『歎異抄』の第9章の一文です。
また浄土へ急ぎ参りたき心のなくて、いささか所労のこともあれば、 死なんずるやらんと心細く覚ゆることも、煩悩の所為なり。
(また、早く極楽へゆきたいという心もなくて、病になると 死ぬのではなかろうかと、心細く思うのも煩悩のなすところである。)
久遠劫より今まで流転せる苦悩の旧里はすてがたく、 いまだ生まれざる安養の浄土は恋しからず候こと、 まことによくよく煩悩の興盛に候にこそ。
(阿弥陀仏に救われた今、もう迷いの世界と縁が切れて、二度と迷う ことはないと思うと、はてしなき遠い過去から、今日まで生まれ 変わり死に変わり迷い続けてきた苦悩の世界はなつかしく思え、 まだ見ぬ阿弥陀仏の極楽浄土は少しも恋しいと思えないところが、 これまたよほどの煩悩の燃えさかる私であることだ。)
名残惜しく思えども、娑婆の縁つきて力なくして終わるときに、 かの土へは参るべきなり。
(名残おしいことだが、娑婆の縁がつきて、この命が終われば、 阿弥陀仏の極楽参りは間違いないだろう。)
急ぎ参りたき心なき者を、ことに憐れみたまうなり。
(早く極楽にいきたいという心のない迷いの深い者を ことさら阿弥陀仏は憐れんでくだされたのだ。)
踊躍歓喜の心もあり、急ぎ浄土へも参りたく候わんには、煩悩の なきやらんと、あやしく候いなまし」と云々。
(「喜びの心があり、早く極楽にいきたいと思っていたら 煩悩具足ではないのではないかとあやしく思うのではないだろうか」と おっしゃいました。)
簡単に言えば、阿弥陀様は「死にたくない」と死ぬことを恐れている人を憐れんで下さるのです。逆に、早く極楽浄土に行きたいと思っている人は、煩悩のない人だから、阿弥陀様の救いの対象にならないのだと、親鸞聖人は考えているのです。
死ぬのが怖いと思うのは当然のことなのです。生き続けたいというのが本能なのです。たとえ、早くお迎えが来てほしいと思っていても、心のどこかに死への恐怖はあるはずです。死に対してまっすぐに向き合って、死を通して生きることの意味を考えていくことが宗教の役割なのです。
また浄土へ急ぎ参りたき心のなくて、いささか所労のこともあれば、 死なんずるやらんと心細く覚ゆることも、煩悩の所為なり。
(また、早く極楽へゆきたいという心もなくて、病になると 死ぬのではなかろうかと、心細く思うのも煩悩のなすところである。)
久遠劫より今まで流転せる苦悩の旧里はすてがたく、 いまだ生まれざる安養の浄土は恋しからず候こと、 まことによくよく煩悩の興盛に候にこそ。
(阿弥陀仏に救われた今、もう迷いの世界と縁が切れて、二度と迷う ことはないと思うと、はてしなき遠い過去から、今日まで生まれ 変わり死に変わり迷い続けてきた苦悩の世界はなつかしく思え、 まだ見ぬ阿弥陀仏の極楽浄土は少しも恋しいと思えないところが、 これまたよほどの煩悩の燃えさかる私であることだ。)
名残惜しく思えども、娑婆の縁つきて力なくして終わるときに、 かの土へは参るべきなり。
(名残おしいことだが、娑婆の縁がつきて、この命が終われば、 阿弥陀仏の極楽参りは間違いないだろう。)
急ぎ参りたき心なき者を、ことに憐れみたまうなり。
(早く極楽にいきたいという心のない迷いの深い者を ことさら阿弥陀仏は憐れんでくだされたのだ。)
踊躍歓喜の心もあり、急ぎ浄土へも参りたく候わんには、煩悩の なきやらんと、あやしく候いなまし」と云々。
(「喜びの心があり、早く極楽にいきたいと思っていたら 煩悩具足ではないのではないかとあやしく思うのではないだろうか」と おっしゃいました。)
簡単に言えば、阿弥陀様は「死にたくない」と死ぬことを恐れている人を憐れんで下さるのです。逆に、早く極楽浄土に行きたいと思っている人は、煩悩のない人だから、阿弥陀様の救いの対象にならないのだと、親鸞聖人は考えているのです。
死ぬのが怖いと思うのは当然のことなのです。生き続けたいというのが本能なのです。たとえ、早くお迎えが来てほしいと思っていても、心のどこかに死への恐怖はあるはずです。死に対してまっすぐに向き合って、死を通して生きることの意味を考えていくことが宗教の役割なのです。