富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「どんなことでも、思い悩むな」 マタイによる福音書6章24~34節

2020-09-25 23:22:40 | キリスト教

    ↑ 主イエスが山上の説教をされたイスラエルのガリラヤ地方の春の野の花

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

     日本福音教団 富 谷 教 会     週  報

     聖霊降臨節第十六主日  2020年9月27日(日)       午後5時~5時50分

年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆこう。」(エフェソ4・16)

                       礼 拝 順 序

                司会 田中 恵子姉

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 361(この世はみな)

交読詩編   118(恵み深い主に感謝せよ)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)マタイによる福音書6章24~34節(新p.10)

説  教   「明日のことまで思い悩むな」辺見宗邦牧師   

祈 祷                            

讃美歌(21) 460(やさしき道しるべの)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

                 次週礼拝 10月3日(日)午後5時~5時50分  

                 聖 書  ルカによる福音書18章35~43節

                 説教題   「主の憐れみー盲人を癒す」

                 讃美歌(21) 449 311  27 交読詩篇 16

    本日の聖書 マタイによる福音書6章24~34節

 6:24「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」 25「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。 26空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。 27あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。 28なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。 29しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。 30今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。 31だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。 32それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。 33何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。 34だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」

   本日の説教

マタイ福音書によると、イエスは群衆を見て山に登られ腰を下ろすと、弟子たちが近くに寄って来たので口を開き、教えられた(マタイ5:1,2)、と記されているように群衆よりも主に弟子たちに語っています。山上の説教は祝福の言葉で始まっていることからも、単なる戒めや倫理ではなく、弟子たちが恵みとして与えられている神の国の生き方が勧められています。

主イエスは、「だれも、二人の主人に仕えることはできない」と言われます。当時の奴隷は一人の主人に仕えて、全面的にその主人の意志に従わなければなりませんでした。神に仕えて永遠の命を得るか、富に仕えて滅びに陥るか、その何れかを選びなさい。「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」と主イエスは言われました。神を信じながら、富に仕えるということは出来ないのです。一方に親しんで他方を軽んじることになるからです。

主イエスは富の所有を全く否定しているのではありません。神の御栄のために富を正しく用いることを求めているのです。金銭的な富への執着だけでなく、地上的ないろいろな欲望も、過度の欲望となると、その貪欲は「偶像礼拝」にほかならないものとなります(コロサイ3:5)。私たちを真に幸せにしてくれるのは過行く地上の富や欲望にあるのではなく、永遠の神にあることを忘れてはなりません。清い心と澄んだ目を与えられ、生涯誤ることのない正しい人生の選択ができるように、主のお導きをいただかなければなりません。

人生の拠り所を富に求め、それを自分の努力で確保しなければならないと考えるとき、人は思い悩みから免れることは出来ません。主イエスは富についての思い悩みを捨てて、神に全面的に信頼して生きるように勧めます。

「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな」と主は言われます。私たちにとって経済生活の問題は身近で、しかも重要な問題です。主イエスは食物や衣服のような日常生活を送るうえで、基本的に必要な物の問題を取り上げ、「思い悩むな(メ ・メリムナテ)」と強く否定し、さとされます。この世に住むすべての人にとって、思いなやみ、心配に陥ることぐらい自然なことはないと思われます。しかし、ここでは日常生活における配慮や計画や労苦のすべてが拒否されているのではないことはもちろんです。

この25節から34節の間で、主イエスは「思い悩む(メリムナ)」という言葉を六回も用い、「思い悩むな」と三回も警告を繰り返えしています。「思い悩む(メリムナ)」とは、人間が心の奥底深く抱いている心配、懸念、悩みのことで、心が分散して精神が統一できなくなり、混乱することを意味しています。

主イエスは、「空の鳥をよく見なさい」、「野の花がどのように育つのか、注意して見なさい」と言われます。この言葉の前には、「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」と言われています。神に従って生きるのか、富を求めて生きるのか、という人間の生き方を問う中で、空の鳥・野の花を見なさいと勧めているのです。

鳥も花も弱い、はかない存在に過ぎません。明日も知れぬ存在です。かんばつや大災害が神を信頼する人間だけでなく、鳥や花の両方の生物の生命を短縮してしまうことがありますが、しかし普段は創造主の手の中で守られ、生き生きと美しく、今日の日を生きています。この従順と絶対的信頼に注目しなさいと主は語られるのです。ソロモンの豪華な衣装にも勝る美しい衣で、神は野の花は装ってくださっています。空の鳥も野の花も、神がなすままに身を委ねきっているではないか。あなたがたはそこから神に信頼することを学びなさい、と言われるているのです。そして、空の鳥と野の花に目を向けさせた主は、この小さい名もない鳥や花にさえ生命を与え、成長させたもう方に目を向け、生命の真の支配者である神に信頼して生きるようにと呼びかけておられるのです。

神は必要とあれば、何でもくださることがおできになる方です。主イエスは無計画な空の鳥のような自然的生存に身を任せるようにと勧めておられるのではありません。人間はカラスや野の花のように、働かないで生きてゆくことはできません。私たち人間は知能と人格を与えられ、人間として良き業に励む生活をしなければなりません。しかし、わたしたちが生きていけるのは、わたしたちの力によるものではなく、命を支える力がわたしたちを生かすから生きていられるのです。

それゆえ、主イエスは、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」と言われます。「神の国と神の義」の「と」は、二つのものを対等に並べる接続詞ではなく、「すなわち」の意味です。「神の国」を求めることは「神の義」を求めることに他なりません。「神の国」とは神のご支配を意味し、「神の義」とは神の正しさ意味します。「義」は神様のご性質です。「神の義を求めよ」とは、神が「正しいと認めること」、「よしとされること」を求めなさい、ということです。

神様に正しいとされるのは、なにか良いことをする、善行を積む、祈る、断食をするということではありません。ただイエス様の救いによって、その救いを信じる信仰によって、わたしたちは神様に正しいと認められるのです。わたしたちに、その救いの業、救いの恵みをこそ求めなさいと、イエス様は言われています。そして、その救いに既に与ったものは、その救いに感謝して生き、神様のみ心を求め、神様の正しさのなかを生きていくことが求められています。そうすれば、わたしたちに日々の糧や、魂に必要なもの、生きるに必要なすべてを整えてくださるのです。

アブラハムが主を信じたとき、主はそれを彼の義(彼を正しい)と認められました(創世記15:6)。「神の国は・・・聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです」(ローマ14:17)と使徒パウロは語っています。義とは、聖霊によって与えられる正しさであり、神に良しとされ、迎え入れられることです。「思い煩い」に対する解決策は、神に対する信頼であり、「神の国と神の義を求める」ことによって与えられる、聖霊による平安です。神によって精神が統一され、混乱した心は静まり、平安が与えられるのです。

「だから、明日のことまで思い悩むな、明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」と主イエスは言われます。神の国と神の義を求めて生きることは、それなりの労苦があります。しかし、思い煩いからは解放されています。「その日の苦労は、その日だけで十分である」とイエス様はいたわってくだいます。今日を生きる苦労は、神様の恵みと支えによって乗り切きることができます。だから、明日も主が必ず支えてくださると信じて、明日を迎えること出来るのです。

 「どんなことでも、思い煩(わずら)うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう(フィリピ4:6~8)」と使徒パウロは告げます。思い煩いとは、人間が神の導きを信じることが出来ずに、神の救いに委ねることをしないで、自分の力にのみ頼って生きようとする時に生まれるものです。もし、主の導きによる解決に自らを委ねるのであれば、思い煩いから自由にされるのです。そして、そのようなときには、「何事につけ、感謝を込めて祈りと願いとをささげ、求めているものを神に打ち明け」るという歩みがなされて行きます。人間的に見れば思い煩いに支配されてしょうがいないような状況な中で、尚、神様が問題に対処してくださり、解決してくださことを信じて主にすべてを委ねる時、感謝の思いを抱かずにはいられないのです。わたしたちに先立って進む主の導きを信じ、求めているものを神に祈り求め、聖霊による真の平安を与えらて、一日一日を精一杯生きることが、信仰者の生き方なのです。将来のことは神に委ねましょう。全面的に委ねましょう。主が常にあなに先立って歩んでくださることを、かたく確信しましょう。

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「イエス様は良い羊飼い」 ヨハネによる福音書10章7~17節

2020-09-18 01:05:44 | キリスト教

                         ↑ 羊飼いのイエス

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

      日本福音教団 富 谷 教 会 週  報

   聖霊降臨節第十六主日 2020年9月20日(日)  午後5時~5時50分

年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆこう。」(エフェソ4・16)

       礼 拝 順 序

                司会 齋藤 美保姉

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 476(あめなるよろこび)

交読詩編    23(主は羊飼い)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)ヨハネによる福音書10章7~17節(新p.186)

説  教   「イエス様は良い羊飼い」   辺見宗邦牧師   

祈 祷                              

聖餐式    81(主の食卓を囲み)

   「マラナ・タ(主よ、来てください)」第1コリント16:22、黙示録22:20

讃美歌(21) 458(飼い主わが主よ)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

               次週礼拝 9月27日(日)午後5時~5時50分  

               聖 書  エフェソの信徒への手紙3章14~21節

               説教題   「キリストの住まい」

               讃美歌(21) 311 492  27 交読詩篇 103

本日の聖書 ヨハネによる福音書10章7~17節

 10:7イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。 8わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。 9わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。 10盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。 11わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。 12羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。―― 13彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。 14わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。 15それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。 16わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。 17わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。 18だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」

     本日の説教

 今日のの礼拝には、初めて教会に来られる方がいるので、分かり安い聖書の箇所に変更いたしました。ご了承下さい。

   ヨハネによる福音書10章7~10節

イエス様は御自分を<わたしは羊の門>であると言われます。<羊の門>とは羊が出入りする羊の囲いの門です。ここでは主イエスが神の国、神の領域に人々が入る場合の唯一の入り口であることを、<わたしは羊の門>にたとえて言われています。<わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である>とは、ユダヤ教の指導者たちを指しています。当時のユダヤ教の指導者(ファリサイ派の人々)や長老たちへの自信と傲慢に対するイエス様の痛烈な批判です。過去においても、旧約聖書のエゼキエル書34章1節以下に記されているように、イスラエルの指導者たちに、主なる神はこう言われる。<災いだ、自分自身を養うイスラエルの牧者たちは。牧者は群れを養うべきではないか。…お前たちは群れを養おうはしない>と厳しい裁きの預言がなされています。これまでの偽りの指導者たち、救済者たちの盗人はやって来て、群れの羊を<盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするため>であった。

わたし(イエス)は柵内の羊を、盗人から守る羊の門である。わたしを通て入る者は救われ、門を出入りして牧草を見つけ食べることが出来る。わたしが世に来たのは、羊が命を守られ、しかも豊かに養われるように、人々が永遠の命を与えられ、豊かな恵みと祝福とを受けるためである、と主イエスは言われます。

11~13節

7節ではイエスは<羊の門>に御自分を例えて語られましたが、11節では<わたしは良い羊飼いである>と御自身を<羊飼い>になぞらえています。この背景にもエゼキエル書があると思われます。そこではイスラエルの指導者たちを牧者に、民を羊に譬えて語り、その牧者たちが羊を食いものにしている罪を裁きましたが、この牧者たちの代わって羊である民を養い救うメシア(救世主)の預言がなされました。<わたしは彼らのために一人の牧者を起こし、彼らを牧させる>(エゼキエル書34・23)。この預言の成就(実現)としてイエスは来られたので、イエスは御自分を<わたしは良い羊飼いである>と宣言されています。<良い羊飼い>は羊を守るために命を捨てると言われます。羊飼いの生活の中では外敵に対して羊を守るために羊飼いたちが勇敢に戦い、ある場合には傷を負い、またある場合には命を失うことがあったようです。<自分の羊を持たない雇人>とは、自分自身の利益のため、生活の手段として羊を託されて羊を飼っている者のことで、偽りの指導者たちをたとえています。彼らは狼が来ると、羊を守らずに逃げ出します。偽りの牧者にとっては、彼は危険に直面すると、羊を捨てて逃げ去るのです。雇人は羊ことを心底から心にかけていないからです。すると狼は羊を襲い、羊たちを追い散らし餌食にするのです。羊のために本当に自分の生命を棄てる覚悟を持つ者、これが真の牧者です。最も深い意味において、真の羊飼いは主イエス一人のほかにいません。主エスは人々に永遠の命を与えるために自らの命を捨てられました。

14~15節

イエス様は良い羊飼いです。良い羊飼いは羊との間に、互いに深く知り合う関係をつくります。主イエスは人々と愛と信頼の関係をつくってくださいます。<わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている>と、主は言われます。<知る>という言葉で、わたしと羊の一体的な関係が語られています。さらに羊飼いと羊の関係を、父なる神と御子とのゆるぎない関係にたとえています。そのゆるぎない関係は、羊飼いイエスが羊にために命を捨てるということで保証されています。イエスの十字架の贖いの死が語られています。
 16節

 羊飼いイエスには、自分に身近な囲いの羊だけでなく他の囲いの羊のことも心にかけておられ、その羊も導かなければならいと言われます。ユダヤ人の救いだけでなく、異邦人を救うことを目指しておられます。御自身の前におられる人々への伝道だけでなく、広く世界を展望しておられるのです。地の果てに至るまで、イエスの証人となるように弟子たちを復活のイエスは派遣しています(使徒言行録1・8)。その羊もイエスの声、福音を聞き分け、信徒となるのです。こうして、世界の羊は一人の羊飼いイエスに導かれ、一つの群れになるのです。今日の教会は、現実には多くの教派、分派に分かれています。<一つの群>、<一人の羊飼い>こそ福音にふさわしい姿です。そのためには、わたしたちが福音に堅く立つこと、大牧者であるイエスを仰ぎ、その声に聞き従わなければなりません。

17~18節

<わたしは命を、再び受けるために、捨てる>とは、主イエスが十字架の死の後に、復活を信じていることが表されています。それが父なる神の御心に従うことになるので、父なら神は御子イエスを愛してくださっておられる。だれも父なる神とかたく結ばれているイエスの命を奪い取ることはできません。しかし、十字架の死は、神の御心に従う死ではあるが、同時に主イエスが自ら世の人々を愛し、救うための自主的な死であり、御自分でその命を捨てられるのです。イエスは自分の意志で命を捨てることもで、その復活の命を再び、父なう神から受けることも出来るのです。<父から受けた掟>とは、イエスの十字架と復活が神の計画、神の意志から発している命令である、ということです。

詩篇23篇1節に、「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない」といダビデ王の詩があります。まさに主イエスはわたしたちの良い羊飼いであり、真の羊飼いとなってくださいました。この羊飼いに従う群れであるわたしたちは、<何も欠けることが>あいません。わたしたちは主イエスに養われているのです。<満ち足りる心>をもたらすのは、羊飼いであられる神・主イエスです。

2 「わたしの羊飼い」である主は、「わたしを青草の原に伏させて休ませる」方です。良い羊飼いとかかわることで、私たちに必要な休息が与えられるのです。主なる神は、わたしを「水ぎわに伴っていこわせてくださる」方です。静かな、穏やかな、心の落ち着く、しかも気持ちのよい水辺に、私を導かれる方です。

3 主は、「魂を生き返らせる」神です。「魂」と訳された原語は、へブル語で「ネフェシュ」です。この言葉のもともとの意味は「喉」です。「喉」は食べ物や飲み物、声や息をする通り道であり、人間が生きる上で重要な部分です。そこから、魂(ネフェシュ)は「渇き」「渇望」を持った人間存在全体を表わします。

「神よ、わたしの魂はあなたを求める。神に、命の神に、わたしの魂は渇く。」(詩篇42:2,3)とあるように、神によって満たされなければ真に生きることのできない、そのような存在こそ「魂」なのです。「生き返らせる」とは、魂の内からの復活を経験させるということです。「命を得させ、豊かに得させるため…羊のために命を捨てた(ヨハネ10:10-11)」神がいますのです。

「主は御名にふさわしくわたしを正しい道に導かれる」方です。「御名にふさわしく」、「御名のために」とは、主がひとたび選んだ者に対して、ご自身の名誉にかけて、どこまでも全責任を負うということなのです。「正しい道、義の道」とは、神とのかかわりの道、いのちへと至る道です。主は、ご自身の御名にかけて、私を、正しい道へと導かれる方です。それゆえ、私たちに必要なことは、神の導きに従順であり謙虚であることです。

4節 「死の陰の谷を行くときもわたしは災いを恐れない。主よ、あなたがわたしと共にいてくださる(共に歩んでくださる)」。この告白は、「わたしはあなたと共にいる(創世記28:15)」と言われる主なる神の約束に基づいています。「死の陰の谷」とは、原語では「暗闇の谷間」です。それは、先が読めない、出口が見えない状況、だれも助けることのできない孤独の世界、まさに死の淵にある状況を意味します。しかしそんな状況にあっても、主の臨在によって、恐れないと告白しています。

あなたの鞭、あなたの杖、それがわたしを力づける。」「鞭(むち)」と訳されている語は、羊を危険から守る棍棒のことです。「鞭」は羊をうつ道具であるより、羊を襲う獣と闘い、これを追い払う道具です。それは守りのための力の棒であり、「杖(つえ)」は羊を導くための用いるものです。「あなたの鞭」「あなたの杖」とは、羊に襲いかかる外敵と命懸けで戦う羊飼いが持っているものです。この二つの道具で、羊のために守り導く神が描かれています。それらが私を励まし、力づけるのです。羊のために命を懸けてくださる羊飼いがいます。その方が「わたしの羊飼い」として「わたしと共にいてくださる」が故に安心であると、この詩編は歌っているのです。

表面的には何不自由なく暮らしていても、真実に自分を愛してくださる方と出会い、その方の言葉を聴き、そしてその方を愛して生きることがないとすれば、それは不毛の大地を独りさ迷う羊や鹿と同じです。

 私たちは、ここに歌われているように、豊かに養い、導き給う主である神様を礼拝しています。この主なる神が私たちの羊飼いであるならば、「何も欠けることはない」ことに感謝し、日々を過ごしましょう。

5 ここには羊飼いに代わって家の主人がいます。敵によって苦しめられている者を受け入れ、豊かにもてなしてくれる家の主人です。食卓を整えること、香油を注ぐこと、杯に酒を満たすことは、すべて豊かなもてなしを表現しています。敵によって苦しめられている客人は、このもてなしによって力づけられ、喜びに満たされ、主の守りの確かさが歌われています。主の守りは、敵の前で食事ができるほど安全で、また敵を恐れる必要にないものなのです。このような神の接待を受けられるならば、これにまさるものは、他にはないでしょう。

6 「命のある限り恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り生涯、そこにとどまるであろう」とあります。神は私たちの命のある限り、恵みに満ちた愛をもって私たちを追いかけられる方なのです。迷い出た羊を、羊飼いがどこまでもどこまでも探し、救い出そうとするように、神は常に私を救おうと、追いかけて来てくださるのです。だから私は、これからの生涯がどのようなものとなろうとも絶望する事無く生きて行けるのです。

  「生涯、主の家にとどまるであろう」とは、神との親しい交わりの生活をするのことです。道に迷った羊が探しに来てくれた羊飼いの胸の中に帰って行くように、私も生涯の日々、神様の御許に、神様の愛の中に帰り続ける、と歌っています。生涯にわたって私たちを導き、豊かに養ってくださったお方と共に、いつまでも、主の家にとどまりつづけであろう、と告白しています。

 羊飼いのイエス様に養われる人々の交わりが教会です。死より復活して、父なる神のおそばにおられる神の御子イエス様は、私たちを差別することなく愛してくださり、私たちに聖霊を送り、いつも共にいて、守ってくださり、天国まで導てくださるのです。イエス様は私たちの羊飼いです。私たちは何も欠けることがなく、満ちたりた人生を送ることができます。

 

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「神に属する者ー異端(グノーシス)との戦い」 ヨハネの手紙一5章10~21節

2020-09-11 23:08:21 | キリスト教

            「わたしたちは知っています。わたしたちは神に属する者ですが、この世全体が悪い者の支配下にあるのです。」(ヨハネ第一の手紙5章19節)

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

                日本福音教団 富 谷 教 会    週  報

聖霊降臨節第十五主日  2020年9月13日(日)     午後5時~5時50分

年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆこう。」(エフェソ4・16)

                              礼 拝 順 序

                司会 田中 恵子姉

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 214(わが魂(たま)のひかり)

交読詩編    65(沈黙してあなたに向かい、賛美をささげます)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)ヨハネの手紙一5章10~21節(新p.446)

説  教  「神に属する者異端(グノーシス)との戦い」   辺見宗邦牧師 

祈 祷                               

讃美歌(21) 521(とらえたまえ、われらを)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

                  次週礼拝 9月20日(日)午後5時~5時50分  

                  聖 書  ペトロの第一の手紙2章11~25節

                  説教題   「上に立つ人々」

                  讃美歌(21) 476 459 27 交読詩篇 23

     本日の聖書 ヨハネの手紙一5章11~20節

 10神の子を信じる人は、自分の内にこの証しがあり、神を信じない人は、神が御子についてなさった証しを信じていないため、神を偽り者にしてしまっています。11その証しとは、神が永遠の命をわたしたちに与えられたこと、そして、この命が御子の内にあるということです。12御子と結ばれている人にはこの命があり、神の子と結ばれていない人にはこの命がありません。13神の子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書き送るのは、永遠の命を得ていることを悟らせたいからです。14何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です。15わたしたちは、願い事は何でも聞き入れてくださるということが分かるなら、神に願ったことは既にかなえられていることも分かります。16死に至らない罪を犯している兄弟を見たら、その人のために神に願いなさい。そうすれば、神はその人に命をお与えになります。これは、死に至らない罪を犯している人々の場合です。死に至る罪があります。これについては、神に願うようにとは言いません。17不義はすべて罪です。しかし、死に至らない罪もあります。18わたしたちは知っています。すべて神から生まれた者は罪を犯しません。神からお生まれになった方が、その人を守ってくださり、悪い者は手を触れることができません。19わたしたちは知っています。わたしたちは神に属する者ですが、この世全体が悪い者の支配下にあるのです。20わたしたちは知っています。神の子が来て、真実な方を知る力を与えてくださいました。わたしたちは真実な方の内に、その御子イエス・キリストの内にいるのです。この方こそ、真実の神、永遠の命です。21子たちよ、偶像を避けなさい。

   本日の説教

    ヨハネによる福音書とヨハネの手紙は、用いられている用語や表現などが極めて似ているところから、同じ教会(仮に「ヨハネの教会」と呼んでいる)の中で成立したと考えられています。ヨハネによる福音書は、イエスの十二弟子の一人のヨハネの権威の下に、ユダヤ教の会堂の人達に対してキリスト教の信じる神の独り子イエス・キリストを明らかにするために、紀元80年から後半から90年頃にかけて書かれました。一方、ヨハネの手紙(一、二、三)は、この教会で福音書の読み方について福音理解の誤りが生じ、異端の問題が危機として襲いました。これに対応するために書かれたのがヨハネの手紙です。この手紙は、この教会の指導的位置にあったユダヤ人キリスト者の長老が、真の信仰を土台に教会を再建するため、紀元100年前後に書いた勧告や手紙です。

ヨハネの手紙一は手紙というより勧告であり説教のようなものとして書かれています。ヨハネの手紙二、三は、長老が個人に宛てて書いた短い手紙です。書かれた順序としては、ヨハネの手紙三が最初で、つぎに手紙二、最後に手紙一が、手紙というよりは神学的主張と勧告として書かれたと見られています。手紙三と二は、個人に宛てられた短いものです。

ヨハネの手紙一は、霊的熱狂主義的な異端の輩が教会から出て行った後に書かれています(2・19)。しかし、まだ異端に惑わされ魅かれている者たちもあり、動揺は沈静化していなかったので、その読者たちに、彼らの経験した分裂の神学的な意味を明らかにし、教会に踏みとどまり、正しい福音理解に基づいて教会を再建するよう呼びかけています。

ヨハネの手紙で問題とされている異端とは、グノ―シス派のキリスト者です。グノーシスとはギリシア語で「知識」を意味しますが、グノーシス派は「霊知」という意味で用い、その霊知を持つことによって救われるとする思想・宗教運動が当時ギリシア・ローマの世界に広く広がっていました。その「霊知」をもたらすのが「霊のキリスト」であるとするグノーシス派の影響がキリスト教会の中にも深く浸透していました。

グノ―シス派は次にのような主張をしていました。「真の至高神」から神々が生じたが、その中の一人の神が堕落し、悪神となり、私たちの住む宇宙を創造した。そのため宇宙に存在するものはすべて罪悪性を持っている。人間の肉体の中にある魂には、「神的霊」が宿っており、真の至高神とつながっている。しかし「神的霊」は肉体と魂の中に閉じ込められている。この「神的霊」を救い出すために至高神は神の子「霊なるキリスト」をこの世に遣わした。「霊なるキリスト」が与える「霊知(グノーシス)」を得ることで、「神的霊」は眠りから目覚め、人間の肉体や魂から解放されて宇宙の中を上昇し、真の至高神のいる光の領域に復帰する。

人間イエスがバプテスマのヨハネによる洗礼を受けたとき、霊なるキリストが彼の上に下り、霊なるキリストが人間イエスを通してさまざまな働きをし、人に霊知を授け、霊なるキリストは、イエスが十字架にかけられて死ぬ直前にイエスを離れ天に帰られた。このキリストを信じ、その教えられた霊知を受ける者は救われる。

このように人間イエスと霊なるキリスト、肉と霊を分離して考える霊肉二元論がグノ―シスの思想です。グノーシス派のキリスト者は霊を重んじ肉を軽んじたが故に、ある場合には極めて禁欲的―肉を殺して霊に生きるーであり、また他の場合は無倫理的放縦―救われるのは霊であって肉はどうでもよいと考えられたが故にーであったといわれます。

 この異端は神についての知識(グノーシス)を誇り、特殊な霊的体験を通して神的なものとの交わりに達することを宗教体験とし、しかも二元論的な傾向から肉的地上的なものについては軽視し、隣人との愛やキリスト者としての生活は乱れ、福音理解についても、天地の創造者なる真の神を否定し、人となって誕生した救い主キリストとその人間の罪を贖う十字架の死を否定するものでした。

この異端は神の叡知(グノーシス)をもっていると自称しながら実は知りません(2・4)。それは愛を知らないことによって明かです(4・8)。彼らは兄弟を愛さない(4・20)。また神との交わりを誇り(1・6)、彼におる」と唱え(2・6)、「光の中にいる」と自負しているが、兄弟を憎み、実生活の様相は闇の中にいます(2・9)。特殊な霊的な体験をしているというが、その霊が神から出ているかどうか疑わしい(4・1以下)。彼らは自分たちには罪がないといい(1・8)、イエスがキリストであることを否定し(2・22以下)、神の子であることを否定します(4・15、5・5)。またキリストの受肉を否定し(4・2)、イエスが受洗から十字架までの生涯を歩まれたことを否定します(4・15、5・5)。

ヨハネの手紙一は、5章から成る、親しみのある手紙です。信徒の「交わり」を教え、その基礎は「父と御子イエス・キリストとのまじわり」(1・3)です。この交わりにある者は、<光の中を歩く者>、キリストの戒めである「愛」の実行者です。この手紙は愛について単純に強く教えています(3・16-18)。4・7-21は、キリスト教の愛の本質を示した有名な部分です。愛は神から出て、キリストの十字架において具体化されています。このキリストの愛にならって兄弟を愛する者が、神を愛し神を信じる者です。この手紙も、当時の教会を悩ましていたグノ―シス的異端と戦い、イエスの受肉と地上の生活を強調し、放縦な自由主義を戒めています。

5・5では、<だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか>と力強い問いかけがなされています。<イエスが神の子であると信じる者>と言うのは、おそらく2・22-23に見られるイエスのメシア性を否定する者たち、御父と御子を認めないという異端の立場に対立して語っている言葉と推定されます。

5・6以下には、イエス・キリストは、<水と血>とをとおってこられた方です、とあります。<水と血>をとおってこられた方とは、バプテスマと十字架の死を受けられ方である、ということです。つまり、イエス・キリストが完全に人間として生まれ、人間として死んだ、まことの人となられた方(受肉者)であるということです。イエス・キリストの十字架の死によるわたしたちの罪の赦し(罪をあがなう死)の事実を表すと同時に、この手紙の読者である信徒たちにとっても、現在、彼らがあずかるバプテスマと聖餐において生けるイエス・キリストとして、その人々の許に来ることが起こることを指し示していると考えられます。偽預言者たちのさまざまな異端の考え方を否定しています。

その証し(確かであるという証明)をするのは、真理の御霊です。イエス・キリストという歴史的人物・その生涯を通しての示される聖霊の証しです。また。洗礼や聖餐という聖礼典において現在も確かめることができる、御子について立てられた証しです。<水>と<血>と<御霊>の三つが一致して御子について立てられた証しです。

これは地上の証言ですが、神の証しはさらにまさっています(9節)。その内容については語っていませんが、福音書から類推すると、その証しの内容は十字架と復活であり、それを通して神とイエス・キリストと教会(弟子たち)とが一つであると考えられます。

そして、今日の聖書の箇所に入ります。

神の子を信じる人は、自分の内にこの証しがあり、神を信じない人は、神が御子についてなさった証しを信じていないため、神を偽り者にしてしまっています。」(10節)

神の子を信じる人と神を信じない人とが対比されています。当然、イエスを神の子と信じる人は神を信じることになり、その人の内には水と血と霊との三つが働いていることを指しています。神が御子イエス・キリストを十字架につけてまで人々の罪を赦し、救おうとされたのに、その証しを信ぜず、神の愛を受け入れない人は、神を信じられず、その頑なさによって、神の証しを偽りだとし、神御自身を偽り者としていることになるのだと警告しています。これは直接にはグノーシス的キリスト者に対する厳しい批判なのです。彼らはイエス・キリストが血を通って来られたこと、つまり十字架における神の厳しい裁きと無条件の愛を受け入れないからです。

その証しとは、神が永遠の命をわたしたちに与えられたこと、そして、この命が御子の内にあるということです。」(11節)

<その証し>の内容とは、イエスの十字架のあがないの死による罪の赦しと死者からの復活において、神が人間に与えてくださったのは<永遠の命>を生き始めるという恵みです。そして、<この命が御子の内にあるということです>。

御子と結ばれている人にはこの命があり、神の子と結ばれていない人にはこの命がありません。」(12節)

イエス・キリストの十字架を通して私たちの罪と虚無を、神との断絶を、生の無意味さを徹底的にあばき示されました。これが神の裁きである。しかし、この私たちの現実を認めることが出来るのは、私たちがイエス・キリストの復活を通して、この罪と虚無と生の無意味さから解放され、私たちの生が神によって認められていることを知る時のみです。私たちはこれをただイエス・キリストを通してのみ知るのです。

神と人との交わりが和解を得て回復されたのは御子イエス・キリストの贖罪(罪を赦すイエスのあがないの死)によるのだから、イエスぬきには永遠の命をもつことは出来ません。キリストと結ばれていない者には永遠の命はありません。

神の子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書き送るのは、永遠の命を得ていることを悟らせたいからです。」(13節)

13節はこの手紙の「結語」と言われます。全体が回顧されつつ、執筆の目的が改めて語られます。この手紙の読者たちは、惑わす者や偽預言者たちの活動によっても、ある者たちのように教会から出てゆくことをせず踏みとどまった人々です。そのあなたがたにとっては<永遠の命>を得ていることを悟らせ、その恵みの事実について気付かせることが手紙を送った動機であり目的だと述べています。

永遠の命は終末において、将来与えられるものというのではなく、イエス・キリストがこの世に来たことによって始まった終末の時の中で、主イエスによって与えられる永遠の命に生かされるということであって、罪の結果としての死、滅びを経験しないということです。生きるにも、死ぬにも、イエス・キリストと共にあり、その命に与って生きるということです。

何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です。」(14節)

<神の御心(みこころ)>に適う願いであるなら、どんな願いでも神は、その願い、その祈りを聞き入れてくださる、というのが神に対するわたしたちの確信です、と述べています。<神の御心に適う>とは、「わたしたちが神の掟を守り、御心に適うことを、行っているから」(3・22)です。「その掟とは、キリストを信じ、互いに愛し合うことです」とあります。神に対するこの確信と信頼をもって祈ることができることはなんと力強い励ましでしょうか。このことを信じて忍耐深く祈り続けましょう。人間の自然的欲求の赴くままに何を祈ってもよいという事を意味してはいません。人間の欲望に奉仕する神は偶像です。

わたしたちは、願い事は何でも聞き入れてくださるということが分かるなら、神に願ったことは既にかなえられていることも分かります。」(15節)

人間にとって根源的な必要は神との交わりの回復でした。それを人間の罪が妨げていました。その罪を御子は取り除いてくださったのです。その根源的な必要、祈りを神は聞き届け、その願いをかなえてくださっておられます。そのことが基盤にあるので、他のすべてのことにおいても、<神に願ったことは既にかなえられていることも分かる>、というのです。

死に至らない罪を犯している兄弟を見たら、その人のために神に願いなさい。そうすれば、神はその人に命をお与えになります。これは、死に至らない罪を犯している人々の場合です。死に至る罪があります。これについては、神に願うようにとは言いません。」(16節)

<死に至らない罪>と<死に至る罪>とが対比されています。<死に至る罪>とは、おそらくキリストを否定する罪を言うようです。具体的には、反キリスト、惑わす者、偽預言者らとその輩を指しているようです。

<死にいたらない罪>を犯している兄弟たちへの執り成しの祈りが勧められています。弱さや無知や過失によって犯された罪に苦しむ人を見たら<願い求めなさい>と勧めています。キリスト者の交わりとは、このようなとりなし、またとりなされる祈りの交わりに他なりません。こうしてこそ罪人は<命>へと回復されるのです。

不義はすべて罪です。しかし、死に至らない罪もあります。」(17節)

 1章9節では、「自分の罪を公に言い表すなら、神は…罪を赦し、あらゆる<不義>から清めてくださいます」とあります。また、3章4節で言われているように、<不義>とは、法に背くことです。御子は罪を除くために現れたのです。

次に、「わたしたちは知っています」と、三つの確信が語られます。

わたしたちは知っています。すべて神から生まれた者は罪を犯しません。神からお生まれになった方が、その人を守ってくださり、悪い者は手を触れることができません。」(18節)

第一の確信は、<神から生まれた者>は罪を犯さないということです。その根拠は、キリストが神と共にその人たちの中に住み一体となってくださるのだから、その保護により、悪魔も手をふれることができない、と言っています。

わたしたちは神に属する者ですが、この世全体が悪い者の支配下にあるのです。」(19節)

第二の確信は、わたしたちは<神に属する者>ですが、この世は悪魔と罪と死が支配している闇の世界です。しかし、この闇に打ち勝つ勝利がすでにイエス・キリストの十字架と復活によって確定されていることを信じ、そこに希望をおいて証し続けるのが神に属するわたしたちです。

神の子が来て、真実な方を知る力を与えてくださいました。わたしたちは真実な方の内に、その御子イエス・キリストの内にいるのです。この方こそ、真実の神、永遠の命です。」(20節)

第三の確信は、神の子イエスがこの世に来てくださって、<真実な方>である神を示し、神を知る力、すなわち御霊を与えてくださいました。そして信じる者は、この<真実な方>なる神の内におり、また、<その御子イエス・キリスト>の内におると言うのです。神とキリストと教会との一体性がここでも明言されています。この方は、<真実の神であり、永遠の命>です、イエスを神とする告白があります。キリストもその本質においては、父なる神と区別はないことを表しています。

子たちよ、偶像を避けなさい。」(21節)

最後に、<偶像を避けなさい>との勧めがなされます。<偶像>とは、神ならぬものを神として拝することです。旧約聖書の歴史は偶像崇拝との戦いでした。今ヨハネの教会において戦われているのも、神ならぬものを神とする異端との戦いなのです。そして、わたしたちの戦いもまた<偶像>との戦いです。この日本にはまことの神でない偶像が祭られ、偶像を拝する人が満ちています。神仏の偶像だけではなく、「貪欲(むさぼり)」もまた、偶像(コロサイ3・5)です。わたしたたちはこれらの偶像を避けなければなりません。

信仰者の世に生きる現実は、罪の世のただ中で、自分の弱さのために罪を犯す事態に引きずり込まれて悩み、失望することがあるかもしれません。しかし、信仰者は聖霊によって、「イエスは主である」と告白し、その罪を赦された者であり、洗礼において古い自分はすでに十字架につけられ、主イエスとともに死んで葬られ、主イエスの復活にあずかって新しい命に生きている者です。キリストと一体にされているゆえに、悪魔も手を出すことはできないことを覚えつつ、神に属する者(5:19として神の栄光を現す生涯を送りましょう。

 

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「新しい人間―聖霊に満たされた生活」 エフェソの信徒への手紙5章11節~20節

2020-09-03 19:31:46 | キリスト教

    「いつも感謝しなさい。父である神に、あらゆることについて(あなたの人生でかかわるすべての人に)、わたしたちの主イエス・キリストの名によって。」(エフェソ5・20) 括弧( )内の訳は、The Passion Translation(パッション訳)という英語訳です。

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380・FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会    週 報

聖霊降臨節第十四主日 2020年9月6日(日)   午後5時~5時50分

年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を

成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆこう。」(エフェソ4・16)

              礼 拝 順 序

                司会 斎藤 美保姉

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 220(日かげしずかに)

交読詩編    98(あたらしい歌を主に向かって歌え)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)エフェソの信徒への手紙5章11節~20節(新p.282)

説  教    「新しい人間―聖霊に満たされて生活」 辺見宗邦牧師

祈 祷                               

讃美歌(21) 461(みめぐみゆたけき)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

                                                    次週礼拝 9月13日(日)午後5時~5時50分  

                                                     聖 書  ヨハネの手紙一5章11~20節

                                                     説教題   「神に属する者」

                                                    讃美歌(21) 214 521 27 交読詩篇 65

本日の聖書 エフェソの信徒への手紙5章11節~20節

 5・11実を結ばない暗闇の業に加わらないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。12彼らがひそかに行っているのは、口にするのも恥ずかしいことなのです。13しかし、すべてのものは光にさらされて、明らかにされます。14明らかにされるものはみな、光となるのです。それで、こう言われています。「眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる。」15愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい。16時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです。17だから、無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい。18酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです。むしろ、霊に満たされ、19詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。20そして、いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい。

                   本日の説教

 この手紙は紀元80年代に編纂されました。著者については、パウロ自身の真正な手紙であるとする立場と、パウロの弟子がパウロの名を借りて書いたものとする立場があります。エフェソ書は他のパウロの手紙と比較して語彙や文体、さらに思想などに変化があるからです。ガラテヤ書やローマ書の主題であった信仰のみによる救いや義認の教えなどの論争は影をひそめ、おだやかな調和と一致への教えとなっています。文体の相違は、秘書や書記を通じて書かれたことによる変化とも思われます。秘書として、フィレモン書の奴隷オネシモや、エフェソ出身のテキコ、あるいは、長年の協力者であったテモテなどが考えられます。いずれにしても、この手紙の差出人はユダヤ教出身者で、読者はユダヤ教とは関係のない人々が大半を占めていたと推察されます。この手紙は、フィリピ書、コロサイ書、フィレモン書と共に、「獄中書簡」と呼ばれてきました。使徒パウロが牢に繋がれた場所は、ローマ、カイサリア、エフェソの三つの都市があげられています。

 内容は、1章~3章の終わりまでが教理的部分であり、人類に対する神のキリストを中心とする偉大なる救いの御計画(1・3~14)と、キリストによるその実現、さらにキリストの教会(1・23等)の意義が示されています。救いがただ恩寵のみによること(2・5等)、「この世で希望もなく神もなかった」(2・12)救われる前の<古い人>と、救われた後の<新しい人>との対比、人間の敵意という「隔ての中垣」(2・14)がただキリストの十字架のみによって取り除かれるということ等が説かれています。

 これらの基本的事実の確認を土台として、それに対する一般的なキリスト教の倫理が展開されています。4章以下がその実践的な教えです。特に教会の一致と愛による建設を教え、聖霊による生活をすすめています。

 初めに4章17~24節で、バプテスマとの関連で、キリスト者の倫理生活の基礎づけを行っています。パウロは、「以前のような生き方、滅びに向かっていた古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身につけ、真理に基づいた正しい清い生活を送るようにしなければなりません」と4章22,23節で勧めました。それは、<古き人>を脱ぎ捨てて「新しい人を着るべきである」の一言に要約されます。

 4章25~32節では、その基礎づけを聖霊の面から行っています。「御霊に導かれた生活」について語ります。そして次に,5章1~14節では、それを父なる神に愛されている者、すなわち神の子らの生活として、規定しています。5章15~21節は、各論に入る前に、総論的に、キリスト者の生活を「互いに仕え合う」生活として簡潔に要約しています。その次に各論に入ります。夫と妻(5・22~31)、親と子(6・1~4)奴隷と主人(6・5~9)、そして信仰の戦いとその栄光に満ちた勝利について述べ、外敵に向かって神の武具を装って雄々しく戦うよう励まし(6・10~20)、全体を結んでいます。

 次の区分は、EKK新約聖書注解Ⅹ「エペソ人への手紙」によります。

Ⅰ 1・1~2・10 挨拶と神への讃美とパウロの祈りと彼ら(読者)がキリスト者となっ

          たことこと       

 1・1-2 挨拶

 1・3-14 賛歌

 1・15-23 パウロの祈り

 2・1-10 キリスト者の新しい存在(死から命へ)

Ⅱ 2・11~3・21 救いの奥義としてのキリスト者の存在

 2・11-22 キリストにおいて一つとなる

 3・1-13 異邦人のためのパウロの働き

 3・14-21 キリストの愛を知る

Ⅲ 4・1~6・20 教会と世界におけるキリスト者の存在実現

 4・1-16 キリスト者の存在の場としての教会(キリストの体は一つ)

 4・17-5・14 非キリスト教的環境におけるキリストにある生活

  a  4・17-24「新しい人」の実現(古き生き方を捨てる)

  b 4・25-5・2 古い性癖を捨て、キリストにふさわしいあり方を求める(新しい生き方)

  c 5・3-14 異教の悪徳(性的不道徳)を避け、光の子供として生きる

 5・15-6・9 キリストにある教会生活         

  a 5・15-20 御霊に満たされた生活       

  b 5・21-33 妻と夫のふるまい          

  c 6・1-9 父親と子、奴隷と主人とのふるまい

 6・10-20 この世における悪の力との戦い、たえず目を覚まして祈ること(悪と戦え)

Ⅳ 6・21~24 手紙の結びの言葉

今日の聖書の箇所は、5章6節以下の「光の子として生きる」という勧めに続き、キリスト者の生活の具体的な教えと移っていきます。

 「実を結ばない暗闇の業に加わらないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。彼らがひそかに行っているのは、口にするのも恥ずかしいことなのです。しかし、すべてのものは光にさらされて、明らかにされます。」(5・11-13)

 <実を結ばない暗闇の業>は、人間生活の目的のために何ももたらしません。<闇>は、そうしたわざが行われる闇の領域を意味するだけでなく、<ひそかに行われること>(12節)、それを行う人自身をも表します。<やみのわざに加わる>とは仲間にならないことを意味します。そのために必要なことは、やみのわざを指摘し、それを明るみにだすことです。罪を明らかにし、認めさせることは、、キリスト者が悪いわざをともにしないこと、主の光によって導かれている別の生き方について彼らが証することによってなされます。

キリスト者の存在はキリストにあって光であり、やみの世界に影響力をもつ者となっているのです。神のことばは人間と世界の醜い状態を暴露し、いっさいをさらけ出すことの中で悔い改めに人を導きます。

「明らかにされるものはみな、光となるのです。それで、こう言われています。『眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる。』」(5・14)

<明らかにされるものはみな、光となるのです>は、光によって明らかにされるものは光の中にあるように、8節の「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています」ということを表しているようです。また、暗い目標に光を絶え間なく注ぐと、それを光のように変えるので、異教社会に対するキリスト者の良き努力は、初めははずかしめられるであろうが、ついにはそれを清めることを表していると思われます。

次の<眠りにいている者>の最初の二行の<起きよ><立ち上がれ>は、罪と死との異教の眠りからさめるように、との呼びかけであり、キリストが彼の真実の救いの光を、回心者の上に照らすであろうという約束を伴っています。キリストの光が死と暗黒の中にいるものを新しいいのちの中によみがえらせるのです。

「愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい。」(5・15)

賢さとは神から与えられた知恵をもって生きることです。彼は正しく判断する能力をもち状況を観察し、決して自己の主観的感情に溺れません。彼はすでに「あらゆる不義と悪と貪欲と悪意」を捨て、新しい人を着たのです。ヤコブ(ヤコブの手紙3・13~17)も「上からの知恵」と「地上の知恵」とを分けています。上からの知恵は、<柔和、純真で、更に、温和で、優しく、従順なものです。憐れみと良い実に満ちています。偏見はなく、偽善的でもありません>。地上の知恵は、<ねたみや利己心、自慢や混乱、あらゆる悪い行い>です。

「時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです。」(5・16)

<時をよく用いる>とは、キリスト者は自分の<おわり>と向きあいつつ、残されたあらゆる機会を生かして用い、主の御心を実践することです。

「無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい。」(5・17)

<分別のある者>とは、主のみ旨を悟っている者のことです。主の支配に完全に復するときに、主のみ旨は与えられます。私たちはキリストに服従しそこに生まれる信仰により自分を治めるのです。

「酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです。」(5・18)

キリストへの服従は生活に歓喜をもたらし、判断と決断をより賢明にさせます。それは酒に酔う以上のすぐれた喜びを与えます。パウロは飲酒を禁ずるために酒に酔うなと言ったのではありません。御霊による喜びと陶酔を排除し、喜びの提供を手近なところに求める心根のいやしさを戒めたのです。わたしたちは肉の喜び対し、霊の喜びがあることを知らねばなりません。 

「むしろ、霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。」(5・19)

<霊に満たされる>とは、私たちの霊と体が、全く御霊の支配のもとに置かれ、しかも常にそのような状態にあることです。教会で<詩編と賛歌と霊的な歌>があふれるだけでなく、日々昼も夜も、主に向かって心から歌い、賛美する生活を送ることが大切です。「わたしたちの神をほめ歌うのはいかに喜ばしく、神への賛美はいかに美しく快いことか。」(詩編147・1)とあります。<語り合い>とは、共同の告白のもとに生きる教会の姿です。

そして、いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい。(5・20)

感謝することは讃美と密接に結びついています。コロサイ書3・15-17でも、キリスト者は父なる神に感謝しつつ「言葉とわざをもって何を行うにせよ」、すべてを主イエスの名において行うべきである、とあります。著者は、共同の礼拝を、キリスト者のいのちの源として考えています。いつも<主イエス・キリストの名により>すべてのことを感謝することは、教会の御霊に満たされる礼拝を指し示します。

ほかの人々の営みは酒による酩酊によって特徴づけられているが、キリスト者には別の酩酊、すなわち神の御霊が生み出す「冷静な酩酊」があります(18節)。御霊が生み出す「冷静な酩酊とは、礼拝に集まった人々が心の奥に火を灯され、主に賛美と感謝の歌を歌い(19節)、神の選び、救い、よい導きにあずかっている恵みを思いつつイエス・キリストの名により父なる神にいつもすべてのことについて感謝するとき(20節)、礼拝の中に現れます。キリスト者の感謝は日曜日のお礼拝にだけ限られてはなりません。それは神がわれわれに与えたもうすべてのことによって、毎日なされなければなりません。

私たちは神に願い事の祈りを捧げることが多いのではないでしょうか。しかし、それ以上に常に神を第一に考え、神に感謝し、神を賛美することが大切ではないでしょうか。

「キリストに結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」(コリント二、5・17)

滅びに向かっていた「古い人」を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、キリストに結ばれた「新しい人間」としての自覚に立ち、愛に根ざした正しい清い生活を送り、救いの御業が多くの人々に及ぶように福音を伝えていこうではありませんか。人を幸せにするのは、キリストと共に生きることであり、聖霊の働きをいただいて愛に生きることにあると思わせられます。

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