富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「わたしたちは神に属する者」ヨハネの手紙一5章10~21節

2024-08-28 22:05:45 | キリスト教

   ↑ わたしたちは神に属する者ですが、この世全体が         悪い者の支配下にあるのです。」(ヨハネ一、5章19節)

  〒981-3302 宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 

           TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

   日本福音教団 富 谷 教 会 週 報

聖霊降臨節16主日 2024年9月1日(日)午後3時~3時50分

      礼 拝 順 序                

前 奏                辺見トモ子姉

司 会                齋藤 美保姉

讃美歌(21)  214(わが魂(たま)のひかり)

交読詩篇    65(沈黙してあなたに向い、賛美をささげます)

主の祈り    93-5、A

使徒信条    93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)ヨハネの手紙一5章10~21節(新p.446)

説 教  「わたしたちは神に属する者」 辺見宗邦牧師

祈 祷

讃美歌(21)  521(とらえたまえ、われらを)

献 金

感謝祈祷

頌 栄(21)   27(父・子・聖霊の)

     オン・ラインで礼拝に参加希望の方は、090-3365-3019(牧師携帯)                  

     へ申し込み下さい。歓迎いたします。

         次週礼拝 9月8日(日)午後3時~3時50分

         聖 書 ぺトロの手紙一2章11~25節

         説教題   「上に立つ人々」

         讃美歌(21)459 543 27 詩編 23

 本日の聖書 ヨハネの手紙一5章10~21節

 10神の子を信じる人は、自分の内にこの証しがあり、神を信じない人は、神が御子についてなさった証しを信じていないため、神を偽り者にしてしまっています。11その証しとは、神が永遠の命をわたしたちに与えられたこと、そして、この命が御子の内にあるということです。12御子と結ばれている人にはこの命があり、神の子と結ばれていない人にはこの命がありません。13神の子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書き送るのは、永遠の命を得ていることを悟らせたいからです。14何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です。15わたしたちは、願い事は何でも聞き入れてくださるということが分かるなら、神に願ったことは既にかなえられていることも分かります。16死に至らない罪を犯している兄弟を見たら、その人のために神に願いなさい。そうすれば、神はその人に命をお与えになります。これは、死に至らない罪を犯している人々の場合です。死に至る罪があります。これについては、神に願うようにとは言いません。17不義はすべて罪です。しかし、死に至らない罪もあります。18わたしたちは知っています。すべて神から生まれた者は罪を犯しません。神からお生まれになった方が、その人を守ってくださり、悪い者は手を触れることができません。19わたしたちは知っています。わたしたちは神に属する者ですが、この世全体が悪い者の支配下にあるのです。20わたしたちは知っています。神の子が来て、真実な方を知る力を与えてくださいました。わたしたちは真実な方の内に、その御子イエス・キリストの内にいるのです。この方こそ、真実の神、永遠の命です。21子たちよ、偶像を避けなさい。

 本日の説教

 ヨハネによる福音書とヨハネの手紙は、用いられている用語や表現などが極めて似ているところから、同じ教会(仮に「ヨハネの教会」と呼んでいる)の中で成立したと考えられています。ヨハネによる福音書は、イエスの十二弟子の一人のヨハネの権威の下に、ユダヤ教の会堂の人達に対してキリスト教の神の独り子イエス・キリストを明らかにするために、紀元80年後半から90年頃にかけて書かれました。一方、ヨハネの手紙(一、二、三)は、この教会で福音書の読み方について福音理解の誤りが生じ、異端の問題が危機として襲いました。これに対応するために書かれたのがヨハネの手紙です。この手紙は、この教会の指導的位置にあったユダヤ人キリスト者の長老が、真の信仰を土台に教会を再建するため、紀元100年前後に書いた勧告や手紙です。

 ヨハネの手紙一は手紙というより勧告であり説教のようなものとして書かれています。ヨハネの手紙二、三は、長老が個人に宛てて書いた短い手紙です。書かれた順序としては、ヨハネの手紙三が最初で、つぎに手紙二、最後に手紙一が、手紙というよりは神学的主張と勧告として書かれたと思われています。

 ヨハネの手紙一は、5章から成る、親しみのある手紙です。信徒の「交わり」を教え、その基礎は「父と御子イエス・キリストとのまじわり」(1:3)です。この交わりにある者は、<光の中を歩く者>、キリストの戒めである「愛」の実行者です。この手紙は愛について単純に強く教えています(3:16-18)。4:7-21は、キリスト教の愛の本質を示した有名な部分です。愛は神から出て、キリストの十字架において具体化されています。このキリストの愛にならって兄弟を愛する者が、神を愛し神を信じる者です。この手紙も、当時の教会を悩ましていたグノ―シス的異端と戦い、イエスの受肉と地上の生活を強調し、放縦な自由主義を戒めています。

 5:5では、<だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか>と力強い問いかけがなされています。<イエスが神の子であると信じる者>と言うのは、おそらく2:22-23に見られるイエスのメシア性を否定する者たち、御父と御子を認めないという異端の立場に対立して語っている言葉と推定されます。

 5:6以下には、イエス・キリストは、<水と血>とをとおってこられた方です、とあります。<水と血>をとおってこられた方とは、バプテスマと十字架の死を受けられ方である、ということです。つまり、イエス・キリストが完全に人間として生まれ、人間として死んだ、まことの人となられた方(受肉者)であるということです。イエス・キリストの十字架の死によるわたしたちの罪の赦し(罪をあがなう死)の事実を表すと同時に、この手紙の読者である信徒たちにとっても、現在、彼らがあずかるバプテスマと聖餐において生けるイエス・キリストとして、その人々の許に来ることが起こることを指し示していると考えられます。偽預言者たちのさまざまな異端の考え方を否定しています。

 その証し(確かであるという証明)をするのは、真理の御霊です。イエス・キリストという歴史的人物・その生涯を通して示される聖霊の証しです。また。洗礼や聖餐という聖礼典において現在も確かめることができる、御子について立てられた証しです。<水>と<血>と<御霊>の三つが一致して御子について立てられた証しです。

 これは地上の証言ですが、神の証しはさらにまさっています(9節)。その内容については語っていませんが、福音書から類推すると、その証しの内容は十字架と復活であり、それを通して神とイエス・キリストと教会(弟子たち)とが一つであると考えられます。

 そして、今日の聖書の箇所に入ります。

 「神の子を信じる人は、自分の内にこの証しがあり、神を信じない人は、神が御子についてなさった証しを信じていないため、神を偽り者にしてしまっています。」(5章10節) 

 神の子を信じる人と神を信じない人とが対比されています。当然、イエスを神の子と信じる人は神を信じることになり、その人の内には水と血と霊との三つが働いていることを指しています。神が御子イエス・キリストを十字架につけてまで人々の罪を赦し、救おうとされたのに、その証しを信ぜず、神の愛を受け入れない人は、神を信じられず、その頑なさによって、神の証しを偽りだとし、神御自身を偽り者としていることになるのだと警告しています。これは直接にはグノーシス的キリスト者に対する厳しい批判なのです。彼らはイエス・キリストが血を通って来られたこと、つまり十字架における神の厳しい裁きと無条件の愛を受け入れないからです。

 「その証しとは、神が永遠の命をわたしたちに与えられたこと、そして、この命が御子の内にあるということです。」(11節)

 <その証し>の内容とは、イエスの十字架のあがないの死による罪の赦しと死者からの復活において、神が人間に与えてくださったのは<永遠の命>を生き始めるという恵みです。そして、<この命が御子の内にあるということです>。

 「御子と結ばれている人にはこの命があり、神の子と結ばれていない人にはこの命がありません。」(12節)

 イエス・キリストの十字架を通して私たちの罪と虚無を、神との断絶を、生の無意味さを徹底的にあばき示されました。これが神の裁きである。しかし、この私たちの現実を認めることが出来るのは、私たちがイエス・キリストの復活を通して、この罪と虚無と生の無意味さから解放され、私たちの生が神によって認められていることを知る時のみです。私たちはこれをただイエス・キリストを通してのみ知るのです。

 神と人との交わりが和解を得て回復されたのは御子イエス・キリストの贖罪(罪を赦すイエスのあがないの死)によるのだから、イエスぬきには永遠の命をもつことは出来ません。キリストと結ばれていない者には永遠の命はありません。

 「神の子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書き送るのは、永遠の命を得ていることを悟らせたいからです。」(13節)

 13節はこの手紙の「結語」と言われます。全体が回顧されつつ、執筆の目的が改めて語られます。この手紙の読者たちは、惑わす者や偽預言者たちの活動によっても、ある者たちのように教会から出てゆくことをせず踏みとどまった人々です。そのあなたがたにとってはその<永遠の命>を得ていることを悟らせ、その恵みの事実について気付かせることが手紙を送った動機であり目的だと述べています。

永遠の命は終末において、将来与えられるものというのではなく、イエス・キリストがこの世に来たことによって始まった終末の時の中で、主イエスによって与えられる永遠の命に生かされるということであって、罪の結果としての死、滅びを経験しないということです。生きるにも、死ぬにも、イエス・キリストと共にあり、その命に与って生きるということです。

 「何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です。」(14節)

 <神の御心(みこころ)>に適う願いであるなら、どんな願いでも神は、その願い、その祈りを聞き入れてくださる、というのが神に対するわたしたちの確信です、と述べています。<神の御心に適う>とは、「わたしたちが神の掟を守り、御心に適うことを、行っているから」(3・22)です。「その掟とは、キリストを信じ、互いに愛し合うことです」とあります。神に対するこの確信と信頼をもって祈ることができることはなんと力強い励ましでしょうか。このことを信じて 忍耐深く祈り続けましょう。人間の自然的欲求の赴くままに何を祈ってもよいという事を意味してはいません。人間の欲望に奉仕する神は偶像です。

 「わたしたちは、願い事は何でも聞き入れてくださるということが分かるなら、神に願ったことは既にかなえられていることも分かります。」(15節)

 人間にとって根源的な必要は神との交わりの回復でした。それを人間の罪が妨げていました。その罪を御子は取り除いてくださったのです。その根源的な必要、祈りを神は聞き届け、その願いをかなえてくださっておられます。そのことが基盤にあるので、他のすべてのことにおいても、<神に願ったことは既にかなえられていることも分かる>、というのです。

 「死に至らない罪を犯している兄弟を見たら、その人のために神に願いなさい。そうすれば、神はその人に命をお与えになります。これは、死に至らない罪を犯している人々の場合です。死に至る罪があります。これについては、神に願うようにとは言いません。」(16節)

 <死に至らない罪>と<死に至る罪>とが対比されています。<死に至る罪>とは、おそらくキリストを否定する罪を言うようです。具体的には、反キリスト、惑わす者、偽預言者らとその輩を指しているようです。

 <死にいたらない罪>を犯している兄弟たちへの執り成しの祈りが勧められています。弱さや無知や過失によって犯された罪に苦しむ人を見たら<願い求めなさい>と勧めています。キリスト者の交わりとは、このようなとりなし、またとりなされる祈りの交わりに他なりません。こうしてこそ罪人は<命>へと回復されるのです。

 「不義はすべて罪です。しかし、死に至らない罪もあります。」(17節)

 1章9節では、「自分の罪を公に言い表すなら、神は…罪を赦し、あらゆる<不義>から清めてくださいます」とあります。また、3章4節で言われているように、<不義>とは、法に背くことです。御子は罪を除くために現れたのです。

 次に、「わたしたちは知っています」と、三つの確信が語られます。

 「わたしたちは知っています。すべて神から生まれた者は罪を犯しません。神からお生まれになった方が、その人を守ってくださり、悪い者は手を触れることができません。」(18節)

 第一の確信は、<神から生まれた者>は罪を犯さないということです。その根拠は、キリストが神と共にその人たちの中に住み一体となってくださるのだから、その保護により、悪魔も手をふれることができない、と言っています。

 「わたしたちは神に属する者ですが、この世全体が悪い者の支配下にあるのです。」(19節)

 第二の確信は、わたしたちは<神に属する者>ですが、この世は悪魔と罪と死が支配している闇の世界です。しかし、この闇に打ち勝つ勝利がすでにイエス・キリストの十字架と復活によって確定されていることを信じ、そこに希望をおいて証し続けるのが神に属するわたしたちです。

 「神の子が来て、真実な方を知る力を与えてくださいました。わたしたちは真実な方の内に、その御子イエス・キリストの内にいるのです。この方こそ、真実の神、永遠の命です。」(20節)

 第三の確信は、神の子イエスがこの世に来てくださって、<真実な方>である神を示し、神を知る力、すなわち御霊を与えてくださいました。そして信じる者は、この<真実な方>なる神の内におり、また、<その御子イエス・キリスト>の内におると言うのです。神とキリストと教会との一体性がここでも明言されています。この方は、<真実の神であり、永遠の命>です、イエスを神とする告白があります。キリストもその本質においては、父なる神と区別はないことを表しています。

 「子たちよ、偶像を避けなさい。」(21節)

 最後に、<偶像を避けなさい>との勧めがなされます。<偶像>とは、神ならぬものを神として拝することです。旧約聖書の歴史は偶像崇拝との戦いでした。今ヨハネの教会において戦われているのも、神ならぬものを神とする異端との戦いなのです。そして、わたしたちの戦いもまた<偶像>との戦いです。この日本にはまことの神でない偶像が祭られ、偶像を拝する人が満ちています。神仏の偶像だけではなく、「貪欲(むさぼり)」もまた、偶像(コロサイ3:5)です。わたしたたちはこれらの偶像を避けなければなりません。

 信仰者の世に生きる現実は、罪の世のただ中で、自分の弱さのために罪を犯す事態に引きずり込まれて悩み、失望することがあるかもしれません。しかし、信仰者は聖霊によって、「イエスは主である」と告白し、その罪を赦された者であり、洗礼において古い自分はすでに十字架につけられ、主イエスとともに死んで葬られ、主イエスの復活にあずかって新しい命に生きている者です。キリストと一体にされているゆえに、悪魔も手を出すことはできないことを覚えつつ、神から生まれた、<神に属する者>(5:19)として神の栄光を現す生涯を送りましょう。

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「新しい人間」エフェソの信徒への手紙5章11~20節

2024-08-20 21:56:09 | キリスト教

    いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい。」 (エフェソ5章20節)

〒981-3302 宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 

           TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

  日本福音教団 富 谷 教 会 週 報

聖霊降臨節15主日 2024年8月25日(日)午後3時~3時50分

      礼 拝 順 序                

前 奏                辺見トモ子姉

司 会                辺見宗邦牧師

讃美歌(21)   220(日かげしずかに)

交読詩篇    98(新しい歌を主に向かって歌え)

主の祈り    93-5、A

使徒信条    93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)エフェソの信徒への手紙5章11~20節(新p.358)

説 教      「新しい人間」   辺見宗邦牧師

祈 祷

讃美歌(21)  461(みめぐみゆたけき)

献 金

感謝祈祷

頌 栄(21)   27(父・子・聖霊の)

        オン・ラインで礼拝に参加希望の方は、090-3365-3019

        (牧師携帯)へ申し込み下さい。歓迎いたします。

       次週礼拝 9月1日(日)午後3時~3時50分

        聖 書 ヨハネの手紙一5章10~21節

        説教題   「神に属する者」

        讃美歌(21)214 521 27 詩編 65

 本日の聖書 エフェソの信徒への手紙5章11~20節

 5:11実を結ばない暗闇の業に加わらないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。12彼らがひそかに行っているのは、口にするのも恥ずかしいことなのです。13しかし、すべてのものは光にさらされて、明らかにされます。14明らかにされるものはみな、光となるのです。それで、こう言われています。「眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる。」15愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい。16時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです。17だから、無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい。18酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです。むしろ、霊に満たされ、19詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。20そして、いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい。

  本日の説教

 この手紙は紀元80年代に編纂されました。エフェソ書は他のパウロの手紙と比較して語彙や文体、さらに思想などに変化があります。ガラテヤ書やローマ書の主題であった信仰のみによる救いや義認の教えなどの論争は影をひそめ、おだやかな調和と一致への教えとなっています

 著者については、パウロ自身の真正な手紙であるとする立場があります。文体の相違は、秘書や書記を通じて書かれたことによる変化とも思われます。秘書として、フィレモン書の奴隷オネシモや、エフェソ出身のテキコ、あるいは、長年の協力者であったテモテなどが考えられます。

 この手紙は、フィリピ書、コロサイ書、フィレモン書と共に、「獄中書簡」と呼ばれてきました。使徒パウロが牢に繋がれた場所は、ローマ、カイサリア、エフェソの三つの都市があげられています。

 しかし、著者は、パウロの弟子がパウロの名を借りて書いたものとする立場があります。いずれにしても、この手紙の差出人はユダヤ教出身者で、読者はユダヤ教とは関係のない人々が大半を占めていたと推察されます。

 今日の聖書の箇所は、5章6節以下の「光の子として生きる」という勧めに続き、キリスト者の生活の具体的な教えと移っていきます。

 「実を結ばない暗闇の業に加わらないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。彼らがひそかに行っているのは、口にするのも恥ずかしいことなのです。しかし、すべてのものは光にさらされて、明らかにされます。」(5:11-13)

 <実を結ばない暗闇の業>は、人間生活の目的のために何ももたらしません。<闇>は、そうしたわざが行われる闇の領域を意味するだけでなく、<ひそかに行われること>(12節)、それを行う人自身をも表します。<やみのわざに加わる>とは仲間にならないことを意味します。そのために必要なことは、やみのわざを指摘し、それを明るみにだすことです。罪を明らかにし、認めさせることは、キリスト者が悪いわざをともにしないこと、主の光によって導かれている別の生き方について彼らが証することによってなされます。

 キリスト者の存在はキリストにあって光であり、やみの世界に影響力をもつ者となっているのです。神のことばは人間と世界の醜い状態を暴露し、いっさいをさらけ出すことの中で悔い改めに人を導きます。

 「明らかにされるものはみな、光となるのです。それで、こう言われています。『眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる。』」(5:14)

 <明らかにされるものはみな、光となるのです>は、光によって明らかにされるものは光の中にあるように、8節の「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています」ということを表しているようです。また、暗い目標に光を絶え間なく注ぐと、それを光のように変えるので、異教社会に対するキリスト者の良き努力は、初めははずかしめられるであろうが、ついにはそれを清めることを表していると思われます。

 次の<眠りにいている者>の最初の二行の<起きよ><立ち上がれ>は、罪と死との異教の眠りからさめるように、との呼びかけであり、キリストが彼の真実の救いの光を、回心者の上に照らすであろうという約束を伴っています。キリストの光が死と暗黒の中にいるものを新しいいのちの中によみがえらせるのです。

 「愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい。」(5:15)

 賢さとは神から与えられた知恵をもって生きることです。彼は正しく判断する能力をもち状況を観察し、決して自己の主観的感情に溺れません。彼はすでに「あらゆる不義と悪と貪欲と悪意」を捨て、新しい人を着たのです。ヤコブ(ヤコブの手紙3:13~17)も「上からの知恵」と「地上の知恵」とを分けています。上からの知恵は、<柔和、純真で、更に、温和で、優しく、従順なものです。憐れみと良い実に満ちています。偏見はなく、偽善的でもありません>。地上の知恵は、<ねたみや利己心、自慢や混乱、あらゆる悪い行い>です。

 「時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです。」(5:16)

 <時をよく用いる>とは、キリスト者は自分の<おわり>と向きあいつつ、残されたあらゆる機会を生かして用い、主の御心を実践することです。

 「無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい。」(5:17)

 分別のある者とは、主のみ旨を悟っている者のことです。キリスト者の生き方、どのように生きるのか、その基準は「主の御心」にあります。それを知らない者が<無分別な者>です。善い悪いということの基準、物差しは、主の御心に適うかどうかということにあります。<主の御心>は、聖書を通して示されています。パウロは「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が主の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい(ロ-マ12章2節)。」と教えています。

 「酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです。」(5:18)

 キリストへの服従は生活に歓喜をもたらし、判断と決断をより賢明にさせます。それは酒に酔う以上のすぐれた喜びを与えます。パウロは飲酒を禁ずるために酒に酔うなと言ったのではありません。御霊による喜びと陶酔を排除し、喜びの提供を手近なところに求める心根のいやしさを戒めたのです。わたしたちは肉の喜びに対し、霊の喜びがあることを知らねばなりません。 

 「むしろ、霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。」(5:19)

 <霊に満たされる>とは、私たちの霊と体が、全く御霊の支配のもとに置かれ、しかも常にそのような状態にあることです。教会で<詩編と賛歌と霊的な歌>があふれるだけでなく、日々昼も夜も、主に向かって心から歌い、賛美する生活を送ることが大切です。「わたしたちの神をほめ歌うのはいかに喜ばしく、神への賛美はいかに美しく快いことか。」(詩編147:1)とあります。<語り合い>とは、共同の告白をもとに生きる教会の姿です。

 「そして、いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい。」(5:20)

 感謝することは讃美と密接に結びついています。コロサイ書3・15-17でも、キリスト者は父なる神に感謝しつつ「言葉とわざをもって何を行うにせよ」、すべてを主イエスの名において行うべきである、とあります。著者は、共同の礼拝を、キリスト者のいのちの源として考えています。いつも<主イエス・キリストの名により>すべてのことを感謝することは、教会の御霊に満たされる礼拝を指し示します。

 ほかの人々の営みは酒による酩酊によって特徴づけられているが、キリスト者には別の酩酊、すなわち神の御霊が生み出す「冷静な酩酊」があります(18節)。御霊が生み出す「冷静な酩酊とは、礼拝に集まった人々が心の奥に火を灯され、主に賛美と感謝の歌を歌い(19節)、神の選び、救い、よい導きにあずかっている恵みを思いつつイエス・キリストの名により父なる神にいつもすべてのことについて感謝するとき(20節)、礼拝の中に現れます。キリスト者の感謝は日曜日の礼拝にだけ限られてはなりません。それは神がわれわれに与えたもうすべてのことによって、毎日なされなければなりません。

 私たちは神に願い事の祈りを捧げることが多いのではないでしょうか。しかし、それ以上に常に神を第一に考え、神に感謝し、神を賛美することが大切ではないでしょうか。

 「キリストに結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」(コリント二、5:17)

 滅びに向かっていた「古い人」を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、キリストに結ばれた「新しい人間」としての自覚に立ち、愛に根ざした正しい清い生活を送り、救いの御業が多くの人々に及ぶように福音を伝えていこうではありませんか。人を幸せにするのは、キリストと共に生きることであり、聖霊の働きをいただいて愛に生きることにあると思わせられます。

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「霊に従う生活」ローマの信徒への手紙7章1~6節

2024-08-15 16:28:54 | キリスト教

   ↑ 「(今は律法から解放されています。)その結果、文字に従う古い生き方ではなく、に従う新しい生き方で仕えるようになっているのです。」7章6節

〒981-3302 宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 

TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

  日本福音教団 富 谷 教 会 週 報

聖霊降臨節14主日 2024年8月18日(日)午後3時~3時50分

      礼 拝 順 序                

前 奏                辺見トモ子姉

司 会                斎藤 美保姉

讃美歌(21)   475(あめなるよろこび)

交読詩篇    87(聖なる山に基を置き、主がヤコブのすべての住まい

                にまさって愛されるシオンの城門よ)

主の祈り    93-5、A

使徒信条    93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)ローマの信徒への手紙7章1~6節(新p.282)

説 教     「霊に従う生活」   辺見宗邦牧師

祈 祷

讃美歌(21)  342(神の霊よ、今くだり)

献 金

感謝祈祷

頌 栄(21)   27(父・子・聖霊の)

       オン・ラインで礼拝に参加希望の方は、090-3365-3019

       牧師携帯)へ申し込み下さい。歓迎いたします。

        次週礼拝 8月25日(日)午後3時~3時50分

        聖 書 エフェソの信徒への手紙5章11~20節

        説教題   「新しい人間」

        讃美歌(21)461 220 27 詩編 98

  本日の聖書 ローマの信徒への手紙7章1~6節

 1それとも、兄弟たち、わたしは律法を知っている人々に話しているのですが、律法とは、人を生きている間だけ支配するものであることを知らないのですか。2結婚した女は、夫の生存中は律法によって夫に結ばれているが、夫が死ねば、自分を夫に結び付けていた律法から解放されるのです。3従って、夫の生存中、他の男と一緒になれば、姦通の女と言われますが、夫が死ねば、この律法から自由なので、他の男と一緒になっても姦通の女とはなりません。4ところで、兄弟たち、あなたがたも、キリストの体に結ばれて、律法に対しては死んだ者となっています。それは、あなたがたが、他の方、つまり、死者の中から復活させられた方のものとなり、こうして、わたしたちが神に対して実を結ぶようになるためなのです。5わたしたちが肉に従って生きている間は、罪へ誘う欲情が律法によって五体の中に働き、死に至る実を結んでいました。6しかし今は、わたしたちは、自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、律法から解放されています。その結果、文字に従う古い生き方ではなく、“霊”に従う新しい生き方で仕えるようになっているのです。

 本日の説教

 ローマの信徒への手紙の第一部は、1章18節から5章21節にかけてです。パウロはイエス・キリストを信じる信仰によって神に正しい者と認められる「信仰義認」について力強く述べます。

 第二部は、6章1節から8章39節にかけてです。「キリスト者の義認の現実」について述べます。最初の段落(6章)で、キリスト者の存在を「洗礼の現実」から述べます。罪の問題と信仰者が罪に死に、罪の支配から解放されて、キリストに生きる自由について語りました。

 7章では、律法からの自由、律法から解放されるときに救いがあることを語ります。今日の聖書の箇所は、信仰によって義とされた者が律法とその働きの下にはなく、聖霊の支配の下にあることを結婚関係の譬えを通して語っています。

 「それとも、兄弟たち、わたしは律法を知っている人々に話しているのですが、律法とは、人を生きている間だけ支配するものであることを知らないのですか。」(7:1)

 <律法を知っている人々>はユダヤ人キリスト者を指します。パウロは5章20節で、「律法が入り込んで来たのは、罪が増し加わるためであり、しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました」と、キリストによって義とされる恵みについて述べました。

 しかし、この救いの恵みが誤解され、罪への居直りとして誤用されるのではないか、とパウロは思ったのです。つまりキリスト者は、律法も何もないのなら、何の心配もなく自由気ままにすることにならないか、というパウロに敵対し誤解した人々の非難が背後に存在したと考えられます。

 7章1節の<それともあなたがたは知らないのですか>という言い回しは、6章1~3節の、<恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか。決してそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なお罪の中に生きることができるでしょう。それともあなたがは知らないのですか>と、パウロは6章1~2節で持ち出された抗議にたいする相手の誤りを7章で論じるのです。

 パウロに批判的な読者たちに対して、1節と4節で二度も続けて「兄弟たち」と親しく呼び掛けます。彼らは律法を知っている人達です。彼らは律法が人間に対して効力を持っているのは生きている間だけであると知ってる人たちです。1節での一般的な主張は、自分の死をもって律法の拘束力から自由になる人間を想定しています。

 「結婚した女は、夫の生存中は律法によって夫に結ばれているが、夫が死ねば、自分を夫に結び付けていた律法から解放されるのです。」(7:2)

 1節のような一般的な規則をあげるとともに、2節のように結婚した女性に関する律法の規定を思い起させることによってもパウロは少なくとも特別に律法を知っているという兄弟たちの注意をひきます。結婚した女は、夫の生存中は律法によって夫と結ばれているが、しかし夫が死ねば、この律法から解放されるのです。

 「従って、夫の生存中、他の男と一緒になれば、姦通の女と言われますが、夫が死ねば、この律法から自由なので、他の男と一緒になっても姦通の女とはなりません。」(7:3)

 妻は夫が生存中に他の男と一緒になれば姦通の女と言われるが、夫が死ねば、この律法から自由になるので、他の男と一緒になっても姦通の女とはなりません。彼女は夫の死をもってこの律法から解放されるのです。2-3節では、「律法の死」を、夫の死になぞらえて論証したのです。

 律法そのものは聖であるので、律法そのものが、罪ではありません。律法は人間を不自由にするため、人間を規則にがんじがらめにするためではなく、神の愛のあらわれなのです。律法が罪を引き起こすのは、私たちの律法に対するかかわり方であり、それが「律法主義」だからです。

 「律法主義」は、第一に法律、戒律さえ守っていれば良いとし、神から罰を受ける事はないとし、心の内面はどうであれ、見せ掛けだけの行いに終始し、そのために偽善に陥ります。イエスが痛烈に批判したのはその点です。

 第二に、自分たちだけが律法を厳格に守っているというエリート意識から、しばしば一般の人々を軽蔑するという高慢に陥ります。これもイエスによって痛烈に批判されました。

 第三は、律法を厳格に守ることによって救いを確保しようとしたので、これで果たして良いかどうか、常に一抹の不安をもつということななりました。

 パウロもはじめは律法主義者として熱心でありましたが、キリストに出会うことによって改心し、律法主義から脱出しました。問題なのは、そのような律法主義的な私たちの生き方です。私を死へ導く「律法主義」、そして、その様な生き方を引き起こす「律法そのもの」の死について、どうしても語らなければならないのです。そのために、パウロはここでは「律法の死」を夫の死になぞらえて語ったのです。「キリストは、すべて信じる者に義を得させるために、律法の終わりとなられた」のです(10:4)。

 律法主義に対する私たち日本人の問題は、完全無欠な行為が出来ないことは分かっているが、より完全な人間になろうとする努力を、神は望んでおられるのではないかと考える人が多いことです。そうした努力さえしない人間を神が救ってくださるはずがない、と考えるのです。自分のつつましい努力を、救いの権利の資格として捉えることになり、結局は自分の行為によって義を得ようとする、神の前に自分を誇ろうとする罪がそこに潜むことになるのです。

 行いの実行に頼る人は、だれも神の前で義とされないことは明らかです。「律法の書に書かれているすべての事を絶えず守らない者は皆、呪われている」(申命記27:26)と書いてあるからです。なぜなら「正しい者は信仰によって生きる」からです(ガラテヤ3:11)。私たちが救われるのは、不信心な者を義としてくださる神を信じて救われるのです。ただ、一方的な神の恵みを信じて救われるのです。

 「ところで、兄弟たち、あなたがたも、キリストの体に結ばれて、律法に対しては死んだ者となっています。それは、あなたがたが、他の方、つまり、死者の中から復活させられた方のものとなり、こうして、わたしたちが神に対して実を結ぶようになるためなのです。」(7:4)

 7章4節からは、視点を変えて、律法の死ではなく、律法的な生き方をしていた「私」の死について語ります。信仰者は<キリストの体>を通して起こったこと、つまり十字架において起こり、洗礼と聖餐において現臨する「からだの死」を通して律法に死んだのだから、もはや律法にはしばられない、という主張です。私たちは律法に対して死んでいるから、律法は私に何の権利もない、ということです。律法に対して死んだ私たちは、死者の中から復活した主イエスのものとなり、神に対して実を結ぶようにされたのです。信仰者のキリストと共なる死に目が向けられ、4節では、キリスト者の死と律法からの解放と自由が語られています。

 「わたしたちが肉に従って生きている間は、罪へ誘う欲情が律法によって五体の中に働き、死に至る実を結んでいました」(7:5)

 この<肉に従って生きている間>というのを、ほとんど人は直感的に肉体的欲望とか肉欲とかというふうに解釈してしまいます。パウロが「肉にある」というとき、それは「古き世にある」ということと同じで、律法の支配の下にあることを言い、律法によって生きようとする所、そこに罪が猛威を振うのだということを語っているのです。<罪へ誘う欲情>とは、私たちの自尊心をくすぐる様にして、駆り立てる空しい自分の義の追及のことです。問題は神に対して心を開かないで、いつも自分を中心にして、自分の求める義を求め、自分の義を立ててしまう生き方です。5節では、律法の支配下にあるときは、死のために実を結ばせることでしかないことが語られます。

 「しかし今は、わたしたちは、自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、律法から解放されています。その結果、文字に従う古い生き方ではなく、に従う新しい生き方で仕えるようになっているのです。」(7:6)

 本来律法は神の律法です。その律法を通して、その文字を通して、神の語りかける声を聞かなくてはならないはずです。「殺すな」という文字を通して、「兄弟に対して怒ってはならない」と言う、神の声を聞かなくてはならないはずなのです。しかし、自分の義を求める人間は、そうした神の声を聞かず、律法を表面的な文字に限定し、固定化してしまい、生ける神に仕えることはしないのです。

 従って、律法から解放されるのは、<律法の文字に従う古い生き方>から解放されることなのです。聖霊に従って生きる時、「外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされて」(コリント二、4・16)いきます。霊によって生きる場合には、もはや今までの自分にとらわれず、絶えず自分を捨てていくことができます。自分を捨てていくことが容易になる時、私たちは新しい生き方で神に仕えるようになるのです。このように6節では、キリストの十字架によって私たちが律法から解放される所に、真の生命と力が働くことが語られます。

 最後のこの5と6の二節は、6章1節で始まっている長い議論に決着をつけるものであり、また恵みのもとで霊に従う新しい生き方が示されたのです。

 私たちは、キリストによって、つねに律法主義におちいる傲慢と自己中心を打ち砕いていただき、聖霊に従い神と人に仕えてまいりましょう。

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「神の霊による知恵」コリントの信徒への手紙一2章11節~3章9節

2024-08-06 18:29:47 | キリスト教

〒981-3302 宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12    TEL:022-358-1380                                                                                                 FAX:022-358-1403

     日本福音教団 富 谷 教 会    週 報

聖霊降臨節13主日 2024年8月11日(日)午後3時~3時50分

      礼 拝 順 序                

前 奏                辺見トモ子姉

司 会                斎藤 美保姉

讃美歌(21)   561(平和を求めて)

交読詩篇    15(主よ、どのような人が、あなたの幕屋に宿り)

主の祈り    93-5、A

使徒信条    93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)コリントの信徒への手紙一2章11節~3章9節(新p.301)

説 教      「神の霊による知恵」 辺見宗邦牧師

祈 祷

讃美歌(21)  403(聞けよ、愛と真理の)

献 金

感謝祈祷

頌 栄(21)   27(父・子・聖霊の)

                  オン・ラインで礼拝に参加希望の方は、090-3365-3019(

                      牧師携帯)へ申し込み下さい。歓迎いたします。

          次週礼拝 8月18日(日)午後3時~3時50分

          聖 書 ローマの信徒への手紙7章1~6節

          説教題   「霊に従う生き方」

          讃美歌(21)475 342 27 詩編 87

 本日の聖書 コリントの信徒への手紙一、2章10節~3章9節

 2:10わたしたちには、神が霊によってそのことを明らかに示してくださいました。霊は一切のことを、神の深みさえも究めます。11人の内にある霊以外に、いったいだれが、人のことを知るでしょうか。同じように、神の霊以外に神のことを知る者はいません。12私たちは、世の霊ではなく、神からの霊を受けました。それで私たちは、神から恵みとして与えられたものを知るようになったのです。13そして、わたしたちがこれについて語れるのも、人の知恵に教えられた言葉によるのではなく、霊によって教えられた言葉によっています。つまり、霊的なものによって霊的なことを説明するのです。14自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初めて判断できるからです。15霊の人は一切を判断しますが、その人自身はだれからも判断されたりしません。16「だれが主の思いを知り、主を教えるというのか。」しかし、私たちはキリストの思いを抱いています。

 3:1兄弟たち、私はあなたがたには、霊の人に対するように語ることができず、肉の人、つまり、キリストとの関係では乳飲み子である人々に対するように語りました。2私はあなたがたに乳を飲ませて、固い食物は与えませんでした。まだ固い物を口にすることができなかったからです。いや、今でもできません。3相変わらず肉の人だからです。お互いの間にねたみや争いが絶えない以上、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいる、ということになりはしませんか。4ある人が「私はパウロにつく」と言い、他の人が「私はアポロに」などと言っているとすれば、あなたがたは、ただの人にすぎないではありませんか。5アポロとは何者か。また、パウロとは何者か。この二人は、あなたがたを信仰に導くためにそれぞれ主がお与えになった分に応じて仕えた者です。6私は植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。7ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。8植える者と水を注ぐ者とは一つですが、それぞれが働きに応じて自分の報酬を受け取ることになります。9私たちは神のために力を合わせて働く者であり、あなたがたは神の畑、神の建物なのです。

 本日の説教

 当時コリントの教会には、さまざまな道徳上の問題や分派争いがありました。コリントからエフェソにいるパウロのもとにやってきた人々からコリントの教会の事情を聞き、さらに具体的な問題に関する質問もあったので、パウロがさっそく書いたのがこの手紙です。

 他の手紙と同じように、挨拶(1:1-3)と感謝(1:4-9)につづいて、具体的な勧告に入ります。1章10節から4章21節は、コリントの教会における党派争いに関する箇所で、パウロの思い切った批判、するどい説明がなされます。しかし、単なる非難、告発ではなく、何度も<兄弟たち>とよびかけ、愛による猛省を促します。

 コリントの教会における分派争いの根本原因は、人間的なことを神よりも重大視したところにありました。彼らの中には、<パウロにつく>人々や、<アポロにつく>人々がおり、なかには、<キリスト派>という分派がありました。このような分派争いは、「キリストの十字架を無力なもの」にしてしまうと、パウロは厳しくいましめました。

 コリントの教会には、福音の核心である「十字架」を「知恵」に置き換え、その解釈を誇り、さらに、キリストを「知恵の教師」と見立て、霊的熱狂主義にかき立てることによって「分派争い」を深刻にし、福音を無力なものにしてしまう知恵を誇る人達がいました。コリントの教会には社会的に身分の低い人々が多くいましたが、その人達を党派に引き入れ、自分たちは知恵のあるようにふるまっている人々に対して、パウロは神は知恵ある者に恥をかかせるために、世の無学な者を選び、地位ある者を無力な者とするために選ばれ、救われたのだ、と言いました。それは、だれ一人神の前で誇ることがないようにするめだ、と語ったのです。

 パウロは、哲学の盛んなアテネでは知恵をつくし、工夫をこらして語りましたが、伝道は失敗しました。それでコリントでは、「巧みな知恵のことばによらないで、霊と力との証明によって」伝道することを決意しました。人々から嘲笑されても、キリストの十字架以外のことは語るまいと決心したのです。信仰による真の知恵を生まれながらの人間はうけつけません。霊と力との証明によらなければなりません。その知恵を、パウロは神の与える<霊の賜物>と呼んでいます。人間的なこの世の知恵ではなく、このような真の知恵を私たちに示すのが<キリストの十字架>以外にないことをパウロは確信したのです。

 2章10節以下は、コリントの教会内にいる知恵あるようにふるまっている人達に対し、神から来る聖霊による真の知恵について説きます。 

 「わたしたちには、神が霊によってそのことを明らかに示してくださいました。霊は一切のことを、神の深みさえも究めます。」(2章10節)

 <わたしたち>とは、パウロを含む<神を愛する者たち>(2:9)です。<そのことを明らかに示した>とは、神の隠された真の知恵です。十字架につけられたキリストが<栄光の主>(2・8)であるという知恵です。そのことを、神はわたしたちに神の霊によって明らかにされました。この世の知者や支配者たちが、この知恵を理解していたなら、<栄光の主イエスを十字架につけはしなかったでしょう>。

 <神の霊>、<神からの霊>(2・10)は、神を信じるすべての者の<内に宿る>(ローマ8・9)霊でもあります。パウロはローマの信徒への手紙で、神の霊は人間の全生活を新たにする力として説いています。しかしこの場合は、それは人間の心に入って、すべての事、<神の深み>さえも探り知る働きをするというのです。被造物も知ることのできない神の人類に対する計画を示し教えるものは、実にこの神の霊の外にはないのです。

 「人の内にある霊以外に、いったいだれが、人のことを知るでしょうか。同じように、神の霊以外に神のことを知る者はいません。」(11節)

 個々人が考えていることは、その人以外に知ることができないように、神のみが神についての真実を知り、伝えることができるのです。この深い神の真実を知る霊が、私たち信仰者に与えられているのです。

 「私たちは、世の霊ではなく、神からの霊を受けました。それで私たちは、神から恵みとして与えられたものを知るようになったのです。」(12節)

 私たちは、<この世の霊>ではなく、<神からの霊>を受けました。それで私たちは、<神から恵みとして与えられたもの>、すなわち、神がキリスト・イエスを通して人類に授け給う救いの恵みを悟るようになりました。しかるに世の多くの人々はこの神の恵みを知りません。

 「そして、わたしたちがこれについて語れるのも、人の知恵に教えられた言葉によるのではなく、霊によって教えられた言葉によっています。つまり、霊的なものによって霊的なことを説明するのです。」(13節)

 この<神からの恵み>・福音は個人の胸の中に、あるいは小さな教会の内に秘めておくべきではありません。ひろく万民に伝えなければならない喜びの音信です。<これについて>大胆に語れるのも、<人の知恵に教えられた言葉による>のでも、人間的な弁舌の技巧によるものでもありません。神の霊感を受けつつ語る言葉によらなければなりません。<御霊の賜物について語る>場合には、<御霊の教える言葉>以外には語ることができません。

 「自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初めて判断できるからです。」(14節)

 <自然の人>・生まれながらの人は、神の霊から離れて、自然の状態で生きており、真理を知らないで生きています。<自然の人>の心は、霊に属する福音の宣教を受け入れません。なぜならそれは愚かに聞こえるからです。彼は霊的真理を理解できないからです。霊的真理は霊によって判断されるべきだからです。

 「霊の人は一切を判断しますが、その人自身はだれからも判断されたりしません。」(15節)

 人は神の霊を受けることによって、すべてのものを正しく判断するように導かれます。この世界と人間、自己自身を含めてそれらがいかなる者の権威のもとに置かれているかを洞察し、現実的に、公正に「すべてのものを判断します。しかしその人自身は、だれからも判断されたりしません。<生まれながらの人にとって、その人は謎的存在(「愚か」)になるのです。

 「『だれが主の思いを知り、主を教えるというのか。』しかし、私たちはキリストの思いを抱いています。」(16節)

 パウロはイザヤ書40章13節を引用します。「主の心を測りうる者があろうか。だれもいない」という否定的な答えを仮定しています。神の霊以外に神の深みをうかがい知る者は誰もいません。私たちキリスト者は霊を受けたのだから、「キリストの思い(霊)を抱いている」のであり、私たち、霊を受けた者が知っているのです。

 「兄弟たち、私はあなたがたには、霊の人に対するように語ることができず、肉の人、つまり、キリストとの関係では乳飲み子である人々に対するように語りました。」(3章1節)

 特別な霊の賜物を受け完全なものになったという彼らの主張に対する批判を込めて、パウロはコリントの信徒たちに<霊の人に対するように語ることができず、肉の人、……に対するように語>らざるを得ないと言います。その理由は彼らの<間にねたみや争いが絶えない>からです。このような状態は、彼らが他の弱い信徒や教会外の人々を見下して<肉の人>また<ただの人>(3:3)と言い、自らを<成熟した人>(2:6)と呼ぶことをゆるしません。彼らこそ、むしろ未熟な者、<乳飲み子>にすぎません。

 「私はあなたがたに乳を飲ませて、固い食物は与えませんでした。まだ固い物を口にすることができなかったからです。いや、今でもできません。」(2節)

 <固い食物>はここでは2:6-16でふれられている<神秘としての神の知恵>を指します。コリントの信徒たちが、パウロの宣べ伝えたキリストの福音をいわば信仰の入り口とみて、パウロが去った後、論敵の影響によってそれを越えてさらに高い信仰の段階に到達したと思い込み誇ったことに対する辛辣な皮肉と思われます。しかしパウロにすれば、あのキリストの福音は、さらに高い段階へと向かう入り口として越えられてしまうようなものではなく、信仰の基本であり、土台です。パウロが十字架のキリストのみを語り続けたのは、それしか知らないためではなく、彼らが<固い物を口にすることができなかったから>であり、彼らはいまだにできないのです。

 「相変わらず肉の人だからです。お互いの間にねたみや争いが絶えない以上、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいる、ということになりはしませんか。」(3節)

 <ねたみ>と訳されている言葉は、宗教的な「熱心」をも意味します。コリントの人々は宗教的熱心さに動機づけられて真剣な神学的理解や、宗教的実践をめぐる教会を分裂させるような問題で争っていたのです。<ねたみ>とは、ささいなことをめぐってコリントの人々がねたみをもって口論していた、というのではありません。<肉の人>とは、教会内で競争し、不統一をもたらす人です。彼らの間に<ねたみや争いが絶えないのは、まだ<肉の人>なのです。彼らは聖霊によって心を動かされ、福音を信じる者となり、キリスト教の基本の教えについては一応知識を得ていたが、一向に神の奥義を知るに至らず、ただの人として歩んでいる人たちだったので、パウロはあなたがたは、霊的に未熟な「肉の人」だと非難したのです。

 「ある人が『私はパウロにつく』と言い、他の人が『私はアポロに』などと言っているとすれば、あなたがたは、ただの人にすぎないではありませんか。」(4節)

 コリントの人々は「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」(アポロは使18:24によると、アレキサンドリア生まれのユダヤ人雄弁家)という党派意識を持っていました。パウロはこのようなコリントの信徒を、<ただの人にすぎない>と批判し、キリストの霊による「キリストの思い」を抱かせ、彼らの霊的な誇りを戒めたのです。

 「アポロとは何者か。また、パウロとは何者か。この二人は、あなたがたを信仰に導くためにそれぞれ主がお与えになった分に応じて仕えた者です。」(5節)

 パウロは、「アポロとは何者か。また、パウロとは何者か。この二人は、あなたがたを信仰に導くためにそれぞれ主がお与えになった分に応じて仕えた者です」と語りかけます。重要なのは宣教者ではなく神なのだ、ということです。

 「私は植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。」(6節)

 彼らは作物を植えたり、耕す務めを与えられた農業労働者です。パウロは最初に現場に到着し、コリントに教会を建てました。そのことを<私は植え>と表現しています。そしてアポロは後から来て、その作物に水をやりました。しかしおのおのは神から割り当てられた務めを果たしたに過ぎません。彼らの努力は神から指示と能力を与えられなければ、全く役に立ちません。

 「ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。」(7節)

 農業労働者はやるように言われたことはできるが、種を芽生えさせることはできません。それは神の不思議な力によるのです。福音の言葉を根づかせ、信仰の生きた共同体を生じさせるのは、神です。

 「植える者と水を注ぐ者とは一つですが、それぞれが働きに応じて自分の報酬を受け取ることになります。」(8節)

 「植える者と水を注ぐ者は一つです」とは、この人々の努力が一つの農作業を補い合うということです。協力、団結を強調したパウロは、彼らは自分の働きを自分の手柄として主張することはできないが、労苦に対しては、神の最後の日における<報酬>を期待することは認めています。

 「(なぜなら)私たちは神のために力を合わせて働く者であり、あなたがたは神の畑、神の建物なのです。」(9節)

 植える者も水を注ぐ者も両者は<神のために力を合わせて働く者であ>ると強調します。この農業の譬えは、コリントの信徒と使徒の関係を、その働き手とその対象というふうに、神を媒介とした関係としてとらえ、<あなたがたは神の畑>であると結論します。教会は神の畑なのです。大切なのは、豊作をもたらす作物の栽培です。教職者も信徒も神の畑を協力して耕すように働く者でなければなりません。教職者は、なわばり争いに巻き込まれることを避けなければなりません。さらにこの教会の比喩的表現は、<神の建物>という言葉によって展開されます。<建物>という語は、ここでは教会という共同体の形成を意味します。

 3:17では<あなたがたは(複数)、自分(複数:あなたがた自身)が神の神殿(単数)であり、神の霊(単数)が自分たち(複数)の内に住んでいることを知らないのですか」(3:16)と、神の霊がキリスト者個人ではなく、集められた共同体(教会)に住んでいることを表し、神の霊はもはや聖なる建物に制限されない、キリストにある神に選ばれた人々の集う共同体に神の霊は見出されるのです。今や共同体は讃美と礼拝が正しく神に捧げられる場所なのです。

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