行雲流水

仏教をテーマとした記事を掲載しています。

一遍上人の言葉

2016年05月13日 | 親鸞・歎異抄・浄土真宗
夫念仏の行者用心のことしめすべきよし承り候。南無阿弥陀仏と申す外、さらに用心もなく、此外に又示すべき安心もなし。諸の智者達の様々に立ておかるゝ法要どもの侍るも、皆諸惑に対したる仮初めの要文なり。されば、念仏の行者は、かやうの事をも打ち捨てて、念仏すべし。「むかし、空也上人へ、ある人、『念仏はいかがもうすべきや』と問ひければ、『捨てゝこそ』とばかりにて、なにとも仰せられず」と、西行法師の撰集抄に載せられたり。是誠に金言なり。念仏の行者は智恵をも愚癡をも捨て、善悪の境界をもすて、貴賤高下の道理をもすて、地獄をおそるゝ心をもすて、一切の事をすてゝ申す念仏こそ、弥陀超世の本願にはかなひ候へ。かやうに打ちあげ打ちあげとなふれば、仏もなく我もなく、まして此内に兎角の道理もなし。善悪の境界皆浄土なり。外に求むべからず、厭ふべからず。よろづ生きとしいけるもの、山河草木、ふく風たつ浪の音までも、念仏ならずといふことなし。人ばかり超世の願に預るにあらず。またかくのごとく愚老の申す事も意得にくゝ候はば、意得にくきにまかせて愚老が申す事をも打ち捨て、何ともかともあてがひはからずして、本願に任せて念仏したまふべし。念仏は安心して申すも、安心せずして申すも、他力超世の本願にたがふ事なし。弥陀の本願には欠けたる事もなく、あまれることもなし。此外にさのみ何事をか用心して申すべき。ただ愚なる者の心に立ちかへりて念仏したまふべし。南無阿弥陀仏

念仏の行者で一番心に留めておくべきことは、南無阿弥陀仏ととなえるほかに何もないのである。昔から今日まで立派な人たちが定められた仏法の要義も、しょせんはかりそめのもので、真の念仏の行者は、そんなものは皆捨ててしまえばいいのである。わたしの先達である空也上人も、ただひとこと、捨てることだ、と言われたとある。これはまったく黄金のような言葉である。念仏の行者は、知恵も愚痴も、善悪の境地も、貴賤高下の道理も、地獄を恐れたり、極楽を願うたりする心も、悟りも、すべて捨てて申す念仏というものが、阿弥陀仏の本願に一番かのうものである。この心を心として声高らかに称名すれば、この世が浄土である。宇宙すべてのものは仏と一体になり、念仏をとなえているのである。もしわたしの言うことに納得いかないなら、それもそのままにして念仏を申しなさい。肝心なことは、愚かな者の心になって念仏を申すことである。

伝教大師の言葉

2016年05月06日 | 最澄・天台宗・比叡山

国の宝とは何物(なにもの)ぞ、宝とは道心(どうしん)なり。道心ある人を名づけて国宝と為(な)す。故(ゆえ)に古人(こじん)言わく、径寸十枚(けいすんじゅうまい)、是(こ)れ国宝にあらず、一隅(いちぐう)を照(てら)す、此(こ)れ則(すなわ)ち国宝なりと。古哲(こてつ)また云(い)わく、能(よ)く言いて行うこと能(あた)わざるは国の師なり、能く行いて言うこと能わざるは国の用(ゆう)なり、能く行い能く言うは国の宝なり。三品(さんぼん)の内(うち)、唯(ただ)言うこと能わず、行うこと能わざるを国の賊(ぞく)と為す。乃(すなわ)ち道心あるの仏子(ぶっし)、西には菩薩(ぼさつ)と称し、東には君子(くんし)と号す。悪事(あくじ)を己(おのれ)に向(むか)え、好事(こうじ)を他に与え、己(おのれ)を忘れて他を利(り)するは、慈悲(じひ)の極(きわ)みなり。

『山家学生式』

国の宝とは何なのでしょうか。国の宝とは正しい道を求める心です。この道心ある人を名づけて国の宝と言のです。ゆえに先の世の哲人は(中国春秋時代に管仲の尊王攘夷を旗印に覇者となった斉の桓公の子の威王「一たび鳴かば人を驚かさん」で有名な人)が言うには、「3cmの宝石10個、これは国の宝ではありません。世の1隅を照らす人こそすなわち国の宝なのだ」と。古代の哲人がまた言うには、「良く発言する事は出来るが行動しないのは国の師で。良く行動して発言しないのは国に有用な人だ。良く行動し良く発言する事は国の宝だ、三種のうち、ただ発言もしない行動もしないのは国の賊である」と。すなわち道心ある仏の弟子を、印度では菩薩と名づけるし、中国では君子と言います。悪い事は自己に向け、好い事を他人に与へ、自己を忘れて他人に利益を与えるのは、慈悲深い事の極みです

弘法大師の言葉

2016年05月03日 | 空海 真言宗 金剛峯寺
もしその能に当たるときは、事、通すること快し。用、その宜しきを失すれば労するといえども益無し。


もし自分に適していることにその能力を使うのなら、物事は極めてうまくゆく。

しかし、自分に向いていない物事に、その能力を使うのなら、

労多く、益は少ないだろう。