↑ フランスの画家ギュスターヴ・ドレGustave Doré, Jacob Wrestling with the Angel「天使と格闘するヤコブ」 (1855年)Granger Collection New York
981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403
日本福音教団 富 谷 教 会 週 報
聖霊降臨節第6日 2019年7月14日 午後5時~5時50分
年間標語 「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて
働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆこう。」(エフェソ4・16)
聖 句 「御父が、その霊により、力をもって、あなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」(エフェソ3・16-17)
礼 拝 順 序
司会 佐藤 洋子姉
前 奏 奏楽 辺見トモ子姉
讃美歌(21) 457(神はわが力)
交読詩編 62(わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう)
主の祈り 93-5、A
使徒信条 93-4、A
司会者の祈り
聖 書(新共同訳) 創世記32章22~33節(旧p.56)
説 教 「神の使いと格闘するヤコブ」 辺見宗邦牧師
祈 祷
讃美歌(21) 529(主よ、わが身を)
献 金
感謝祈祷
頌 栄(21) 24(たたえよ、主の民)
祝 祷
後 奏
次週礼拝 7月21日(日) 午後5時~5時50分
聖 書 使徒言行録20章7~12節
説教題 「生命の回復」
讃美歌(21) 492 478 24 交読詩編 35
本日の聖書 創世記32章23~33節
32:22こうして、贈り物を先に行かせ、ヤコブ自身は、その夜、野営地にとどまった。23その夜、ヤコブは起きて、二人の妻と二人の側女、それに十一人の子供を連れてヤボクの渡しを渡った。 24皆を導いて川を渡らせ、持ち物も渡してしまうと、 25ヤコブは独り後に残った。そのとき、何者かが夜明けまでヤコブと格闘した。 26ところが、その人はヤコブに勝てないとみて、ヤコブの腿の関節を打ったので、格闘をしているうちに腿の関節がはずれた。 27「もう去らせてくれ。夜が明けてしまうから」とその人は言ったが、ヤコブは答えた。「いいえ、祝福してくださるまでは離しません。」 28「お前の名は何というのか」とその人が尋ね、「ヤコブです」と答えると、 29その人は言った。「お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と闘って勝ったからだ。」 30「どうか、あなたのお名前を教えてください」とヤコブが尋ねると、「どうして、わたしの名を尋ねるのか」と言って、ヤコブをその場で祝福した。 31ヤコブは、「わたしは顔と顔とを合わせて神を見たのに、なお生きている」と言って、その場所をペヌエル(神の顔)と名付けた。 32ヤコブがペヌエルを過ぎたとき、太陽は彼の上に昇った。ヤコブは腿を痛めて足を引きずっていた。 33こういうわけで、イスラエルの人々は今でも腿の関節の上にある腰の筋を食べない。かの人がヤコブの腿の関節、つまり腰の筋のところを打ったからである。
本日の説教
先週の礼拝では、ヤコブが住み慣れたベエル・シェバから、パダン・アラム(アラム人の住む平地)のハランに住む、母の実家の兄、ヤコブにとって伯父にあたるラバンのもとに出立し、途中荒野の中で夜を迎え、石を枕にして寝たときに、神様が現れ、ヤコブを祝福することを約束してくださったことを学びました。『わたしは、あなたの父祖アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが今横たわっているこの土地を、あなたとあなたの子孫に与える。あなたの子孫は大地の砂粒のように多くなり、西へ、東へ、北へ、南へと広がっていくであろう。地上の氏族はすべて、あなたとあなたの子孫によって祝福に入る。見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない』(28章13~15節)」と神はヤコブに言われました。翌朝、ヤコブは枕にしていた石を記念碑として立て、その場所をベテル(神の家)と名付けたお話しをいたしました。
父イサクから、祖父アブラハムから受け継いだ神様の祝福を、長男のエサウが受けるべきであったのを、ヤコブが母の策略もあって、父をだまして、自分のものに横取りしてしまいました。このことにより、ヤコブは兄エサウを怒らせ、自分の命まで狙われるようになり、母の故郷に、表向きは嫁探しの目的で、亡命したのです。
ヤコブはこのハランで二十年間、叔父であるラバンの家に留まりました。そしてラバンの二人の娘、レアとラケルを妻にし、また二人の側女(そばめ)も妻とし、十一人の息子たちと多くの家畜を持つ者となりました。
夢の中で、ヤコブに神のお告げがあり、「ヤコブよ、・・ラバンのあなたに対する仕打ちは、すべてわたしには分かっている。わたしはベテルの神である。かつてあなたは、そこに記念碑を立てて油を注ぎ、わたしに誓願を立てたではないか。さあ、今すぐこの土地を出て、あなたの故郷に帰りなさい(21:11~13)」と言われました。
ヤコブは、妻たちラケルとレアの同意もあり、すべての財産を持って逃げ出し、川を渡りギレアドの山地へ向かいました。ヤコブが逃げたことを、三日目に知ったラバンは、一族を率いて七日の道のりを追いかけて行き、ギレアドでヤコブに追いつきました。ラバンはヤコブになぜ、こっそり逃げ出したりして、わたしをだましたのか」と問いました。それに対してヤコブは次のように答えました。
「この二十年間というもの、わたしはあなたの家で過ごしましたが、そのうち十四年はあなたの二人の娘のため、六年はあなたの家畜の群れのために働きました。しかも、あなたはわたしの報酬を十回も変えました」(31:41)と訴えています。ヤコブはラバンの娘たちを大事にすることをラバンに誓い、和解が成立したので、ラバンは自分の家へ帰って行きました。
ヤコブが旅を続けていると、神の御使いたちが現れて、ヤコブを力づけました。ヤコブは彼らを見て、「ここは神の陣営だ」と言い、その場所をマハナイム(二組の陣営)と名付けました。ヤコブを守る神の陣営とヤコブの陣営と二つになって前進できるという勇気を与えられたのです。ヤコブは兄エサウがヤコブに対してどのような思いを抱いているのか気がかりでした。はたして二十年の歳月によって忘れてくれているのでしょうか。ヤコブはそのことを確かめるために、あらかじめ、セイル地方、すなわちエドムの野にいる兄エサウのもとに使いの者を遣わし、こう言うように命じました。『あなたの僕ヤコブはこう申しております。わたしはラバンのもとに滞在し今日に至りましたが、牛、ろば、羊、男女の奴隷を所有するようになりました。そこで、使いの者を御主人様のもとに送って御報告し、御機嫌をお伺いいたします。』」。ヤコブが帰ってきたことを報告し、兄の機嫌を伺いました。
しかし使いの者が帰って来てもたらした知らせはヤコブにとって最悪なものでした。使いの者は帰って来て、「兄上様の方でも、あなたを迎えるため、四百人のお供を連れてこちらへおいでになる途中でございます」とヤコブに報告したのです。
エサウのヤコブに対する憎しみは、二十年経った今も少しも和らいではいないと思い、ヤコブは非常に恐れ、思い悩みました。ヤコブは連れてきた人々と家畜を二組に分けました。エサウが攻撃を仕掛けても、どちらかの組みが助かるようにしました。そして祈りました。
「わたしの父アブラハムの神、わたしの父イサクの神、主よ、あなたはわたしにこう言われました。『あなたは生まれ故郷に帰りなさい。わたしはあなたに幸いを与える』と。わたしは、あなたが僕に示してくださったすべての慈しみとまことを受けるに足りない者です。かつてわたしは、一本の杖を頼りにこのヨルダン川を渡りましたが、今は二組の陣営を持つまでになりました。どうか、兄エサウの手から救ってください。わたしは兄が恐ろしいのです。兄は攻めて来て、わたしをはじめ母も子供も殺すかも知れません。」(32:10~13)。
祈り終えると、その夜、野宿してヤコブはただちに二つの群れの分け方を変えました。今度は兄エサウへの贈り物として入念に選び分け、六百頭を選び、五つの動物の群れに分け、それを召し使いたちの手に渡し、一番目から順に、それぞれ距離をおいて、エサウに贈り物として届ける作戦を立てました。贈り物を先に行かせて兄をなだめ、その後で顔を合わせれば、恐らく快く迎えてくえるだろうと思ったのです。ヤコブは決して惜しむ思いではなく、償いができるように、そして約束の地へ入ることが出来るようにとの祈りをこめた贈り物でした。
地図の右下の「セイルの山々」は、エサウの住むエドムの高地です。エサウはエドムの荒れ野の主であり、偉大な族長となっていました。
ヤコブは、兄エサウの襲撃に備えて、夜中に妻や子供たちを連れて、安全な場所に導くためにヤボク川を渡ってから独り残りました。ヤボク川は、ヨルダン川の支流です。ギレアド山地からヨルダン川に合流しています。その川の岸に「ヤボクの渡し」があります。何故独り後に残ったのでしょうか。神の加護を祈り求めるためでした。ヤコブはマハナイムの出来事のあと、神に、「どうか、兄エサウの手から救ってください」と祈りました。しかしまだ神の答えを聞いていませんでした。まだ不安が消えていなかったのです。
「そのとき、何者かが夜明けまでヤコブと格闘した」とあります。「何者かが」とありますが、ホセア書12章4、5節に次のような説明があります。「ヤコブは・・力を尽くして神と争った。神の使いと争って勝ち、泣いて恵みを乞うた」とあります。「何者か」は「神の使い」であり、「神」であると説明しています。ヤコブもこの格闘のあとで「わたしは顔と顔とを合わせて神を見た」と言っています。
恐れからの救いを求めるヤコブに対して、神は助けを与えるために「神の使い」を遣わされました。ヤコブに平安を与えるために、ヤコブの自己中心な我(が)をくだかなければなりません。賛美歌21の529番の歌詞に、「我が剣(つるぎ)をくだきたまえ、さらばわが仇に打ち勝つをえん」とあるように、傲慢な自分が砕かれることによって、最大の仇である自分自身に勝ち、神の恵みにあずかることができるのです。「神の使い」は、ヤコブに恵みを与えるために、自分の計略に頼ろうとする傲慢なヤコブを砕こうとしてヤコブと格闘したのです。
「ところが、その人ヤコブに勝てないとみて、ヤコブの腿(もも)の関節を打ったので、格闘をしているうちに腿の関節がはずれた」とあります。神の力は、人間が謙虚になり、弱いところに働きます。しかし、ヤコブの自我があまりにも強く、しがみついてくるので、そのままではヤコブをどうすることもできないことを、神の使いは「勝てない」とみたのです。
「腿の関節」とは「股関節(太ももの付け根)」のことです。 身体的に人間を支えている重要な部分です。その部分打つことによって関節がはずれると、自分の力では戦うことができず、弱い者にされたことを意味します。ヤコブがここで経験したものは祈りの格闘でした。ヤコブの祈りに神が答えられ、自分の計略や力に頼るヤコブの腿の関節を外して、ヤコブを無力な者にされ、自分ではなく、神に頼る者にされたのです。
「もう去らせてくれ。夜が明けてしまうから」とその人は言ったが、ヤコブは答えた。「いいえ、祝福してくださるまでは離しません。」腿の関節をはずされて弱くされたヤコブは、今度は「その人」に、「祝福してくださるまでは離しません」としがみつきます。ヤコブはなんとか祝福を得ようとしてしがみついているのです。
「ある人」はヤコブに言います。「お前の名は何というのか。」その問いにヤコブは、自分を「ヤコブ」と答えたのです。生まれから今日まで、「人を押しのける者」として、自己中心的な本性をもつ罪深い者、今腿の関節がはずれ、弱い者とされ、神に頼るほかない自分をさらけだして、「ヤコブ」ですと答えたのです。
その人は、「お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と闘って勝ったからだ」と宣言されたのです。
ヤコブという名前は、出生のとき、兄の<かかと「アケブ」>をつかんでいたことから、「かかと」という意味のことばの原語「アケブ」にちなんで「ヤコブ」と命名されました。また、創世記27章36節では、兄の足を<引っ張り「アーカブ」>欺いたことからも、「ヤコブ」の名前が説明されています。ヤコブは、名が示すように「人を出し抜き、人を押しのける」者でした。しかし、今「お前の名はもうヤコブではない」と言われ、古い罪の自分を脱して新しい名が与えられたのです。
「これからはイスラエルと呼ばれる。」ヤコブの個人名がイスラエル」となります。この名は後に神の民の名となります。「イスラエルיִשְׂרָאֵל」という語は、イ、スラー、エルの合成語です。あなたは、争った、神にという三つ語からなっています。「あなたは神と争った」という意味になります。「神が支配した」とする解釈もあるのです。
ヤコブは古い罪の自分を脱して、イスラエル「神と争う者」という新しい名が与えられました。「争う」という言葉は、必死になって、神と取り組み、祈り求めることです。「お前は神と人と闘って勝ったからだ。」神に勝つというのは、どういうことでしょうか。ヤコブは必死になって神様の祝福を求めました。神は、ヤコブに新しい名を与えました。新しい名は新しい存在を意味します。その祝福を与える新しい名こそ、神はヤコブの完全な敗北ではなく、むしろその勝利を承認されたのです。ヤコブが罪にまみれながらも祝福を追い求め続けたことを承認されたのです。神様は、そのヤコブに祝福を与えるために、負けることをいとわれなかったのです。そして祝福を与えることによって勝利を手にする神様なのです。ヤコブの罪を赦し、祝福して下さり、新しいヤコブ、すなわちイスラエルとして生きるようにしてくださったのです。
それでは、「人」とも闘って勝った、ということはどいうことなのでしょう。ヤコブは兄と争い、伯父ラバンと争い、欲しいものを自分のものにしてきました。その結果は、ラバンに追跡され、今兄エサウの襲撃を恐れ、不安になり、救いをもとめて神の前に立っているのです。「人」にも勝ったとは、そのようなヤコブを神は祝福し、ラバンとの和解を与えられたように、エサウとの和解もあたえられる、ということではないでしょうか。ヤコブは祈りの末に神の祝福を与えられて、人(兄)をも恐れない者に変えられました。これが「人にも闘って勝った」ということなのではないでしょうか。
「どうかあなたのお名前を教えてください」とヤコブが尋ねると、「どうして、わたしの名を尋ねるのか」と言って、ヤコブをその場で祝福しました。神がその名をここで告げなかったのは、神と人間は、対等と関係ではないことを知らせるためだったと思われます。
ヤコブは、『わたしは顔と顔とを合わせて神を見たのに、なお生きている』と言って、その場所をペヌエル(神の顔)と名付けました。神を仰ぐとき、罪を赦す愛を受け、神の祝福を豊かに受けることを体験したのです。ヤコブは六十歳を越えていました。ヤコブがベエル・シェバか旅立つたとき、双子の兄エサウは四十歳で結婚していました(26章34,35節)。その後ヤコブはハランで二十年過ごしたのです。
「ヤコブがペヌエルを過ぎたとき、太陽は彼の上に昇った」とあります。夜が過ぎ、ヤコブの上に太陽が昇ったのです。朝日がヤコブを照らします。故郷に帰る第一歩を記す望みの朝の光です。ヤコブは腿を痛めて足を引きずりました。しかしそれは新しいイスラエル、ついに念願の祝福に生き始めたヤコブの姿でした。
しかし、ヤコブは完全な人となったのではありません。この後、エサウの居住地セイルに、エサウの先導で一緒に行くように勧められたヤコブは、エサウのもとにに行くと言いながら、その約束を果さず、分かれてしまいます。エサウに対する警戒心もあり、自分にはベテルと父の家に戻らなければならいことを言う勇気がなかったのです。ひたすら、祝福を求めて生きたヤコブの姿は、ひとつの民族を示すイスラエルと言う名で、呼ばれるようになります。後に彼は十二人の息子を通してイスラエル部族の始祖となり、イスラエル人全体が「ヤコブの子孫」と呼ばれるようになります。
私たちの生活の中で、神の祝福が見えなくなり、神の恵みが感じられなくなるようなことがあれば、ヤコブにならって神と取り組み、祝福を与えられることが出来ます。ヤコブを支えたのが神の祝福の約束であれば、それにはるかにまさる、聖霊を与えてくださり、わたしたちと共にいてくださるキリストの祝福が、わたしたちに与えられていることを感謝したいと思います。
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