富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「新しい人間」 エフェソの信徒への手紙4章17~32節

2022-08-27 04:51:23 | キリスト教

    ↑ 「だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされなさい。・・・」エフェソ4章22ー23節

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会    週  報

聖霊降臨節第13主日 2022年8月28日(日)   午後5時~5時50分

年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆく。」(エフェソ4・16)

聖 句「御父が、その霊により力をもって、あなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」(エフェソ3・16-17)

                            礼 拝 順 序                    

                司会 辺見 順子姉

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 204(よろこびの日よ)

交読詩編    8(主よ)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)  エフェソの信徒への手紙4章17~32節(新p.356)

説  教     「新しい人間」       辺見宗邦牧師

祈 祷                                                      

讃美歌(21) 523(神を畏れつつ)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

〇オンラインで礼拝に参加できます。090-3365-3019

の牧師の電話に、申し込みください。

           次週礼拝 9月4日(日)  午後5時~5時50分

           聖 書 イザヤ書5章1-7節

           説教題  「主のぶどう畑」

           讃美歌 530 433 27 交読詩編 40 

本日の聖書 エフェソの信徒への手紙4章17~32節

  4:17そこで、わたしは主によって強く勧めます。もはや、異邦人と同じように歩んではなりません。彼らは愚かな考えに従って歩み、18知性は暗くなり、彼らの中にある無知とその心のかたくなさのために、神の命から遠く離れています。 19そして、無感覚になって放縦な生活をし、あらゆるふしだらな行いにふけってとどまるところを知りません。20しかし、あなたがたは、キリストをこのように学んだのではありません。21キリストについて聞き、キリストに結ばれて教えられ、真理がイエスの内にあるとおりに学んだはずです。22だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、23心の底から新たにされて、24神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。                                                25だから、偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。わたしたちは、互いに体の一部なのです。26怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。27悪魔にすきを与えてはなりません。28盗みを働いていた者は、今からは盗んではいけません。むしろ、労苦して自分の手で正当な収入を得、困っている人々に分け与えるようにしなさい。29悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい。30神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、聖霊により、贖いの日に対して保証されているのです。31無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい。32互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。

本日の説教

 エフェソの信徒への手紙は、4章から、私たちの生き方に関する勧めを語っています。その勧めの内容は、「神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩みなさい」(4:1)という勧めで、教会生活、すなわち信仰共同体としての教会の生活に関わる勧めでした。教会の一致とその成長を中心に、実践的な勧告がなされました。

「そこで、わたしは主によって強く勧めます。もはや、異邦人と同じように歩んではなりません。彼らは愚かな考えに従って歩み」(4:17)

エフェソの教会の人々は、そのほとんどが、ユダヤ人ではなく異邦人でした。異邦人とは、まことの「神を知らずに」(2:12)生きていた人々で、彼らは「恵みにより、信仰によって救われた」(2:8)のです。そのような異邦人にパウロは今、勧めを語り、戒めを示します。まずパウロは、彼らに「以前のような生き方」(4:2)を思い起こさせることから始めています。

17節では、異邦人と同じような誤った歩み、生き方をまったく捨てるようにという強い勧めがなされます。新共同訳聖書では、<……愚かな考えに従って歩み>(4:17)となっていますが、原語の本来の意味は「愚かな考え」というよりは、むしろ虚しさとか空虚さや中身のない精神状態を示しています。かつてエフェソの信徒が歩んでいた異邦人の生活は、<空虚>であり、霊的に<虚しい>歩みでした。

「異邦人と同じように歩んではなりません」という勧告ですが、しかし、ここでパウロは現実に出会う異邦人を直接的に拒否しているのではないことは、3章6節で、「異邦人が福音によってキリスト・イエスにおいて、約束されたものをわたしたちと一緒に受け継ぐ者、同じ体に属する者、同じ約束にあずかる者となる」ことが語られていることからも明らかです。十戒のような律法を持たない異邦人に対するユダヤ人の当時の包括的な、差別的な捉え方をしていますが、異邦人のすべてが堕落した生活をしているのでもなく、ユダヤ人以上に立派な生き方をしている人々も大勢いるのです。ですから、キリスト者と教団が自らをそれ自体で異邦人よりもすぐれた、価値高い者とみなすのではなく、逆にキリストの救いの恵みにあずかっていない、異邦人を<異邦人>たらしめている根本の問題に目を向け、キリスト者の実践的な生き方を求めているのです。

「知性は暗くなり、彼らの中にある無知とその心のかたくなさのために、神の命から遠く離れています。」(4:18)

異邦人がむなしい心で歩いていることが、ここでは知性の<暗さ><無知>と<心のかたくなさ>として特徴づけられています。そのため、人間全体を活かす「神の命」から遠く離れています。

「そして、無感覚になって放縦な生活をし、あらゆるふしだらな行いにふけってとどまるところを知りません。」(4:19)

そして、その極端な結末は無感覚になって<放縦な生活>に身を委ね、自分の衝動を満足させることに囚(とら)われています。神に直面しようとしない精神が、必然的にたどらざるを得ない退廃への道です。このような罪の根源は、人間が神から離れて生活していることにあります。

 「しかし、あなたがたは、キリストをこのように学んだのではありません。キリストについて聞き、キリストに結ばれて教えられ、真理がイエスの内にあるとおりに学んだはずです。」(4:20-21)

 以上のような異邦人の、そして現代のわたしたちにとっても妥当する状態を、積極的に建て直し、正すためにはどこに戻らなければならないのかが示されます。それはキリストに戻ることです。このような異邦人の歩みに対して、「しかし、あなたがたはこのようにキリストを学んだのではなく……イエスのうちにある真理をそのまま学んだはずです」と言います。パウロは、宣教によるキリストのことばを聞き、洗礼教育で信仰指導を受けた彼らの経験に訴えていると思われます。

「だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。」(4:22-24)

 パウロはキリスト者の倫理生活の基礎づけを、バプテスマのとの関連でおこないます。それは一言で言えば、<古い人>を脱ぎ捨て、<新しい人を身に着ける>の一言に要約されます。<古き人>とは、古いキリストなき自己であり、人間の生活を汚し誤らせる情熱によって朽ちて行く人です。<新しい人>は、真理に基づいた、神にかたどって造られた者です。「新たにされること」が「心の底から」とあります。神と人格的に交わる魂が、根源から全体的に新たにされることが必要なのです。古い人を脱ぎ捨て新しい人を着る決断は、

自分の努力や精進によるものではなく、「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである」(2コリント5:7)という告知を、喜びをもって受けとる信仰の決断によるのです。<新しい人>という言葉で、創世記1:26以下の人間創造物語をふまえた説明がなされています。新しい人とされたキリスト者は、「真理に基づいた正しく清い生活」を送るようにと勧めています。

 「だから、偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。わたしたちは、互いに体の一部なのです。」(4:25)

 4:25節以下は、<だから>という接続詞によって先の勧めの部分と意識的に結びつけ、「新しい人」の日常生活における実践的な勧めになっています。その基礎づけを今度は聖霊によって導かれた生活として述べようとしています。

 キリスト者の「心のあり方」の第一に、真実を語るように、と述べられています。その理由づけは、「わたしたちは、互いに体の一部なのです」とあります。私たちは、キリストの体である教会に属する肢体なのです。「愛には偽りがあっては」なりません(ローマ12:9)。

「怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。悪魔にすきを与えてはなりません。」(4:26-27)

<怒ることがあっても、罪を犯してはなりません>というこの勧めは、主イエスの言葉を意識していたとも受け取れます(マタイ5:22、コロサイ3:8)。人間の怒りは、たとい正当なものであったとしても、神の怒りに常に場所を委ねたものでなければなりません。裁きは神がなさるのです。そうでないと、怒ることによって罪を犯すことになります。そのための目安が、「怒り」が翌日まで持ち越されてはならない、ということです。怒りが<悪魔にすきを与えてはなりません>の警告は、再び神に逆らう悪の力の影響を受けないようにということです。悪魔は機に乗じて不和の種をまき、問題をますます大きくするからです。

 「盗みを働いていた者は、今からは盗んではいけません。むしろ、労苦して自分の手で正当な収入を得、困っている人々に分け与えるようにしなさい。」(4:28)

 次いで、イエスを知らない古き人の性癖は盗みであり、すこしでも得をしたいという欲望ですが、「イエスにおける真実」(4:21)を表すものとして単に「盗まない」という消極的なものではなく、積極的に「困っている人々と分かち合う」ことを実践するように励ましています。

「悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい。」(4:29)

<悪い言葉(原語は「実のない言葉」)を口から出さないという勧めは、人の徳を高めるためという動機づけがなされています。キリスト者は御霊に導かれてそのために絶えず努力し、自らの言葉について常に反省する者でなければなりません。

「神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、聖霊により、贖いの日に対して保証されているのです。」(4:30)

「贖いの日」とは、「わたしたちが神の国をつぐ」日(1:14)、「やがて神につける者が全くあがなわれ、神の栄光をほめたたえる」日、即ち、終わりの日のことです。「聖霊により…保証されて」とは、キリスト者が「聖徒」の証印を押されてその品質を保証された者である、ということです。

「神の聖霊を悲しませてはいけません」とは、キリスト者が罪を犯す時、悲しみ苦しむのは彼自身だけではなく、誰よりも第一に、神の御霊御自身なのです。親が子の非行や犯罪を悲しみ、苦しむように、御霊は嘆くのです。御霊はうめきながらわたしたちのために執成しの祈りをなさるのです。だから、「神の聖霊を悲しませてはいけない」のです。

 「無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい。互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。」(4:31-32)

 最後に、古き人」であるがゆえにおこる<無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなど>の悪い性癖を、<一切の悪意>と一緒に<捨て>ることを勧めています。自分の声を抑えることを学び、舌を制することを知り、一切の悪意を捨て去ることを務めることが御霊に導かれた者の生活です。そしてこれらに取って代わるものとして、親切、憐れみ、ゆるしの精神をあげています。そして<神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい>と語られています。

滅びに向かっていた「古い人」を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、キリストに結ばれた「新しい人」としての自覚に立ち、愛に根ざした正しい清い生活を送り、救いの御業が多くの人々に及ぶように、福音を伝えていく使命をわたしたちは与えられています。わたしたちは御霊のバプテスマを受け、御霊の教えに導かれ、また御霊の宮とされました。それゆえ、御霊が喜ぶように、御霊の思うところに導かれ、御霊に従うと言うことが、キリスト者の生活です。人を幸せにするのは、キリストと共に生きることであり、聖霊の働きをいただいて愛に生きることです。わたしたちが主の栄光を現わすことができるよう、聖霊の助けを祈り求めましょう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「『子供のようにならなければ』とは」マルコによる福音書10章13-16節 

2022-08-20 18:19:25 | キリスト教

  「子供たちがわたしのところへ来るのを許しなさい。」1854年作

   メキシコ人画家:Juan Urruchi (1828~1892)

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会    週  報

聖霊降臨節第12主日 2022年8月21日(日)  午後5時~5時50分

年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆく。」(エフェソ4・16)

聖 句「御父が、その霊により力をもって、あなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」(エフェソ3・16-17)

                            礼 拝 順 序                    

                 司会 斎藤 美保姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 404(あまつましみず)

交読詩編  127(主御自身が建ててくださるのでなければ)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)  マルコによる福音書10章13-16節(新p.417)

説  教  「『子供のようにならなければ』とは」 辺見宗邦牧師

祈 祷                                       

聖餐式    72(まごころもて)

讃美歌(21) 371(このこどもたちが)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

〇オンラインで礼拝に参加できます。090-3365-3019

の牧師の電話に、申し込みください。

           次週礼拝 8月28日(日)  午後5時~5時50分

           聖 書  エフェソの信徒への手紙4章17~32節

           説教題  「新しい人間」

           讃美歌 204 523 27 交読詩編 8 

本日の聖書 マルコによる福音書10章13-16節

10:13イエスに触れていただくために、人々が子供たち連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。 14しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。 15はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」 16そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。

本日の説教

 「イエスに触れていただくために、人々が子供たち連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。」(10:13)

 人々が自分たちの子供をイエスに祝福していただこうとして連れてきました。<子供>とは、幼児から12歳までの年齢に用いられています。古代世界では子供は一般に軽んじられていました。<触れていただくために>とは、「触れる」ことによって、治癒の力が伝わるように、祝福の力も伝わるものと信じられていました(創世記48:14)。当時有名な律法学者の所に子供を連れて来て、触れて祝福してもらう習慣がありました。この場合はすでに有名になっているイエスの所に連れて来たのです。イエスに触っていただければ、子供たちが無事に健やかに成長するだろうと期待したからです。

弟子たちはこの親たちを叱りました。弟子たちが咎めたのは、たかが子供のことで、自分たちの先生を煩わせないようにいう、間違った思い遣りによるものでした。弟子たちの気持ちも分かりますが、彼らには主イエスの心が分かっていなかったのです。

「しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。『子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。』」(10:14)

 その弟子たちを見て、イエスは激しい憤りを表しました。子供たちに対するイエスの愛と、子供たちを軽んじる者たちに対するイエスの激しい態度が示されています。<子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない>とイエスは命じました。<神の国はこのような者たちのものである>と言って、<妨げてならない>理由を告げました。

 神の国とは、神の御支配を意味します。人々をそれにあずからせるためにイエスはこの世に来られたのです。神の恵みの御支配にあずかることが出来るのは、子供のような者たちなのだ、だから子供たちをわたしところにこさせなさい」と言われたのです。もちろん神の国は子供たちに限定されません。それは<このような者たちのものである>と言っています。

神の国についてイエスは、ある場合には未来において実現すると語られ(ルカ11:2)、またある場合には現在すでにイエスとともに来ていると語られました(ルカ11:20)。その何れであるにせよ子供たちのような者たちは神の愛の対象であり、イエスの福音はその様な者たちに向けられています。

この当時のユダヤは、子供を物の数として扱われることがなく、軽んじられていました。それに比べてこのイエスの発言は、この時代の考え方をはるかに超越しています。日本でも憲法で男女の平等が保証されるまでは、男尊女卑の風潮があり、婦女子は、尊ばれませんでした。

「『はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。』」(10:15)

<はっきり言っておく>という厳かな導入のことばによって、弟子たちへの勧めがなされます。「子供のように」とは、子供のように純真な、汚れを知らないということではありません。日本の学校の子供たちの間で起っている陰湿ないじめの問題を例にとっても、子供には罪や汚れが無いと言えないことが分かります。子供は子供なりにやはり罪を持っているのです。<神の国はこのような者たちのものである>と言って、決して子供を理想化して言っているのではありません。神の国は純粋に恵みの賜物であるゆえに、人はただそれを受けることしかできません。子供のようにとは、ただ神の恵みをいただくしかない者です。イエスの祝福を受動的に受ける、その無力さと信頼を意味します。

このイエスの勧めは弟子たちに対する批判をも意味しています。彼らは神の国へ招かれた者として、地位争いをやめ、イエスの弟子としての優越感をもつことなく、神と人とに対して子供のように小さな者、低い者とならなければなりません。

また、当時の律法学者やファリサイ派の人々に対する批判がここにあります。彼らは律法を実行しているという誇りをもち、自分たちの功績によって、神の国に入る権利を主張し、彼らのように律法を守ることの出来ない人達を蔑視していました。

 「そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。」(10:16)

子供たちを抱き上げ>は、小さい者へのイエスの愛を言い表しています。イエスは子供たちを喜んで迎え、抱いて、頭に手をのせ、祝福されました。<神の国はこのような者たちのものであると宣言して子供たちを抱き上げたイエスの姿は、神の国がすでにイエスにおいて現在の事実となっていることを示しています。子供たちは今や神の国の子供たちとされます。

一匹の迷った羊を一生懸命に捜し求めて歩く羊飼いのように、イエスは迷っている者、何の功績もない者、罪を犯した者、神から離れ去った者を神の国に迎え入れます(ルカ15:1-7)。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マルコ2:17)と宣言します。神は救いを人間の業績に応じて与えるのではなく、神の愛と憐れみから、恵みとして与えるのです。それゆえに、子供たちのように助けを必要としている小さな者たちにこそ神の国が約束されているのです。

 「子供のように」なるとは、結局新しく生れ直すことです。イエスは、「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることができない」(ヨハネ3:5)と言われました。わたしたちは、キリストに結ばれているなら、神の子とする霊を受け、この霊によって、神を「アッバ、父よ」と呼ぶことが出来るのです(ローマ8:-15)。神を「アッバ、父よ」と呼ぶことこそ、子供のような者になることであり、神の国に迎えられる者となるのです。

 キリスト者は自分自身がキリストに全く依存しなければならない小さい者であることを自覚し、全き信頼をもって神を「アッバ、父よ」と呼び、小さな者を迎え入れる神の恵みを喜び、感謝しましょう。共に神の国の祝福にあずかる者として、小さい者たちを受け入れ、愛しましょう。弟子たちと同じように、キリスト者も陥りやすい差別や排他主義から自由にされなければなりません。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「主に従う道(主の鍛錬)」 ヘブライ人への手紙12章3~13節

2022-08-10 17:28:40 | キリスト教

       ↑ 「だから、萎えた手と弱くなったひざをまっすぐにしなさい。また、足の不自由な人が踏み外すことなく、むしろいやされるように、自分の足でまっすぐな道を歩きなさい。」(ヘブライ12章12-13節)

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会    週  報

聖霊降臨節第11主日   2022年8月14日(日)  午後5時~5時50分

年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆく。」(エフェソ4・16)

聖 句「御父が、その霊により力をもって、あなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」(エフェソ3・16-17)

                            礼 拝 順 序                    

                   司会 辺見 順子姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 351(聖なる聖なる)

交読詩編   85(主よ、あなたは御自分の地をお望みになり)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳) ヘブライ人への手紙12章3~13節(新p.417)

説  教    「主に従う道(主の鍛錬)」 辺見宗邦牧師

祈 祷                                       

讃美歌(21) 531(主イエスこそわが望み)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

〇オンラインで礼拝に参加できます。090-3365-3019

の牧師の電話に、申し込みください。

                                          次週礼拝 8月21日(日)  午後5時~5時50分

                                          聖 書 マルコによる福音書10章13-16節

                                          説教題  「子供を祝福する主イエス」

                                          讃美歌 404 544 27 交読詩編 127 

本日の聖書 ヘブライ人への手紙12章3-13節

12:3あなたがたが、気力を失い疲れ果ててしまわないように、御自分に対する罪人たちのこのような反抗を忍耐された方のことを、よく考えなさい。 4あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません。 5また、子供たちに対するようにあなたがたに話されている次の勧告を忘れています。「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。 6なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。」 7あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか。 8もしだれもが受ける鍛錬を受けていないとすれば、それこそ、あなたがたは庶子であって、実の子ではありません。 9更にまた、わたしたちには、鍛えてくれる肉の父があり、その父を尊敬していました。それなら、なおさら、霊の父に服従して生きるのが当然ではないでしょうか。 10肉の父はしばらくの間、自分の思うままに鍛えてくれましたが、霊の父はわたしたちの益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられるのです。 11およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。 12だから、萎えた手と弱くなったひざをまっすぐにしなさい。 13また、足の不自由な人が踏み外すことなく、むしろいやされるように、自分の足でまっすぐな道を歩きなさい。

本日の説教

ヘブライ人への手紙という名称から、ヘブライ人に宛てられた手紙となっていますが、ヘブライ人とは、ユダヤ人を指す古い呼び名です。しかし必ずしもパレスチナのユダヤ人キリスト者たちではなく、13・24の<イタリア出身の人たち>という句からイタリアないしローマの地域のユダヤ人キリスト者を予想させます。迫害に際しての忍耐をすすめている点などから、おそらく離散したユダヤ人キリスト者たちがいるローマの集会に宛てて書かれたものと見る味方が有力です。ローマではユダヤ人信徒と異邦人信徒が混在していました。<ヘブライ人への手紙>という名称は、後になってから、その内容から察してつけられた名です。いきなり本文で始まるので、手紙よりも論説や説教のようなものです。

著者は旧約聖書に深い理解をもち、教養の高い、ギリシャ語を用いる外国に住むユダヤ人であると思われます。著者はテモテを知っており(13・23)、パウロの信仰を継承しています。執筆年代は、ネロの迫害(64年)の経験が言及されていますし(10・32~34)、しかも新たな迫害[ドミティアヌ帝(在位81~96年)の迫害]が近づき、再臨の希望が失われ、聖霊の働きもあまり見られないところから、一世紀末が考えられ、80~90年頃と推定されます。執筆の場所としては、エフェソあたりが最も可能性が高いとされています。

執筆の事情については、次のようなことが考えられます。宛先の教会の人たちが、信仰に入った初めの頃は<苦しい大きな戦いによく耐えた>(10・32)のですが、その後の信仰生活の中で、彼らの中には、集会から離れ(10・25)、異なった教えに迷わされ(13・9)、みだらな生活に陥る(13・4)者たちも出たので、このような危機的な状況を知った、かつてこの集会の指導者であった著者が、新たな迫害に備えて、この勧告の手紙を書き送ったと推定されます。  

ヘブライ人への手紙は、最後の添え書きを別にすると、三つの主要な勧告(説教)から成り立っています。第一部は「神の言葉に聞き従おう」(1・1~4・13)、第二部は「信仰告白をしっかり守り礼拝に励もう」(4・14~10・31)、第三部は「イエスを仰ぎ見つつ忍耐をもって走り抜こう」(10・32~13.21)と信仰者の忍耐を説く勧めになっています。

11章では、旧約聖書の優れた人々の例を挙げて述べています。アベル、エノクから始まり、ダビデ、サムエルまで、16人の個人名が挙げられています。また、32節bの<預言者たち>とは、エリヤ、エリシャ、イザヤ、エレミヤなどを指し、35節の<女たち>は、サレプタのやもめ(列王記上17:8)、シュネムの女(列王記下4:25)を指しています。

彼らの全てが、「信仰によって」神に示された道を歩み、それぞれの時代、それぞれの状況において、神の恵みの業をその目で見、自ら神の御業の体験者となり、新約の時代に生きるキリスト者を支え導く人々となり、何よりも神の御業を証言した人々でした。

その信仰は、「この世界が神の言葉によって創造され」ている、見えない事実を確認し、神の約束を望み見て、ただ神のみに従いました。旧約時代の人々は、信仰によって忍耐と希望を持ち続け、私たちと共に全き祝福にあずかる日を待っています。

このように旧約の信仰の証人たちのことが示された以上、次に求められるのはこれを模範としてキリスト者も、忍耐と希望をもって信仰生活のたたかいに耐えようではないか、という勧告です。

11章では、旧約時代の多くの信仰の先人の実例を挙げて励ましたが、12章1-2節では、その究極的な存在としてのイエスを挙げます。イエスにおいて信仰が開始し、イエスにおいて信仰が完成するのです。イエスはわたしたちのために救いの道を開き、実現された方です。信仰はこの方に始まり、この方において完成するのです。このようなイエスをひたすら<見つめながら>走る時、わたしたちは信仰の競争を走り抜くことができるのです。イエスは天にある喜びを捨て、<恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び>、再び<神の玉座の右に>座る祝福を与えられました。

「あなたがたが、気力を失い疲れ果ててしまわないように、御自分に対する罪人たちのこのような反抗を忍耐された方のことを、よく考えなさい。」(12:3)

2節に描かれたイエスの姿が、この書の読者である信仰者たちの励ましの根拠とされます。あなたがたが<気力を失い疲れ果て>るとは、今読者たちが陥ろうとしている信仰の状態を指しています。そうならないように、最後まで<御自分に対する罪人たちのこのような反抗を耐え抜かれ、今や神の王座の右に座られているイエスのことを<よく考えなさい>と命じています。イエスの耐え忍ばれた恥や苦しみのことを考えるなら、今自分たちが経験しているどのような妨げも、信仰を揺るがすものにはならない事を教えています。

「あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません。」(12:4)

1-3節で、競争のたとえが用いられたのに対して、ここではボクシングのたとえが用いられます。<戦って>という語は「試合をする」という意味です。この時代のグローブは金具で裏打ちされていたので、しばしば流血を招きました。ここでは、戦う相手は<罪>と規定されているが、まだ<地を流す>に至るまで迫害に対する信仰の戦いを経験していないことを、読者に告げ、その様な状況になるかも知れないことを警告しています。

「また、子供たちに対するようにあなたがたに話されている次の勧告を忘れています。『わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。」』」(12:5-6)

5-6節は箴言3:11-12が引用されています。<子よ>は、ここではキリスト者に対する呼びかけとして引用されています。<鍛錬>という語は、子供を教育することを表します。<主の鍛錬を軽んじ>るとは、神が人間を鍛え、育てようとして<懲らしめて>おられるのに、その意味を少しも悟らないことです。同時に<力を落としてはいけない>と励まします。ここで言われているのは、主の訓練としての苦難の意味を正しく理解しなさいということです。

6節は、古代世界では一家の家長は子供の福祉に責任を負うだけでなく、権威の源であり、したがって子供と奴隷を教育するために体罰を加わえることもありました。神もその家族の一員であるキリスト者を子供として厳しく鍛えられるのです。

「あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか。」(12:7)

神がキリスト者を<鍛錬>されるのは、愛しておられるからにほかなりません。鍛えられないということは、裏を返せば無関心であることを意味します。それゆえ鍛えられるということは、神の正統な子であることの証明なのです。

「もしだれもが受ける鍛錬を受けていないとすれば、それこそ、あなたがたは庶子(しょし)であって、実の子ではありません。 更にまた、わたしたちには、鍛えてくれる肉の父があり、その父を尊敬していました。それなら、なおさら、霊の父に服従して生きるのが当然ではないでしょうか。」(12:8-9)

 8-9節では、地上の父との対比で普遍的な父としての神が示されます。<庶子>とは、法律上の婚姻関係にない男女間に生まれた子です。<肉の父>とは、わたしたちの肉体と生命の源である人間としての父を指します。<霊の父>とは、根源的には神御自身が生命を与える方であり、神のみがわたしたちの身体を生かす霊を送られる父であることを言います。鍛えてくれる肉の父を尊敬するなら、なおさら、霊の父に服従すべきであると勧告しています。

「肉の父はしばらくの間、自分の思うままに鍛えてくれましたが、霊の父はわたしたちの益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられるのです。(12:10)

 10節では、肉の父と霊の父との類似性が述べられます。<しばらくの間>とは、肉の父の場合には子供が幼い時期ということになるが、霊の父の場合には一生涯を意味します。両方の父の訓練の方法は、肉の父の場合<自分の思うまま>であって、誤りを犯したり、情熱に駆られる可能性もあることが暗示されています。これに対して霊の父は<わたしたちの益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的で>訓練されるのです。ここには創造の目的と等しい唯一の目的が示されています。

 「およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。」(12:11)

<鍛錬>の本当の意図は、結果を体験してから始めて分かるものです。ここには、人生が一種の霊的な訓練の場であるとの思想が見られます。<平和に満ちた実を結ばせる>とは、よい人生は、人間の側において積極的に神と共に働くということがあって初めて達成されることが言われています。

「だから、萎えた手と弱くなったひざをまっすぐにしなさい。」(12:12)

<だから>とは、11節までののことを前提としています。「鍛錬というものは・・・後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせる」のだからということで、その実を結ぶということに信頼と期待をもって、ということです。イザヤ書35:3以下を引用して、苦難にあって弱っている心を励まします。イザヤ書には、「弱った手に力を込め、よろめく膝を強くせよ。心おののく人々に言え。『雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を。敵を打ち、悪に報いる神が来られる。神は来て、あなたたちを救われる。』」(イザヤ書35:3-4)とあります。鍛錬によって、「萎えた手と弱くなったひざをまっすぐにしなさい」と勧めるのです。鍛錬は、霊の父である神が、御自分の神聖にあずからせる目的があるのだからです。萎えた手と弱くなったひざをまっすぐにしなさいとの命令は、精神的な意味で、心の上で、元気を出すようにとの励ましです。これはたとえ、実際に萎えた手と弱くなったひざがまっすぐにならなくても、信仰生活の姿勢を正しなさいという、生き方の問題として言われていると思われます。

「また、足の不自由な人が踏み外すことなく、むしろいやされるように、自分の足でまっすぐな道を歩きなさい。」(12:13)

13節は箴言4:26以下を念頭に置いています。「どう足を進めかをよく計るなら、あなたの道は常に確かなものとなろう。右にも左にも偏ってはならない。悪から足を避けよ」(箴言4:26-27)とあります。まさに、「足の不自由な人」が踏み外すことのあるような道は悪い道であって、そのような道を歩まないこと、歩ませないようにすることこそ、どう足を進めるか、すなわち、どう生きるかということでが問われているのです。

<まっすぐな道を歩>くとは、「福音の真理にのっとってまっすぐに歩く」(ガラテヤ2:14)ということです。<足の不自由な人>とは、信仰生活の状態を表すための比喩的表現でしょう。<足の不自由な人>が、<いやされるように>、すなわち、しっかりした足どりで、確信を持って歩むことが出来るように、先に元気になった人は、自分の足で、信仰において自立した者として、<まっすぐな道>、正しい道を歩きなさいと勧めています。足の不自由な人が歩きにくい、踏み外しそうな道をそのままにしておいて、自分さえ歩ければ良いということは、「聖なる生活」を追い求めるということにはなりません。

12章1節で引用した。イザヤ書35章3-4節は、悔い改めたイスラエルが、「聖なる道」である「大路」を通って祖国に帰っていくことを預言します。シオンに帰ってくるのは「主にあがなわれた者」(イザヤ35:10)のみです。「そのとき、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。そのとき、歩けなかった人が鹿のように踊り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。荒れ野に水が湧きいで・・」(イザヤ35:5-6)と表現しています。自然の回復と不自由な人の終末的な回復の奇跡です。その中に「汚れた者」「愚かな者」は含まれて

いません。ヘブライ人への手紙が語る、キリスト者の道の方向は、イザヤの「聖なる道」と同じであり、聖なる道を旅する者は、「すべての人との平和を、また聖なる生活を追い求め」(12:14)なければなりません。神と人との平和と、人とその隣人との平和は救いに伴うものであります。「霊なる父」は、鍛錬によって、義という平和に満ちた実を結ばせてくださることを感謝しましょう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「キリストの体である教会」コリントの信徒への手紙一、12章14-26節

2022-08-03 20:35:09 | キリスト教

↑ 「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。」コリント一、12:26

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会    週  報

聖霊降臨節第10主日  2022年8月7日(日)   午後5時~5時50分

年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆく。」(エフェソ4・16)

聖 句「御父が、その霊により力をもって、あなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」(エフェソ3・16-17)

                            礼 拝 順 序                    

                司会 斎藤 美保姉

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 149(わがたまたたえよ)

交読詩編   13(いつまで、主よ)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)コリントの信徒への手紙一、12章14-26節(新p.316)

説  教   「キリストの体である教会」 辺見宗邦牧師

祈 祷                                       

讃美歌(21) 395(建ちては崩るる)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

〇オンラインで礼拝に参加できます。090-3365-3019の

辺見牧師の電話に、申し込みください。

            次週礼拝 8月14日(日)  午後5時~5時50分

            聖 書 ヘブライ人への手紙12章3~13節

            説教題  「主に従う道」

            讃美歌 351 531 27 交読詩編 94 

本日の聖書 コリントの信徒への手紙一、12章14~26節

14体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。15足が、「わたしは手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。16耳が、「わたしは目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。17もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。18そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。19すべてが、一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。20だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。21目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。22それどころか、体の中でほかより弱く見える部分が、かえって必要なのです。23わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと見栄えよくしようとします。24見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。25それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。26一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。27あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。

 本日の説教

パウロは、12章1節から11節にかけて、<一つの霊といろいろな賜物>という、教会にはいろいろな賜物が与えれていることを語りました。いろいろな賜物をお与えになるのは「同じ神」であり、一人一人に霊の働きが現われるのは、全体の益になるためです、と教えています。

ある人には霊によって「知恵の言葉」、ある人には、同じ霊によって「信仰」というように、「病気を癒す力」、「奇跡を行う力」、「預言をする力」、「霊を見分ける力」、「異言を解釈する力」、これらすべては「一つの、同じ霊の働き」であり、霊が望むままに教会の一人一人に分け与えられているのです。

従ってどんな霊でも、それを与えられていることは、個人的な美点や価値に関わりなく、まったく自由な神の恵みによるものです。コリントの人々がどんな霊を与えられていても、「霊的」であることに誇る理由はまったくありません。全ての霊の現れは、神の目的に仕えるためであり、教会全体の益のためです、とパウロは説きました。

12章12節から13節にかけて、パウロは、人間の体を例にして、体は一つでも、多くの部分から出来ており、また体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、「キリストの場合も同様です」と説明します。パウロは、コリントの人々に、一つの体になったことを思い起させます。すべての人は、教会に入会した時に、「一つの霊によって、……一つの体となるために洗礼を受け」ました。そして、「皆一つの霊をのませてもらったのです」。そして教会の全員に一つの霊があふれるばかりに豊かに与えられたことを思い起させます。

皆ユダヤ人、ギリシア人、奴隷、自由人といった違う民族の人も、身分や社会的背景の違う人も、皆が一つの霊によって一つの体に結びつけられたのです。

「体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。」(12章14節)

 14節では、再び、体は、多くの部分から出来ていることを語り、教会も同じであることを伝えます。

 「足が、『わたしは手ではないから、体の一部ではない』と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。耳が、  『わたしは目ではないから、体の一部ではない』と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。」(12章1-16節)

 足と手、耳と目は恐らく弱い人と強い人の関係を言っているのでしょう。したがってここでは、弱い者が強い者に向かって語っているのでしょう。体のすべての部分が、体には必要であり、教会も、強い人も、弱い人も、すべての人が大切な構成員であることを説いています。

 「もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。」(12章17-18節)

  体は、神の計画に従って、体に一つ一つに部分を置かれ、それぞれがその機能をはたしているのです。全てが目であったり、耳であったなら、体ではなくなります。同じように神は、教会の一人一人に、それぞれの役割を与えられているのです。それゆえ体(教会)の成員は、決して自分が価値がないとか、重要でないと考えるべきではありません。それぞれの構成部分は、全体が機能するためにそれ自身に特有の目的があります。教会の中でお互いを比べて優劣を決めたがるのは人間的思いによるのであって、個々人をそれぞれ教会の中に位置づけるのは神であることを知るべきです。

「すべてが、一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。」(12章19―20節)

皆が優れていると思われる働きに殺到した場合、有機体としての体は成立しません。<すべてが、一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう>とパウロは問うことによって、自ら弱いと考える教会内の不満分子にその考え方の変換を求めています。

「目が手に向かって『お前は要らない』とは言えず、また、頭が足に向かって『お前たちは要らない』とも言えません  。」(12章21節)

目が手に、頭が足に、<『お前は要らない』>と言うことは強い者が弱い者に対する態度を語っています。「強い」と思われる成員(目や頭)は、手や足を蔑むことはできません。それらがなければ体を動かす働きが出来ないからです。同じように教会のそれぞれの会員は他を必要とするのです。

「それどころか、体の中でほかより弱く見える部分が、かえって必要なのです。わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと見栄えよくしようとします。見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。」(12章22―24節節)

<体の中でほかより弱く見える部分が、かえって必要なのです>。コリントの教会で自分たちを強く、知識があると思って、自分たちを「弱い人」と見なす人々に対して、高ぶっている人々がいました。ここでパウロは率直に弱い人は、「絶対不可欠」な役割を教会の生活の中で持っており、強い人は自分の判断で弱い人を軽んじてはならないと断言します。パウロは弱い人の存在の必要性を、体の比喩を継続して用いながら、新しい観点から説得しようとしています。わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと見栄えよくしようとします。<恰好が悪い><見苦しい>と見なされている成員が、それだけに最も丁重に扱わなければなりません。コリントの地位の高い人々は、低い階層の信仰の兄弟姉妹たちを何かきまりの悪いもののように、軽蔑の目で見ていたのでしょう。しかしパウロは彼らを、恰好よく、見映えよく「覆って」いなければならないと主張します。強い人は自分たちの行いを弱い人の必要にあわせなければなりません。神が体をそのように配置したのだから、より大きな敬意を払わなければなりません。

「それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。」(12章25-27節)

神は体のそれぞれの器官を相互に依存する有機体として作られました。そこでは多様性が必要なので、器官の違いは分裂の原因になってはなりません。お互いの配慮を促すようにならねばなりません。「分裂」とここで言及されるのは、実際にコリントの人々が霊的賜物の現れをめぐって論争していたことを示します。パウロは教会内の違う人に対して寛容であるだけでなく、全ての会員が他の人と悲しみと喜びを分かち合うという恵みにあふれる、同情的なあり方を心に描いています。誰でも足首や指の痛みがいかに体全体の力と注意を奪うかを知っています。これが教会におけるあり方だとパウロは論じます。会員の誰かが苦しめば、他の会員も衰え、痛みます。会員の誰かが、尊ばれると、他の会員も喜ぶのです。

パウロはコリントの教会のすべての人々に、自分たちをお互いの平和と健全さに関心を払う一つの体の成員として理解するように呼び掛けています。このメッセージは、力ある者は、キリストの体である自分たちの仲間として弱い人をうけいれ、尊び、「配慮し合い」、喜びも悲しみも分かち合うように説いているのです。

イザヤ書61章1-2節に、「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」とあります。主イエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」とナザレの会堂で話し始められました(ルカ4章18-21節)。霊はイエスが貧しい人々に福音を宣教する権限を与えただけでなく、キリストの体を形成するための権限を与えます。そこでは奴隷と自由人、特権階級と貧しい者と隔ての壁は壊されたのです。キリストの体である教会の使命がここに示されています。「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。」悩みを共にし、喜びを共にする、それが教会のあり方であり、愛に生きる姿にほかなりません。

「なたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です」、とパウロは述べています。言い換えれば、わたしたちはキリストの御心を具体的に実現する手足とされている、教会を構成する一員なのです。教会の一人一人にはキリストの霊と愛とが注がれているのです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする