↑ 「だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされなさい。・・・」エフェソ4章22ー23節
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日本福音教団 富 谷 教 会 週 報
聖霊降臨節第13主日 2022年8月28日(日) 午後5時~5時50分
年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆく。」(エフェソ4・16)
聖 句「御父が、その霊により力をもって、あなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」(エフェソ3・16-17)
礼 拝 順 序
司会 辺見 順子姉
前 奏 奏楽 辺見トモ子姉
讃美歌(21) 204(よろこびの日よ)
交読詩編 8(主よ)
主の祈り 93-5、A
使徒信条 93-4、A
司会者の祈り
聖 書(新共同訳) エフェソの信徒への手紙4章17~32節(新p.356)
説 教 「新しい人間」 辺見宗邦牧師
祈 祷
讃美歌(21) 523(神を畏れつつ)
献 金
感謝祈祷
頌 栄(21) 27(父・子・聖霊の)
祝 祷
後 奏
〇オンラインで礼拝に参加できます。090-3365-3019
の牧師の電話に、申し込みください。
次週礼拝 9月4日(日) 午後5時~5時50分
聖 書 イザヤ書5章1-7節
説教題 「主のぶどう畑」
讃美歌 530 433 27 交読詩編 40
本日の聖書 エフェソの信徒への手紙4章17~32節
4:17そこで、わたしは主によって強く勧めます。もはや、異邦人と同じように歩んではなりません。彼らは愚かな考えに従って歩み、18知性は暗くなり、彼らの中にある無知とその心のかたくなさのために、神の命から遠く離れています。 19そして、無感覚になって放縦な生活をし、あらゆるふしだらな行いにふけってとどまるところを知りません。20しかし、あなたがたは、キリストをこのように学んだのではありません。21キリストについて聞き、キリストに結ばれて教えられ、真理がイエスの内にあるとおりに学んだはずです。22だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、23心の底から新たにされて、24神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。 25だから、偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。わたしたちは、互いに体の一部なのです。26怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。27悪魔にすきを与えてはなりません。28盗みを働いていた者は、今からは盗んではいけません。むしろ、労苦して自分の手で正当な収入を得、困っている人々に分け与えるようにしなさい。29悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい。30神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、聖霊により、贖いの日に対して保証されているのです。31無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい。32互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。
本日の説教
エフェソの信徒への手紙は、4章から、私たちの生き方に関する勧めを語っています。その勧めの内容は、「神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩みなさい」(4:1)という勧めで、教会生活、すなわち信仰共同体としての教会の生活に関わる勧めでした。教会の一致とその成長を中心に、実践的な勧告がなされました。
「そこで、わたしは主によって強く勧めます。もはや、異邦人と同じように歩んではなりません。彼らは愚かな考えに従って歩み」(4:17)
エフェソの教会の人々は、そのほとんどが、ユダヤ人ではなく異邦人でした。異邦人とは、まことの「神を知らずに」(2:12)生きていた人々で、彼らは「恵みにより、信仰によって救われた」(2:8)のです。そのような異邦人にパウロは今、勧めを語り、戒めを示します。まずパウロは、彼らに「以前のような生き方」(4:2)を思い起こさせることから始めています。
17節では、異邦人と同じような誤った歩み、生き方をまったく捨てるようにという強い勧めがなされます。新共同訳聖書では、<……愚かな考えに従って歩み>(4:17)となっていますが、原語の本来の意味は「愚かな考え」というよりは、むしろ虚しさとか空虚さや中身のない精神状態を示しています。かつてエフェソの信徒が歩んでいた異邦人の生活は、<空虚>であり、霊的に<虚しい>歩みでした。
「異邦人と同じように歩んではなりません」という勧告ですが、しかし、ここでパウロは現実に出会う異邦人を直接的に拒否しているのではないことは、3章6節で、「異邦人が福音によってキリスト・イエスにおいて、約束されたものをわたしたちと一緒に受け継ぐ者、同じ体に属する者、同じ約束にあずかる者となる」ことが語られていることからも明らかです。十戒のような律法を持たない異邦人に対するユダヤ人の当時の包括的な、差別的な捉え方をしていますが、異邦人のすべてが堕落した生活をしているのでもなく、ユダヤ人以上に立派な生き方をしている人々も大勢いるのです。ですから、キリスト者と教団が自らをそれ自体で異邦人よりもすぐれた、価値高い者とみなすのではなく、逆にキリストの救いの恵みにあずかっていない、異邦人を<異邦人>たらしめている根本の問題に目を向け、キリスト者の実践的な生き方を求めているのです。
「知性は暗くなり、彼らの中にある無知とその心のかたくなさのために、神の命から遠く離れています。」(4:18)
異邦人がむなしい心で歩いていることが、ここでは知性の<暗さ><無知>と<心のかたくなさ>として特徴づけられています。そのため、人間全体を活かす「神の命」から遠く離れています。
「そして、無感覚になって放縦な生活をし、あらゆるふしだらな行いにふけってとどまるところを知りません。」(4:19)
そして、その極端な結末は無感覚になって<放縦な生活>に身を委ね、自分の衝動を満足させることに囚(とら)われています。神に直面しようとしない精神が、必然的にたどらざるを得ない退廃への道です。このような罪の根源は、人間が神から離れて生活していることにあります。
「しかし、あなたがたは、キリストをこのように学んだのではありません。キリストについて聞き、キリストに結ばれて教えられ、真理がイエスの内にあるとおりに学んだはずです。」(4:20-21)
以上のような異邦人の、そして現代のわたしたちにとっても妥当する状態を、積極的に建て直し、正すためにはどこに戻らなければならないのかが示されます。それはキリストに戻ることです。このような異邦人の歩みに対して、「しかし、あなたがたはこのようにキリストを学んだのではなく……イエスのうちにある真理をそのまま学んだはずです」と言います。パウロは、宣教によるキリストのことばを聞き、洗礼教育で信仰指導を受けた彼らの経験に訴えていると思われます。
「だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。」(4:22-24)
パウロはキリスト者の倫理生活の基礎づけを、バプテスマのとの関連でおこないます。それは一言で言えば、<古い人>を脱ぎ捨て、<新しい人を身に着ける>の一言に要約されます。<古き人>とは、古いキリストなき自己であり、人間の生活を汚し誤らせる情熱によって朽ちて行く人です。<新しい人>は、真理に基づいた、神にかたどって造られた者です。「新たにされること」が「心の底から」とあります。神と人格的に交わる魂が、根源から全体的に新たにされることが必要なのです。古い人を脱ぎ捨て新しい人を着る決断は、
自分の努力や精進によるものではなく、「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである」(2コリント5:7)という告知を、喜びをもって受けとる信仰の決断によるのです。<新しい人>という言葉で、創世記1:26以下の人間創造物語をふまえた説明がなされています。新しい人とされたキリスト者は、「真理に基づいた正しく清い生活」を送るようにと勧めています。
「だから、偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。わたしたちは、互いに体の一部なのです。」(4:25)
4:25節以下は、<だから>という接続詞によって先の勧めの部分と意識的に結びつけ、「新しい人」の日常生活における実践的な勧めになっています。その基礎づけを今度は聖霊によって導かれた生活として述べようとしています。
キリスト者の「心のあり方」の第一に、真実を語るように、と述べられています。その理由づけは、「わたしたちは、互いに体の一部なのです」とあります。私たちは、キリストの体である教会に属する肢体なのです。「愛には偽りがあっては」なりません(ローマ12:9)。
「怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。悪魔にすきを与えてはなりません。」(4:26-27)
<怒ることがあっても、罪を犯してはなりません>というこの勧めは、主イエスの言葉を意識していたとも受け取れます(マタイ5:22、コロサイ3:8)。人間の怒りは、たとい正当なものであったとしても、神の怒りに常に場所を委ねたものでなければなりません。裁きは神がなさるのです。そうでないと、怒ることによって罪を犯すことになります。そのための目安が、「怒り」が翌日まで持ち越されてはならない、ということです。怒りが<悪魔にすきを与えてはなりません>の警告は、再び神に逆らう悪の力の影響を受けないようにということです。悪魔は機に乗じて不和の種をまき、問題をますます大きくするからです。
「盗みを働いていた者は、今からは盗んではいけません。むしろ、労苦して自分の手で正当な収入を得、困っている人々に分け与えるようにしなさい。」(4:28)
次いで、イエスを知らない古き人の性癖は盗みであり、すこしでも得をしたいという欲望ですが、「イエスにおける真実」(4:21)を表すものとして単に「盗まない」という消極的なものではなく、積極的に「困っている人々と分かち合う」ことを実践するように励ましています。
「悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい。」(4:29)
<悪い言葉(原語は「実のない言葉」)を口から出さないという勧めは、人の徳を高めるためという動機づけがなされています。キリスト者は御霊に導かれてそのために絶えず努力し、自らの言葉について常に反省する者でなければなりません。
「神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、聖霊により、贖いの日に対して保証されているのです。」(4:30)
「贖いの日」とは、「わたしたちが神の国をつぐ」日(1:14)、「やがて神につける者が全くあがなわれ、神の栄光をほめたたえる」日、即ち、終わりの日のことです。「聖霊により…保証されて」とは、キリスト者が「聖徒」の証印を押されてその品質を保証された者である、ということです。
「神の聖霊を悲しませてはいけません」とは、キリスト者が罪を犯す時、悲しみ苦しむのは彼自身だけではなく、誰よりも第一に、神の御霊御自身なのです。親が子の非行や犯罪を悲しみ、苦しむように、御霊は嘆くのです。御霊はうめきながらわたしたちのために執成しの祈りをなさるのです。だから、「神の聖霊を悲しませてはいけない」のです。
「無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい。互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。」(4:31-32)
最後に、「古き人」であるがゆえにおこる<無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなど>の悪い性癖を、<一切の悪意>と一緒に<捨て>ることを勧めています。自分の声を抑えることを学び、舌を制することを知り、一切の悪意を捨て去ることを務めることが御霊に導かれた者の生活です。そしてこれらに取って代わるものとして、親切、憐れみ、ゆるしの精神をあげています。そして<神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい>と語られています。
滅びに向かっていた「古い人」を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、キリストに結ばれた「新しい人」としての自覚に立ち、愛に根ざした正しい清い生活を送り、救いの御業が多くの人々に及ぶように、福音を伝えていく使命をわたしたちは与えられています。わたしたちは御霊のバプテスマを受け、御霊の教えに導かれ、また御霊の宮とされました。それゆえ、御霊が喜ぶように、御霊の思うところに導かれ、御霊に従うと言うことが、キリスト者の生活です。人を幸せにするのは、キリストと共に生きることであり、聖霊の働きをいただいて愛に生きることです。わたしたちが主の栄光を現わすことができるよう、聖霊の助けを祈り求めましょう。