富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「天にある永遠の住み家」コリントの信徒への手紙二5章1~10節

2024-09-28 11:51:58 | キリスト教

     ↑ わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです。コリント二、5章1節

〒981-3302 宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 

TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

  日本福音教団 富 谷 教 会    週 報

聖霊降臨節20主日 2024年9月29日(日)午後3時~3時50分

      礼 拝 順 序                

前 奏                辺見トモ子姉

司 会                斎藤 美保姉

讃美歌(21)   204(よろこびの日よ) 

交読詩篇    65:1-5(沈黙してあなたに向い)

主の祈り    93-5、A

使徒信条    93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)コリントの信徒への手紙二5章1~10節(新p.330)

説 教   「天にある永遠の住み家」  辺見宗邦牧師

祈 祷

讃美歌(21)  390(主は教会の基となり)

献 金

感謝祈祷

頌 栄(21)   27(父・子・聖霊の)

                   オン・ラインで礼拝に参加希望の方は、090-3365-3019

           (牧師携帯)へ申し込み下さい。歓迎いたします。

                        次週礼拝 10月6日(日)午後3時~3時50分

                聖 書 マタイによる福音書1章1~17節

                説教題   「イエス・キリストの系図」

                讃美歌(21) 376 27 詩編 73:21-28

    本日の聖書 コリントの信徒への手紙二、5章1~10節

  1わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです。 2わたしたちは、天から与えられる住みかを上に着たいと切に願って、この地上の幕屋にあって苦しみもだえています。 3それを脱いでも、わたしたちは裸のままではおりません。 4この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが、それは、地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません。死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまうために、天から与えられる住みかを上に着たいからです。 5わたしたちを、このようになるのにふさわしい者としてくださったのは、神です。神は、その保証として“霊”を与えてくださったのです。 6それで、わたしたちはいつも心強いのですが、体を住みかとしているかぎり、主から離れていることも知っています。 7目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるからです。 8わたしたちは、心強い。そして、体を離れて、主のもとに住むことをむしろ望んでいます。 9だから、体を住みかとしていても、体を離れているにしても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい。 10なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです。

    本日の説教

パウロは5章の1節以下で、信仰者の死をわかりやすく説明するために幕屋と建物を例にとって説明します。死とは仮の住居である幕屋(テント)から去って、人手によらない建物(住居)に移ることだと説明します。わたしたちの滅びゆく体を<地上の幕屋>にたとえて語り、人間の魂の行く家は人間の手で作られたものではない、神による本建築の家であるというのです。

  「わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです。(5:1)

    コリントの人々は、死についてギリシャの哲学思想の影響を受けていました。肉体は魂を閉じ込める墓場や牢獄と考え、死によって魂は肉体の束縛から自由にされるという考えが支配的でした。聖書では肉体を神の被造物と見做しています。肉体を嫌悪してはいません。なぜなら肉体は聖霊を宿す宮だからです。死とはそのままで救いではなく、キリストの生命によって克服されるべきものでした。パウロは、死を、聖霊の宮とされているテント住まいから、神の用意した永遠の住み家に移ることだという新しい教えを説かなければならなかったのです。

   パウロは、自分が使徒の務めを果たすことに落胆しない理由を明らかにし、希望の内容をさらに明確にしようとします。<地上の住みかである幕屋>とは、朽ちていく人間の体のことです。朽ちることのない霊の体は永久に変わらない建物にたとえられています。人間の体を<地上の幕屋>と呼ぶことによって、その弱さ、はかなさ、不安定さを表現しています。<幕屋が滅びても>は、人間の死を意味します。人間は天上の家を目指して歩むのです。そこには、<人の手で造られたものではない天にある永遠の住みか>が備えられています。このことがパウロの地上における仕事の支えになっていました。第一の手紙15章では、「死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます」(一、15:53)と表現しています。パウロはこのような復活信仰を持っていたからこそ苦難の中で毅然として生きていけたのです。

    次に「家」のたとえから「着物」のたとえに移ります。

  「わたしたちは、天から与えられる住みかを上に着たいと切に願って、この地上の幕屋にあって苦しみもだえています。(5:2)

   キリスト者は栄光を約束され、日ごとに新しくされて生きるのですが、なお地上では救いの完成を待ち望んでいます。新しい霊のからだを着ることを切望しつつ、<地上の幕屋にあって苦しみもだえています>。死後、この上に完全な永遠の衣服を着たいためです。コリントの信徒に対して、パウロは「天から与えられる住みかを上に着たいと切に願う」生き方で、死に対する恐れから解放される生を教えたのです。この地上では罪の体からあがなわれることを願って、わたしたちは苦しみもだえているのです。パウロが本当に考えていたことは、家が与えられることではなく、「神の子」としての身分を与えられること、そして何よりも、今はおぼろげに見ているイエスを顔と顔とをあわせるように身近に仰ぎ、そしていつまでも神の身許におつかえできる者となることでした。

  「それを脱いでも、わたしたちは裸のままではおりません。(5:3)

   ここでは「家」のたとえから「着物」のたとえに移り、その地上の体を、着物を脱ぐように脱いでも、裸のままではおりません。神が新しい、復活の体を与えてくださるからです。キリスト者は栄光を約束され、日ごとに新しくされて生きているのであるが、なお、地上にあって救いの完成を待ち望んでいるのです。

  「この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが、それは、地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません。死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまうために、天から与えられる住みかを上に着たいからです。(5:4)

    この地上の幕屋に住むわたしたちは<重荷を負ってうめいて>います。<重荷>とは、パウロも、わたしたちも負っている患難であり、人生の悲しみの重荷です。死もまた大きな重荷です。それは、<地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません。死ぬはずのものが命にのみこまれてしまうために、天から与えられる住みかを上に着たいからです。><脱ぐ>というのは肉体をかたわらにおくということで、<着る>というのは永遠の住み家に入ることです。

   4節の<天から与えられる住みかを上に着たいからです>は、フィリピ3:20~21にかけての、<キリストは万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです>と同じ内容です。

  「わたしたちを、このようになるのにふさわしい者としてくださったのは、神です。神は、その保証として“霊”を与えてくださったのです。(5:5)

   パウロは言います。<わたしたちをこのようになるのにふさわしい者としてくださったのは、神です。>私たちは祝福された永遠の命という栄誉の確かな保証として、神から聖霊を与えられているのです。<保証>は、売買契約を結んだ際に支払われる手付金の意味もあるが、前もってそれを味わうという意味もあります。5節を、エフェソ1:13~14では、<あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。この聖霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための保証であり、こうして、わたしたちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです>と表現しています。

  「それで、わたしたちはいつも心強いのですが、体を住みかとしているかぎり、主から離れていることも知っています。(5:6)

 心強さの根拠は人間の内にあるのではなく、復活したキリストの現在にある。肉にある間は主との交わりが絶たれているという意味ではなく、信仰者は完成された神の国に生きているのではなく、なお待望の歩みを生きています。永遠の住みかを信じるパウロの心には、安心感と信頼とがあります。その確信の力は聖霊の内住からくるものです。

  「目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるからです。(5:7)

地上の身体における存在は完成されたものではなく、来るべき終末的榮化を目指し、主と共に住むことを願いつつ生きる存在なのです。現在は復活の主を直接に見ることはできず、ただ信仰によって主と交わりを許されている。

  「わたしたちは、心強い。そして、体を離れて、主のもとに住むことをむしろ望んでいます。(5:8)

   聖霊の保証を与えられているので、わたしたちは心強い。にもかかわらず、使徒の究極の願いは、この世を離れ、この体を離れて、キリストと共にいることを願い求めているのです。8節の願いは、フィリピ1:23の言葉を連想させます。「…一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい。

  「だから、体を住みかとしていても、体を離れているにしても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい。(5:9)

   だから、生きるにしても、死においても、主に喜ばれる者となることを願いつつ生きるのが、キリスト者の歩みなのです。

  「なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです。(5:10)

    テント生活から神による建物に移されるとき、裁きの座に立たねばならないことをパウロは説いています。パウロは「わたしたちは皆」と、自分を含めて信仰をもつ者みな、キリストから審判を受けなければならないことを説いています。

   死後イエスと共にいることが、パウロの死に対する恐れをなくしていることがわかります。しかし、死において裁きがある、ということが人々から忘れ去られようとするとき、パウロは裁きの事実をつきつけています。しかし、「その人は、火の中をくぐり抜けて来た者のように、救われます」(一、3:15)とあるように、裁きとともに赦しも備えられていることを約束しておられるのです。人が救われるのは信仰によるのであり、その人の行為によるものではありません。おそらくパウロがここで意味したことは、人間のなした善悪に対してそれ相当報いが与えられるということであって、人間のなした善悪に基づいて神から義とされるというのではありません。信者といえども裁きから除外されるのではないということは、現世において身をつつしむことが求められているのです。信仰者は罪と戦い、神に服従し、義と愛の実を結ぶ生活に歩むのです。パウロはわたしたちが、「キリストの日に備えて清い者、とがめられるところのない者」(フィリピ1:1)となるようにと祈っています。

    わたしたちが世に生まれたのは、神を愛し、自分を愛し、隣人を愛するためです。こうして人生を過ごし、やがて年老いていきます。からだは衰えていきます。孤独となり、内にこもり、外との関係が失われているように見えても、イエス様がわたしたちと共にいてくださるのです。たとえ何もできないような状況であっても、祈ることが許されているのです。

   わたしたちは、「たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々新たにされていく」(コリント二、4:12)、という生き方を与えられています。神の愛とキリストの愛を受けながら、神のもとに迎えられる喜びに生きる信仰を与えられていることに感謝いたしましょう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「神の救いの計画の富と知恵」ローマの信徒への手紙11章28~36節

2024-09-17 22:25:17 | キリスト教

    ↑ ローマの信徒への手紙11章33節「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。」

〒981-3302 宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 

TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

  日本福音教団 富 谷 教 会    週 報

聖霊降臨節19主日 2024年9月22日(日)午後3時~3時50分

      礼 拝 順 序                

前 奏                辺見トモ子姉

司 会                齋藤 美保姉

讃美歌(21)   280(馬槽(まぶね)のなかに)

交読詩篇   139:1-10(主よ、あなたはわたしを究(きわ)め)

主の祈り    93-5、A

使徒信条    93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)ローマの信徒への手紙11章28~36節(新p.291)

説 教  「神の救いの計画の富と知恵」辺見宗邦牧師

祈 祷

讃美歌(21)  194(神さまは、そのひとり子を)

献 金

感謝祈祷

頌 栄(21)   27(父・子・聖霊の)

             オン・ラインで礼拝に参加希望の方は、090-3365-3019

            (牧師携帯)へ申し込み下さい。歓迎いたします。

                                次週礼拝 9月29日(日)午後3時~3時50分

                       聖 書 コリントの信徒への手紙二5章1~10節

                       説教題   「永遠の住み家」

                      讃美歌(21)204 390 27 詩編 65:1-5

   本日の聖書 

 28福音について言えば、イスラエル人は、あなたがたのために神に敵対していますが、神の選びについて言えば、先祖たちのお陰で神に愛されています。 29神の賜物と招きとは取り消されないものなのです。 30あなたがたは、かつては神に不従順でしたが、今は彼らの不従順によって憐れみを受けています。 31それと同じように、彼らも、今はあなたがたが受けた憐れみによって不従順になっていますが、それは、彼ら自身も今憐れみを受けるためなのです。 32神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです。33ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。 34「いったいだれが主の心を知っていたであろうか。だれが主の相談相手であっただろうか。 35だれがまず主に与えて、その報いを受けるであろうか。」 36すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン。

  本日の説教

   主イエスは十二人の弟子を選び、派遣するにあたり、「異邦人の道に行ってはならない。イスラエルの家の失われた羊のところに行きなさい」と言われました(マタイ10:5)。

 また、カナンの女にたいして、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」(マタイ15:24)と言われましたが、イエスを信じたこの異邦人は癒されました。

 「すべての異邦人を信仰による従順へ導くために、恵みをうけて使徒とされ」(ロ-マ1:5)たパウロは、「わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがあります。わたし自身、兄弟たち、同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています」(ロ-マ9:2,3)と言っています。

 「彼らはイスラエルの民です。神の子としての身分・・契約、律法・・約束は彼らのものです。・・キリストも彼らから出られたのです」ロ-マ9:4-5)とパウロは言っています。

 ユダヤ人がイエス・キリストによる救いを受け入れず、十字架につけたのは、神の義を律法によって追及し、自分たちの努力で得られると過信したためです。自分たちの罪を認めようとしない誇りがあったのです。

 そして、今日の聖書の箇所に入ります。

 「福音について言えば、イスラエル人は、あなたがたのために神に敵対していますが、神の選びについて言えば、先祖たちのお陰で神に愛されています。」(11:28)

 パウロにとって福音というのは、「御子に関するもの」(1:3)であり、御子はイスラエル人の不従順によって十字架につけられたのであり、主イエスによってもたらされた福音をイスラエル人が受け入れないので、神に敵対している状態にあります。しかし、神の選びについて言うならば、イスラエルの始祖アブラハムの時から、イサク、ヤコブ、またその子孫たちは、神に選ばれた民であり、神の愛の対象であることは変わりありません。

 「神の賜物と招きとは取り消されないものなのです。」(29節)

 「神の賜物と招きとは取り消されないものなのです」と記されているように、たとえ人間の犯した数々のあやまちがあったとしても、神ご自身がそれを変更されない限り、選びは絶対に変えられるものではありません。

 「あなたがたは、かつては神に不従順でしたが、今は彼らの不従順によって憐れみを受けています。」(30節)

 あなた方・異邦人は、福音を受け入れる以前、かつては神に不従順であり、不信仰の状態でした。しかし、福音がイスラエル人から異邦人に伝えられ、福音を信じた今は、異邦人は神に正しい者と認められ、義とされています。

「それと同じように、彼らも、今はあなたがたが受けた憐れみによって不従順になっていますが、それは、彼ら自身も今憐れみを受けるためなのです。」(31節)

 それと同じように、今はあなた方異邦人が憐れみを受けているので、そのように、イスラエル人も今、不信仰の中にいるが、それは、神の最終的救いのまさに来たらんとする今、全世界の救いの完成としてイスラエル人が救われるためなのです、とパウロは主張しています。

 「神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです。」(32節)という結論に至ります。これは人間の論理を超え、人間の知恵をはるかに超えた事実です。パウロは全人類の救いを望んでいるかに見えます。そして、イスラエルも、ついには、ことごとく救われるに至るとの信仰に、彼の心は躍りました。彼は神への限りない感謝と賛美をもって閉じます。

 「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。」(33節a)

 パウロはここで二つの感嘆の言葉を語ります。その一つは「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか」です。<富>は神の賜物の無限に満ちていることを指し、<知恵>はながく隠されていたが、今や現された秘められた知恵であり、<知識>は神の秘められた洞察(見通し)です。知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています(コロサイ2:3)。この三つはたがいに結びあい、結局イエス・キリストによって示された、恵みによる神の救いを指し示しています。

 これは、<神がわたしたちに栄光を与えるために、世界の始まる前から定めておられたもので……この世の支配者たちはだれ一人、……理解し>えなかったものです。このような神の無限の深さは、神から与えられる理解力によって知るほかないのです。神はこのような深い恵みによって異邦人とイスラエル人に臨んでくださるのです。

 「だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう」(33節b)

 これが二つ目の感嘆の言葉です。<神の定め>は「神の審判」、神の義とする行為を指します。<神の道>もここでは神の救済の仕方を指します。

 この感嘆の言葉を受けてパウロは三つの問によって、神の究めがたい計画について語ります。

 「いったいだれが主の心を知っていたであろうか。だれが主の相談相手であっただろうか。だれがまず主に与えて、その報いを受けるであろうか」(35節)

 一つ目は「いったいだれが主の心を知っていたであろうか」です。神のこころの深みには人間の手はそのままではとどかないことを知らせています。

 二つ目は、「だれが主の相談相手であっただろうか」です。どんな偉大な知恵者でも、救いの計画について神と協議してそれを実行に移すというようなことはできないのです。

 三つ目は、「だれがまず主に与えて、その報いを受けるであろうか」です。人間は神に何かを寄与し、その功績によって報酬をうけるようなことは絶対に不可能なことです。

 人間の限界は神の深いみこころの前に立てば立つほどいよいよ明確になってくるのです。神の偉大さに対する讃嘆が、しめくくりの言葉としての頌栄となります。

 「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン。」(36節)

 <すべてのもの>とは、文脈から、「異邦人もイスラエル人もすべてが」の意と解することができます。神は、万物の創造者であり、支配者であり、完成者です。万物は神に導かれ、神にむかっています。パウロは「栄光、とこしえに、神に」と賛美と頌栄の声をあげて、救いが全世界大のもの、<永遠>のものであることを賛美しています。イスラエルと全世界に対する神の救済行為の深さは、理解の対象ではなく、賛美と礼拝の対象なのです。「アーメン」、「まことにそうです」と力強くしめくくっています。

 どうして、ドイツのヒトラー(カトリック教徒)は、ユダヤ人を虐殺しようとしたのでしょう。1933年には、ヨーロッパ全体に約900万人のユダヤ人が暮らしていました。キリスト教徒は、イエスの死の責任をユダヤ人に押し付け、世界の金融と政治を支配する影の秘密結社の神話を捏造し、ユダヤ人のせいで街に病気と犯罪が持ち込まれたと主張しました。

 ヒトラーが利用したのは、第一次世界大戦の敗北後、ドイツ国内で徐々に高まっていた不満と不安でした。ドイツは政治的にも経済的にも崩壊していたうえ、ベルサイユ条約による重い制裁も課されていました。ナチ党は、ドイツが陥っている窮状の責任はユダヤ人にあるとしたのです。何世紀にもわたってくすぶってきた反ユダヤ主義を大量虐殺へと発展させました。

 第二次世界大戦中、600万人のユダヤ人が殺されました。さらに何百万人もの人々が、それぞれの暮らし、コミュニティー、家族、さらには名前さえも奪われました。ヒトラーはヨーロッパのユダヤ人を根絶やしにすることを目指したのです。

 迫害が続く中、19世紀にユダヤ人たちの中で、かつて王国があった パレスチナの地に戻ろう、国をつくろうという運動が起こります。これを 「シオニズム運動」 と言います。 それが 現実化してくるのが第1次世界大戦 の時です。イギリスが「ユダヤ人の国家建設を支持する」と約束します。1920年以降ユダヤ人入植が推進しました。

 しかし、アラブ住民(パレスチナ人)への土地没収や労働機会の締め出しはパレスチナ人との対立を激化させ、今日まで紛争が続いているのです。イスラエルのネタニヤフ首相の強硬な姿勢により、イスラム組織ハマスへの過激な攻撃が行われていることに憂慮せざるを得ません。ガザ地区の多くの市民が殺されています。ネタニヤフ首相や多くのユダヤ人はユダヤ教の信奉者です。彼らががキリストの福音を受け入れるならば、穏健な立場をとることでしょう。

 神は私たちのような者をも選び、救い、召してくださった方です。すべての者を憐れみ、救おうとされる、赦しと愛に満ちた方です。「ご計画に従って…万事を益として下さる」(8:28)全能者です。神に出来ないことはありません。愛と憐れみに満ちた万物の主なる神を信じ、心から喜び、ほめたたえましょう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「心の内にキリストを住まわせる」エフェソの信徒への手紙3章14~21節

2024-09-12 22:25:40 | キリスト教

  ↑ 信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。(エフェソ3章17節)

〒981-3302 宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 

TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

  日本福音教団 富 谷 教 会 週 報

聖霊降臨節18主日 2024年9月15日(日)午後3時~3時50分

      礼 拝 順 序                

前 奏                辺見トモ子姉

司 会                齋藤 美保姉

讃美歌(21)    16(われらの主こそは)

交読詩篇   103:14-22(主はわたしたちを)

主の祈り    93-5、A

使徒信条    93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)エフェソの信徒への手紙3章14~21節(新p.430)

説 教  「心の内にキリストを住まわせる」 辺見宗邦牧師

祈 祷

讃美歌(21)  300(十字架のもとに)

聖餐式     78(わが主よ、ここに集い)

献 金

感謝祈祷

頌 栄(21)   27(父・子・聖霊の)

       オン・ラインで礼拝に参加希望の方は、090-3365-3019

       (牧師携帯)へ申し込み下さい。歓迎いたします。

          次週礼拝 9月22日(日)午後3時~3時50分

          聖 書 ローマの信徒への手紙11章33~36節

          説教題   「神の富と知恵」

          讃美歌(21)280 194 27 詩編 139:1-10

本日の聖書 エフェソの信徒への手紙3章14~21節

 14こういうわけで、わたしは御父の前にひざまずいて祈ります。15御父から、天と地にあるすべての家族がその名を与えられています。16どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、17信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。18また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、19人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。20わたしたちの内に働く御力によって、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方に、21教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくありますように、アーメン。    

   本日の説教              

 「こういうわけで、わたしは御父の前にひざまずいて祈ります。」(3章14節)

 <こういうわけで>とは、今まで、パウロが集中的に述べてきた奥義(秘められた計画)に関する真理を、今一度確かめるように書き出します。奥義とは、「異邦人が福音によってキリスト・イエスにおいて、約束されたものをわたしたちと一緒に受け継ぐ者、同じ体に属する者、同じ約束にあずかる者となるということです。」(3:6)パウロは、1章17節b~19節でも、読者のために執り成しの祈りをしています。そこでは、父なる神のみ心を知るための御霊の助けを請い求めました。霊的な悟りを得るようにという祈りでした。しかしここでは、パウロは、読者たちがただ単に知識として真理を把握するだけでなく、クリスチャンとして生きるための原動力を求める祈りです。

 祈りの姿勢ですが、パウロは、<御父の前にひざまずいて祈る>(3:14)と言っています。この祈りのもつ熱さ、真剣さがあらわされています。パウロはすべての源である「父なる神」におごそかに、心をこめて祈るのです。

 「御父から、天と地にあるすべての家族がその名を与えられています。」(3章15節)

 祈る相手の<御父>とは、すべての存在の源である神です。地上の家族であれ、天上の家族であれ、すべての被造物の根源なる創造者である神です。

 次に執り成しの祈りが続きます。

 「どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、・・・」(3章16節)

 第一の祈りは、御父がその豊かな栄光に従い<その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて>くださるようにという祈りです。私たちは「外なる人」が守られること、維持されること、体の健康や、生活の維持ができることなどを祈り求めることが多いのです。しかしパウロはまず「内なる人」が強くされることを優先して祈り求めます。これがキリスト者として生きる祈りの秘訣であり、あとのことは、これを基盤として与えられるのです。主イエスが山上の説教で、「神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」に通うじる祈りです。

 「信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」(3章17節)

 第二の祈りは、<信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように>という祈りです。キリスト者の経験からすれば、生けるキリトが人間の心の中に住むのは聖霊を通してですから、この祈りは第一の祈りの、もう一つの側面であり、発展です。このキリストが心の内にお住みになることは父なる神の賜物であり、<信仰によって>与えられるのです。キリストは、心の座を主に明け渡してキリストの内住を求める者には、その心の中に住んでくださるのです。主が心に住み、主との堅固な結びつきがある時、愛もそこにあって力強く働き、「愛に根ざし、愛にしっかり立つ者としてくださる」のです。

 「また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、・・・」(3章18節)

 第三の祈りは、「あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解」することができるように、という祈りです。<聖なる者たち>の聖とは、その人間の倫理的高潔さや「きよさ」のゆえに、そう呼ばれているのではありません。救いがたい人間が、キリストの愛のゆえに、ゆるされ「キリストを着る」ことにより、キリストの聖にあずかって聖徒と呼ばれているのです。<すべての聖なる者たちと共に>は、キリストのからだなる教会の「交わり」の大切さを語っているのです。神の民の集いと聖徒たちの公同礼拝とを愛する人たちに、キリストの愛が理解されるのです。そして「キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解するようになるのです。キリストの愛の無限の深さと広がりを知れば知るほど、私たちはキリストの愛にこたえるようになり、み心に沿った生き方ができるようになるのです。

 「人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。」(3章19節)

 最後の祈りは、「人の知識をはるかに超えるこの愛」を知るように、という祈りです。「知識を超える」とは、人間に理解できないほどの、いまだかつて人間が経験したことのない、という意味です。ただ御霊によって啓示された者のみが、信仰によって、理解することができるのです。

 パウロの祈りは、「ついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり…それによって満たされるように」という祈りへと進みます。この執り成しの祈りには、宗教経験の段階的な深まりが認められます。まず、内的な人が強固になり、ついで、キリストが住まわれ、愛と真実の行いを通して、ますますキリストの体の奥義の広大無辺を悟り、キリストの愛の溢れるのを知って、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるというのです。

 「わたしたちの内に働く御力によって、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方に、教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくありますように、アーメン。」(3章20節―21節)

 パウロは、教理的な部分を終えるにあたって、頌栄をもって神をほめたたえています。「わたしたちの内に働く御力によって、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方に、教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくありますように、アーメン」と。

 今パウロのささげた力強い祈りは、計り知れない神の力と偉大さと、その力が人間の生活の中に現実には働いているという事実によって支えられています。頌栄の最後のアーメンは、「まさにそのとおりです」という意味です。パウロの獄中からのこの執り成しの祈りは、私たちにも向けられているのです。私たちが今日、こうして神の恵みのうちに守られているのも、多くの人々のとりなしの祈りによるものであることを覚え、感謝したいと思います。そして私たちも他の人のためにとりなしの祈りをささげましょう。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「神の僕として生きる」ぺトロの手紙一2章11~25節

2024-09-05 21:50:36 | キリスト教

  ↑ 15善を行って、愚かな者たちの無知な発言を封じることが、神の御心だからです。 16自由な人として生活しなさい。しかし、その自由を、悪事を覆い隠す手だてとせず、神の僕として行動しなさい。 17すべての人を敬い、兄弟を愛し、神を畏れ、皇帝を敬いなさい。

〒981-3302 宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 

TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

  日本福音教団 富 谷 教 会 週 報

聖霊降臨節17主日 2024年9月8日(日)午後3時~3時50分

      礼 拝 順 序                

前 奏                辺見トモ子姉

司 会                齋藤 美保姉

讃美歌(21)   492(み神をたたえる心こそは)

交読詩篇    23(主は羊飼い)

主の祈り    93-5、A

使徒信条    93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)ぺトロの手紙一2章11~25節(新p.430)

説 教    「神の僕として生きる」 辺見宗邦牧師

祈 祷

讃美歌(21)  311(血しおしたたる)

献 金

感謝祈祷

頌 栄(21)   27(父・子・聖霊の)

  

オン・ラインで礼拝に参加希望の方は、090-3365-3019

    牧師携帯)へ申し込み下さい。歓迎いたします。

      次週礼拝 9月15日(日)午後3時~3時50分

      聖 書 エフェソの信徒への手紙3章14~21節

      説教題   「キリストの住まい」

      讃美歌(21) 313 27 詩編 103

 本日の聖書 ぺトロの手紙一2章11~25節

11愛する人たち、あなたがたに勧めます。いわば旅人であり、仮住まいの身なのですから、魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい。 12また、異教徒の間で立派に生活しなさい。そうすれば、彼らはあなたがたを悪人呼ばわりしてはいても、あなたがたの立派な行いをよく見て、訪れの日に神をあがめるようになります。 13主のために、すべて人間の立てた制度に従いなさい。それが、統治者としての皇帝であろうと、 14あるいは、悪を行う者を処罰し、善を行う者をほめるために、皇帝が派遣した総督であろうと、服従しなさい。 15善を行って、愚かな者たちの無知な発言を封じることが、神の御心だからです。 16自由な人として生活しなさい。しかし、その自由を、悪事を覆い隠す手だてとせず、神の僕として行動しなさい。 17すべての人を敬い、兄弟を愛し、神を畏れ、皇帝を敬いなさい。

 18召し使いたち、心からおそれ敬って主人に従いなさい。善良で寛大な主人にだけでなく、無慈悲な主人にもそうしなさい。 19不当な苦しみを受けることになっても、神がそうお望みだとわきまえて苦痛を耐えるなら、それは御心に適うことなのです。 20罪を犯して打ちたたかれ、それを耐え忍んでも、何の誉れになるでしょう。しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の御心に適うことです。 21あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。 22「この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった。」 23ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。 24そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。 25あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです。

 本日の説教

 この手紙は、迫害のもとで苦しんでいたキリスト者の教会に対し、洗礼の恵みを思い出させ終末の希望を確信させることによって彼らを励まし、キリストの苦難に積極的に参与するキリスト者の生き方をすすめた文書です。

 2章の11節以下は、異教社会に生きるキリスト者への実際的な勧告です。

 「愛する人たち、あなたがたに勧めます。いわば旅人であり、仮住まいの身なのですから、魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい。また、異教徒の間で立派に生活しなさい。そうすれば、彼らはあなたがたを悪人呼ばわりしてはいても、あなたがたの立派な行いをよく見て、訪れの日に神をあがめるようになります。」(11、12節)

 キリスト者はこの世では旅人として生きるのです。その旅はこの世の事柄に対して無関心になり、逃避的な生活をすることではありません。キリスト者の旅とは、キリストの苦難に参与する旅であり、そして神の栄光を証しする旅です。キリスト者は神の民として、この世に対して義務を負わされているのです。ゆえにキリスト者はまず、復活のキリストによって与えられた新しい命をもつ<魂>を破壊しようと<戦いを挑む肉の欲>を避けなければなりません。ここで言われている<肉の欲>は、4章3節にあるように「かつてあなたがたは、異邦人が好むようなことを行い、好色、情欲、泥酔、酒宴、暴飲、律法で禁じられている偶像礼拝などにふけっていた」とあるような欲望です。

 また、<また、異教徒の間で立派に生活しなさい>と言われてます。この御言葉は、まさに、日本で生きている私達キリスト者にもあてはまる御言葉です。<立派に生活しなさい>とは、欠けと弱さと罪を抱えている私たちが、主イエスによって救われ、イエス・キリストによって与えられた自由を、神の僕として、神のみ心に従うとき、聖霊の働きによって立派な生活ができるのです。

 キリスト者に対する周囲からの偏見や中傷や敵意がある中で、<彼らはあなたがたを悪人呼ばわりしてはいても>、キリスト者の立派な生活によって改心し、神を賛美することになるでしょう。<訪れの日>とは、世の終わに主イエスが再び来てくださる日であるだけでなく、主イエスがまだ神を信じていない方々に出会ってくださる日のことでもあります。

 「主のために、すべて人間の立てた制度に従いなさい。それが、統治者としての皇帝であろうと、あるいは、悪を行う者を処罰し、善を行う者をほめるために、皇帝が派遣した総督であろうと、服従しなさい。善を行って、愚かな者たちの無知な発言を封じることが、神の御心だからです。」(13~15節)

 <主のために>人間の立てた制度に従いなさい、と勧めています。キリスト者が制度に従うのは、(1)「服従の生涯を貫かれたキリストのゆえに、そしてキリスト者もそのキリストに従うゆえに」、(2)「主に仕えるために」、(3「人々に主を証しすることになるために」などが考えられます。

 ローマ帝国の皇帝も、地方に派遣された総督も、彼らの主な職務は秩序を維持することでした。秩序維持は創造主の意志であり、またキリスト者が立派な生活をして<愚かな者たちの無知な発言を封じることが、神の御心だから>彼らに服従しなさい、と言っています。<無知な発言>とは、ここではキリスト者に対する誹謗中傷を指しています。この勧告は迫害を回避するためにローマ帝国に迎合しなさいという教えではありません。

 「自由な人として生活しなさい。しかし、その自由を、悪事を覆い隠す手だてとせず、神の僕として行動しなさい。」(16節)

 初代教会は基本的に<キリスト・イエスによって得ている自由>(ガラテヤ2:4、5:13)を確信していました。政治的制度に従えという勧告がその確信をゆるがすことのないために著者は<自由な人として>服従しなさいと言います。キリスト者の自由は気ままとか、無秩序と混同されてはなりません。「神は無秩序の神ではなく、平和の神」(コリント一、14:33)だからです。キリスト者の自由が罪への自由ではなく、罪からの自由であり、義(正しい行い)への自由です。それゆえ、キリスト者の自由は、<神の僕>にふさわしく、神と隣人への奉仕という服従の生活において全うされるのです。

 「すべての人を敬い、兄弟を愛し、神を畏れ、皇帝を敬いなさい。」(17節)

 <すべての人を敬い、兄弟を愛し>とあるように、私たちはクリスチャンもクリスチャンでない方々も区別なく、敬い、愛すことが求められています。また、<神を畏れ、皇帝を敬いなさい>と勧められています。神に対しては<畏敬>するという語が使われています。<皇帝を敬いなさい>は、私たちにとってつまづきを覚える言葉です。<皇帝を敬いなさい>とは為政者を批判してはいけない、ということではありません。時には私たちは為政者を信頼できないこたがあります。ウクライナに侵略戦争をするロシヤのプーチン大統領やパレスチナのガザ地区を無差別に攻撃するイスラエルのネタニヤフ首相です。恐ろしことに暗殺されればよい、とまで思うことがありますが、<神を畏れ、皇帝を敬いなさい>とあるように、神のみを畏れ、為政者を恐れることなく、為政者のために執り成しの祈りをすることが求められているのです。

 「召し使いたち、心からおそれ敬って主人に従いなさい。善良で寛大な主人にだけでなく、無慈悲な主人にもそうしなさい。不当な苦しみを受けることになっても、神がそうお望みだとわきまえて苦痛を耐えるなら、それは御心に適うことなのです。罪を犯して打ちたたかれ、それを耐え忍んでも、何の誉れになるでしょう。しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の御心に適うことです。」(18~20節)

  <召し使いたち>は、家族の一員のように扱われていた奴隷身分の使用人を指していると思われます。新約聖書の時代の地中海沿岸の社会は経済的にも政治的にも奴隷制に依存しており、多くの職業に奴隷は従事しており、良好な生活条件であったと思われます。初期の多くのキリスト者は奴隷でした。それゆえ試練は、キリスト者の奴隷がその異教徒の主人から受けるような種類のものでした。新約聖書の著者たちは、人権という近代的視点から奴隷制を問題にしていません。<心からおそれ敬って>とは、神に対する畏敬の念と同じ思いを持ってという意味で、宗教的動機が強調されています。不当な苦しみに耐えることが神の意志だとわきまえるなら、それは神に受け入れられる恵みなのです、と教えています。更に積極的に<善を行って>苦難に耐えることは神の眼から見ればすばらしいことであると強調します。

  「あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。」(21節)

 私たちのために苦しみを受けてくださったキリストに目を向けるとき、私たちは自分の受ける苦しみを通して、キリストの苦しみに与かっていることを気づかされます。キリストが残された模範とは、十字架の苦しみを前にして神のみ心を求められたキリストのように、苦しみの中で神のみ心を求めて生きることこそ、キリストが残された模範に倣うことです。

 「『この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった。』ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。」(22節-24節)

 <この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった。>は、イザヤ書53章9節の引用です。ペトロはイザヤ書の預言が、キリストの十字架の死によって実現したことを告げているのです。ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました>は、イザヤ書53章7節の引用です。苦難の僕の姿をもってキリストの受難が語られています。キリストは迫害者に敵対する行動を起こさず、自分の運命も含めてすべてを神に任せました。

イザヤ書の場合は、人々の罪が僕の上に置かれ、彼は民のためにいけにえとして苦難を受けたという意味ですが、ここでは、キリストが人間の罪を担って恥の十字架の上にかけられたというだけでなく、祭司として罪のいけにえ(自分自身)を十字架の祭壇の上にもってきて置いたことをも示しています。ここには、キリストが祭司自身であると同時にその祭司自身がいけにえでもあったというキリストの受難理解があります。キリストの死は、信徒を罪から解放し、神との正し関係にしてくれるのです。そして最後に、あなたがたは異教徒から改心して今はキリストによってしっかり守られていると、現実を指摘します。

 「あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです。」(25節)

 かつて羊のようにさまよっていた私たちが、今は、魂の牧者であり、監督者であるキリストのもとで生きていると言うのです。いついかなるときも、私たちがキリストによって導かれ、守られていることになります。どんなときも、キリストによって守られているという確信が与えられているからこそ、私たちは絶望することなく、忍耐して生きることが出来るのです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする