ1:14)と言われました。神の国の到来を告げるイエスの教えの正当性は悪霊追放によって証明されたのです。

人々は皆驚いて、論じ合いました。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く」と言いました。

    

          イエスの時代のパレスチナ

  イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まりました。ガリラヤは当時ヘロデ・アンティパスの領地で、北はヨルダン川の上流のフレー湖のあたりまで達してシリアと接し、東はヨルダン川とガリラヤ湖が境界で、北西は地中海沿岸のフェニキヤに隣接します。南はサマリヤです。

「汚れ霊」とか、「悪霊」と言うと、それは現代人には通用しないことであり、昔の人の迷信的な考え方に過ぎないと思われるかもしれません。現代の人間はもっと科学的に考えている。どんなことでも科学的に説明する。わけのわからない力などは信じていない。しかし、キリスト者は罪の力に打ち勝つ、神から与えらえる聖霊を信じています。キリスト者を支配しているのは、汚れた霊ではなく、聖霊であり、聖霊の導きを求め、聖霊に生かされています。「自然の人は神の

「自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです」(Ⅰコリント2:14)とあります。また、世には、「人を惑わす霊や、悪霊」があるので、「すべての霊を信じることはしないで、それらの霊が神から出たものであるかどうか、ためしなさい」(ヨハネの手紙一、4:1-3)と警告しています。科学的に説明できない霊の力があるのです。大阪の診療内科の放火・殺人で男女25人が犠牲となる凶悪な事件がありましたが、容疑者は死亡したので真相究明は困難になったが、気が狂った精神病のせいだとするだけでは納得できません。まさに凶悪な悪霊に取りつかれた病める人であったと思うしかありません。昨日は東大受験生二人と大人一人を刃物で襲った高二の生徒が逮捕されましたが、同じような事件は多発しています。罪のはびこる世の中を、正していく神の支配が求められます。「主よ、御国を来たらせ給え。」

霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです」(Ⅰコリント2:14)とあります。また、世には、「人を惑わす霊や、悪霊」があるので、「すべての霊を信じることはしないで、それらの霊が神から出たものであるかどうか、ためしなさい」(ヨハネの手紙一、4:1-3)と警告しています。科学的に説明できない霊の力があるのです。大阪の診療内科の放火・殺人で男女25人が犠牲となる凶悪な事件がありましたが、容疑者は死亡したので真相究明は困難になったが、気が狂った精神病のせいだとするだけでは納得できません。まさに凶悪な悪霊に取りつかれた病める人であったと思うしかありません。昨日は東大受験生二人と大人一人を刃物で襲った高二の生徒が逮捕されましたが、同じような事件は多発しています。罪のはびこる世の中を、正していく神の支配が求められます。「主よ、御国を来たらせ給え。」

 

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「主を渇き求める」 詩篇63篇1-12節

2022-01-07 21:36:29 | キリスト教

                                         ユダの荒野(現在の写真)

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会    週  報

降誕節第3主日 2022年1月9日(日)  午後5時~5時50分

年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を

成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆく。」(エフェソ4・16)

 

                           礼 拝 順 序

                                                              司会 邉見 順子姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 459(飼い主わが主よ)

交読詩編   63(神よ、あなたはわたしの神)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳) 詩篇63篇1-12節 (旧p.894)

説  教       「主を渇き求める」 辺見宗邦牧師

祈 祷                                                                 

讃美歌(21) 214(わが魂のひかり)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

〇 オンラインで礼拝に参加できます。設定担当は、斎藤美保姉です。

申し込み先:Eメール munekuni-hemmi@vesta.ocn.ne.jp

                                                                      次週礼拝 1月16日(日) 午後5時―5時50分

                                                                     聖書  マルコによる福音書1章21-28節

                                                                       説教題 「宣教の開始」

                                                                       讃美歌(21) 57 510 27 交読詩編 100篇1-5節

本日の聖書

 63:1【賛歌。ダビデの詩。ダビデがユダの荒れ野にいたとき。】
 2神よ、あなたはわたしの神。わたしはあなたを捜し求め、わたしの魂はあなたを渇き求めます。あなたを待って、わたしのからだは乾ききった大地のように衰え、水のない地のように渇き果てています。
 3今、わたしは聖所であなたを仰ぎ望み、あなたの力と栄えを見ています。
 4あなたの慈しみは命にもまさる恵み。わたしの唇はあなたをほめたたえます。
 5命のある限り、あなたをたたえ、手を高く上げ、御名によって祈ります。
 6わたしの魂は満ち足りました。乳と髄のもてなしを受けたように。わたしの唇は喜びの歌をうたい、わたしの口は賛美の声をあげます。
 7床に就くときにも御名を唱え、あなたへの祈りを口ずさんで夜を過ごします。
 8あなたは必ずわたしを助けてくださいます。あなたの翼の陰でわたしは喜び歌います。
 9わたしの魂はあなたに付き従い、あなたは右の御手でわたしを支えてくださいます。                                10わたしの命を奪おうとする者は必ず滅ぼされ、陰府の深みに追いやられますように。                               11剣にかかり、山犬の餌食となりますように。                                                                                                  12神によって、王は喜び祝い、誓いを立てた者は誇りますように。偽って語る口は、必ず閉ざされますように。

本日の説教

 詩篇150篇中、116篇に、「表題(見出し)」と言われるものが付いています。これは詩篇を編纂(編集)していく段階で付加されたと考えられ、表題は詩文についての情報を提供するための散文です。116の表題中、73篇が「ダビデの詩」となっていますが、さらにその中の13の表題は、旧約聖書に記されているダビデの伝記物語中の事件に、詩文はかかわらせています。【新共同訳旧約聖書注解ⅡP.91~92。「表題」「作者と年代」の項目参照】表題に、「ダビデの詩」と記されていると、ダビデ自身が書いた詩文だと思いがちですが、実は150篇のほとんどすべてが、無名の詩人によるものであり、バビロン捕囚(597~538年)以前のものです。詩篇の編纂は紀元前200年頃には終結していたと思われます。旧約聖書に精通した複数の優秀な編纂者が、沢山あつめられていた詩文から、150篇を選び、整理したのです。

詩篇63篇は、神を求める魂の渇き、聖所での神の現臨による渇きの癒し、そしてその生涯で表される賛美の応答について語ります。

 この詩篇の背景は、1節の表題によると、ダビデがユダの荒野で過ごさなければならなかった時とあります。息子のアブシャロムの反乱の時も考えられるが、2節の「乾ききった水のない地」とあるので、サウル王が荒野でダビデの命を奪おうと狙った時と推定されます。ユダの荒野とは「ジフの荒野のホレシャ」や「アラバのマオンの荒野」、また「エン・ゲディの荒野」です。ダビデはサウロ王の追跡から逃れるめに三度も場所を変えています。その状況はサムエル記上23章15、24、24章2節に記されています。サウル王に追跡されていたときでも、常に、 ダビデは神の御翼の中に囲われたことを経験したのです。

  

  詩人はおそらく聖所におり、そこで神の威厳の顕現に接し、神のいつくしみ深い助けを経験することを許され、今神の保護を受けて安全であることを知っています(3、7節)。

当時はまだエルサレムには神殿はなく、「神(契約)の箱」が安置されている所が聖所でした。その中で、先に神に向けた切々たる願いが満たされたので、今や感謝の歌が始まります。それはまた、自分の生命を狙う敵に突如として審(さばき)が下ることを彼に確信させました(10節以下)。12節に王の名が挙がっているが、それは捕囚前に聖なる箱(8節)があった王の宮で祝われた神(ヤハウェ)の祭りの場合だと思われます(シオンの丘と思われる)。祈り手はそこで自作の詩を朗読したのでしょう。またそこでは祭儀の進行の一こまとして、敵の運命の決定が王と会衆の面前で行なわれたのでしょう。

 「2神よ、あなたはわたしの神。わたしはあなたを捜し求め、わたしの魂はあなたを渇き求めます。あなたを待って、わたしのからだは乾ききった大地のように衰え、水のない地のように渇き果てています。」

 この詩は、命を奪おうとする者たちのいる危険な世界から聖所にやってきた人の祈りとして作られています。その危険な世界のただ中で、詩人は、神の不在を経験し、魂の渇きと飢えを覚え、それなくしては魂が生きることの出来ない神の臨在の必要を味わっています。神へのあこがれは、炎熱下にすっかり干上がって水がなくなった荒野を疲れ果てて歩む人の、焼けつくようなのどの渇きに似て、かって苦難と迫害の続く中で、詩人の魂と肉体をすっかり衰弱させた思いでした。

「3今、わたしは聖所であなたを仰ぎ望み、あなたの力と栄えを見ています。4あなたの慈しみは命にもまさる恵み。わたしの唇はあなたをほめたたえます。」

 この神の臨在の必要は、聖所で、神の臨在によって満たされます。そこで詩人は、神のみ力とみ栄えをその目で見ます。神の臨在に接することは、必要を満たし、あたかも最も豊かな食事のもてなしを受けたかのように、魂を満ち足らせます。「あなたの慈しみは命にもまさる恵み」ですと言い、主を賛美します。「慈しみ(ヘブライ語はヘセド)」は真に主の特性であり、他のすべてのものに主の恵み深さを知らせるものです。ヘセドとは、誰であれ、主に信頼するすべての者に対する主の助けのこととです。詩人は、神が彼に真実であられることは、彼自身の生命よりも価値があると言おうとしているようです。詩人が、救いへの信頼を置いているのは、この神の慈しみ(へセド)なのです。彼のこの告白は、すべての正しい信仰が到達すべき、神のみに自己をささげる祈りの核心へとわたしたちを導きます。

 「5命のある限り、あなたをたたえ、手を高く上げ、御名によって祈ります。」

 「手を高く上げ」て祈る姿勢は、讃美の自然的な結果です。詩人は神によってくまなく満たされた魂の反響に、「命のある限り、あなたをたたえ、祈ります」と信仰を告白します。「御名によって祈る」という告白は、イエス・キリストの名によって祈ることによって深化されます。

 「6わたしの魂は満ち足りました。乳と髄のもてなしを受けたように。わたしの唇は喜びの歌をうたい、わたしの口は賛美の声をあげます。」

 神を慕い求め、乾いていた詩人の魂は、「満ち足りました」と感謝しています。「乳と髄のもてなしを受けたように」とは、最上の栄養物のように心を満たすものです。そのようなもてなしを神から与えられて喜びの歌をうたい、賛美の声をあげます。

 「7床に就くときにも御名を唱え、あなたへの祈りを口ずさんで夜を過ごします。」

 神の家で祈り手の心に浮かんだことは、祭儀の行事の範囲に限られているわけでなく、日常生活のあらゆる領域の中に及んで行きます。なぜなら、その喜びは神と共なる個人の精神生活の奥底に達しているからです。

 詩人は夜寝るときも、主の御名を唱え、祈りを口ずさみながら夜をすごす、と言います。夜中でさえも彼の考えをたえず神への思いに没頭させます。

 「8あなたは必ずわたしを助けてくださいます。あなたの翼の陰でわたしは喜び歌います。」

 神の恵みと守りを覚えて、神は必ず助けてくださることを自覚させ、安心して喜び歌います。

 「9わたしの魂はあなたに付き従い、あなたは右の御手でわたしを支えてくださいます。」

 「わたしの魂はあなたに付き従い」は、神にしがみついて離れないというねばり強い信仰です。「あなたは右の手で」とは、神の力強い確かな守りを意味します。信仰者は神にしがみつくことで、神にしっかりと支えていただいていることを感謝します。

 「10わたしの命を奪おうとする者は必ず滅ぼされ、陰府の深みに追いやられますように。」

 ただ一つの影が、完全に神に没頭する彼の魂に射し込んでいます。それは敵に関する考えです。だが彼もまた、自分の生命を狙う者が神の審(さばき)を免れないだろう、命を奪おうとする者は、必ず滅ぼされることを確信しています。

 「11剣にかかり、山犬の餌食となりますように。」

 正しい者に向けられた悪者の剣は、逆に悪者を滅ぼす結果になるということです「山犬の餌食となる」とは、死体が葬られない状態となり、恥と不名誉を受けることです。詩人は終わりの日の滅びのイメージを用いて、命を危険にさらす者がもはやいなくなることを求めます。

 「12神によって、王は喜び祝い、誓いを立てた者は誇りますように。偽って語る口は、必ず閉ざされますように。」

 主(ヤハウェ)への忠信の告白と、王や神の民が喜ぶこととが語られ、「偽りを言う者」の唇はふさがれることを願う。神に任命された王に対する忠誠を貫く者には神の守りを与えられる。「誇る」とは確信することであり、神に従うことを誇りに思うことです。

 ダビデに対するサウロ王の敵意は、ダビデがペリシテ人との戦いに勝利を収めのをねたみ、王権を奪われることを恐れたからです。サウロ王は悪霊にとりつかれるようになります。そしてダビデを捕らえて殺そうとします。それを知った息子のヨナタンはダビデに逃れるように伝えました。ダビデは主に祈りつつ、主の導きに従いました。サウルは絶え間なくダビデを狙ったが、神は彼をサウルの手に渡されなかった(サムエル記上23:14)、と記されています。

 「主よ憐れんでください。絶えることなくあなたを呼ぶわたしを。あなたの僕の魂に喜びをお与えください。わたしの魂が慕うのは、主よ、あなたなのです。」(詩篇86:3-4)というダビデの詩があります。苦難の中で、ダビデの魂は主を慕い求めています。渇いた地が水を求めるように魂は渇き求めています。慈しみの神は、必ずそれに応えてくださり、「乳と髄のもてなし」を受け、魂は満ち足りるのです。「乳と髄(脂肪・あぶら身)」は、神にに献げられるべき最善のものでした(レビ記3:16)。神の専有物をご自身がふるまってくださり、魂を満たしてくださるのです。

 神は御子を救い主としてわたしたちに与えてくださいました。主イエスに深く愛されていることを体験し、わたしたちの方でも主イエスを深く愛してゆく中で、わたしたちは霊的な恵みに満たされ、生きる意味と喜びとを体験させられるのです。詩篇63篇は、神を求める魂の渇き、聖所での神の現臨による渇きの癒し、そしてその生涯で表される賛美の応答について語ります。

 

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「「新しい歌を主に向かって喜び歌え。」 詩編33篇1節ー22節

2022-01-02 10:14:42 | キリスト教

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会    

週    報

降誕節第2主日(新年礼拝)2022年1月2日(日)  午後5時~5時50分

                           礼 拝 順 序

                                                               司会 田中 恵子姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 368(新しい年を迎えて)

交読詩編   33(主に従う人よ、主によって喜び歌え)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳) 詩編33篇(旧p.863)

説  教    「新しい歌を主に向かって喜び歌え。」 辺見宗邦牧師

祈 祷                                                                 

讃美歌(21) 474(わが身の望みは)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

〇 オンラインで礼拝に参加できます。設定担当は、斎藤美保姉です。

申し込み先:Eメール munekuni-hemmi@vesta.ocn.ne.jp

                                                                次週礼拝 1月9日(日) 午後5時―5時50分

                                                                聖書  詩篇63篇1-12節 

                                                                  説教題 「わたしの魂は主を渇き求めます」

                  讃美歌(21)459 214 27 交読詩編 63    

本日の聖書

 33:1主に従う人よ、主によって喜び歌え。主を賛美することは正しい人にふさわしい。
 2琴を奏でて主に感謝をささげ、十弦の琴を奏でてほめ歌をうたえ。
 3新しい歌を主に向かってうたい、美しい調べと共に喜びの叫びをあげよ。
 4主の御言葉は正しく、御業はすべて真実。
 5主は恵みの業と裁きを愛し、地は主の慈しみに満ちている。
 6御言葉によって天は造られ、主の口の息吹によって天の万象は造られた。
 7主は大海の水をせき止め、深淵の水を倉に納められた。
 8全地は主を畏れ。世界に住むものは皆、主におののく。
 9主が仰せになると、そのように成り。主が命じられると、そのように立つ。
 10主は国々の計らいを砕き、諸国の民の企てを挫かれる。
 11主の企てはとこしえに立ち、御心の計らいは代々に続く。
 12いかに幸いなことか、主を神とする国。主が嗣業として選ばれた民は。
 13主は天から見渡し、人の子らをひとりひとり御覧になり
 14御座を置かれた所から、地に住むすべての人に目を留められる。
 15人の心をすべて造られた主は、彼らの業をことごとく見分けられる。 

 16王の勝利は兵の数によらず、勇士を救うのも力の強さではない。
 17馬は勝利をもたらすものとはならず、兵の数によって救われるのでもない。
 18見よ、主は御目を注がれる、主を畏れる人、主の慈しみを待ち望む人に。
 19彼らの魂を死から救い、飢えから救い、命を得させてくださる。
 20我らの魂は主を待つ。主は我らの助け、我らの盾。

 21我らの心は喜び、聖なる御名に依り頼む。
 22主よ、あなたの慈しみが我らの上にあるように。主をまち望む我らの上に。

本日の説教

 3節に「新しい歌を主に向かってうたい、美しい調べと共に喜びの叫びをあげよ。」とあります。「新しい歌」とは、新しい恵みに対して新しい賛美をささげるようにという勧めです。「新しい歌」によって歌うのは、<御救いの良い知らせ>(イザヤ40・9)です。「新しい歌」という言葉は、詩篇全体の中に六つあります。普通の音楽の「新しい歌」と違って、この「新しい歌」には、三つの内容があります。

 第一にこれは、神に向かっての歌です。神が与えてくださる歌であり(40:4)、神の恵みを覚えて歌える歌です。第二にこれは「賛美の歌](40:3)であり、神の栄光を「ほめ歌う歌」(96:1-3、98:1-4、149:1)であり、神の救いを感謝して歌う歌です。144:9-10や149:4には、「勝利」という語が用いられており、神によって救われた事実が表現されています。第三にこれは、「喜び」の調子に満ちています。33:3に「喜びの声をあげて」とあるように、声をはりあげて喜びに満ちて歌う歌です。98:4には、「全地よ主にむかって喜ばしき声を上げよ。声を放て喜び歌え、ほめうたえ」とあります。新し歌は、どんな暗さの中にもあっても、それに打ち勝って前進する歌でなければなりません。「新しい歌」は、生きた信仰の中から絶えず生まれ出て来るはずのものです。

 それでは、詩篇33篇にどんなことが書かれているか読んでまいりましょう。

 「1主に従う人よ、主によって喜び歌え。主を賛美することは正しい人にふさわしい。2琴を奏でて主に感謝をささげ、十弦の琴を奏でてほめ歌をうたえ。3新しい歌を主に向かってうたい、美しい調べと共に喜びの叫びをあげよ。」

 詩篇32篇は、罪を赦された個人の喜びの歌です。「神に従う人よ。主によって喜び躍れ。すべて心の正しい人よ、喜びの声を上げよ。」(32:11)で終わっています。

 それを受けて、33篇は、「主に従う人よ。主によって喜び歌え。主を賛美することは正しい人にふさわしい。」と主を賛美することの勧めで始まります。32篇は個人の救いが主題でしたが、33篇はイスラエルの民が神によって救われた恵みに対て感激を歌った「新しい歌」です。琴や十弦の琴を奏でて歌え、とあります。楽器を使用することを勧めています。「十弦の琴」とは古代の楽器でマンドリンのようなもので、十弦の糸で出来ています。大事なことは主に従うことを、主によって喜び、感謝をささげて歌うことです。

「4主の御言葉は正しく、御業はすべて真実。5主は恵みの業と裁きを愛し、地は主の慈しみに満ちている。6御言葉によって天は造られ、主の口の息吹によって天の万象は造られた。7主は大海の水をせき止め、深淵の水を倉に納められた。8全地は主を畏れ。世界に住むものは皆、主におののく。
9主が仰せになると、そのように成り。主が命じられると、そのように立つ。」

 4-5節では、主なる神の道徳性を述べます。「主の御言葉は正しく」と言われているように、世界を治めておられる主の命令のことばが道徳性を持っていることこそ、賛美の根拠です。その「御業はすべて真実」とあります。「主は恵みの業と裁きを愛し」とは、主は恵みの正義をなさる方であり、公正な裁きをなさる方です。

 6-9節には、主の創造の力が述べられています。「主の御言葉」による創造については創世記1:3以下や、ヨハネ1:1-3で述べられています。「天の万象」とは太陽・月・星のことです。そして「海の水」は創世記1:9-10で造られ、神の大能による祝福とさばきのために水や海が今も保持され統治されているのです。「主が言われると、そのように存在を始め、命じられると被造物が働き始めた」のです。天地を創造し、義と愛とによってこれを統治する神が、諸国民の運命を支配するのです。

「10主は国々の計らいを砕き、諸国の民の企てを挫かれる。11主の企てはとこしえに立ち、御心の計らいは代々に続く。」

主が諸国を主権を持って統治される真の支配者であられることを述べています。主のはかりごとはとこしえに立ち、諸国民の企ては破れるのです。国も民も、結局すべてを支配する神の意志に従って動くほかないのです。人類は見えない神の御手によって導かれつつあるのです。神のご計画、ご意志に従って歩む国民にのみ、真の祝福が与えられるのです。

「12いかに幸いなことか、主を神とする国。主が嗣業として選ばれた民は。13主は天から見渡し、人の子らをひとりひとり御覧になり、14御座を置かれた所から、地に住むすべての人に目を留められる。15人の心をすべて造られた主は彼らの業をことごとく見分けられる。16王の勝利は兵の数によらず、勇士を救うのも力の強さではない。17馬は勝利をもたらすものとはならず、兵の数によって救われるのでもない。18見よ、主は御目を注がれる。主を畏れる人、主の慈しみを待ち望む人に。19彼らの魂を死から救い、飢えから救い、命を得させてくださる。」

 12-15節では、イスラエルの神による選びが述べられます。主を神とし、主が神の国を受け継ぐ者として選ばれた国は幸いです。イスラエルを選び出して御自分の民とされた主は、全人類を御手と御目の中に治めておられる。それはイスラエルを諸国から守り、諸国をイスラエルのために用いるという目的があるからです。

16-17節では、イスラエルに敵対する者のむなしさが述べられます。馬も勇者も、決して国を救うことが出来ないことを、自国の歴史の経験にてらして語ります。選民が恐れなくてはならない者は、ただ神のみです。

18-19節は、主が信仰者の真の保護者であることの告白です。ここでも主の目が注がれるが、それはいつくしみに満ちた目です。「待ち望む人」とは、主に対して畏れをもって仕え、試練の時にも失望せずに心を主に向ける者のことです。主の目が注がれるのは、「魂を死から救う」こと、と「飢え」から救い、命を得させてくださることです。主イエスは牧者であって、羊である私たちを死から救い、みことばとパンをもって豊かに養い、生かして下さる方です。

以上が信仰者に対する賛美の勧めの理由です。

 「20我らの魂は主を待つ。主は我らの助け、我らの盾。21我らの心は喜び、聖なる御名に依り頼む。22主よ、あなたの慈しみが我らの上にあるように。主をまち望む我らの上に。

 始めに、神を賛美することを勧めた詩人は、終わりでは、ひたすら主を待望しています。「我らの魂」「我らの心」という表現によって、待望の感情を表しています。「我らの助け、我らの盾」は、モーセの歌に見られる表現です(申命記33:29)。「聖なる御名に」とは、主の基本的な御性質である聖なることと、それから派生する正義と恩恵に信頼することを示しています(出エジプト記34:6-7)。

 結語の22節は、主を賛美する者に主の慈しみがあるようにと祝福を求める祈りと期待です。ひたすら主を待望する祈りで終わります。

 賛美の内容が何よりも主の恵みの具体的な指摘にあること、そして賛美は祈りで終わることをこの詩篇は教えています。

 「新しい歌」は、バビロン捕囚からの解放を体験した第二イザヤから始まりました。そして新約の黙示録では、天の玉座の前に立つ子羊であるキリストに、長老たちが「新しい歌」を歌いました(黙示録5:9)。「あなたは屠られて、あらゆる種族と言葉の違う民、あらゆる民族と国民の中から、御自分の血で、神のために人々を贖われ、彼らをわたしたちの神に仕える王、また祭司となさったからです。彼らは地上を統治します」と歌ったとあります。「新しい歌」は、「終末時に神の到来を迎える」喜びの歌であり、希望の歌です。

「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」(コリント二,5・17)とあります。「大切なのは、新しく創造されることです。」(ガラテヤ6・15)

私たちは、キリストによって与えられた救いの御業を日々新しく覚えて、「新しい歌」を喜び歌いつつ、この新しい年を歩んでいきたいと思います

 

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