富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「苦難に打ち勝つ勝利」ヨハネによる福音書16章25-33節

2024-05-02 23:49:20 | キリスト教

  ↑ これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会 週 報

復活節第6主日 2024年5月5日(日)午後3時~3時50分

      礼 拝 順 序                

前 奏                辺見トモ子姉

司 会                邉見 順子姉

讃美歌(21)  531(主イェスこそわが望み)

交読詩篇     46(神はわたしたちの避けどころ)

主の祈り     93-5、A

使徒信条     93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)ヨハネによる福音書16章25-33節(新p.201)

説 教    「苦難に打ち勝つ勝利」 辺見宗邦牧師

祈 祷

讃美歌(21)   481(救いの主イエスの)

献 金

感謝祈祷

頌 栄(21)    27(父・子・聖霊の)

         次週礼拝 5月12日(日)午後3時~3時50分

         聖 書  ヨハネによる福音書7章32-39節

         説教題   「キリストの昇天」

         讃美歌(21)528 336 27 交読詩篇 46 

  本日の聖書 ヨハネによる福音書16章25-33節 

 25「わたしはこれらのことを、たとえを用いて話してきた。もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時が来る。26その日には、あなたがたはわたしの名によって願うことになる。わたしがあなたがたのために父に願ってあげる、とは言わない。27父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである。あなたがたが、わたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからである。28わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く。」29弟子たちは言った。「今は、はっきりとお話しになり、少しもたとえを用いられません。30あなたが何でもご存じで、だれもお尋ねする必要のないことが、今、分かりました。これによって、あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます。」31イエスはお答えになった。「今ようやく、信じるようになったのか。32だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ。33これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」

 本日の説教

 ヨハネによる福音書では、弟子たちとの最後の食事が13章1節から始まります。別れの説教は、13章31節から始まり、14章1節から31節まで本格的に展開されます。そして15章1節から16章33節まで第二の別れの説教が語られます。イエスがこの地上を去って、天に帰るに際してのこの説教の中心主題は、地上に残される弟子たちの不安を取り除くことにありました。

 今日の聖書の箇所、16章25節以下は、第二の別れの説教の最後の部分にあたります。「わたしはこれらのことを、たとえをもちいて話してきた。もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時がくる。」(16:25)

 今やイエスは地上の生涯を終え、弟子たちと別れを告げるに当たって、これまでの「別れの説教」が、たとえを用いたものだったが、もはやたとえによらないで、はっきり天上の父について知らせる時が来るとイエスは弟子たちに語りかけます。

 「その日には、あなたがたはわたしの名によって願うことになる。わたしがあなたがたのために父に願ってあげる、とは言わない。父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである。」(16:26-27a)

 その日には、あなたがた(弟子たち)は、わたし(イエス)の名によって祈り願うことになる。わたしがあなたがたのために父なる神にとりなし、父に願って上げる、とは言わない。父なる神御自身があなたたちを愛されるので、わたしが神と弟子たちの間に立って、とりなしをする必要はなくなる。このことは、イエスの名によって願うことが不要になる、ということではなく、神の愛があなたがたに直接に向けられ、確実であるかを示しています。神の愛はキリストのとりなしがあってあなたがたに向けられるのではない。この神のうちにあふれるあなたがたのへの愛を伝えるためにイエスはこの世に来られたのです。

 「父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである。あなたがたが、わたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからである。」(16: 27)

 父なる神御自身が、あなたがたを愛しておられるのです。あなたがたが、わたし(イエス)を愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからです神が私たちを愛してくださる条件は、このイエス・キリストに対する私たちの愛と信仰です。

 「わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く。」(16:28)

 イエスは、神と共にあった神の子ですが、父のもとから遣わされて世に来て、人間となられた。そして、受難と十字架によって<世を去って、父のもとに行き>、栄光を現すのです。

 「弟子たちは言った、今は、はっきりとお話しになり、少しもたとえを用いられません。あなたが何でもご存じで、だれもお尋ねする必要のないことが、今、分かりました。これによって、あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます。』」(16:29-30)

 弟子たちは、イエスの全知と神的起源に対する信仰を言い表します。彼らが信仰に至った理由は、人の心の奥底まで見抜くイエスの神的力を認めたからです。

 「イエスはお答えになった。『今ようやく、信じるようになったのか。』」(16:31)

 イエスは、「今ようやく、信じるようになったのか」とお答えになられました。弟子たちはしるしを見て信じたのではなく、イエスの言葉によって、イエスが神的存在であることを信じたのです。

 「『だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ。』」(16: 32)

 だが弟子たちの告白した信仰には、実は彼らの生命がかけられていませんでした。イエスは弟子たちが、イエスの受難に際して、イエスを捨てて、散り散りになってしまうことを予告します。弟子たちの信仰が、人間的な頑張りや意気込みによるものであり、イエスと弟子たちとの間に、まだ本当に永続的結合関係ができていませんでした。この関係は復活のイエスとの出会いまで待たなければなりませんでした。

 弟子たちは、イエスを裏切り、捨てるという自分たちのどん底にまで至る挫折の中において、イエスは自分たちを支え給うという事実を、まだ知りませんでした。地上のイエスに向かって、すでに正しい信仰を告白したと信じた彼らは、実は自分の人間的な知識や判断によって、天上の真理を知り得るという自信を抱いていました。しかし、神の真理が本当に明らかに示されとき、それは実に私たちが人間的破綻を経験し、どん底から天を仰ぐとき、もはや信ずるという事自体、自分の側の決断によるものではなく、キリストの霊によって神から賜わる恩恵であることを知るのです。この厳粛な人生の事実を、イエスはよく見抜いておられたのです。

  イエスは、弟子たちの逃亡という状況を目の前にしても、孤独ではなく、<父が共にいてくださる>ことを宣言します。それは、まさに、受難に雄々しく立ち向かうキリストを示しています。

 「『これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。』」(16:33)

 私たちが人生の挫折によってあわてふためき、絶望に堕ちることなく、そのどん底において支えて下さるイエスを仰いで、魂の平安を得るために、これらのことを話したのだ、とイエスは語られます。しかし、この真理もまた、弟子たちにとって一つの謎です。なぜならば、聖霊によって、私たちの全存在が父なる神に固く結びつけられ、人間的挫折のどん底において、イエスの勝利に支えられる時に至るまで、この御言葉の真意は、やはり一つの謎でしかないからです。

 「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」この言葉は、四つの章にわたる「別れの説教」をしめくくるにふさわしい、感銘深い主イエスの言葉です。イエスは、やがて事実となるであろう弟子たちの挫折を予見しつつ、それにもかかわらず決して滅び去ることのない勝利の基盤を、はっきり示されました。

 そして、この言葉は、あとに残された弟子たちの心の中に、忘れることのできないものとして、深く刻み込まれました。やがてペトロはイエスを否み、他の弟子たちも共にイエスを捨て去ります。この挫折と背信の行為にかかわらず、復活のイエスは彼らをふたたび召し出し、そのすべての罪を赦して、新しい宣教に立たせてくださるのです。キリストの教会は、立派な信仰者の勇気と徳の上に建てられたのではなく、その基礎を築いた人々は、むしろ挫折し、面目を失墜した敗北者たちでした。イエスの勝利が、これらの敗北者たちを再び立ち上がらせ、イエスの御業が、彼らの弱さを支えたのです。

 主イエスは、「あなたがたには世で苦難がある」といたわるように言われます。私たちのすべての苦難、悩み、苦しみ、病、死を、イエスはことごとく知っておられます。主は人となって自らも同じような、もっとつらい体験をされたのです。

 イエスは私たちに、「しかし、勇気を出しなさい」と言われます。主は私たちと共に忍び、耐え、悩み、苦しみ、私たちの背負う重荷を共に背負ってくださるのです。弟子たちは、イエスの言葉によって、どのような状況に直面しても、平和を与えられ、勇気を出すことができる者とされます。

 こうしてイエスの別れの説教は、イエスの劇的な励ましと慰めの言葉によって閉じられます。イエスの勝利は、まだ私たちの勝利でないかも知れませんが、この勝利者イエスを信じることによって、イエスの勝利が私たちに与えられることが約束されています。主イエスが今も生きて、世に勝った主として私たちと共に歩んでくださる、このキリストと共にある生活、キリストに支えられる生活、キリストと共にいることを目指す生活こそが、私たちを支え、力づけ、世に勝つ道なのです

 「世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか。」(ヨハネの手紙一5:4~5)

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