『どこへも行かぬ ここにおる』
今死んだ どこへも行かぬ ここにおる
たずねはするなよ ものはいはぬぞ
洒脱さに富んだ一休さんの歌です。
これと似たものに『千の風になって』という歌がありますが、この歌も、亡くなった人はお墓にはいないと言っています。千の風になっては、風になって空を吹き渡っているのですが、一休さんは「ここにおる」と言っているのです。お墓でもなく、仏壇の中でもなく、天国でもない。大空を飛んでいるのでもない。「ここにおる」のです。 禅では「今、ここ」を重要視します。亡くなった方は、自分の意識の中で生きています。しかし、それは決して霊魂とか幽霊とかというものではありません。亡くなった方との対話が、死に別れたあとで始まるのです。
はるか昔の思い出ですが、当時小学5年生だった私は、少し行儀の悪いことをして、祖母にたいそう叱られました。普段は優しかった祖母でしたが、その日ばかりは違いました。さすがにこたえましたね。
それから一週間後くらいだったでしょうか、その祖母が脳溢血で倒れたという知らせを聞きました。あっけない祖母の最期でした。かわいい孫だからこそ、渾身こめて叱ってくれた。そして、去ってしまった。このことは、私にとってとても大きな意味のあるできごとでした。祖母との対話はそのときから始まったのです。祖母は「ここにおる」のです。
今死んだ どこへも行かぬ ここにおる
たずねはするなよ ものはいはぬぞ
洒脱さに富んだ一休さんの歌です。
これと似たものに『千の風になって』という歌がありますが、この歌も、亡くなった人はお墓にはいないと言っています。千の風になっては、風になって空を吹き渡っているのですが、一休さんは「ここにおる」と言っているのです。お墓でもなく、仏壇の中でもなく、天国でもない。大空を飛んでいるのでもない。「ここにおる」のです。 禅では「今、ここ」を重要視します。亡くなった方は、自分の意識の中で生きています。しかし、それは決して霊魂とか幽霊とかというものではありません。亡くなった方との対話が、死に別れたあとで始まるのです。
はるか昔の思い出ですが、当時小学5年生だった私は、少し行儀の悪いことをして、祖母にたいそう叱られました。普段は優しかった祖母でしたが、その日ばかりは違いました。さすがにこたえましたね。
それから一週間後くらいだったでしょうか、その祖母が脳溢血で倒れたという知らせを聞きました。あっけない祖母の最期でした。かわいい孫だからこそ、渾身こめて叱ってくれた。そして、去ってしまった。このことは、私にとってとても大きな意味のあるできごとでした。祖母との対話はそのときから始まったのです。祖母は「ここにおる」のです。