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日本キリスト教 富 谷 教 会 週 報
年間標語 『日々に、刻々と、肉の思いに生きようとする自分に死に、霊の思いに従って歩む者とされましょう。」
聖句 「キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。」(コロサイ3・15)
降誕節第3主日 2018年1月14日(日) 午後5時~5時50分
礼 拝 順 序
前 奏 奏楽 辺見トモ子姉
讃美歌(21) 356(インマヌエルの主イェスこそ)
交読詩編 36(神に逆らう者に罪が語りかけるのが)
主の祈り 93-5、A
使徒信条 93-4、A
聖 書(新共同訳) マルコによる福音書1章1~11節(新p.61)
説 教 「イエスの洗礼」 辺見宗邦牧師
祈 祷
讃美歌 277(罪なき神の子)
献 金
感謝祈祷
頌 栄(21) 24(たたえよ、主の民)
祝 祷
後 奏
次週礼拝 1月21日(日)午後5時~5時50分
聖書 マルコによる福音書1章14~20節
説教題 「最初の弟子たち」
讃美歌(21)4 507 24 交読詩編100篇1-5節
本日の聖書 マルコによる福音書1章2~11節
1神の子イエス・キリストの福音の初め。2預言者イザヤの書にこう書いてある。「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。3荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」そのとおり、4洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。5ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。6ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。7彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。8わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」9そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。10水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。11すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。
本日の説教
マルコによる福音書の1章1節の書き出しは、「神の子イエス・キリストの福音の初め」とあり、イエス・キリストの福音は、次の2節以下の洗礼者ヨハネの出現と活動によって始まったことを語っています。<福音>とは、「良い知らせ」(イザヤ書40・9)という意味です。<神の子>という敬称は、初代教会が、復活し昇天してイエスに対して用いたものですが、マルコはイエスが、地上において既に神の子であったと信じ、その前提に立ってこのマルコ福音書を書いています。「イエス・キリスト」の<キリスト>は名前ではなく、「油注がれた者・メシア」という意味の敬称です。
「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。」(2節)
<わたし>は神であり、<あなた>は、メシア・イエスです。<使者>は洗礼のヨハネを指しています。2節の前半は、「見よ、わたしはあなたの前に使いを遣わして」という出エジプト記23・20からの引用です。出エジプト記では、<あなた>はイスラエルの民であり、<使者>は彼らを守る天使を意味しています。2節の後半は「見よ、わたしは使者を送る。彼はわが前に道を備える」というマラキ書3章1節を引用しています。マラキ書では、神が、神の前に道を備える使者を送るという意味です。
「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」(3節)
<荒れ野で叫ぶ者>とは、洗礼のヨハネを指しています。ヨハネが叫んだ<主の道>とは、救い主イエスの歩む道です。この3節は「よびかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え、わたしたちの神のために、荒れ野に広い道を通せ。」というイザヤ書40章3節からの引用です。イザヤ書40・3では、<主のために>の<主>は神自身です。第二イザヤは、<荒れ野>に神の恵みの時代が来るという慰めの福音を預言したのです。
このように、2節、3節は旧約聖書から引用しています。旧約聖書の預言の成就として、ヨハネの活動があると言うのです。このように原始教会は旧約聖書本文を書きかえてイエスをめぐる者たちの出来事の預言として受け取ったのです。キリストの福音は偶然の出来事ではなく、神によって久しく計画されたものであると主張しています。
「そのとおり、洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。」(4節)
ヨハネはイエスより半年早く生れ、公の生涯に登場したのはイエスよりもかなり早いようです。ヨハネは近づいた神の国を宣言し、それを迎える準備として、間近に迫る神の裁きに備えた、罪の赦しを得させるための悔い改めの洗礼を宣べ伝えたのです。荒れ野は、イスラエルの民がモーセに導かれてエジプトを脱出した後、四十年を過ごした所です。荒野は神がきびしい訓練を通して、彼らを約束の地へと導いた場所を象徴しています。ヨハネは人里離れた荒涼としたユダヤの荒れ野、ヨルダン川のほとりで活動しました。
ヨハネによる洗礼(バプテスマ)はヨルダン川で全身を水に浸して行われました。洗礼の種類は浸礼(水に全身に浸す)、灌水礼(頭部に水を注ぐ)、滴礼(手を濡らして頭を押す)などがあります。ルネサンス以降、浸礼ではなく灌水礼を用いた絵画ばかりとなります。その後、滴礼を採用する教会が増えました。
レオナルド・ダ・ヴィンチによる作品《キリストの洗礼》灌水礼の絵
イスラエルでは、異邦人がユダヤ教に改宗するときに受ける洗礼がありました。ヨハネの洗礼はメシアを迎える備えとしての洗礼です。ユダヤ人にも異邦人にも要求した罪の悔い改めと罪の赦しを得させる洗礼でした。ヨハネは、洗礼事体がいわば自動的に罪の赦しを得させるとは考えなかったが、悔い改めをともなう一回かぎりの洗礼を罪の赦しをもたらすものと見なしたのです。<悔い改め>は、単に「心を変えること」、「後悔」するという意味ではなく、「全存在をもって神に帰り、神に服従する」ことを意味しています。
「ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。」(5節)
ヨハネの説教の大きな影響が誇張的に描かれていますが、それはユダヤとユダヤの中の都エルサレムの住民が皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で洗礼を受けたと伝えています。
「ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。」(6節)
ヨハネは預言者エリヤを思い起させる服装で現れました。エリヤはイザヤより130年も前に現れた旧約聖書の最大の預言者の一人です。エリヤは「毛衣を着て、腰には革帯を締めていました」(列王記下1・8)とあります。ヨハネは荒れ野で生活をしていました。このように、マルコは洗礼者をメシア・イエスの先駆者・再来のエリヤとして紹介します。
「彼はこう宣べ伝えた。『わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けにる。』」(7、8節)
マルコには、マタイやルカのような、「斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」といった終末的な神の審判の告知は見られません。マルコには、洗礼のヨハネがイエスを自分と比較できないほど<優れた方>として語り、ヨハネの水の洗礼に対して、イエスによる洗礼は聖霊の洗礼であり、聖霊の授与をともなう洗礼であると伝えています。ヨハネから始まった洗礼が初代教会のイエスの名による教会の洗礼(使徒言行録19・1-7)となっていくのです。<履物のひもを解く>ことは主人に対する奴隷の仕事です。ヨハネは、後から来られるメシアに比べて、自分は奴隷以下だと自覚していました。
<聖霊による洗礼>とは、旧約聖書ではどのように言われているのでしょう。預言者エゼキエル(紀元前593~573頃に活動)はバビロンに囚われている同胞ユダヤ人に、民の心の変革と聖霊が注がれることを預言しています。「わたしが清い水をお前たちの上に振りかけるとき、お前たちは清められる。わたしはお前たちを、すべての汚れとすべての偶像から清める。わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。また、わたしの霊をお前たちの中に置き、わたしの掟に従って歩ませ、わたしの裁きを守り行わせる。」(エゼキエル36・25~27)
「そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。」(9節)
イエスが洗礼を受けたとされるヨルダン川と東岸の場所(ヨルダン王国)は、紀元2000年に、ユネスコ世界文化遺産に指定されました。右上の地図の死海のすぐ上の部分です。
マルコは、ユダヤのベツレヘムでのイエスの誕生には触れず、イエスを<ガリラヤのナザレ>の出身として紹介します。旧約聖書にはナザレという地名は見られません。それほど人目につかない村であったようです。ガリラヤは当時ヘロデ・アンティパス(マルコ6・14以下)の領地です。ヘロデ・アンティパス(イエス誕生当時のヘロデ大王とサマリヤ人の妻マルタケとの子)は,B.C.4~A.D.39年までガリラヤとペレヤ(ヨルダンの東岸地方)の領主でした。
「水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた。」(10~11節)
イエスは何のために洗礼を受けられたのでしょう。本来ならば罪なき神の子イエスはバプテスマを必要としない方です。イエスはバプテスマのヨハネの運動を神から出た正義の活動と信じて、これに全面的に参加するためヨハネの洗礼を受ける決断をされました。イエスがヨハネから洗礼を受けられたのは、わたしたちと同じ立場に身を置かれたのです。わたしたちの罪を一身に負っておられるのです。主イエスは、最後の十字架を「わたしの受ける洗礼(バプテスマ)」(マルコ10・38)と言っています。イエスの洗礼は十字架ヘ向かう第一歩だったのです。
水の中から上がるとすぐ起こった出来事は天が開けたこと(エゼキエル1・1)です。次に霊が鳩のように降りました。天が裂けるという表象は、「どうか天を裂いて降ってください。」(イザヤ書63・19)とあるように、正しい者たちのための神の決定的介入を示す言葉です。鳩のように聖霊が主イエスに降って来ました。天上と地上がこの聖霊によって貫かれ、天上の父なる神と地上の神の子イエスが結合したのです。今やこの方イエスによって、聖霊がこの地上に損なわれることなく臨むことになるのです。当時の後期ユダヤ教では、鳩は神の霊の象徴とされていたが、その理由は明らかではありません。次に天からの声が聞こえたことです。<あなたはわたしの愛する子>は詩篇2・7の「お前はわたしの子」の引用です。王が神によって立てられる時に歌われる歌です。<わたしの心に適う者>はイザヤ書42・1の「見よ、わたしの僕(しもべ)、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ…」という言葉から引用されています。新改訳聖書では、「わたしの心の喜ぶわたしが選んだ者」と訳されています。これは主なる神が、主の僕を召命する歌です。これらの引用は神が主イエスを王であり、主の僕であることを認める言葉です。主イエスは神に代わって救いの完成をもたらす者であり、神が喜び、信任する神の子であることをあらわしているのです。
主イエスは御自分の目で、聖霊が自分に降るのを見、聖霊を受けました。イエスは御自分の耳で神が自分に語られる声をお聴きになりました。イエスはこの時、神の子として神から全権を委任されている自覚が与えられ、励まし力づける聖霊が注がれました。その権威によって「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1・15)と主イエスはガリラヤで伝道を始められたのです。
このイエスの洗礼で起こった出来事は、わたしたちと無関係ではありません。ペンテコステ(聖霊降臨)の日、ペトロは「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます」と人々に勧めました。そして以後の教会では入信者のための洗礼式が行われるようになったのです。わたしたちも洗礼を受けることで神の子とされ、罪と死に打ち勝つ聖霊をあたえられ、宣教へと霊的に備えられるのです。洗礼はキリスト者にとって、信仰生活の原点です。主イエスが洗礼を受けたとき、父なる神と御子イエスが聖霊の交わりでかたく結ばれたように、主イエスによる洗礼を受けたわたしたちも、天上の主イエスと聖霊によってかたく結ばれているのです。わたしたちは日々刻々と、罪に死に、神の霊によって新しい命に生かされていることを感謝いたしましょう。
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