↑ わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです。コリント二、5章1節
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日本福音教団 富 谷 教 会 週 報
聖霊降臨節20主日 2024年9月29日(日)午後3時~3時50分
礼 拝 順 序
前 奏 辺見トモ子姉
司 会 斎藤 美保姉
讃美歌(21) 204(よろこびの日よ)
交読詩篇 65:1-5(沈黙してあなたに向い)
主の祈り 93-5、A
使徒信条 93-4、A
司会者の祈り
聖 書(新共同訳)コリントの信徒への手紙二5章1~10節(新p.330)
説 教 「天にある永遠の住み家」 辺見宗邦牧師
祈 祷
讃美歌(21) 390(主は教会の基となり)
献 金
感謝祈祷
頌 栄(21) 27(父・子・聖霊の)
オン・ラインで礼拝に参加希望の方は、090-3365-3019
(牧師携帯)へ申し込み下さい。歓迎いたします。
次週礼拝 10月6日(日)午後3時~3時50分
聖 書 マタイによる福音書1章1~17節
説教題 「イエス・キリストの系図」
讃美歌(21) 376 27 詩編 73:21-28
本日の聖書 コリントの信徒への手紙二、5章1~10節
1わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです。 2わたしたちは、天から与えられる住みかを上に着たいと切に願って、この地上の幕屋にあって苦しみもだえています。 3それを脱いでも、わたしたちは裸のままではおりません。 4この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが、それは、地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません。死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまうために、天から与えられる住みかを上に着たいからです。 5わたしたちを、このようになるのにふさわしい者としてくださったのは、神です。神は、その保証として“霊”を与えてくださったのです。 6それで、わたしたちはいつも心強いのですが、体を住みかとしているかぎり、主から離れていることも知っています。 7目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるからです。 8わたしたちは、心強い。そして、体を離れて、主のもとに住むことをむしろ望んでいます。 9だから、体を住みかとしていても、体を離れているにしても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい。 10なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです。
本日の説教
パウロは5章の1節以下で、信仰者の死をわかりやすく説明するために幕屋と建物を例にとって説明します。死とは仮の住居である幕屋(テント)から去って、人手によらない建物(住居)に移ることだと説明します。わたしたちの滅びゆく体を<地上の幕屋>にたとえて語り、人間の魂の行く家は人間の手で作られたものではない、神による本建築の家であるというのです。
「わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです。」(5:1)
コリントの人々は、死についてギリシャの哲学思想の影響を受けていました。肉体は魂を閉じ込める墓場や牢獄と考え、死によって魂は肉体の束縛から自由にされるという考えが支配的でした。聖書では肉体を神の被造物と見做しています。肉体を嫌悪してはいません。なぜなら肉体は聖霊を宿す宮だからです。死とはそのままで救いではなく、キリストの生命によって克服されるべきものでした。パウロは、死を、聖霊の宮とされているテント住まいから、神の用意した永遠の住み家に移ることだという新しい教えを説かなければならなかったのです。
パウロは、自分が使徒の務めを果たすことに落胆しない理由を明らかにし、希望の内容をさらに明確にしようとします。<地上の住みかである幕屋>とは、朽ちていく人間の体のことです。朽ちることのない霊の体は永久に変わらない建物にたとえられています。人間の体を<地上の幕屋>と呼ぶことによって、その弱さ、はかなさ、不安定さを表現しています。<幕屋が滅びても>は、人間の死を意味します。人間は天上の家を目指して歩むのです。そこには、<人の手で造られたものではない天にある永遠の住みか>が備えられています。このことがパウロの地上における仕事の支えになっていました。第一の手紙15章では、「死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます」(一、15:53)と表現しています。パウロはこのような復活信仰を持っていたからこそ苦難の中で毅然として生きていけたのです。
次に「家」のたとえから「着物」のたとえに移ります。
「わたしたちは、天から与えられる住みかを上に着たいと切に願って、この地上の幕屋にあって苦しみもだえています。」(5:2)
キリスト者は栄光を約束され、日ごとに新しくされて生きるのですが、なお地上では救いの完成を待ち望んでいます。新しい霊のからだを着ることを切望しつつ、<地上の幕屋にあって苦しみもだえています>。死後、この上に完全な永遠の衣服を着たいためです。コリントの信徒に対して、パウロは「天から与えられる住みかを上に着たいと切に願う」生き方で、死に対する恐れから解放される生を教えたのです。この地上では罪の体からあがなわれることを願って、わたしたちは苦しみもだえているのです。パウロが本当に考えていたことは、家が与えられることではなく、「神の子」としての身分を与えられること、そして何よりも、今はおぼろげに見ているイエスを顔と顔とをあわせるように身近に仰ぎ、そしていつまでも神の身許におつかえできる者となることでした。
「それを脱いでも、わたしたちは裸のままではおりません。」(5:3)
ここでは「家」のたとえから「着物」のたとえに移り、その地上の体を、着物を脱ぐように脱いでも、裸のままではおりません。神が新しい、復活の体を与えてくださるからです。キリスト者は栄光を約束され、日ごとに新しくされて生きているのであるが、なお、地上にあって救いの完成を待ち望んでいるのです。
「この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが、それは、地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません。死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまうために、天から与えられる住みかを上に着たいからです。」(5:4)
この地上の幕屋に住むわたしたちは<重荷を負ってうめいて>います。<重荷>とは、パウロも、わたしたちも負っている患難であり、人生の悲しみの重荷です。死もまた大きな重荷です。それは、<地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません。死ぬはずのものが命にのみこまれてしまうために、天から与えられる住みかを上に着たいからです。><脱ぐ>というのは肉体をかたわらにおくということで、<着る>というのは永遠の住み家に入ることです。
4節の<天から与えられる住みかを上に着たいからです>は、フィリピ3:20~21にかけての、<キリストは万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです>と同じ内容です。
「わたしたちを、このようになるのにふさわしい者としてくださったのは、神です。神は、その保証として“霊”を与えてくださったのです。」(5:5)
パウロは言います。<わたしたちをこのようになるのにふさわしい者としてくださったのは、神です。>私たちは祝福された永遠の命という栄誉の確かな保証として、神から聖霊を与えられているのです。<保証>は、売買契約を結んだ際に支払われる手付金の意味もあるが、前もってそれを味わうという意味もあります。5節を、エフェソ1:13~14では、<あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。この聖霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための保証であり、こうして、わたしたちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです>と表現しています。
「それで、わたしたちはいつも心強いのですが、体を住みかとしているかぎり、主から離れていることも知っています。」(5:6)
心強さの根拠は人間の内にあるのではなく、復活したキリストの現在にある。肉にある間は主との交わりが絶たれているという意味ではなく、信仰者は完成された神の国に生きているのではなく、なお待望の歩みを生きています。永遠の住みかを信じるパウロの心には、安心感と信頼とがあります。その確信の力は聖霊の内住からくるものです。
「目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるからです。」(5:7)
地上の身体における存在は完成されたものではなく、来るべき終末的榮化を目指し、主と共に住むことを願いつつ生きる存在なのです。現在は復活の主を直接に見ることはできず、ただ信仰によって主と交わりを許されている。
「わたしたちは、心強い。そして、体を離れて、主のもとに住むことをむしろ望んでいます。」(5:8)
聖霊の保証を与えられているので、わたしたちは心強い。にもかかわらず、使徒の究極の願いは、この世を離れ、この体を離れて、キリストと共にいることを願い求めているのです。8節の願いは、フィリピ1:23の言葉を連想させます。「…一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい。」
「だから、体を住みかとしていても、体を離れているにしても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい。」(5:9)
だから、生きるにしても、死においても、主に喜ばれる者となることを願いつつ生きるのが、キリスト者の歩みなのです。
「なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです。」(5:10)
テント生活から神による建物に移されるとき、裁きの座に立たねばならないことをパウロは説いています。パウロは「わたしたちは皆」と、自分を含めて信仰をもつ者みな、キリストから審判を受けなければならないことを説いています。
死後イエスと共にいることが、パウロの死に対する恐れをなくしていることがわかります。しかし、死において裁きがある、ということが人々から忘れ去られようとするとき、パウロは裁きの事実をつきつけています。しかし、「その人は、火の中をくぐり抜けて来た者のように、救われます」(一、3:15)とあるように、裁きとともに赦しも備えられていることを約束しておられるのです。人が救われるのは信仰によるのであり、その人の行為によるものではありません。おそらくパウロがここで意味したことは、人間のなした善悪に対してそれ相当報いが与えられるということであって、人間のなした善悪に基づいて神から義とされるというのではありません。信者といえども裁きから除外されるのではないということは、現世において身をつつしむことが求められているのです。信仰者は罪と戦い、神に服従し、義と愛の実を結ぶ生活に歩むのです。パウロはわたしたちが、「キリストの日に備えて清い者、とがめられるところのない者」(フィリピ1:1)となるようにと祈っています。
わたしたちが世に生まれたのは、神を愛し、自分を愛し、隣人を愛するためです。こうして人生を過ごし、やがて年老いていきます。からだは衰えていきます。孤独となり、内にこもり、外との関係が失われているように見えても、イエス様がわたしたちと共にいてくださるのです。たとえ何もできないような状況であっても、祈ることが許されているのです。
わたしたちは、「たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々新たにされていく」(コリント二、4:12)、という生き方を与えられています。神の愛とキリストの愛を受けながら、神のもとに迎えられる喜びに生きる信仰を与えられていることに感謝いたしましょう。