↑ 上の版画は、フランスの画家 Gustave Doré (1832–1883) により描かれた「The Creation of Light(光の創造)」(1866年に発行された「Doré’s English Bible」の挿絵、Wikimedia Commonsより)
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日本福音教団 富 谷 教 会 週 報
降誕前第9主日 2023年10月29日(日) 午後5時~5時50分
礼 拝 順 序
司会 邉見 順子姉
前 奏 奏楽 辺見トモ子姉
讃美歌(21) 204(よろこびの日よ)
交読詩編 104:1~23(わたしの魂よ、主をたたえよ)
主の祈り 93-5
使徒信条 93-4
司会者の祈り
聖 書(新共同訳) 創世記1章1~5節、24~31節
説 教 「万物と人類の創造」 辺見宗邦牧師
祈 祷
讃美歌(21) 227(主の真理は)
献 金
感謝祈祷
頌 栄(21) 27(父、子、聖霊の)
祝 祷
後 奏
〇オン・ラインで礼拝に参加できます。 090-3365-3019に
連絡下さい。
次週礼拝 11 月5日(日) 午後5時~5時50分
聖 書 創世記3章1~15節
説教題 「人間の堕落」
讃美歌(21) 6 530 27 詩編 51:1~11
本日の聖書 創世記1章1~5節、24~31節
1:1初めに、神は天地を創造された。 2地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。 3神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。 4神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、 5光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。る。・・・・・・
24神は言われた。「地は、それぞれの生き物を産み出せ。家畜、這うもの、地の獣をそれぞれに産み出せ。」そのようになった。 25神はそれぞれの地の獣、それぞれの家畜、それぞれの土を這うものを造られた。神はこれを見て、良しとされた。 26神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」 27神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。 28神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」 29神は言われた。「見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。 30地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものにはあらゆる青草を食べさせよう。」そのようになった。 31神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。
本日の説教
創世記の一章一節に、「初めに、神は天地を創造された」とあります。そして神が宇宙や世界、そしてあらゆる生き物を造られたことが記されています。しかし、現在の宇宙論では、宇宙は138億年前に超高温・超高圧の火の玉が爆発することで始まったと考えられています。この大爆発のことをビッグバン(Big Bang)と呼んでいます。また人間を含めて動植物の進化の過程を知っている現代人にとって、聖書の物語は神話にすぎないとして否定してしまう人が多いのではないかと思います。
創世記一章は、自然科学的な解明により世界がどのようにして成立したか、を記したものではありません。自然科学が究明しようとしていることは、自然現象の生成過程についての客観的な事実の解明です。科学の説明においては、地球の存在も、その上に生命体があることも、人間がいることも、そしてこの私がいることも、無数の偶然の積み重ねの結果であり、そこに意味はないのです。
それに対して聖書の記している創造物語を信じることは、創造主なる神の意志によって万物が創造されたのであり、世界と人間の存在の確かさ、その意味はどこにあるのか、という根源的な信仰の課題に答えたものです。
「信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えるものからできたのではないことが分かるのです」(ヘブライ11:3)。信仰は、「自分自身から出たことではなく、神からの賜物です」(エフェソ2:8)。
創世記一章は、およそ紀元前六世紀頃、バビロニアの捕囚地でイスラエルの祭司記者によって書かれました。イスラエルのユダ王国はバビロニア帝国に滅ぼされ、多くの民は捕囚の民として連れ去られ、紀元前597年から538年にかけて、60年近い捕囚の時期がありました。彼らにとって、そこは「異教の地」であり、多神教と偶像礼拝の支配している地でした。イスラエルの敗北と亡国は、彼らの信じるヤーウェ(主なる神)の敗北としてあざけられ、彼らは屈辱を味わいました。それは大きな変動と荒廃の時代でした。その原因は、創造主に対する不信仰と罪に対する天罰であることを知りました。このような崩壊と虚無の中で、祭司記者といわれる人々は、まず<世界>の存立の根源を問いはじめました。
創世記一章は、こうした激動期に捕囚地バビロニアでバビロニアの創造神話からの影響の下に成立したと言われています。ただバビロニア神話の方は多神教ですが、聖書の創造物語の方は、イスラエルの唯一神教の信仰によって修正され、独創的なものになっています。
第一に、1節の「初めに、神は天地を創造された」(1:1)、は創造物語全体を要約する序文です。<初めに>とは、万物の初めのことですが、イスラエルは捕囚という国家と民族の滅亡の危機にあって、自分たちの存在意義とその「救い」を求めるために万物の<初め>を問いました。それは単なる知識の興味としてではなく、彼らの生死をめぐる信仰の闘いの問題としての切実な問いでした。神が天と地を創造されたということは、神は創造以前から存在され方であり、神は永遠の存在者であり、全能の方です。
イスラエルの民は、捕囚の中で神の全能とその恵みを知らされ、「初めに、神は天地を創造された」と告白せざるを得なかったのです。<初め>に おられる方は、創造者にして人格的な唯一の神です。
第二に、<神>は、ヘブライ語の原典では、エローヒーム(力を表わすエルの複数形)という語が用いられています。これは、諸種の働きや、尊厳性の表現としての複数形であって、多神教の神を表しているわけではありません。
第三に<天地>とは、天と地、つまりこの世のすべてのもの、万物、という意味です。<創造された>のヘブライ語バーラ-は神の創造行為にのみ用いられる語で、何らかの材料を用いて作る場合の語はアーサーです。従ってバ―ラーは「無からの創造」を示しています。
イスラエルはこの創造物語において、歴史を開始し、これを治め、これを審き、かつ救う全能の主なる神を告白しているのです。この言葉の根底には一切のものの造り主である創造者への賛美と神への服従があります。
2節は、独立した句で、1節や3節とのつながりはありません。2節には、3つの状況が記されています。
第一に、<地は混沌であって>とは、秩序がなくなり、荒廃している様子を示しています。<形も姿もなく>と訳される荒涼とした情景を表現しています。
第二に、<闇が深淵の面にあり>の<深淵>とは「原始の大洋」のことで、古代の神話的世界像に共通して見られる宇宙生成以前の状態を海のイメージで表したもので、「底なしの深み」を言います。
第三に、<神の霊が水の面を動いていた。><神の霊>の<霊>は、「息」「風」という意味もある語なので、ここは「激しい風」と訳すこともできます。暴風雨のときのような海のイメージで創造以前の状態を描写していると解することができます。
2節は、<地><深淵><水>が既存のものとして描かれているので、一節の「無からの創造」と矛盾します。これはバビロニアの創造神話の影響によるものです。1節の「無からの創造」との関連を求めるなら、神の創造の第一歩は「混沌」の創造であったことになります。バビロニアの神話を借用しながら、その神々に勝るイスラエルの神の唯一の主権を告白する意図がここにあります。
祭司文書記者の見つめている現実世界は、強風が間断なく荒れ狂う底知れぬ深みを、暗闇がおおう、混沌とした荒涼世界です。混沌は空しく空虚で、何もありません。聖書はこの死の現実を厳しく見つめます。
「神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった。」(1:3)<神は言われた>とは、創造は神のみことばによるということです。みことばは神の力です。神が<光あれ>と言われたのは、明確な命令のことばであり、神の意志の表現です。神が最初に創造した光は、太陽や星の光ではありません。太陽や星の創造は16節で語られます。この光は天体の光ではありません。混沌や闇や深淵を手に取るように照らし出す、希望と慰めに満ちた光です。この光によってすべてのものが整然と秩序正しく形づくられていくのです。この光が暗闇を照らしたことは、神の意志が創造された世界に貫徹されたことを意味します。
<神は光を見て、良しとされた。>(1:4)神は創造されたものを、満足と喜びの対象として見られます。底なしの深みと混沌の海を照らした光は夜と昼を分ける秩序の光です。世界は神に見捨てられたのではなく、神が語りかけ、それが実現する世界です。
「神は…闇を夜と呼ばれた」(1:5)。<呼ばれた>は、<名づけた>とも訳される語で、これは、神の主権と支配を意味します。神が闇を夜と名づけた、とは、神が闇をご支配のうちに置かれたことを示します。キリストが陰府(よみ)にくだられたのは、キリストが死の深淵の支配者となられたとの勝利の告白です。
5節は、「こうして夕方となり、朝となった」という文です。イスラエルの一日は夕方六時より始まります。神は地上に家畜、這うもの、地の獣を創造され、これを見て、良しとされました。
次に、「神は言われた。『地は、それぞれの生き物を産み出せ。家畜、這うもの、地の獣をそれぞれに産み出せ。』そのようになった。」(1:24)
「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。」(1:27)<ご自分にかたどって>は、ヘブライ語を直訳すると、「われわれの形・像として、われわれの姿として」となります。神が自らを<われわれ>と複数形表現しているのは、尊厳の複数形とか三位一体性を意味するとか、いろいろな解釈があります。これは古代オリエント世界の神話を背景とした「主なる神を中心とした天的存在の議会」というイスラエルのイメージに由来するもので、ここでは「神の熟慮・決断」の表現として用いられているようです。<人>は、集合名詞の「人間」「人類」という意味です。人が「神の像として造られた」ということは、人間の外形が神に似ているという意味ではなく、人間が神と霊的に交わることができる、神に向き合う者として造られたということです。人間は「神の像」としての尊厳と地を支配する機能を担うべき存在として創造されたのです。
「神は彼らを祝福して言われた。『産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。』」(1:28)。<産めよ、増えよ>とは、呪われた世界に対する神の祝福の言葉です。神は彼らを祝福して言われたのです。この祝福は人間に大きな未来を開く生命力を与えるものです。
<見よ、それは極めて良かった>(1:31)は、創造全体の総括として最上級の表現を用いています。創世記を記した祭司記者は人間の創造の背後に強烈な神の決意のあることを知ったのです。
ヨハネによる福音書には、「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった」(1:1)とあります。<初めに言があった>とは、天地創造の時、神が「光」あれと言われ、神の言葉によって天地創造が始まったと聖書は語ります。神の<言>はあらゆる被造物が造られるより先にあり、創造以前に存在していたと主張しているのです。そして<言>は被造物ではないので、神に属する存在であり、神が語りかけた時に神と共にあり、神と本質的に等しいと言っているのです。<言>は、神と共にあった独り子である神イエスであり、この方が人となって世に来られたイエスです。
イスラエルは捕囚という滅亡の危機にあって、自分たちの存在意義とその「救い」を求めるために万物の<初め>を問いました。イスラエルの民だけではありません。人間は自分が生きていることにどんな価値があるのか、どんな意味があるのか、なぜ自分に醜い心があるのか、どうして愛する者との死別があるのか、それが分からないと空しく、不安になってしまうのが、私たち人間です。
このような「救い」を求めている私たち人間を、罪から解放し、救うために、神はその御子イエスを惜しまず与えてくださったのです。しかし、『聖霊によるのでなければ、だれも「イエスは主です」と言うことはできません。』(コリント第一 12章3節)「求めなさい。・・・天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」(ルカ11:13)のです。神は私たちを造られた方であり、私たちを愛してくださっており、御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得させようとしています。ここに私たちの存在の意味と価値とが与えられています。この神の恵みと愛によって、見失っていた自分の存在の価値をもう一度見いだすことができるようになるのです。