富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「天地と人類の創造」創世記1章1~5節、24~31節

2023-10-24 10:03:19 | キリスト教

  ↑ 上の版画は、フランスの画家 Gustave Doré (1832–1883) により描かれた「The Creation of Light(光の創造)」(1866年に発行された「Doré’s English Bible」の挿絵、Wikimedia Commonsより)

 〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会    週  報

降誕前第9主日 2023年10月29日(日)  午後5時~5時50分

                            礼 拝 順 序                  

                 司会 邉見 順子姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 204(よろこびの日よ)

交読詩編    104:1~23(わたしの魂よ、主をたたえよ)

主の祈り   93-5

使徒信条   93-4

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)   創世記1章1~5節、24~31節

説 教 「万物と人類の創造」  辺見宗邦牧師

祈 祷                                        

讃美歌(21) 227(主の真理は)

献 金  

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父、子、聖霊の)

祝 祷             

後 奏

     〇オン・ラインで礼拝に参加できます。 090-3365-3019に

 連絡下さい。

         次週礼拝 11 月5日(日)  午後5時~5時50分

         聖 書  創世記3章1~15節

         説教題  「人間の堕落」

         讃美歌(21) 6 530 27 詩編 51:1~11  

本日の聖書  創世記1章1~5節、24~31節

 1:1初めに、神は天地を創造された。 2地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。 3神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。 4神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、 5光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。る。・・・・・・ 

 24神は言われた。「地は、それぞれの生き物を産み出せ。家畜、這うもの、地の獣をそれぞれに産み出せ。」そのようになった。 25神はそれぞれの地の獣、それぞれの家畜、それぞれの土を這うものを造られた。神はこれを見て、良しとされた。 26神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」 27神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。 28神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」 29神は言われた。「見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。 30地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものにはあらゆる青草を食べさせよう。」そのようになった。 31神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。

    本日の説教

     創世記の一章一節に、「初めに、神は天地を創造された」とあります。そして神が宇宙や世界、そしてあらゆる生き物を造られたことが記されています。しかし、現在の宇宙論では、宇宙は138億年前に超高温・超高圧の火の玉が爆発することで始まったと考えられています。この大爆発のことをビッグバン(Big Bang)と呼んでいます。また人間を含めて動植物の進化の過程を知っている現代人にとって、聖書の物語は神話にすぎないとして否定してしまう人が多いのではないかと思います。

    創世記一章は、自然科学的な解明により世界がどのようにして成立したか、を記したものではありません。自然科学が究明しようとしていることは、自然現象の生成過程についての客観的な事実の解明です。科学の説明においては、地球の存在も、その上に生命体があることも、人間がいることも、そしてこの私がいることも、無数の偶然の積み重ねの結果であり、そこに意味はないのです。

    それに対して聖書の記している創造物語を信じることは、創造主なる神の意志によって万物が創造されたのであり、世界と人間の存在の確かさ、その意味はどこにあるのか、という根源的な信仰の課題に答えたものです。

   「信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えるものからできたのではないことが分かるのです」(ヘブライ11:3)。信仰は、「自分自身から出たことではなく、神からの賜物です」(エフェソ2:8)。

   創世記一章は、およそ紀元前六世紀頃、バビロニアの捕囚地でイスラエルの祭司記者によって書かれました。イスラエルのユダ王国はバビロニア帝国に滅ぼされ、多くの民は捕囚の民として連れ去られ、紀元前597年から538年にかけて、60年近い捕囚の時期がありました。彼らにとって、そこは「異教の地」であり、多神教と偶像礼拝の支配している地でした。イスラエルの敗北と亡国は、彼らの信じるヤーウェ(主なる神)の敗北としてあざけられ、彼らは屈辱を味わいました。それは大きな変動と荒廃の時代でした。その原因は、創造主に対する不信仰と罪に対する天罰であることを知りました。このような崩壊と虚無の中で、祭司記者といわれる人々は、まず<世界>の存立の根源を問いはじめました。

    創世記一章は、こうした激動期に捕囚地バビロニアでバビロニアの創造神話からの影響の下に成立したと言われています。ただバビロニア神話の方は多神教ですが、聖書の創造物語の方は、イスラエルの唯一神教の信仰によって修正され、独創的なものになっています。

    第一に、1節の「初めに、神は天地を創造された」(1:1)、は創造物語全体を要約する序文です。<初めに>とは、万物の初めのことですが、イスラエルは捕囚という国家と民族の滅亡の危機にあって、自分たちの存在意義とその「救い」を求めるために万物の<初め>を問いました。それは単なる知識の興味としてではなく、彼らの生死をめぐる信仰の闘いの問題としての切実な問いでした。神が天と地を創造されたということは、神は創造以前から存在され方であり、神は永遠の存在者であり、全能の方です。

   イスラエルの民は、捕囚の中で神の全能とその恵みを知らされ、「初めに、神は天地を創造された」と告白せざるを得なかったのです。<初め>に おられる方は、創造者にして人格的な唯一の神です。

    第二に、<神>は、ヘブライ語の原典では、エローヒーム(力を表わすエルの複数形)という語が用いられています。これは、諸種の働きや、尊厳性の表現としての複数形であって、多神教の神を表しているわけではありません。

   第三に<天地>とは、天と地、つまりこの世のすべてのもの、万物、という意味です。<創造された>のヘブライ語バーラ-は神の創造行為にのみ用いられる語で、何らかの材料を用いて作る場合の語はアーサーです。従ってバ―ラーは「無からの創造」を示しています。

   イスラエルはこの創造物語において、歴史を開始し、これを治め、これを審き、かつ救う全能の主なる神を告白しているのです。この言葉の根底には一切のものの造り主である創造者への賛美と神への服従があります。

   2節は、独立した句で、1節や3節とのつながりはありません。2節には、3つの状況が記されています。

   第一に、<地は混沌であって>とは、秩序がなくなり、荒廃している様子を示しています。<形も姿もなく>と訳される荒涼とした情景を表現しています。

   第二に、<闇が深淵の面にあり>の<深淵>とは「原始の大洋」のことで、古代の神話的世界像に共通して見られる宇宙生成以前の状態を海のイメージで表したもので、「底なしの深み」を言います。

   第三に、<神の霊が水の面を動いていた。><神の霊>の<霊>は、「息」「風」という意味もある語なので、ここは「激しい風」と訳すこともできます。暴風雨のときのような海のイメージで創造以前の状態を描写していると解することができます。

    2節は、<地><深淵><水>が既存のものとして描かれているので、一節の「無からの創造」と矛盾します。これはバビロニアの創造神話の影響によるものです。1節の「無からの創造」との関連を求めるなら、神の創造の第一歩は「混沌」の創造であったことになります。バビロニアの神話を借用しながら、その神々に勝るイスラエルの神の唯一の主権を告白する意図がここにあります。

   祭司文書記者の見つめている現実世界は、強風が間断なく荒れ狂う底知れぬ深みを、暗闇がおおう、混沌とした荒涼世界です。混沌は空しく空虚で、何もありません。聖書はこの死の現実を厳しく見つめます。

   「神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった。」(1:3)<神は言われた>とは、創造は神のみことばによるということです。みことばは神の力です。神が<光あれ>と言われたのは、明確な命令のことばであり、神の意志の表現です。神が最初に創造した光は、太陽や星の光ではありません。太陽や星の創造は16節で語られます。この光は天体の光ではありません。混沌や闇や深淵を手に取るように照らし出す、希望と慰めに満ちた光です。この光によってすべてのものが整然と秩序正しく形づくられていくのです。この光が暗闇を照らしたことは、神の意志が創造された世界に貫徹されたことを意味します。

   <神は光を見て、良しとされた。>(1:4)神は創造されたものを、満足と喜びの対象として見られます。底なしの深みと混沌の海を照らした光は夜と昼を分ける秩序の光です。世界は神に見捨てられたのではなく、神が語りかけ、それが実現する世界です。

   「神は…闇を夜と呼ばれた」(1:5)。<呼ばれた>は、<名づけた>とも訳される語で、これは、神の主権と支配を意味します。神が闇を夜と名づけた、とは、神が闇をご支配のうちに置かれたことを示します。キリストが陰府(よみ)にくだられたのは、キリストが死の深淵の支配者となられたとの勝利の告白です。

   5節は、「こうして夕方となり、朝となった」という文です。イスラエルの一日は夕方六時より始まります。神は地上に家畜、這うもの、地の獣を創造され、これを見て、良しとされました。

   次に、「神は言われた。『地は、それぞれの生き物を産み出せ。家畜、這うもの、地の獣をそれぞれに産み出せ。』そのようになった。」(1:24)

   「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。」(1:27)<ご自分にかたどって>は、ヘブライ語を直訳すると、「われわれの形・像として、われわれの姿として」となります。神が自らを<われわれ>と複数形表現しているのは、尊厳の複数形とか三位一体性を意味するとか、いろいろな解釈があります。これは古代オリエント世界の神話を背景とした「主なる神を中心とした天的存在の議会」というイスラエルのイメージに由来するもので、ここでは「神の熟慮・決断」の表現として用いられているようです。<人>は、集合名詞の「人間」「人類」という意味です。人が「神の像として造られた」ということは、人間の外形が神に似ているという意味ではなく、人間が神と霊的に交わることができる、神に向き合う者として造られたということです。人間は「神の像」としての尊厳と地を支配する機能を担うべき存在として創造されたのです。

   「神は彼らを祝福して言われた。『産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。』」(1:28)。<産めよ、増えよ>とは、呪われた世界に対する神の祝福の言葉です。神は彼らを祝福して言われたのです。この祝福は人間に大きな未来を開く生命力を与えるものです。

   <見よ、それは極めて良かった>(1:31)は、創造全体の総括として最上級の表現を用いています。創世記を記した祭司記者は人間の創造の背後に強烈な神の決意のあることを知ったのです。

    ヨハネによる福音書には、「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった」(1:1)とあります。<初めに言があった>とは、天地創造の時、神が「光」あれと言われ、神の言葉によって天地創造が始まったと聖書は語ります。神の<言>はあらゆる被造物が造られるより先にあり、創造以前に存在していたと主張しているのです。そして<言>は被造物ではないので、神に属する存在であり、神が語りかけた時に神と共にあり、神と本質的に等しいと言っているのです。<言>は、神と共にあった独り子である神イエスであり、この方が人となって世に来られたイエスです。

   イスラエルは捕囚という滅亡の危機にあって、自分たちの存在意義とその「救い」を求めるために万物の<初め>を問いました。イスラエルの民だけではありません。人間は自分が生きていることにどんな価値があるのか、どんな意味があるのか、なぜ自分に醜い心があるのか、どうして愛する者との死別があるのか、それが分からないと空しく、不安になってしまうのが、私たち人間です。

    このような「救い」を求めている私たち人間を、罪から解放し、救うために、神はその御子イエスを惜しまず与えてくださったのです。しかし、『聖霊によるのでなければ、だれも「イエスは主です」と言うことはできません。』(コリント第一 12章3節)「求めなさい。・・・天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」(ルカ11:13)のです。神は私たちを造られた方であり、私たちを愛してくださっており、御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得させようとしています。ここに私たちの存在の意味と価値とが与えられています。この神の恵みと愛によって、見失っていた自分の存在の価値をもう一度見いだすことができるようになるのです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「信仰の完成者イエスを仰ぎ見つつ走ろう」ヘブライ人への手紙11章32~40、12章1~2節

2023-10-17 23:06:49 | キリスト教

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会    週  報

聖霊降臨節第22主日 2023年10月22日(日)  午後5時~5時50分

                            礼 拝 順 序                  

                 司会 齋藤 美保姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21)  204(よろこびの日よ)

交読詩編        78:1~8(わたしの民よ、わたしの教えを聞き)

主の祈り   93-5

使徒信条   93-4

司会者の祈り

聖 書(新共同訳) ヘブライ人への手紙11章32~12章2節(新p.416)

説  教   「信仰の完成者イエスを仰ぎ見つつ走ろう」 

                    辺見宗邦牧師

祈 祷                                        

讃美歌(21) 382(力に満ちたる)

献 金  

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父、子、聖霊の)

祝 祷             

後 奏

       〇オン・ラインで礼拝に参加できます。 090-3365-3019に

       連絡下さい。

                                次週礼拝 10月29日(日)  午後5時~5時50分

                                聖 書  創世記1章1~5節、24~31節

                                説教題  「天地と人類の創造」

                                讃美歌(21) 204 227 27 詩編 104:19~23  

    本日の聖書  ヘブライ人への手紙11章32~12章2節

 11:32これ以上、何を話そう。もしギデオン、バラク、サムソン、エフタ、ダビデ、サムエル、また預言者たちのことを語るなら、時間が足りないでしょう。 33信仰によって、この人たちは国々を征服し、正義を行い、約束されたものを手に入れ、獅子の口をふさぎ、 34燃え盛る火を消し、剣の刃を逃れ、弱かったのに強い者とされ、戦いの勇者となり、敵軍を敗走させました。 35女たちは、死んだ身内を生き返らせてもらいました。他の人たちは、更にまさったよみがえりに達するために、釈放を拒み、拷問にかけられました。 36また、他の人たちはあざけられ、鞭打たれ、鎖につながれ、投獄されるという目に遭いました。 37彼らは石で打ち殺され、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、羊の皮や山羊の皮を着て放浪し、暮らしに事欠き、苦しめられ、虐待され、 38荒れ野、山、岩穴、地の割れ目をさまよい歩きました。世は彼らにふさわしくなかったのです。 39ところで、この人たちはすべて、その信仰のゆえに神に認められながらも、約束されたものを手に入れませんでした。 40神は、わたしたちのために、更にまさったものを計画してくださったので、わたしたちを除いては、彼らは完全な状態に達しなかったのです。

   12:1こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、 2信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。

  本日の説教

 説教では、次の括弧【】内の、傍線以外のところは、省略できます。

【ヘブライ人に宛てられた手紙となっていますが、ヘブライ人とは、ユダヤ人を指す古い呼び名です。しかし必ずしもパレスチナのユダヤ人キリスト者たちではなく、13:24の<イタリア出身の人たち>という句からイタリアないしローマの地域のユダヤ人キリスト者を予想させます。迫害に際しての忍耐をすすめている点などから、おそらく離散したユダヤ人キリスト者たちがいるローマの集会に宛てて書かれたものと見る見方が有力です。 

 著者は旧約聖書に深い理解をもち、教養の高い、ギリシャ語を用いる外国に住むユダヤ人であると思われます。著者はテモテを知っており(13:23)、パウロの信仰を継承しています。執筆年代は、ネロの迫害(64年)の経験が言及されているし(10:32~34)、しかも新たな迫害(ドミティアヌ帝[在位81~96年]の迫害)が近づき、再臨の希望が失われ、聖霊の働きもあまり見られないところから、一世紀末が考えられ、執筆は80~90年頃と推定されます。執筆の場所としては、エフェソあたりが最も可能性が高いとされています。執筆の事情については、次のようなことが考えられます。宛先の教会の人たちが、信仰に入った初めの頃は<苦しい大きな戦いによく耐えた>(10:32)のですが、その後の信仰生活の中で、彼らの中には、集会から離れ(10:25)、異なった教えに迷わされ(13:9)、みだらな生活に陥る(13:4)者たちも出たので、このような危機的な状況を知った、かつてこの集会の指導者であった著者が、新たな迫害に備えて、この勧告の手紙を書き送ったと推定されます。

 ヘブライ人への手紙は、最後の添え書きを別にすると、つの主要な勧告(説教)から成り立っています。第一部は「神の言葉に聞き従おう」(1:1~4:13)、第二部は「信仰告白をしっかり守り礼拝に励もう」(4:14~10:31)、第三部は「イエスを仰ぎ見つつ忍耐をもって走り抜こう」(10:32~13.21)と信仰者の忍耐を説く勧めになっています。

 11章4節以下は、信仰生活を全うした旧約聖書の人物を列記して、その模範に倣うように勧めます。挙げられているのは、①アベルは神の喜ぶささげものをしました(アダムとエバの子、創世記4:4)。②エノクは自分の息子が生まれてから、自発的に神とともに歩みました(創5:21)。③ノアは神に従う正しい人で箱舟を作り救われました(創6:13)。④アブラハムは永遠の神の都を待ち望みました(創12:1)。⑤サラはアブラハムの妻で、諸国民の母とされました(創17:16)。⑥イサクはアブラハムの息子で、彼の子孫によって諸国民は祝福を得ます(創26:4)。⑦ヤコブは旅の途中、天に達する階段の正夢を見ました(創28:10)。⑧ヨセフはヤコブの息子で、エジプト全国の上に立つ王位に次ぐ地位を与えられ、ヤコブ一族をエジプトに迎えました(創41:41)。⑨モーセはこの世の富や栄光を捨てて、神の民とともに生きることを選び取りました(出エジプト記2:2)。

 11章30~31節では、イスラエルのカナン征服で最初のエリコの陥落は、城壁の周りを信仰によって七日間回った後に崩れ落ちたこと、⑩遊女ラハブは異邦人でありながらも、命懸けで神の側につき、偵察者を迎え入れたことが記されています(ヨシュア2:1)。】

 これまでは、十人の人物の名が記されましたが、11章32節からは、さらに、士師、預言者たち、王の六人の名を列記し、彼らの信仰のことを述べます。

 ⑪ギデオン(士師記6:1~8:35)は石橋を叩いて渡るような臆病者でしたが、主の勇士に変えられ、ミディアン人とアマレク人の連合軍を破り、信仰の勇者となることが出来ました。

 ⑫バラク(士師記4:6~5:12)は優柔不断の人でしたが、カナン王の将軍が率いる大軍と女預言者デボラと共に戦い、勝利した信仰の勇者です。

 ⑬サムソン(士師記13:1~16:31)はナジル人として神にささげられた人で、破天荒な怪力の士師でした。彼は神の民イスラエルの敵であったペリシテを打ち倒すために、生涯をかけて戦い抜いた信仰の勇者でした。

 ⑭エフタ(士師記11:1~12:7)は略奪をするごろつきどもの一人でした。アモン人がイスラエルに攻撃をしかけてきたとき、イスラエルの長老たちの切なる要請に応じて戦うことになりました。エフタは戦いに勝って、無事に帰えることができたなら、自分の家の戸口から最初に出迎えに出て来る者を主にささげます、と主に軽率な誓いをしました。何と戦いに勝利し、彼が家に帰ったとき、彼を最初に出迎えたのは彼のただ一人の娘でした。彼は大事な娘を主に捧げました。彼は神に対して誓った約束をやり遂げた信仰の勇者です。

 ⑮ダビデ(サムエル記上16:12~30:30、サムエル記下1:1~24:25、列王記上1:1~2:11)は少年の時、ペリシテ人の巨人ゴリアテを石一つで倒した人で、イスラエル統一王国の神と国民に愛された王です。彼の生涯における最大の汚点は、王の権力による姦淫の罪と、それをもみ消そうとして犯した殺人の罪でした。しかし、ダビデの偉大さは、預言者ナタンにその罪を指摘された時、そのことばを受け入れ、へりくだって神の御前に罪を悔い改めたことです(詩篇51:3-4)。

 ⑯サムエル(サムエル記上1:20~4:1、7:2~25,13:8~15、15:10~35)は、最後の士師、祭司、預言者として偉大な神の働きをしました。しかし、サムエルにも弱点がありました。それはうわべで人を判断するという点です。サウロ王に代わるイスラエルの王を立てるとき、容貌や背の高さで、長男から順に、選ぶ者を決めようとしました。その時、主は「人はうわべを見るが、主は心を見る」(サムエル記上16:7)と言われ、主が選ばれたのは、七人兄弟の一番末の弟のダビデでした。彼はまだ小さく羊の世話をしていましたが、主は彼に王となる油をそそげとサムエルに言われました。

 エルサレムの神殿がペリシテ人によって破壊され、神の箱が奪われても、神はイスラエルと共におられることを示し、民の心が神御自身に向けられるように指導しました。

 32節bの<預言者たち>とは、エリヤ、エリシャ、イザヤ、エレミヤなどを指します。33節の<信仰によって、この人たちは国々を征服し>た人々とは、ヨシュアやダビデのような人を思い起させます。<正義を行い>は、イスラエルを治めることを意味し、ダビデやソロモンのような王のことでしょう。<獅子の口をふさぎ>とは、ダビデ(サムエル記上17:34以下)とダニエル(ダニエル書6:22)の例を指しています。

 34節の<燃え盛る火を消し>とは、シャドラク、メシャク、アベド・ネゴの出来事(ダニエル書3:25)を指しています。<剣の刃を逃れ>は、モーセ、ダビデ、エリヤ、エリシャのいずれの場合にも当てはまる経験です。

 <弱かったのに強い者とされ>というのは、ギデオンや盲目にされたサムソンが最後の力を得て復讐したことを指します(士師記15:19、16:28)。<戦いの勇者となり>は、ゴリアトと戦ったダビデ(サムエル記上17章)を思わせます。

 <敵軍を敗走させました>は、ヒゼキヤが信仰によって、アッシリアの王セナケリブとその軍隊を敗退させた(列王記下19:25~37)ことを指しているようです。

 35節の<女たちは、死んだ身内を生き返らせてもらいました>は、エリヤにその子の命を生き返らせてもらったサレプタのやもめ(列王上17:22)や、エリシャに子を生き返らせてもらったシュネムの女(列王下4:35)のことと関連しています。<他の人たちは、更にまさったよみがえりに達するために>は、預言者たちによって生き返った者たちも結局は死に至らざるを得なかったのに対して、<拷問にかけられ>た信仰の英雄たちは、死そのものの克服としての復活を確信して忍耐したことが強調されています。

 36節の<他の人たちはあざけられ>とは、預言者ミカヤ(列王上22:24)や、エレミヤ(エレミヤ記20:2)たちの屈辱的な経験を、<鞭打たれ>とは、苦難の僕の預言(イザヤ書50:6)を暗示します。<鎖につながれ、投獄される>は預言者エレミヤの運命を思わせます。

 37節の<石で打ち殺され>たのは、祭司ヨヤダの子ゼカルヤであり(歴代誌下24:20以下)、ある黙示文学(「イザヤの昇天」)によればイザヤは木製の<のこぎりで引かれ>ました。<剣で切り殺され>たのは、エリヤの時代のイスラエルの預言者たちであり(列王記上19:10)、預言者ウリヤ(エレミヤ記26:23)でした。<羊の皮や山羊の皮を着て放浪し>たのは、エリヤ、エリシャにあてはまります列王記上18~19章)。

 38節の<世は彼らにふさわしくなかったのです>というのは、彼らは天国にふさわしい人々であって、世間の人々は彼らをそねみ憎みました。この世は神の国の民の永久の住居に値いしないのです。

 39節、40節は、11章全体の結論を述べています。<約束されたもの>とは、神がご自身を信じる人々に約束された最後的な救いであって、キリストの到来によって初めて明らかに示されました。40節の<更にまさったもの>とはキリストによってしめされた新しい約束、すなわち神の国です。神はわたしたちのために、更にまさった神の国を計画してくださったので、わたしたちを除いては、旧約時代の信仰の英雄たちは、<完全な状態>に達しなかった、すなわち全き祝福にあずかることができなかったのです。ここには、旧約の信仰者も新約の信仰者も、忍耐と希望を持ち続け、信仰生活のたたかいに耐え、共に全き祝福にあずかる日を待とうではないか、という勧告です。

 12章の1節の<こういうわけで>とは、11章で信仰生活の模範を述べたが、再び次の勧告にうつるための言葉です。11章で挙げられた信仰の偉人たちは、すべて新約の時代に生きるキリスト者を支え導く人々であり、何よりも神の真実を証言した人々でした。

 <このようにおびただしい証人の群れに囲まれて>は、旧約の大勢の信仰の証人たちを、古代の円形競技場で応援する観衆にたとえ、キリスト者を長距離を走るアスリート(競技者)にたとえます。キリスト者は、旧約の信仰の英雄たちを模範とし、彼らの熱烈な励ましを受けて、走ることが求められています。アスリートが不要な衣服を脱いで運動着で身を軽くし、レースに参加するように、信仰者は<すべての重荷や絡みつく罪を>イエス様に取り去っていただき、<かなぐり捨て>なければなりません。<自分に定められている競走>という言い方は、他人との勝ち負けではなく、 信仰者それぞれに与えられた信仰生活をすることです。それは人間を支配する罪との戦いであると言っても良いでしょう。

 罪は、私たちを神から引き離す力です。<忍耐強く走り抜こうではありませんか>とあるように、この競争は途中でやめてはならないのであって、最後まで、つまりこの地上の生を終える時まで走り続けることが求められています

 2節では、これまで旧約時代の多くの信仰の英雄の実例を挙げることによって読者を励ましたが、その励ます究極的な存在として主イエスを挙げます。<信仰の創始者>という語は、「先導者」という意味があります。この語が<完成者>と対をなしつつ主イエスの業を説明しています。イエスによって、わたしたちの信仰が開始し、導かれ、イエスによって信仰が完成するのです。このようなイエスさまをひたすら<見つめながら>走る時、わたしたちは信仰の競争を走り抜くことができるのです。

 イエスが、<御自身の前にある喜びを捨て>とは、天にあるときの喜びを、地上にくるときに捨て、<恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、死よりの復活と昇天、そして全能の父なる神の右に座られた>ことが、イエスを信じる信仰者の励ましの根拠です。

 わたしたちが<なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上ヘ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです>(フィリピ3:13~14)。

 スポーツ競技では、金、銀、銅のメダルを与えられるのはは、三位までの入賞者です、イエス様がお与えになる賞は、完走した全員に、すなわち死ぬまでイエス様を信じたすべての人に与えられるのです。<信仰の創始者であり、またその完成者でもあるイエス>(フィリピ1:5)とあるように、わたしの中に信仰を始めて下さった方も、また完成してくださるのも主イエスなのです。「私は世の終わりまで、いつもあなたと共にいる」(マタイ28:20)と約束されたように、イエス様はわたしたちと共にいつもいてくださる方です。聖霊の力をいただいて罪に打ち勝ち、イエス様に迎えられる日を目標として、信仰性生活を続けてまいりましょう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「信仰の完成者イエスを仰ぎ見つつ走ろう」ヘブライ人への手紙11章32~40、12章1~2節

2023-10-17 22:42:37 | キリスト教

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会    週  報

聖霊降臨節第22主日 2023年10月22日(日)  午後5時~5時50分

                            礼 拝 順 序                  

                 司会 齋藤 美保姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21)  204(よろこびの日よ)

交読詩編        78:1~8(わたしの民よ、わたしの教えを聞き)

主の祈り   93-5

使徒信条   93-4

司会者の祈り

聖 書(新共同訳) ヘブライ人への手紙11章32~40、12章1~2節(新p.416)

説  教   「信仰の完成者イエスを仰ぎ見つつ走ろう」 

                    辺見宗邦牧師

祈 祷                                        

讃美歌(21) 382(力に満ちたる)

献 金  

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父、子、聖霊の)

祝 祷             

後 奏

        〇オン・ラインで礼拝に参加できます。 090-3365-3019に

       連絡下さい。

                                次週礼拝 10月29日(日)  午後5時~5時50分

                                聖 書  創世記1章1~5節、24~31節

                                説教題  「天地と人類の創造」

                                讃美歌(21) 204 227 27 詩編 104:19~23  

    本日の聖書  ヘブライ人への手紙11章32~12章2節

 11:32これ以上、何を話そう。もしギデオン、バラク、サムソン、エフタ、ダビデ、サムエル、また預言者たちのことを語るなら、時間が足りないでしょう。 33信仰によって、この人たちは国々を征服し、正義を行い、約束されたものを手に入れ、獅子の口をふさぎ、 34燃え盛る火を消し、剣の刃を逃れ、弱かったのに強い者とされ、戦いの勇者となり、敵軍を敗走させました。 35女たちは、死んだ身内を生き返らせてもらいました。他の人たちは、更にまさったよみがえりに達するために、釈放を拒み、拷問にかけられました。 36また、他の人たちはあざけられ、鞭打たれ、鎖につながれ、投獄されるという目に遭いました。 37彼らは石で打ち殺され、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、羊の皮や山羊の皮を着て放浪し、暮らしに事欠き、苦しめられ、虐待され、 38荒れ野、山、岩穴、地の割れ目をさまよい歩きました。世は彼らにふさわしくなかったのです。 39ところで、この人たちはすべて、その信仰のゆえに神に認められながらも、約束されたものを手に入れませんでした。 40神は、わたしたちのために、更にまさったものを計画してくださったので、わたしたちを除いては、彼らは完全な状態に達しなかったのです。

   12:1こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、 2信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。

   本日の説教

   次の括弧【】内の傍線以外のところは、省略できます。

 ヘブライ人に宛てられた手紙となっていますが、ヘブライ人とは、ユダヤ人を指す古い呼び名です。しかし必ずしもパレスチナのユダヤ人キリスト者たちではなく、13:24の<イタリア出身の人たち>という句からイタリアないしローマの地域のユダヤ人キリスト者を予想させます。迫害に際しての忍耐をすすめている点などから、おそらく離散したユダヤ人キリスト者たちがいるローマの集会に宛てて書かれたものと見る見方が有力です。 

 著者は旧約聖書に深い理解をもち、教養の高い、ギリシャ語を用いる外国に住むユダヤ人であると思われます。著者はテモテを知っており(13:23)、パウロの信仰を継承しています。執筆年代は、ネロの迫害(64年)の経験が言及されているし(10:32~34)、しかも新たな迫害(ドミティアヌ帝[在位81~96年]の迫害)が近づき、再臨の希望が失われ、聖霊の働きもあまり見られないところから、一世紀末が考えられ、執筆は80~90年頃と推定されます。執筆の場所としては、エフェソあたりが最も可能性が高いとされています。執筆の事情については、次のようなことが考えられます。宛先の教会の人たちが、信仰に入った初めの頃は<苦しい大きな戦いによく耐えた>(10:32)のですが、その後の信仰生活の中で、彼らの中には、集会から離れ(10:25)、異なった教えに迷わされ(13:9)、みだらな生活に陥る(13:4)者たちも出たので、このような危機的な状況を知った、かつてこの集会の指導者であった著者が、新たな迫害に備えて、この勧告の手紙を書き送ったと推定されます。

 ヘブライ人への手紙は、最後の添え書きを別にすると、つの主要な勧告(説教)から成り立っています。第一部は「神の言葉に聞き従おう」(1:1~4:13)、第二部は「信仰告白をしっかり守り礼拝に励もう」(4:14~10:31)、第三部は「イエスを仰ぎ見つつ忍耐をもって走り抜こう」(10:32~13.21)と信仰者の忍耐を説く勧めになっています。

 11章1節以下は、信仰生活を全うした旧約聖書の人物を列記して、その模範に倣うように勧めます。挙げられているのは、①アベルは神の喜ぶささげものをしました(アダムとエバの子、創世記4:4)。②エノクは自分の息子が生まれてから、自発的に神とともに歩みました(創5:21)。③ノアは神に従う正しい人で箱舟を作り救われました(創6:13)。④アブラハムは永遠の神の都を待ち望みました(創12:1)。⑤サラはアブラハムの妻で、諸国民の母とされました(創17:16)。⑥イサクはアブラハムの息子で、彼の子孫によって諸国民は祝福を得ます(創26:4)。⑦ヤコブは旅の途中、天に達する階段の正夢を見ました(創28:10)。⑧ヨセフはヤコブの息子で、エジプト全国の上に立つ王位に次ぐ地位を与えられ、ヤコブ一族をエジプトに迎えました(創41:41)。⑨モーセはこの世の富や栄光を捨てて、神の民とともに生きることを選び取りました(出エジプト記2:2)。

 11章30~31節では、イスラエルのカナン征服で最初のエリコの陥落は、城壁の周りを信仰によって七日間回った後に崩れ落ちたこと、⑩遊女ラハブは異邦人でありながらも、命懸けで神の側につき、偵察者を迎え入れたことが(ヨシュア2:1)、記されています。】

 本日の聖書箇所、32節からは、士師、預言者たちの名を列記し、彼らの信仰のことを述べます。⑪ギデオンは石橋を叩いて渡るような小心者でしたが、戦いの戦士として尊く用いられました(士師記6:11)。⑫バラクは女預言者デボラと共に戦った士師(士4:6)。⑬サムソンは怪力の士師(士13:24)。⑭エフタは娘を主に捧げた士師(士11:30)。⑮ダビデは少年の時、ペリシテ人の巨人ゴリアテを石一つで倒したイスラエル統一王国の神と国民に愛された王(サムエル記上17:46)。⑯サムエルは主の預言者として、イスラエルの人々に信頼された(サム上3:20)等、16人の個人名が挙げられています。

 また、32節bの<預言者たち>とは、エリヤ、エリシャ、イザヤ、エレミヤなどを指しなす。33節の<信仰によって、この人たちは国々を征服し>た人々とは、ヨシュアやダビデのような人を思い起させます。<正義を行い>は、イスラエルを治めることを意味し、ダビデやソロモンのような王のことでしょう、<獅子の口をふさぎ>とは、ダビデ(サムエル記上17:34以下)とダニエル(ダニエル書6:22)の例を指しています。

 34節の<燃え盛る火を消し>とは、シャドラク、メシャク、アベド・ネゴの出来事(ダニエル書3:25)を指しています。<剣の刃を逃れ>は、モーセ、ダビデ、エリヤ、エリシャのいずれの場合にも当てはまる経験です。

 <弱かったのに強い者とされ>というのは、盲目にされたサムソンが最後の力を得て復讐したことを指します(士師記15:19、16:28)。<戦いの勇者となり>は、ゴリアトと戦ったダビデ(サムエル記上17章)を思わせます。

 <敵軍を敗走させました>は、ヒゼキヤが信仰によって、セナケリブとその軍隊を敗退させた(列王記下19:20~37)ことを指しているようです。

 35節の<女たちは、死んだ身内を生き返らせてもらいました>は、エリヤにその子の命を生き返らせてもらったサレプタのやもめ(列王上17:22)や、エリシャに子生き返らせてもらったシュネムの女(列王下4:34)のことと関連しています。<他の人たちは、更にまさったよみがえりに達するために>は、預言者たちによって生き返った者たちも結局は死に至らざるを得なかったのに対して、<拷問にかけられ>た信仰の英雄たちは、死そのものの克服としての復活を確信して忍耐したことが強調されています。

 36節の<他の人たちはあざけられ>とは、預言者ミカヤ(列王上22・24)や、エレミヤ(エレミヤ記20・2)たちの屈辱的な経験を、<鞭打たれ>とは、苦難の僕の預言(イザヤ書50:6)を暗示します。<鎖につながれ、投獄される>は預言者エレミヤの運命を思わせます。

 37節の<石で打ち殺され>たのは、祭司ヨヤダの子ゼカルヤであり(歴代誌下24:20以下)、ある黙示文学(「イザヤの昇天」)によればイザヤは木製の<のこぎりで引かれ>ました。<剣で切り殺され>たのは、エリヤの時代のイスラエルの預言者たちであり(列王記上19:10)、預言者ウリヤ(エレミヤ記26:23)でした。<羊の皮や山羊の皮を着て放浪し>たのは、エリヤ、エリシャにあてはまります(列王記上18~19章)。

 38節の<世は彼らにふさわしくなかったのです>というのは、彼らは天国にふさわしい人々であって、世間の人々は彼らをそねみ憎みました。この世は神の国の民の永久の住居に値いしないのです。

 39節、40節は、11章全体の結論を述べています。<約束されたもの>とは、神がご自身を信じる人々に約束された最後的な救いであって、キリストの到来によって初めて明らかに示されました。40節の<更にまさったもの>とはキリストによってしめされた新しい約束、すなわち神の国です。神は、わたしたちのために、更にまさった神の国を計画してくださったので、わたしたちを除いては、旧約時代の信仰の英雄たちは、<完全な状態>に達しなかった、すなわち全き祝福にあずかることができなかったのです。ここには、旧約の信仰者も新約の信仰者も、忍耐と希望を持ち続け、信仰生活のたたかいに耐え、共に全き祝福にあずかる日を待とうではないか、という勧告です。

 12章の1節の<こういうわけで>とは、11章で信仰生活の模範を述べたが、再び次の勧告にうつるためのつなぎの言葉です。11章で挙げられた信仰の偉人たちは、すべて新約の時代に生きるキリスト者を支え導く人々であり、何よりも神の真実を証言した人々でした。

 <このようにおびただしい証人の群れに囲まれて>は、古代の円形競技場の観衆にたとえて先輩の信者たちを指しています。旧約の信仰の証人たちのことが示された以上、これを模範としてキリスト者も信仰の馳せ場を走ることが求められています。ランナーが不要な衣服を脱いで身を軽くし、レースに参加するように、<すべての重荷や絡みつく罪を>イエス様に取り去っていただき、<かなぐり捨て>なければなりません。<自分に定められている競走>という言い方は、信仰生活を徒競走にたとえたものです。<忍耐強く走り抜こうではありませんか>とあるように、この競争は途中で止めてはならないのであって、最後まで、つまりこの地上の生を終える時まで走り続けることが求められているのです。

 2節では、これまで旧約時代の多くの信仰の英雄の実例を挙げることのよって読者を励ましたが、その究極的な存在としてのイエスを挙げます。<信仰の創始者>という語は、「先導者」という意味があります。この語が<完成者>と対をなしつつイエスの業を説明しています。

 イエスにおいて、わたしたちの信仰が開始し、イエスにおいて信仰が完成するのです。このようなイエスをひたすら見つめながら>走る時、わたしたちは信仰の競争を走り抜くことができるのです。このイエスのみに注目することが大事なのです。

 イエスが、<御自身の前にある喜びを捨て>とは、天にある喜びであり、この世に来られ前に経験され、地上において放棄されたが、将来再び与えられるはずの祝福を指しています。それがイエスをして<恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、死よりの復活と昇天、そして全能の父なる神の右に座られたことが、イエスを信じる信仰者の励ましの根拠なのです。

 わたしたちが<なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上ヘ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです>(フィリピ3:13~14)。

 信仰の競争は、おびただしい証人の群れかなる観衆に囲まれ、見守られ、声援を送られての競争です。信仰の競争には、絡みつく罪や重荷をイエス様に取り去っていただき、かなぐり捨てて、走らなければなりません。途中で苦しくなって脱落しないように、大切なことは、自分を見ないで、<信仰の創始者(導き手)であり、またその完成者でもあるイエス>(フィリピ1:5)を見ながら走ることです。わたしの中に信仰を始めて下さった方は、また完成してくださる主イエスなのです。イエス様は、わたしと一緒になって走ってくださる方でもあるのです。なんと力強い助け手、導きでしょうか。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「キリストの日に備えて」フィリピの信徒への手紙1章1節~11節

2023-10-10 22:21:49 | キリスト教

   ↑「本当に重要なことを見分けられるように。そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となるように。」フィリピ1章10節

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会    週  報

聖霊降臨節第21主日 2023年10月15日(日)  午後5時~5時50分

                            礼 拝 順 序                  

                 司会 邉見 順子姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21)  56(主よ、いのちのパンをさき)

交読詩編      9:1~13(わたしは心を尽くして主に感謝をささげ)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳) フィリピの信徒への手紙1章1節~11節(新p.36)

説  教  「キリストの日に備えて」 辺見宗邦牧師

祈 祷                                        

聖餐式    72(まごころもて)

讃美歌(21) 483(わが主イェスよ、ひたすら)

献 金  

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父、子、聖霊の)

祝 祷             

後 奏

   〇オン・ラインで礼拝に参加できます。 090-3365-3019に

 連絡下さい。

                               次週礼拝 10月22日(日)  午後5時~5時50分

                               聖 書  ヘブライ人への手紙11章32~12章2節

                               説教題  「天国に市民権をもつ者」

                              讃美歌(21)  72 383 27 交読詩編 78     

本日の聖書  

 1キリスト・イエスの僕であるパウロとテモテから、フィリピにいて、キリスト・イエスに結ばれているすべての聖なる者たち、ならびに監督たちと奉仕者たちへ。 2わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。3わたしは、あなたがたのことを思い起こす度に、わたしの神に感謝し、4あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています。5それは、あなたがたが最初の日から今日まで、福音にあずかっているからです。6あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。7わたしがあなたがた一同についてこのように考えるのは、当然です。というのは、監禁されているときも、福音を弁明し立証するときも、あなたがた一同のことを、共に恵みにあずかる者と思って、心に留めているからです。8わたしが、キリスト・イエスの愛の心で、あなたがた一同のことをどれほど思っているかは、神が証ししてくださいます。9わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、10本当に重要なことを見分けられるように。そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、11イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように。

    本日の説教

  フィリピは、現在はギリシャ共和国の北東部、東マケドニア地方にある、フィリッポイという町(Filippoi)です。北はすぐブルガリア共和国との国境です。パウロが初めて、アジア(トルコ東端)から、エーゲ海を渡って、ヨーロッパに入り、最初に伝道した地がマケドニアのフィリピでした。フィリピは、当時この地方最大の、ローマの植民都市で、東西交通の要所でした。ここには、小数のユダヤ人しか住んでいなかったので、ユダヤ教の会堂はなかったようです。

 パウロから福音を聞いて最初に洗礼を受けたのは、リディアという紫布を商う婦人とその家族でした。彼女が洗礼を受けたガギタス川は、現在も清流が流れ、そのほとりには洗礼堂が建っています。初めは彼女の家で集会がもたれ、それが教会に成長しました。彼女が住んでいた土地はリディア村と呼ばれ、現在はフィリピの遺跡の西にリディア(Lydia)と呼ばれる町になっています。次に信徒となったのは、看守とその家族でした。(使徒言行録16:11~34)

  

   ガギダス川と洗礼堂

 このようないきさつで使徒パウロから福音を伝えられたフィリピの教会の人々は、以後、使徒とのきわめて親密な関係を保ちました。折にふれてパウロの宣教活動を援助していたフィリピの教会は、事情があって、一時援助を中断していました。

 しかし、もののやり取りの関係(4:15)が再開し、信徒たちはエパフロディトを代表に立て、贈り物を持たせて、エフェソの獄中にいるパウロのもとに派遣しました。彼はしばらくパウロのところにとどまって奉仕していましたが、病をえて、フィリピに送り戻されることになりました。この機会に、贈物への感謝を表し、さらに自分の現在の生活と心境とを告げて、彼らに主にある信仰の一致を守り、互いに励んで困難に打ち勝ち、勝利の喜びに生きるように勧める手紙をパウロはエパフロディトに持たせました。これがフィリピの信徒への手紙です。

 フィリピ書は、4章からなる小さい手紙ですが、その中にキリスト賛歌(2:6~11)や、自伝的要素を含んだキリスト信仰の奥義(3:4~14)を伝えています。それでは、今日の聖書の箇所の御言葉に耳を傾けましょう。

 「キリスト・イエスの僕であるパウロとテモテから、フィリピにいて、キリスト・イエスに結ばれているすべての聖なる者たち、ならびに監督たちと奉仕者たちへ。わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの 恵みと平和が、あなたがたにあるように。」(1:1~2) 

 1-2節は手紙の前書きです。<キリスト・イエスの僕であるパウロ>とは、キリストの伝道者であるパウロの「へりくだり」の表現です。この手紙の執筆者はパウロ一人ですが、若い弟子で同労者であるテモテの名も、差し出し人として挙げているのは、テモテがフィリピ教会の設立に参加したからです。

 手紙の宛先のフィリピの教会の信徒たちを、<キリスト・イエスに結ばれている聖なる者たち>と記しています。<聖なる者たち>とは、聖人という意味ではなく、キリストの血によって潔められ、神の御用をはたすために選びわかたれた者たちという意味です。フィリピの教会の信徒は、決してすべてが模範的な信仰生活を送っていたわけではありませんでした。しかしそれにもかかわらず、彼らはキリストに結ばれているゆえに、キリストの恵みによって新しい命を与えられていうゆえに、<聖なる者たち>と呼ばれているのです。

 手紙の受け取り人として、<監督たちと奉仕者たち>へとありますが、教会の指導者として実務的な仕事と指導に当たった人々を指すと考えられ、後代に確立された監督の職制をあらわす言葉ではありません。<わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和>を信徒たちの上に祈り求めています。キリスト者は、神とキリストの<恵みと平和>に生かされるのです。

 「わたしは、あなたがたのことを思い起こす度に、わたしの神に感謝し、あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています。それは、あなたがたが最初の日から今日まで、福音にあずかっているからです。あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。」(1:3~6)

 3節~5節は、フィリピの人々が<最初の日から今日まで、福音にあずかっている>ことについてのパウロの神に対する感謝のことばです。これに対して6節は、<善い業を始められた方>が、<その業を成し遂げてくださる>という将来の救いの完成についてのパウロの確信を述べています。完成の唯一の根拠は、フィリピの教会の人々の<善い業>ではなく、<善い業>を始められた神の真実にあります。パウロは、フィリピ教会の人々を召し、その信仰を支えた神の真実に感謝します。そして、パウロは、将来この救いを完成する神の真実を確信しているゆえに、喜びに満たされた祈りになっています。

 パウロは、エフェソの獄中にいると思われますが、<いつも喜びをもって祈っています>と言っています。4章からなるこの短い手紙には、<喜び>という言葉が16回も用いられています。手紙の内容も<イエス・キリストにある喜び>で満ちています。4章4節では、「主において常に喜びなさい」と勧めています。フィリピ書は、「喜びの書簡(手紙)」とも呼ばれています。

 「わたしがあなたがた一同についてこのように考えるのは、当然です。というのは、監禁されているときも、福音を弁明し立証するときも、あなたがた一同のことを、共に恵みにあずかる者と思って、心に留めているからです。」(1:7)

 パウロは、3節~6節で記した感謝、祈り、確信を、7節では<このように考える>とまとめて述べています。<当然です>は、正しいという意味で、その理由を、<あなたがた一同のことを、共に恵みにあずかる者と思って、心に留めているからである>で示されています。

 フィリピ教会の人々は、祈りと物質援助により、パウロを助けることによって具体的に獄中のパウロとその苦難を共にし、パウロの福音のための戦いに加わっていました。このことは,パウロにとっては、<監禁されているときも>、<法廷に出頭を命じられて、福音を弁明し立証するときも>、つねにフィリピの信徒一同のことを、自分の受けた恵み、すなわち、福音に生き、福音を伝える<恵み>に<共にあずかる者>とみなしているのです。

 「わたしが、キリスト・イエスの愛の心で、あなたがた一同のことをどれほど思っているかは、神が証ししてくださいます。」(1:8)

 パウロは、フィリピの信徒たちへ愛が、単なる人情ではないことを示すため、<キリスト・イエスの愛の心で>というただし書きを加えています。信徒たちに対してパウロが抱いている熱烈な愛情を伝えています。<神が証ししてくださいます>と、その真実さを強調しています。

 「わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように。そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように。」(1:9~11)

 パウロは信徒たちのためにとりなしの祈りをささげます。<知る力と見ぬく力>とは、神の意志を知り、それに服する生き方です。それを身に着けて、<愛がますます豊かになり>とは、キリストの愛に徹底的に貫かれて生きることです。それは最終的にはやはり恵みの出来事に他なりません。愛を豊かにせよという、倫理的命令ではありません。神の愛に生かされるキリスト者は、自らも愛に生きることを可能とされ、かつそのように生きることを求められます。     <本当に重要なことが見分けられるように>とは、キリスト者が個々の場面で、何が神の意志に即した行動であるかを、愛にもとづいて、絶えず吟味して生きることが可能となるようにという祈りです。

 そして、<キリストの日>、とは、つまりキリストの再臨とともに行われる審きの日であり、イエス・キリストの全き栄光の啓示と支配の時です。その時、キリスト者のすべての業は完成されます。それは、たんに、時間的に遠い将来に待ち望まれる性質のものではなく、イエス・キリストの地上の教えと業、特に十字架と復活の出来事において、私たちのうちにすでに確かなものとされているもの、すなわち信仰者の「今」においてすでに御霊によって保証されているものです。

 <イエス・キリストによって与えられる義>とは、<律法による自分の義ではありません。それは<キリストへの信仰による義>です。キリストの出来事によって、神が信仰に基づいて人間に賜物として与える義を意味します。それゆえ義の実は聖霊の実を指します。従って、ここではパウロは、恵みにより、イエス・キリストの出来事のゆえに神に義とされた者は、それに応えて種々の実を豊かに結ぶようにとフィリピの教会の人々に勧めている、ということになります。

 <神の栄光と誉れとをたたえることができるように>は、祈りをしめくくる賛美の定型句です。これによって、パウロは、フィリピの人々が、<義の実に満たされることにより、父なる神が栄光を受け、ほめたたえられるようにという願いをあらわしています。そして<義の実>はフィリピの教会の人々が自力で結ぶものではなく、神の賜物としての聖霊の実であるゆえ、栄光と誉れは、神にこそささげられるべきである、という指示でもあります。

 神に栄光を帰し、神をほめたたえることは、自らの栄光を求め、自らを賛美しようとする人間本来の欲求とは厳しく対立します。信徒も、この世にある限り、この欲求から完全に自由ではありえません。キリストの日に備えて、信徒が神に栄光を帰し、神をほめたたえることは、自己中心的な思いや自己本位の行動が、神の恵みによって完全に打ち破られ、神の完全な支配の下に彼らが置かれることによります。

 キリストの日に備えて、わたしたちも、キリストによって与えられる義の実をあふれるほど受けて、聖霊の賜物に満たされ、<清い者、とがめられるところのない者>とされ、父なる神の栄光と主イエスのキリストの恵みをほめたたえる者となることを、切に祈り求めたいと思います。

 世間の人にとって、信仰生活はとても堅苦しいものだと考えられています。しかし、そうではありません。キリスト者は、いわゆる立派な真面目な者ではありません。むしろだれよりも自分の弱さを認める者たちです。わたしたちに求められていることは、神の恵みにより自由に生きることです。そしてそのような生き方を可能にするのは、自分の内なる力ではなく、キリストへの信仰によって与えられる義の実に満たされることであり、聖霊の力によるのです。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「貧しい者をいたわる」フィレモンへの手紙1節~25節

2023-10-06 16:31:03 | キリスト教

    ↑ フィレモンへの手紙を書く、使徒パウロとテモテ

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会    週  報

聖霊降臨節第20主日 2023年10月8日(日)  午後5時~5時50分                 

                 司会 邉見 順子姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21)   4(世にあるかぎりの)

交読詩編        82(神は神聖な会議の中に立ち)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳) フィレモンへの手紙1節~25節(新.422)

説  教    「貧しい者をいたわる」 辺見宗邦牧師

祈 祷                                        

讃美歌(21) 510(主よ、終わりまで)

献 金  

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父、子、聖霊の)

祝 祷             

後 奏

〇オン・ラインで礼拝に参加できます。 090-3365-3019に

 連絡下さい。

       次週礼拝 10月15日(日)  午後5時~5時50分

       聖 書  フィリピの信徒への手紙1章1~11

       説教題  「審きの日」

       讃美歌(21) 56 72 483 27 交読詩編 9     

 本日の聖書  

 1 キリスト・イエスの囚人パウロと兄弟テモテから、わたしたちの愛する協力者フィレモン、2 姉妹アフィア、わたしたちの戦友アルキポ、ならびにあなたの家にある教会へ。3 わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。

 4 わたしは、祈りの度に、あなたのことを思い起こして、いつもわたしの神に感謝しています。5 というのは、主イエスに対するあなたの信仰と、聖なる者たち一同に対するあなたの愛とについて聞いているからです。6 わたしたちの間でキリストのためになされているすべての善いことを、あなたが知り、あなたの信仰の交わりが活発になるようにと祈っています。7 兄弟よ、わたしはあなたの愛から大きな喜びと慰めを得ました。聖なる者たちの心があなたのお陰で元気づけられたからです。
 8 それで、わたしは、あなたのなすべきことを、キリストの名によって遠慮なく命じてもよいのですが、9 むしろ愛に訴えてお願いします、年老いて、今はまた、キリスト・イエスの囚人となっている、このパウロが。10 監禁中にもうけたわたしの子オネシモのことで、頼みがあるのです。11 彼は、以前はあなたにとって役に立たない者でしたが、今は、あなたにもわたしにも役立つ者となっています。12 わたしの心であるオネシモを、あなたのもとに送り帰します。

 13 本当は、わたしのもとに引き止めて、福音のゆえに監禁されている間、あなたの代わりに仕えてもらってもよいと思ったのですが、14 あなたの承諾なしには何もしたくありません。それは、あなたのせっかくの善い行いが、強いられたかたちでなく、自発的になされるようにと思うからです。15 恐らく彼がしばらくあなたのもとから引き離されていたのは、あなたが彼をいつまでも自分のもとに置くためであったかもしれません。16 その場合、もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、つまり愛する兄弟としてです。オネシモは特にわたしにとってそうですが、あなたにとってはなおさらのこと、一人の人間としても、主を信じる者としても、愛する兄弟であるはずです。

 17 だから、わたしを仲間と見なしてくれるのでしたら、オネシモをわたしと思って迎え入れてください。18 彼があなたに何か損害を与えたり、負債を負ったりしていたら、それはわたしの借りにしておいてください。19 わたしパウロが自筆で書いています。わたしが自分で支払いましょう。あなたがあなた自身を、わたしに負うていることは、よいとしましょう。20 そうです。兄弟よ、主によって、あなたから喜ばせてもらいたい。キリストによって、わたしの心を元気づけてください。

 21 あなたが聞き入れてくれると信じて、この手紙を書いています。わたしが言う以上のことさえもしてくれるでしょう。22 ついでに、わたしのため宿泊の用意を頼みます。あなたがたの祈りによって、そちらに行かせていただけるように希望しているからです。

 23 キリスト・イエスのゆえにわたしと共に捕らわれている、エパフラスがよろしくと言っています。24 わたしの協力者たち、マルコ、アリスタルコ、デマス、ルカからもよろしくとのことです。25 主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように。

 本日の説教

 この手紙は、パウロがフィレモンという個人に宛てて書いたものです。パウロの書いた手紙の中で、わずか25節からなる最も短い手紙です。フィレモンに宛てて書いた手紙ですが、フィレモンの家にある教会の人たちにも公開される手紙になっています。この手紙は、奴隷制度という歴史的な環境の中で、キリスト者がどのように「愛」(アガぺー)を実践していくべきかということを、教会にもかかわる問題として記しています。

 三世紀 までは「教会堂」は無かったと言われ、集会には家の教会や、ユダヤ教の会堂が用いられました。

 手紙の本文が明らかにしているように、パウロは獄中にいます。監禁の場としては、ローマ、カイサリア、エフェソなどが考えられますが、そのうちで、可能性が高いのは、エフェソです。それはパウロのいる所と、フィレモンのいる所との距離が、それほど遠くないと思われるからです。フィレモンの家の教会はおそらくコロサイか、その近くの地域と思われています。「コロサイの信徒への手紙」にフィレモンの家の教会のアルキポの名前がしるされているからです。(コロサイ書4:17)。

 コロサイ人への手紙4:7~9によると、パウロはコロサイ人への手紙と一緒に、フィレモンへの手紙を、ティキコに届けさせ、オネシモを一緒に行かせたことが分かります。

 奴隷であったオネシモは、フィレモンのもとから逃亡し、何かの導きで獄中の使徒パウロに会い、教えを聞いて、入信し、キリスト者となり、パウロの身のまわりの世話をするようになりました。

 当時の社会は、奴隷制度を容認していたので、見つかった逃亡奴隷を主人のもとに送還することが義務づけられていました。パウロはオネシモを身近に置き続けることはできませんでした。そこでパウロは、オネシモを彼の主人のフィレモンのところに帰るように説得したのです(コロサイ4:9)。しかしパウロは、彼を主人フィレモンのもとに送り返すことに不安がありました。フィレモンがはたして福音の教えである「愛」の行動をオネシモにするか否かが疑問でした。そこで、オネシモの送還に当たって、パウロはフィレモンに書き送ったこの手紙は、オネシモを歓迎するよう主人を説得し、オネシモを<愛する兄弟>として迎えて、愛を実践するように訴えたのです。執筆年代は、紀元53~55年頃と思われます。

 1節には、手紙の受取人として、フィレモンの他に、<姉妹アフィア>と<戦友アルキポ>の名が記されていま。<アフィア>はフィレモンの妻であり、<アルキポ>は彼の息子ではないかとも思われています。フィレモンの家は、信徒が集まる家の教会でした。

 挨拶のあと、パウロは、キリスト者としてのフィレモンを称賛し、自分とオネシモとの関係、さらには自分とフィレモンとの関係に言及し、まず受け入れ態勢をととのえさせるよう言葉を尽くしてから、8節以下の本題に入り、オネシモの受け入れを主人フィレモンに願うのです。

 パウロは、福音のためにオネシモを信徒にすることに成功しました。そしてパウロは、オネシモの主人であるフィレモンに対して、この若きキリスト教徒の弁護をするのです。パウロの目的は、かつての逃亡者であり、そして今や帰る者となっているオネシモが、フィレモンと彼の教会で赦しを得、さらにキリストにある兄弟として認められるようにすることでした。そのことのために、パウロはまずオネシモに関する彼自身の願い、自分のところに引き止め置いて、仕えてもらいたいという希望を撤回し、さらにフィレモンが、その男の逃亡と盗み(?)によって被った経済的な損失を、補うつもりであると言っています。そのかわりにパウロは、フィレモンと彼のまわりに集まっている家の教会の者たちに対して、苦痛に満ち失望をもたらした過去の経験にとどまることなく、オネシモに起こった変化を認め、主にある兄弟として迎え、キリストの愛に生きる者として、新しい関係で出発をして欲しいと、彼らに期待するのです。このことは実際には、フィレモンと彼の家の教会の者たちが、少なくともオネシモと今後信仰と希望と喜びを分かち合うように、さらに彼を主の晩餐を守っている者の群れの中に同等の権利を持った者として受け入れ、同時に彼を自分たちの同労者として新たに尊敬するようにと、パウロによって要請されていることを意味しています。

 パウロは同時に、オネシモがパウロ自身の伝道活動において奉仕するために開放されることが大いに望ましいということをも示唆しています。しかしパウロは、フィレモンがオネシモを現実に開放するか、それとも彼を引き続き彼の家で労働者として働かせるか否かについては、フィレモンの自由な決断にまかせています。そしてパウロはそのどちらをも尊重することにしているのです。パウロはフィレモンに対して、フィレモンが彼自身正しいと思う仕方でオネシモに対応するようにと、自由を与えています。<善い行いが、強いられたかたちではなく、自発的になされるように(14)>という言葉に、そのことが表現されています。

 ただフィレモンが守ってもらいたいことは、神の意志としての愛が彼の行為の基準とならなければならないということです。オネシモを<愛する兄弟>として受け入れて欲しいという言葉がそのことを表現しています。

 奴隷制度の時代にあって、パウロは、奴隷であったオネシモを、<わたしの子オネシモ>(10)、<わたしの心であるオネシモ>(12)と呼び、「一人の人間としても、主を信じる者としても、<愛する兄弟>であるはずです」(16)と語っています。さらに、オネシモを<わたしと思って>(17)迎え入れてくださいとあるように、兄弟フィレモンに、パウロ自身と思って奴隷を歓迎するよう主人に命じています。

 偉大な使徒がひとりのただの奴隷にためにいかに力を尽くしているか、そしてその奴隷の解放ではなく、むしろ彼を再び受け入れ赦すように迫っていることは驚くべきことです。このように<愛する兄弟>(16)としてオネシモと接することは、実質的には差別を解消させています。この短い手紙は福音がいかに社会制度に対して大きな影響を及ぼす力を持っていたかを示しています。

 現代では、奴隷制度は撤廃されています。人身売買は認められていません。しかし、奴隷扱いは全く無くなったとは言えません。無理な強制労働を課す事業者がいます。芸能プロダクションのジャニーズ事務所のジャニー喜多川元社長(2019年死去)による性加害問題が社会問題になっています。これも社長の権力により、長い間、自分の性的欲望のために大勢の若いタレント達の人格を無視し、奴隷扱いをしたようなものです。差別による事件は後を絶ちません。

 キリストの福音は差別を解消させ、人と人との関係を新しくします。人間の社会に存在する身分や、様々な違いによって生じる壁を乗り越えさせ、様々な違いを持った人と人とを、共にキリストに結ばれた愛する兄弟姉妹とする力をイエス・キリストの福音は持っています。この手紙は、そのことを教える手紙でもあります。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする