野々池周辺散策

野々池貯水池周辺をウォーキングしながら気がついた事や思い出した事柄をメモします。

チャンピオンを目指す ①

2018-06-04 06:23:50 | モータースポーツ
    「Kawasaki Racing team
2018年、AMAのモトクロスナショナル戦はkawasaki Racing Team(KRT)のワークスライダーEli Tomac選手が開幕3戦6ヒート連続優勝で圧倒的強さを発揮している。目的が明確な二輪企業のサポート体制がしっかりしているので若手ライダーが次から次へと輩出してくることもあって、いつの時代もライダー層が群雄割拠しているアメリカのモトクロスレース界の中、まだ一度も負けなしというのは本当に賞賛に値すると思う。一方、全日本モトクロス選手権はと言えば、スズキワークスチームが今年から撤退し、ヤマハもワークスライダー不在の状況から必然的にライダーを確保したホンダとカワサキの戦いとなっている。そのカワサキも全日本ではワークス活動を中止し、今は販売会社がチームを作りレースを運営している状態だと聞いた。それらは、かっての4社のワークスチームが相まみえてチャンピオンを目指して戦う様相とはかなり異なり、結果的に観客動員の減少にもつながっているように見え、一部の企業が全日本選手権を戦う意義を迷っているようにも見受けられる。かっての幾重にも鈴なりの動員数を誇った時期を知るライダー諸君や関係者から現状を憂う声が各所のネット情報に多く見られる事象に、昔、少しだけ関係した者の一人としてみるに些か寂しい思いだ。

昔は昔、過去は過去、それがどうしたと言う積りも全くないし、過去を現状と比較する積りもこれっぽちも持っていないが、しかし過去の事実と実績は消え去る物でもない。ある全日本チャンピオンのコメントに「頑張って走ったけれど、タイトルに届かなかった選手が沢山いる中で、運良くタイトル保持者になれば永遠に刻まれる栄誉に輝くことが出来ます!大勢の関係者の力とファンの声援で得られた幸運がこの様に何時までも残されることに感謝いたします。ワークスライダーはタイトル目指して更なる研鑚を願うばかりです」と言う声があるのも消すことができない事実だろう。過去の実績を振り返っても、カワサキがMFJの初代全日本モトクロスチャンピオンを獲得した事実は誇るべきカワサキの宝であり、我々の世代も大先輩達に負けぬようにモトクロスの歴史を繋いできたつもりだ。思い返すに、カワサキのレース活動の主役はモトクロスで、二輪車新聞記事「カワサキ創成期を支えた人たち 今なお、強い絆で会合続ける②」には、こう書いている「とりあえずモトクロスから始めることにし、B8をべースにしたモトクロスレーサーの開発にあたった。1年間に渡る懸命なマシン造りで、約10台のモトクロス車が完成。青野ヶ原(兵庫県下)のMFJ第1回全国モトクロス大会に出場し、6台全車が1〜6位を独占する快挙となったものである。後に、川崎重工業副社長となった高橋鐵郎氏は「あのとき、青野ヶ原のモトクロス大会に出場していなければ、現在のカワサキはなかった。さらに言うなら、ホンダさんが鈴鹿サーキットを建設していなければ、現在のカワサキはなかった。つまり、現在のカワサキは鈴鹿サーキットのおかげとも言える」と、創成期のマインドとそれも持ち続けて経営を運営してきた事実は、今聞いても素直で凄い。

そこで、全日本選手権チャンピオン制度が開始された歴史について若干調べてみた。
MFJ Online Magazine 「モーターサイクルとともに50年」の「MFJ50周年記念」によると、1961年に、国際モーターサイクリズム連盟(FIM)の要請により日本モーターサイクルレース協会(MFJ)が設立されたのが始まりとある。それまでは、浅間レース等をふくめ、各地域のモーターサイク愛好会の連合組織「全日本モーターサイクルクラブ連盟(MCFAJ)」が主催していた。

MFJの記録によると、全日本モトクロスレースの開催は1964年からとある。また、同協会の「歴史に残るライダー達の軌跡」によると、「MFJ歴代チャンピオン」として認定されたのは、モトクロスが1964年から、ロードレースが1965年で、モトクロスチャンピオンの制定がロードレースより一年早かったことになる。
 ●1964年:第1回モトクロス日本グランプリ大会を群馬県相馬ヶ原で開催。
 ●1967年:現在にも続くMFJ国内競技規則を確立し、全日本選手権にランキング制度を導入。

一方、カワサキモトクロスレースはどうかと言うと、平成2年(1990年)に発行された「明石工場50年史(発行:川崎重工業株式会社 明石工場)」によれば、1963年5月、兵庫県青野ケ原コース、MFJ兵庫支部主催の第1回モトクロス大会で初優勝し、その後も地方主催レースでカワサキは勝利を築いて行ったと解説している。当時、単車事業の業績が悪化し赤字が増える一方だったため、1963年に入ると事業継続か中止かが経営上の大きな課題となっていた時期であったが、青野ヶ原の完全優勝を皮切りに事業部全体が自信を取リ戻し、優勝マシンB8の成果を背景に10月、積極的に事業展開した、と解説している。モトクロスチャンピオン制度が確立する前だが、カワサキ単車事業の継続を決定付けたエポックメイキングの出来事として記録されている。

前述の「MFJ歴代チャンピオン」によると、全日本チャンピオン制度が確立したのは1967年で、それまでの’64~’66年はMFJ主催の日本GP勝者がチャンピオンとして認定されていた。1967年の全日本選手権にランキング制度が導入された初年度、カワサキはモトクロスチャンピオンを獲得し、その後の歴史が下記表である。
         

1967年: 250:山本 隆 90:山本 隆 *’67年はジュニア部門が最高クラス
1968年: 250:山本 隆125:星野 一義 90:星野 一義 (カワサキ:3クラス制覇)*68年からセニア部門新設され最高クラス
1969年:  90:山本 隆

  ・それまで日本GP勝者がチャンピオンとして認定されていたが、’67年からチャンピオン制度が導入され、
   その初年度の2クラスでカワサキがチャンピオンを獲得した。
  ・MFJ主催の全国大会日本GPでは、他社ワークス相手では入賞すら出来なかったカワサキは、
   3年後の'67年初代チャンピオン獲得まで飛躍的に成長した。
  ・また、’68年からセニア部門が新設され、それまでのジュニアからシニア部門が最高部門となっている。  

1976年: 250:竹沢 正治
  ・’68以来、8年ぶりに最高峰部門250チャンピオン獲得
  ・これ以降、カワサキはチャンピオンから遠ざかり低迷が続く。

1985年: 125:岡部 篤史 
  ・9年ぶりチャンピオン獲得 
     
1987年: 125:岡部 篤史
1988年: 125:岡部 篤史
     
1989年: 250:岡部 篤史

  ・岡部選手は2年連続チャンピオンを獲得し、最高峰部門250もチャンピオンとなる。

1992年: 250:E・ウォーレン 125:請川 意次 *(カワサキ:IB250/IB125を含む4クラス制覇
1993年: 125:佐々木 祐介
1995年: 250:J・マタセビッチ
1996年: 250:J・マタセビッチ
1997年: 250:J・マタセビッチ125:高見 俊次 *(カワサキ:IB250/IB125を含む4クラス制覇

  ・アメリカンライダー('92~'94年のエディ・ウォーレン、'95~'97年のジェフ・マタセビッチ)を起用。
  ・この間、獲得チャンピオンシップは最高部門クラス部門で合計7タイトル(12クラス中)。
   全日本モトクロス選手権において、カワサキの時代で圧倒的にカワサキの存在を示し続けた黄金期
  ・加えて、'92と'97年、国際B級125/250も含む全日本4クラス制覇

    
   
2003年: 125(4スト250):溝口 哲也
2004年: 125(4スト250):中村 友則
2007年: 125(4スト250):新井 宏彰
2008年: 125(4スト250):勝谷 武史
2009年: 125(4スト250):勝谷 武史
2011年: 125(4スト250):三原 拓也

  ・’03年以降のカワサキは125クラス(4スト250)で圧倒的な強さを示し、6タイトルを獲得
  ・一方、’98年以降最高峰部門250クラスではチャンピオンから遠ざかる。
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