富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」 ルカによる福音書23章39~43節

2014-05-25 13:55:36 | 礼拝説教

〒981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380                                                                              FAX:022-358-1403

             日本キリスト教 富谷教会 週報

年間標語『主はわたしの羊飼い、わたしには何も欠けることがない。』

聖句「神は神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。」(ロマ8:28)23

 復活節節第六主日     2014年5月25日(日)   5時~5時50分 

                礼   拝 

              司会 永井 慎一兄    奏楽 辺見 トモ子姉

前 奏           讃美歌(21)  57(ガリラヤの風かおる丘で)

交読詩編   63(神よ、あなたはわたしの神) 

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書  ルカによる福音書23章39~43節

説 教 あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」     辺見宗邦牧師

賛美歌(21)579(主を仰ぎ見れば)

献 金

感謝祈祷          

頌 栄(21)    24(たたえよ、主の民)

祝 祷

後 奏

次週礼拝 6月1日(日)夕礼拝 午後5時~5時50分

 「キリストの昇天」ルカ24章44~53節

  交読詩篇 46 讃美歌(21)287 579 24

      本日の聖書 ルカによる福音書23章39―43節

 39十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」 40すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。 41我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」 42そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。 43するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。

       本日の説教

  二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために「されこうべ」と呼ばれている所に引かれて行きました。刑場はエルサレム城壁の外側です。ヘブライ語で「ゴルゴタ」という所へ向かいました(ヨハネ19:17)。そこで人々はイエスを十字架につけました。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけました。イエスの頭の上には、「ナザレのイエス、ユダヤ人の王(ヨハネ19:19)」と書いた罪状書きが掲げてありました。民衆が、「この男は、民衆を惑わし、ローマに対する反逆を企て、ユダヤ民族の王たるメシアだと自称している」と訴えたこと(ルカ23:2)を、侮辱の意味で書いた札です。ヨハネ福音書によると、この罪状書はヘブライ語、ラテン語、ギリシャ語で書いてあったので、だれにでも読むことが出来た、とあります。

  【キリストの磔刑(たっけい)像の上にある、INRIという罪状札は、ラテン語の「IESUS(イエズス)NAZARENUS(ナザレヌス)REX(レクス)IUDAEORUM(ユデオルム)」の頭字語で、 日本語では「ユダヤ人の王、ナザレのイエス」と訳されています。】

 今日の聖書の個所には、十字架につけられ、罪を悔いている犯罪人とイエスとの会話が記されています。ルカだけによる報告です。

  十字架につけられた犯罪人の一人が、イエスをののしって、「お前はメシア(救世主)ではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」と言いました。彼は、自分が十字架につけられることにやけっぱちになり、悪態をつきました。すると、もう一人の方が、彼をたしなめました。「お前は神をも恐れないのか、お前も同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」この犯罪人は、滅びゆく自分の死を直前にして、初めて神を恐れ、自らの罪を認めたのです。

  そして彼は言いました。「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください。」

イエスが王国の王の座につくときに、自分を思い出してほしいと、イエスに憐れみを乞い、救いを求めたのです。詩編106篇4節に、「主よ、あなたが民を喜び迎えられるとき、わたしに御心を留めてください。」という祈りがあります。彼はまさに、この詩編の祈りと同じような嘆願をしたのです。

  この犯罪人は、どうして十字架につけられているイエスをメシアだと信じることができたのでしょうか。彼は、十字架につける敵とも思える人々のために、イエスが「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」と祈るのを彼は聞きました。敵をも愛する全き愛の方であることに気付きました。彼はイエスの御姿から、イエスが無実なのに不当な罰をうけていることを悟りました。

  彼は十字架につけられて哀れにも死んで行こうとしているイエスに、罪人の救いのために、その罪の償いとして自分の命を犠牲にする真の救い主であり王である方を見たのです。これは聖霊の力、神からの不思議な力によるものです。「聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えません(コリント一、12:3)。

 イエスはこの犯罪人に向かって、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われました。

  「はっきり(アーメンの訳)言っておくが」は、この約束が確実であることを表しています。ルカによる福音書では、イエス様が「今日」という言葉を度々語っています(ルカ2:11,4:21,5:26)。徴税人ザアカイが悔い改めて信仰を告白したときも、イエスは、「今日、救いがこの家に訪れた」(ルカ19:9)と宣言しています。神が決意されたら救いは即座のその人に訪れるという意味で「今日」という言葉が使われています。

「楽園(パラディソス)」はエデンの園(創世記2:8)でも用いられており、イザヤ書51:3によれば、「そこには喜びと楽しみ、感謝の歌声が響く」とあるように、神の祝福と喜びに入ることであり、救いにあずかるという意味を表しています。「楽園」は死んだ魂の行き先のことではなく、罪が赦された人間が神と共にいる場所です。従って、ここでは「あなたは今日、わたしと一緒に神の祝福と喜びに入る」という意味になります。

 犯罪人は救いを未来に求めたのですが、主イエスは、あなたは「今日」、たった今、救いに入れられたと宣言したのです。「今日」という言葉は、十字架につけられたその日に、イエス様が楽園に行かれるという意味ではありません。イエス様は、「あなたは今日わたしと一緒にいる」と約束しています。「一緒に楽園にいる」と言う約束は、実際にはイエスの死、復活・昇天という経過をたどることを前提にしている約束であります。十字架につけられ死んでイエスはよみがえられたというのがキリスト教信仰の核心です。「一緒に楽園にいる」とイエスによって約束されたのも、この神の復活の力と恵みにあずかることが含まれた約束なのです。

 今日の聖書の個所は、自分の罪を悔い改めて神に立ち返るなら、どんな人でも、その罪の赦しが無償で与えられ、神の子とされ、神の救いの恵みにかならずあずかることができることを教えています。

 わたしたちも、イエス・キリストに対する信仰を告白したその時から、イエス・キリストと一つに結ばれるのです。そして、そのようにイエス・キリストと一つに結ばれたということは、キリストの十字架の死にあずかって、罪に対して死に、キリストの復活にあずかって、神に生きる者とされ、永遠の命に生きる者とされたのです。聖霊が与えられるのは、「キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じる」ときに、聖霊の証印を押されるのです。この聖霊は、「わたしたちが御国を受け継ぐための保証」となってくださり、信仰を強め、確信を与えるものとなります。

  わたしたちの救いの完成は、キリストの再臨により、「眠っている者」が復活し、神の最後の敵である「死」が滅ぼされるときです(コリント一、15:18)。原始キリスト教会に、「死んだ人間の復活はない」、「復活はもう起こった」(テモテ二、2:18)と主張して、信仰を覆している人々がいました。当時コリントの教会にも、洗礼において霊を受けるなら、その時、完成に到達したので、これ以上、人間が死後よみがえる必要はないと考える、極端な現在的終末論を持った人達がいました。復活否定は現世的快楽主義に傾いてしまうのです。体の復活という考えを愚かで恥ずかしいものと思ったのです。「自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとっては、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初めて判断できるからです(コリント一、2:14)。

  神を信じる者の人生は、その肉体の死で終わるのではなく、その死を越えて、死の力の克服としての復活にあずかり、永遠の命の国、楽園に憩う、というのがキリスト教徒の希望です。そこは神の愛と平和が永遠に支配する国なのです。十字架上で主イエスを信じたこの犯罪人も、間もなく死ぬでしょう。しかし、その死は楽園への入口となるのです。

  私たちにも、いずれ死ぬ日が来ます。しかし、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と言われる主イエスがわたしたちと共にいてくださり、御国へ導いてくださるのです。その時がきたら、神の栄光と、神と共なる主イエスを仰いで、わたしたちを天に迎えてくださる主イエスに、「わたしの愛する者たちをお守りください。主イエスよ、わたしの霊をみ手にゆだねます。」とすべてを主に委ね、主の御許に行くことを感謝し、息を引き取りたいものです。しかしその日、その時まで、与えられた生涯を、与えられる十字架を自ら背負って、キリストと一体とされることを求め、神の栄光を現すために、過ごさせていただきたいものです。

 

 

 

 

 

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「高山右近の信仰に学ぶ」  マルコによる福音書8章36-38節

2014-05-18 14:02:07 | 礼拝説教

         スペインのバルセロナにあるマンレサ洞窟教会の壁画。中央右側にいるのがJUSTO UCANDONOと書かれている高山右近殿である。

 

〒981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 

                      TEL:022-358-1380  FAX:022-358-1403

                    日本キリスト教富谷教会 週報

       年間標語『主はわたしの羊飼い、わたしには何も欠けることがない。』

        聖句「(神は)神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。」(ロマ8:28)

     復活節第五主日    2014年5月17日(日)

  本日は、宮城県内のキリスト教会が、主催して、3・11の大震災と津波による被災者を励ますための「イースターフェスティバル」として、「レーナ・マリアが贈る希望の歌」と村上宣道牧師による「聖書からのメッセージ」、多賀城市文化センター大ホールで開催されます。富谷教会も協力教会なので、午後5時からの礼拝は中止して、参加いたします。富谷教会の本日のメッセージは、昨年の5月10日の仙台青葉荘教会壮年会との合同礼拝の時の説教を掲載いたします。

   礼 拝 順 序 

前 奏          奏楽 辺見トモ子姉   

讃美歌(21) 361(この世はみな)

交読詩編   96(新しい歌を主に向かって歌え)

主の祈り   93-5、A

聖 書  マルコによる福音書8章36-38節

説 教 「高山右近の信仰に学ぶ」辺見宗邦牧師 

讃美歌(21) 510(主よ、終わりまで)

献 金

感謝祈祷                               

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷                   

後 奏

 本日の聖書 マルコによる福音書8章36―38節

 「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。」

    本日の説教

 本日の説教は、「高山右近の信仰に学ぶ」という題にいたしました。右近はキリシタン大名であり、茶人でもあり、最後まで信仰を貫き通した人物です。まず、高山右近の生涯について、そのあらましをお話しいたします。

  山右近は、今から450年前、1552年(天文21年)、摂津の国、現在の大阪府豊能(とよの)郡豊能町高山で生まれました。そして、1615年(元和元年)、フィリピンのマニラで、63歳で天に召されました。時代で言いますと、室町幕府が存続していた戦国時代、安土桃山時代、そして、江戸時代のはじめの頃まで、生き抜いた人です。

  右近は、20歳位までの名前は「彦五郎」と言い、父は山飛騨(ひだの)守(かみ)、母は、クリスチャンになってからの名前しか伝わっていませんが、「マリア」と言いました。男3人女3人の6人兄弟の長男でした。高山には5歳の時までいました。7歳から15歳にあたる頃は、奈良県宇陀(うだ)市にある沢(さわ)城(じょう)で過ごしました。父は、畿内(きない)(今日の京都府(山城)・大阪府(河内・和泉)・奈良県(大和)と兵庫県(摂津)で大きな勢力を握った三好長慶の重臣、松永久秀に仕えていました。

 

     高山右近関係地図

  父の飛騨守は、奈良で目の不自由な琵琶法師であった日本人修道士ロレンソ了斎の話に感銘を受け、洗礼を受けました。その翌年ロレンソを沢城に招き、ロレンソより家族、家臣全員が洗礼を受けました。少年彦五郎12歳の時のことです。彦五郎の洗礼名は「義人」を意味する「ジェスト」でした。沢城のあった城山のふもとには、「山右近受洗之地」の石碑が建っています。彦五郎が17~18歳頃は、父・飛騨守が、高槻城主となった和田惟(これ)政(まさ)に仕えて、芥川城(高槻市内)(標高182mの山城)の城主に任ぜられます。その後、織田信長により廃城の命が出され、山父子は、高槻城下に移ります。彦五郎が  21歳のとき、飛騨守が高槻城主(大阪府高槻市)になります。父はまもなく隠居し、彦五郎に家督をゆずります。1573年(元亀4年)、右近21歳のとき、高槻二万石の城主となります。その後、織田信長に四万石を与えられ、高槻城主として12年間過ごしました。

  右近は高槻に天主堂を建設し、家臣をはじめ、領民を多数入信させ、キリスト教の普及に貢献しました。1581年(天正9年)には、領民2万5千人のうち1万8千人、72%がキリシタンであった、と宣教師たちが報告書に書いています。この時期、領内には20以上の教会がありました。

  高山右近の肖像画は残されていませんが、その人物について、宣教師ルイス・フロイスは、「明晰(せき)な知性を持ち、稀に見る天賦(ぷ)の才能ある青年で、都(京都)地方全キリシタンの柱石である。」と言っています。

  18歳のとき、黒田氏の娘ジュスタと結婚。三男、一女が授かっています。

  1582年(天正10年)、本能寺の変の後、山崎の合戦では、右近は先陣をつとめた実力ある武将でした。その功績もあり、豊臣秀吉に信頼されて、1585年(天正13年)、右近33歳のとき高槻4万石の地を離れ、播州(ばんしゅう)(兵庫県)・明石(あかし)6万石に転封(配置がえ)され、明石船上(ふなげ)城に移ります。明石の城主として2年間過ごす間、明石教会を建設しました。

  2年後の1587年、秀吉が九州を平定したとき、秀吉は博多(福岡市博多区)で突然、「吉(き)利支(りし)丹(たん)伴天連(ばてれん)追放令」を発布しました。右近は秀吉軍に加わって従軍し、箱崎(福岡市東区)の陣中にいたとき、秀吉は使者を遣わし、右近にキリスト教の信仰をやめるように命じ、棄教しない時は所領を没収すると迫ったのです。この時が右近にとって、生涯の最大の試練ではなかったと思います。

  右近は、「たとい人、全世界をもうくとも、おのがアニマ(魂(たましい))を失わば、何の益かあらん。」と、聖書の言葉通りに、デウス(神)のみことばに従って歩む決意を伝え、棄教することを拒絶しました。

  秀吉は、第二の使者として右近の茶の湯の師である千利休を遣わしました。利休のとりなしであれば、右近がきいてくれるという思惑があったものと思われます。秀吉の条件は「熊本に転封となっている佐々成政に仕えることを許す、それでもなお右近が棄教を拒否するならば他の宣教師ともども中国へ放逐する」というものでした。しかし右近はこの案も、師である利休の説得もことわり、「キリシタン信仰(宗門)が、師(茶道の師利休)、君(秀吉)の命(棄教令)よりも重いかどうかは今は分からないが、いったん志したことを簡単には変えず、志操堅固であることが武士の心意気ではござるまいか」と言ったのです。利休も、彼の心を察したのか、あえて意見を加えず、そのままを秀吉に報告しました。彼をこの決断に至らせたのは、彼のキリストへの熱愛と、キリストに対する武士道的忠誠でした。

  こうして右近は、時の権力者・秀吉の激しい圧力に屈することなく、信仰の道を選びました。右近は明石六万石の領地を返上し、家臣と別れ、明石を脱出し、淡路島の室津に逃れ、小西行長の庇護を受けて、小豆島でくらしていた家族と再会しました。行長が、熊本県の宇土へ移封となったとき、右近は加賀百万石の前田利家から、金沢へ来るように招きを受けました。右近は、利家からの誘いに対して、「禄は軽くとも苦しからず。耶蘇寺(やそでら)の一か寺、建立(こんりゅう)下さらば参(まい)るべし。」と答えて、1588年(天正16年)の秋、右近と家族は金沢にやってきたのでした。右近が三十六歳の時でした。旧暦9月22日(新暦11月14日)に、利休は蒲生氏郷宛てに書状を送り、右近が金沢に行ったことを伝えて、喜んでいます。

 「高山右近殿が、昨日正午に都を出立いたしました。浅野長政殿の書状で知りました。目出たく、金沢に下られて、望みがかない本当に良かったと思います。氏郷殿も同じ思いであろうとお察しいたします。芝山監物(けんもつ)殿も、望みがかなったと喜んでいます。」(千利休自筆書状 大阪城天守閣蔵 蒲生氏郷宛て 天正十六年(1588年)九月二十ニ日) 現代語訳文筆者

  右近は加賀藩前田氏預けられ、事実は客将として迎えられ、二万五千石を与えられました。利家と右近は、同じ利休の弟子であり親友でした。

  右近は、南坊(みなみのぼう)と号し、「利休七哲」の一人で、「利休極上一の弟子也」と言われ、また、篤い信仰心をもって、蒲生氏郷、小西行長、黒田孝高、牧村兵部などの大名をキリシタンに入信させた人でした。

  「高山ジュストはこの芸道では日本における第一人者であり、そのように厚く尊敬されていて、この道に身を投じてその目的を真実に貫く者には、数寄が道徳と隠遁のために大きな助けとなると分かった、とよく言っていたが、我々もそれを時折彼から聞いたのである。それゆえ、デウスにすがるために一つの肖像をかの小家に置いてそこにとじこもったが、そこでは彼の身につけていた習慣によって、デウスにすがるために落ち着いて隠遁することができたと語っていた。このことから数寄について日本人がなぜあれほどに尊重するかという理由と国内において習慣になり、さらに儀礼上の歓待のことなりの上に及ぼしている数寄の効能とかが十分に理解されるであろう。」と、宣教師ロドリーゲスは「日本教会史」の中で述べています。(「日本教会史・上」岩波書店)

 金沢藩では、茶の湯の宗匠として多くの武士、商人たちと交友を深め、茶道と布教に励み、お茶の世界に大きな影響を与えました。

  右近は、宣教師が一度も踏み込むことが出来なかった北国の金沢に宣教師を招き、三つの教会を建設しました。右近は、加賀の地で26年間過ごしたのです。

 1614年(慶長19年)、今度は家康が、徳川秀忠名(めい)で、全国に「キリシタン禁教令」を発布しました。宣教師や、高山右近は国外追放の身になりました。2月金沢を後にした右近と家族の一行は、坂元、大阪を経て、大阪から舟で長崎へ送られました。長崎に着いたのは4月中旬でした。

  右近は日本を離れるに際し、長崎から船出する一か月前、豊前(ぶぜん)(福岡県東部)の藩主で小倉城にいた、利休七哲の一人である茶友・細川三斎(忠(ただ)興(おき))に書状を送り、その心境を吐露しています。

  「楠木正行(まさつら)は戦場に向かい四条畷(なわて)で戦死し、天下に名を挙げました。そして私は今南海の呂(ろ)宋(そん)にに赴(おもむ)き、命を天に任せて、名を流すばかりです。(この生き方は)いかがなものでしょうか。六十年来の苦もなんのその(たちまちの内に散り、消えていきます)、いまこそ、ここにお別れがやって参りました。」と述べています。

 11月8日、マニラに向けて長崎を出帆。小型の老朽船に100名以上がつめこまれて、暴風・逆風に悩まされながら、普通の船で、順風ならば10日ほどで行けるところを、実に34日もかかって、フィリピンのマニラに到着します。右近と同行した家族は、妻と娘ルチアと5人の孫たちでした。

  右近たちが、信仰ゆえに、祖国を追放されてくるという話は、すでに伝えられていましたので、総督のファン・デ・シルバをはじめ、市民たちは、一行を敬意をもって、大歓迎しました。右近たち一行は、上陸後、総督官邸に入り、丁重な歓迎を受けます。旧日本人居留地であるパコ駅前のディラオ広場「比(ひ)日(にち)友好公園」に、高槻の城跡公園にある「山右近像」と同じものが建てられています。

 マニラに到着後、40日ほどで、ひどい熱病にかかります。右近は自分の死期の近づいていることを知って、モレホン神父にこう語っています。

  「パードレ。私はまもなく召されると思いますが、神がそれを希望し給うのですから私は喜び慰められています。今ほど幸せな時が、これまでにあったでしょうか。私は妻や娘・孫たちについては、何も心配してはいません。彼らと私は、キリストのために追放されてここに来ましたが、彼らが私について、この土地まで来てくれた愛情に、深く感謝しています。神のためにこのような境遇になったのですから、神は、彼らにとって真実の父となり給うでしょう。」

  数日後、病状は悪化し、「わが魂(アニマ)は、天地万物の御(ご)作者なる御(おん)主を、ひたすら慕い奉る。」と、繰り返し、主イエス・キリストの御(み)名をとなえながら、1615年2月3日の未明に、静かに天に召されました。享年63歳。右近の死の翌年、妻と娘ルチアと孫一人が帰国しました。

   戦国時代の大名にとっての目標は、戦いで功名を得ることであり、禄高を増やすことであり、誇り高き家名の誇示であり、お家安泰でした。しかし、右近は「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。」(マルコ8:36)のキリストの言葉に従ってその生涯を全うしたのです。このことによって、右近の所領は没収され、栄誉も地位も、財産も、職も、収入も、いっさいを失いました。金沢で再び、布教活動、茶道の普及に尽くす恵まれた時を過ごしたものの、再びその信仰のためにマニラへの国外追放の十字架の負ったのです。高山右近は、最後まで自分を捨て、自分の十字架を背負って、イエスに従った弟子であり、主イエスの復活の命に生かされ、永遠の命に至る道を歩んだ人物と言えるのではないでしょうか。

  自己の利益や名誉、権力を追究して、全世界を自分のものにしたとしても、まことのいのちである永遠のいのちを失ってしまったら、何の得になるのかと、主イエスは鋭い言葉を語っています。キリストの従う歩みは、歯をくいしばって、必死に生きるのではなく、生けるキリストと共に歩み、この方による罪の赦し、永遠の命を受ける者とすでにされている喜びの中で、聖霊の恵みと力を受けて歩む、平安と希望に満ちた歩みではないでしょうか。 

   千利休自筆書状  蒲生氏郷宛て 大阪城天守閣蔵 (読み下し文)

   的便(てきびん)の条 一筆申し候 仍て(よって) 南坊(みなみのぼう)昨日午(うま)の刻に都を立ち申され候 浅(野)弾正の書状を取り下し申し候 先き先き仕合せ目出度く下向(げこう)にて本望 此のことに存じ候 御心底同然なるべくと存じ奉り候 芝(山)本望の由申され候  我等大仏普請(ふしん)一昨日家の屋ねをふき申し候 當月中ニ茶湯出し申すべき覚悟に候 貴殿へ御屋しき渡し申すべく候間 其のわけ御心得なされ 早や早やと御上洛なくては家の塵成り申すまじく候 事の外(ほか)大仏は寒く申し候 御城早出来と存じ承り候 目出度く存じしめ候 将亦(はたまた)般若の壷口ヲ切り茶のみ申し候 およそ天下一とは申しがたく候 壷別して今下(くだ)し申し候 事おしく存じしめ候 茶を少しのこしおき申し候是を一服申し上げべく候 関白様大阪に御成にて候 当月中は未(いまだ)(いまだ)逗留申し候              恐惶(きょうこう)(きょうこう)謹言        菊(きく)月(九月)廿二日 宗(花押)                                                               〆(封)                                        利休宗易          伊勢侍従(じじゅう)殿   

  大仏は極楽へこそ行(い)くべきに 同じうき世の月を見るかな 我等が壷も上洛申し候(そうろう)へども 大仏にて口を切るべく存じ候て 口をあけ申さず候   かしく

   解説    千利休(せんのりきゅう)が、茶の湯の弟子である松阪時代の蒲生氏郷に宛てた自筆の書状。氏郷は当時、伊勢の松嶋城(のちの松坂城)の城主であった。この二年後の天正十八年八月九日には、会津若松城に転封(てんぽう)になる。この書状は、利休が六十七歳、氏郷は三十三歳の時のもの。「大仏は極楽へ~申さず候かしく」までは、追伸の部分。

   「的便の条」の条とは、「都合よく適当な便りのついでがあったので」の意味。当時はだれかに託して手紙を送ることが多かったので、おりよくそのような便があったので、一筆したためますと書き始める。「仍て」とは、「そんなわけで」と.「南坊」について語り出す。「南坊」とは、高山右近のこと。この時右近は三十七歳。氏郷[洗礼名レオ(ン)]の入信は、右近の薦めによるもの。右近は同じ利休門下の茶人で大名。天正十五年に出された秀吉のバテレン追放令に連座して右近も追放された。小西行長により右近は伊予の小豆島にかくまわれた。行長が肥後に移封になったので、前田利家が、秀吉に懇請して右近を加賀に引き取ることになった。それで、右近が、このたび利家の招きで金沢に行くことになったのである。二日の正午に右近が都を発ったことを、浅野長政の書状で知った利休が、氏郷に報じている。右近の無事京都を出発したことを、本当に良かったと氏郷と共に喜んでいる。「芝」は、利休七哲 の一人、芝山(源内)監物(けんもつ)のこと。芝山も、望みがかない良かったと喜んでいる、と伝えている。

   京都の方広寺大仏殿近くに建設中の数寄屋が、一昨日、屋根を葺きおえたと報じている。この数寄屋を当月中には、是非とも完成させ、お茶を差し上げたい、という。そして、落成の数寄屋を氏郷に引き渡すべく、上洛を促している。利休は土偏(つちへん)に塵(ちり)という字を書いているが、墉(よう) [垣の意味]の誤字か。とすれば、「あなた様が早く上洛してくれなければ、家の垣は完成しません。」という意になる。次に、ことのほか、大仏殿の辺りは寒い、と知らせている。次に、氏郷の伊勢・松嶋城の建築工事の早期完成を祝している。「般若の壷」と呼んでいる葉茶壷の口を切って飲んだことを氏郷に告げている。この壷は、必ずしも 天下一という逸品ではないが、宇治へ詰め茶に下してしまったので、あなたの上洛の時に、お目に掛けることができないのが、残念である。が、茶を少し残しておいたので、これを一服差し上げたい、と申し送っている。関白秀吉は大阪に下向しているので、当月中は、まだ逗留しているでしょう、と伝えている。

   「恐惶謹言」は、手紙の結びの言葉で、「謹んで(つつしんで)申し上げます」の意。「伊勢従侍」は、「伊勢侍従」の誤写。氏郷は、従四位下・侍従に叙任(じょにん)されている。「人々御中」は御家中皆様の意。殿様への書状は、家中要人を介して届けられていた。書状の最初の部分は、余白に返し書きをした追伸である。利休の自作の狂歌を記す。氏郷は京都方広寺大仏殿建立の巨石運搬に加わっている。「大仏は極楽浄土にこそ存在すべきなのに、こんな浮世にいて、我々と同じ月を見ている」、といった意味。秀吉が精力をかたむけた大仏建立事業を皮肉ったともとれる。利休が秀吉の怒りを受けて七十歳で賜死(しし)したのは、この三年後のことである。「私たちの茶壺もやっと宇治から京都に届いております。大仏屋敷の口切りの茶事の時にと、あなたの御上洛を待って口を開けましょう。それまで茶壺の口の封を切らないでおきます。」「かしく」は「かしこ」のこと。     (2012・2・8 宗邦書く)

 

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「何とかして死者の中からの復活に達したいのです。」 フィリピの信徒への手紙3章10-15節

2014-05-11 20:43:26 | 礼拝説教

〒981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 年間標語『主はわたしの羊飼い、わたしには何も欠けることがない。』

聖句「(神は)神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。」(ロマ8:28)

  日本キリスト教富谷教会 週報

復活節第四主日    2014年5月11日(日)

仙台青葉荘教会壮年会と合同礼拝    12時40分~13時20分 

礼 拝 順 序

司会 斎藤 悦夫兄 

前 奏          奏楽 松本 芳哉兄   

讃美歌(21) 355(主をほめよ、わが心)

交読詩編   96(新しい歌を主に向かって歌え)

主の祈り   93-5、A

聖 書  フィリピの信徒への手紙3章10-15節

説 教「何とかして死者の中からの復活に達したいのです。」  

                  辺見宗邦牧師 (富谷教会牧師)

讃美歌(21) 517(神の民よ)

献 金

感謝祈祷           櫻井秀美兄   

頌 栄(21)  24(たたえよ、主の民)

祝 祷             潮 義男牧師 (仙台青葉荘教会牧師)              

後 奏 

交読詩篇96

1新しい歌を主に向かって歌え。     全地よ、主に向かって歌え。
2主に向かって歌い、御名をたたえよ。 日から日へ、御救いの良い知らせを告げよ。
3国々に主の栄光を語り伝えよ      諸国の民にその驚くべき御業を。
4大いなる主、大いに賛美される主    神々を超えて、最も畏(おそ)るべき方。
5諸国の民の神々はすべてむなしい。  主は天を造られ
6御前には栄光と輝きがあり        聖所には力と光輝がある。
7諸国の民よ、こぞって主に帰せよ    栄光と力を主に帰せよ。
8御名の栄光を主に帰せよ。        供え物を携えて神の庭に入り
9聖なる輝きに満ちる主にひれ伏せ。   全地よ、御前におののけ。
10国々にふれて言え、主こそ王と。   世界は固く据えられ、決して揺らぐことがない。

   主は諸国の民を公平に裁かれる。

11天よ、喜び祝え、             地よ、喜び躍れ

   海とそこに満ちるものよ、とどろけ
12野とそこにあるすべてのものよ、喜び勇め  森の木々よ、共に喜び歌え
13主を迎えて。  

  主は来られる、地を裁くために来られる。   主は世界を正しく裁き

   真実をもって諸国の民を裁かれる。

 

主の祈り

天にまします我らの父よ、ねがわくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来(きた)らせたまえ。

みこころの天になるごとく 地にもなさせたまえ。

我らの日曜の糧(かて)を、今日も与えたまえ。

我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく

我らの罪をもゆるしたまえ。 我らをこころみにあわせず、

悪より救い出(いだ)したまえ。 国とちからと栄えとは 

限りなくなんじのものなればなり。  アーメン。

 本日の聖書 フィリピの信徒への手紙3章10~15節

10わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、11何とかして死者の中からの復活に達したいのです。

12わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕えようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕えられているからです。13兄弟たち、わたし自身は既に捕えたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、14神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。15だから、わたしたちの中で完全な者はだれでも、このように考えるべきです。しかし、あなたがたに何か別の考えがあるなら、神はそのことをも明らかにしてくださいます。

 本日の説教

  私は中高生時代、何故この世に、親と子の悲しい別れの死があるのかと悩み、どうして死がこの世にあるのか、死の無い世界に生まれたかったと真剣に思いました。ついに父母に対して、私は「死の有る世界に生まれたくなかった」と訴えたことを思い出します。

  今日は「母の日」ですが、今は亡き父母に対して、「私を産んでくれてありがとう」と言えますが、当時は「どうして私を産んだのか」という、親不幸な言葉を語ったことが悔やまれます。

  生あるものが死ぬことを、自然の摂理として人間にもあてはめることができるのでしょうか。動植物と違って、精神と人格を備えている人間は永遠の愛に結ばれて生きたいのです。

  釈迦のように、この世に永遠なるものはない、諸行は無常であるとして悟る他ないのでしょうか。なんと聖書には、神が最後の敵として滅ぼすのは「死」である、とあります。この世に、「死」があってはならないのです。人間だけでなく、被造物すべてが、「滅びへの隷属から解放される」ことを切に待ち望んでいると聖書に記されています。死のない世界がくることを待ち望んでいるのです。

  聖書は、永遠の神からの人間への啓示の書です。聖書は、人間の神に対する不従順の罪によって、人は死ぬことになったと説きます。今はまだ、この世に死が支配しているので、すべての人は死ななければなりません。しかし、神の御子イエス・キリストは、人を罪と死から救うために、この世に来られ、十字架と復活により、永遠の命にあずかる道を開かれました。キリストは死人の中からよみがえり、私たちの復活の初穂となられました。キリストの来臨と世の終わりに、神は最後の敵として死を滅ぼされます。そのとき眠っている死者は復活し、最後の審判を受けます。神に敵対するすべてが滅ぼされ、死のない世界が実現するのです。なんとすばらしい救いと希望が与えられているではありませんか。

 神の御子イエス・キリストがこの世に救い主としてきてくださったことのより、この世は罪と死の支配する世界から解放される、すばらしい世界にされたのです。この世に生まれたことを心から喜び感謝できる世界になったのです。永遠の愛に生きることのできる世界となったのです。

 私たちは、教会の礼拝では、使徒信条を告白します。「我は…身体(からだ)のよみがえり、永遠の生命(いのち)を信ず」と唱えます。しかし、私たちは自分が、世の終わりに復活することを真剣に考えているでしょうか。

 死人は火葬にされて白骨と灰となり、葬られ、朽ちてしまいます。それを目にするとき、復活するとは到底考えられなくなってしまいます。確かに、「死者の復活」ということは、信じられないのがあたりまえです。「自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとっては、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初めて判断できるからです(コリント一、2:14,15)」。

  キリストを信じると言いながら、「死者の復活]について、無関心な人たちが多いのではないかと思います。実はこの無関心が信仰生活に大きな影響を及ぼすのです。パウロは、「何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。(18節)」と言っています。「キリストの十字架に敵対して歩んでいる者」とは、自分たちの「良い行い」によって救いにあずかろうとする人たちを指すだけではありません。その人たちは神の律法のすべてを満たすものでなければなりません。そのような自分を誇ろうとする偽善者だけでなく、自分たちの復活に目を向けない人たち、復活を心から信じ求めていないキリスト者も含まれるのです。(コリントの信徒の手紙一、15章12~19参照)。

  洗礼によって、罪を赦され、聖霊を受け、永遠の命を与えられ、すでに「キリストの復活」にあずかっている、霊的に復活しているとし、復活ということがなくても、死んですぐ天国に迎えられるという信仰であるならば、それは神に敵対する生き方に陥ってしまうのです。死者の復活がなければ、どのような生き方をしても、この身体はやがては滅んで無くなるだけです。そうであれば、生きている間に飲み食いして大いに楽しむ他は、人生に意味が無くなります。「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか」という、この世の事しか考えない生活をすることになってしまうのです。「死者からの復活」の信仰なくしては、殉教の死など、とてもできないことになってしまいます。教会は殉教者の貴い血の上に築かれているのです。

 使徒パウロキは、キリスト・イエスによって捕えられ、罪を赦され、救われているから、もう安心だ、というのではなく、「救われた者として」、その恵みに応えて、ますますキリストにある者としてふさわしい良い生活を目指し、何とかして復活にあずかり、キリストと一体となりたいという思いから、キリストを捕えようと努めているのです。「キリストにを捕えたとは思っていないのです。なすべきことはただ一つ、イエス・キリストを追い求めて、ひたすら走っているのです。パウロは、「兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい。」と勧めています。私たちも、パウロの倣って、キリストと一体とさせていただくために、走ろうではありませんか。

     平成二十六年五月十一日(日)  

        仙台青葉荘教会壮年会と富谷教会との合同礼拝後、茶室での呈茶

               会    記

     床 「伊達政宗書状」今大路玄鑑親清宛て

      脇棚 キリスト磔刑像(隠れキリシタン所持)

            花    利休梅、日々草

            花 入   耳付き

         香 合   聖書              今岡三四郎造

            風 炉   切合       

             水 指    十字文現川俵型(鵬雲斎箱)

             薄 器  IHS螺鈿葡萄蒔絵吹雪     前端雅峯造

             茶 杓  高山右近作「御坊ヘ」写し   池田瓢阿作

             茶   十字文黒織部 岩手県東和町大籠教会所持

              替    エルサレムクルス紋聖杯       椿巌三造

                 替    ヴァリニャーノ印章入茶碗    

                  蓋 置  政宗所持黄金のブローチ型  国領東斎造

              建 水  

              御 茶  青松の白                    大正園詰

               菓 子  子雀                     玉沢総本店製

 

伊達政宗の書状の軸の説明

    政宗公は、江戸屋敷にて慶長十二年(一六〇七年)閏(うるう)四月四日(五月二十九日)に、大奥に出入れする名医の玄鑑(今大路親清)宛に書状を送りました。

    「明後日の六日の朝に、お茶を一服差し上げたいと存じます。当日は信濃国小諸城主 (五万石)の仙石秀久殿、上野国館林城主(十万石)榊原康勝(当年十七歳)殿とご一緒にお出でください。粗茶を差上げます。ご返信で御都合を承りたく存じますので、ご返信をください。謹んで申し上げます)。」

   (追伸)「お出でいただければ、取り分けありがたく存じます。何とぞご先約がありませんようにと願うばかりである。 かしく」。

       伊達政宗(一五六七~一六三六)の時代は、キリスト教が伝来し、多くのキリシタン大名が生まれた時代でした。ザビエルの布教開始から三年後の天文二十一年(一五五三年)から、元和六年(一六二〇年)までの、六十七年間にキリシタンになった大名は八十七人に及びました。 

   政宗は江戸でソテロと出会い、仙台でソテロからキリスト教の教えを聞いたが、彼はキリシタンとなるのは周囲が許さないと述べたと言われています。仙台藩はキリスト教に寛容であり、他藩が慶長十八年(一六一三年)の頃から徹底的な弾圧を行なっていたのに対し、支倉常長が帰る元和六年の段階まで、厳しい弾圧をしませんでした。その間、東北にイエズス会宣教師や、関西方面から追われたキリシタンが移り住んで布教したため、各藩にキリシタンが増えました。 

    政宗は、慶長十八年(一六一三年)フランシスコ会宣教師ソテロと支倉常長をスペイン王とローマ法王に遣わし、スペイン領のメキシコとの通商と宣教師の派遣を求めました。宣教師が来ることのよって西洋の文物が入ってくることを期待したのかも知れません。 

 七年ぶりで日本に帰ってきた常長は、長崎奉行から一切を調べられ、宣教をしないことを条件に仙台に帰る許可が与えられました。藩籍を抜くこと、隠棲することも命じられたが、その処置は藩に委ねられました。常長は翌年五十一歳で死去しました

  徳川幕府の切支丹禁制の圧力により、政宗は仙台藩内でのキリスト教の布教活動を許すことをを断念し、禁制に転じました。政宗が、死の前年に詠んだ漢詩「馬上少年過ぐ」には、「馬上少年過ぐ、時平(ときたいらか)にして、白髪多し。残骸(ざんく)天の許す所、楽しまずんば、是いかん。(楽しまずして是を如何にせん)」と詠っています。「老後を楽しまないで、どうするのだ」と、明日は死ぬ身の、現世のことだけに生きているさびしい気持ちが感じられます。

 政宗は、常長の死から十五年後に、満六十八歳で死去しました。

 

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「もし、死者が復活しないとしたら」 コリントの信徒への手紙一、15章30~34

2014-05-04 23:15:38 | 礼拝説教

〒981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本キリスト教 富 谷 教 会 

年間標語『主はわたしの羊飼い、わたしには何も欠けることがない。』

聖句「神は神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。」(ロマ8:28)23

 週     報 

復活節節第三主日      2014年5月4日(日)      5時~5時50分 

礼    拝 

前 奏           司会 永井慎一兄    奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21)  56(主よ、いのちのパンをさき)

交読詩編  116(わたしは主を愛する) 

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書  コリントの信徒への手紙一、15章30~34節

説 教 もし、死者が復活しないとしたら辺見宗邦牧師

賛美歌(21)327(すべての民よ、よろこべ)

献 金

感謝祈祷          

頌 栄(21)    24(たたえよ、主の民)

祝 祷

後 奏

次週礼拝 5月4日(日)午後5時~5時50分

説教 「ソロモン王の神殿奉献の祈り」

聖書  列王記上8章22~32節  

本日の聖書 コリントの信徒への手紙一、15章30~34

 30また、なぜわたしたちはいつも危険を冒しているのですか。31兄弟たち、わたしたちの主キリスト・イエスに結ばれてわたしが持つ、あなたがたに対する誇りにかけて言えば、わたしは日々死んでいます。32単に人間的な動機からエフェソで野獣と闘ったとしたら、わたしに何の得があったでしょう。もし、死者が復活しないとしたら、「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか」ということになります。33思い違いをしてはいけない。「悪いつきあいは、良い習慣を台なしにする」のです。34正気になって身を正しなさい。罪を犯してはならない。神について何も知らない人がいるからです。わたしがこう言うのは、あなたがたを恥じ入らせるためです。

本日の説教
 パウロは、コリントの信徒への手紙15章12節で、「キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。」と詰問しています。

 ここで言っている「死者の復活」というのは、イエスが死人の中から復活したいう特別の事実を指しているのではなく、死んだ人間が復活するという信仰です。神がこの世の終末の時に、死んでいる者たちを復活させるという信仰です。コリントの教会に、キリストの復活を信じながら、自分たちの「死者からの復活」を信じない人々がいたので、パウロは激しく問い正しているのです。

 「死者の復活」を信じない理由は、いくつか考えられます。テモテへの手紙二、2:18に、「彼らは真理の道を踏み外し、復活はもう起こったと言って、ある人々の信仰を覆しています。」とあるように、彼らは信仰による霊的体験を復活の体験として、「復活はもう起こった」と言ったのです。

 あるいは、霊的に永遠の祝福を受け、永遠の命を与えられればそれで良いとして、死者からの復活を否定したのかも知れません。

 あるいはまた、死んで火葬にされ灰となり、葬られて朽ち果ててしまう身体が、復活するとは到底考えられないという常識的な考えに基ずいて、「死者の復活」を否定したのかも知れません。

 確かに、「死者の復活」ということは、信じられないのがあたりまえです。「自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとっては、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初めて判断できるからです(コリント一、2:14,15)」。

 パウロは、キリストの復活だけでなく、自分の死者からの復活も信じるのでなければ、キリストの復活を否定することになると説いています。

 15章20節で、「実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。」キリストの復活は、私たちの復活の先駆けとなったと言っています。

 パウロは今日の聖書の個所で、「死者の復活の信仰」は、キリスト者の生き方と深くかかわっていることを告げます。もし死者が復活しないとすれば、キリストを信じるゆえに生命の危険を冒すことは何の意味があるのかと語ります。死者からの復活にあずかる希望があればこそ、この地上の生命を失う危険を冒しても、福音の宣教のために働き、また信仰を固く守るのです。

 最初の殉教者となったステファノは、「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」(使徒言行録7:59)と言って「眠りにつきました。」眠りについたままで、死者からの復活がなければ、死んだままの状態であり、それでは滅んでしまったことになるのです。教会は殉教者の血のうえに立てられたといっ ても過言ではないのです。

  パウロは自分の個人的体験を語ります。パウロたち伝道者は、常に危険を冒しつつ福音を宣べ伝えました。パウロが「わたしは日々死んでいる」と言っているのは決して誇張ではありません。使徒言行録に記されている彼の伝道の歩みはまさに死と隣あわせの日々でした。また彼は「エフェソで野獣と戦った」と言っていますが、エフェソで伝道していた時に体験した大騒動をこのように表現していると思われます(使徒言行録19章)。

  パウロを初めとする伝道者たちが負っているこれらの労苦、苦しみ、危険の全ては、復活の希望のゆえにこそ負い得るものでした。もし、「野獣と闘って」生命を失うような危険を冒しても、それが「単に人間的な動機から」ものであれば、ただ人間的な正義心とか人からの名誉を求めるだけのものであれば、何の益にもならないことだというのです。

 「もし、死者が復活しないとしたら、「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか」ということになります。死者の復活がなければ、どのような生き方をしても、この身体はやがては滅んで無くなるだけです。そうであれば、生きている間に飲み食いして大いに楽しむ他には、人生に意味が無くなります。

 満68歳で死亡した伊達政宗の辞世の漢詩と言われる、「馬上少年過ぐ」に、「馬上少年過ぐ、世平らかにして白髪多し、残躯天の許すところ、楽しまずんば、是いかん。」とあります。「馬に乗って駆け巡った少年時代は過ぎた。今は戦(いくさ)は無くなり、平和になった。私は白髪になった。残された私の命は天が与えてくれるものである。楽しまないでどうするのだ。四十年前の若く勢いがあった頃は、功名を立てることに、口にこそ出さなかったが、ひそかに自信があった。しかし、年を取った今は、戦いのことなどすっかり忘れてしまった。今はただ、春風に吹かれながら、桃と李(すもも)の花の下で酒を楽しむばかりである。と詠っています。

 この政宗の漢詩でも、「老後になり、生きている間は、飲み食いして大いに楽しもう」と言っています。ここには、死に勝利する希望はありません。この世のことしか考えていません。パウロが語るような輝かしい希望にあふれていません。

 「わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです(フィリピ3:20~21)。」とパウロは語っています。

 復活の希望がなければ、この世の人生が全てとなります。死んでしまったらおしまい、全てが失われる、命のある内に楽しもう、ということになります。それが、復活の希望を知らない人間の普通の思いです。そこには、死への恐れが支配します。

 「悪いつきあいは、良い習慣を台なしにする」とは、キリストも復活も知らない信徒でない人々のことではなく、信徒の集会に所属していながら死者の復活を否定している人々との交わりを指していると考えられます。そういう人々の中には、放縦な生活に陥っている者がいました。そのような人々に引きずられて死者の復活を否定するようになると、せっかくキリストに結ばれている良い生き方が台なしになってしまう、と警告しています。

 「正気になって身を正しなさい。罪を犯してはならない。神について何も知らない人がいるからです。わたしがこう言うのは、あなたがたを恥じ入らせるためです」とパウロは勧めています。

 「主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださると、わたしたちは知っています(コリント二、4・14)。」とパウロは私たちに語りかけます。
 私たちは、教会の礼拝では、使徒信条を告白します。「我は…身体(からだ)のよみがえり、永遠の生命(いのち)を信ず」と唱えます。しかし、私たちは自分が、世の終わりに復活することを真剣に考えているでしょうか。福音とは死者の復活の約束であると、頭では分かっていても、実際の生活では目の前の必要や人間的欲求に引きずられ、地上の事柄を目標として生きるのに追われています。 

 死者の復活はまだ見ることができない将来に起こる出来事です。その将来の約束を現在わたしたちの内に生きる力とするのは聖霊です。「イエスを死者の中から復活させた方の霊」がわたしたちの内に宿るとき、死者の復活というまだ見ることのできない将来が、現在わたしたちの中に生きる力となって宿るのです。

  しかし、今はまだ、この世に死が支配しているので、すべての人は死ななければなりません。私は少年時代、何故この世に、悲しい別れの死があるのか、私は死の無い世界に生まれたかった、と真剣に思いました。

  この死の無い世界が、キリストによって実現するとは驚きです。世の終わりに、キリストが来られるとき、キリストによってすべての人が生かされることになるからです。まず、キリストにあって眠りに着いた人たちは、新しい霊の体を与えられて復活します。「キリストはすべての支配、すべての権威や勢力を滅ぼし、父である神に国を引き渡されます。最後の敵として死が滅ぼされます。「神がすべてにおいてすべてとなられるのです。」そして神の救いが完全に完成するのです。ハレルヤ。

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