野々池周辺散策

野々池貯水池周辺をウォーキングしながら気がついた事や思い出した事柄をメモします。

舛ノ山 - 勝負出来る時間は20秒

2012-11-21 06:35:31 | スポーツ
     「前頭 舛ノ山」

舛ノ山という相撲取りのことを初めて知ったのはNHKの「アスリートの魂」という番組だった。
丸まるとした子供ぽっい顔立ちで、昇進すると自分の部屋を与えられるのだが、若い衆と一緒にいた方が落ちつくと大部屋の隅の囲いを自分の領域としていると言う。
そのテレビ番組でも一向に恰好良さが全く見られず大丈夫かなと思ったぐらいだ。
それで、気になって調べてみると’08年に三段目で七戦全勝して優勝し、’10年の九州場所で十両に昇進した。
一度十両に転落し再度前頭に復帰し、今場所に前頭4枚目までに昇進した。

九州場所で初めて舛ノ山の相撲をテレビで見た。
まさに童顔、上半身が丸みを帯びて、一般的な太ったあんこ型の相撲取りではなく、上半身筋肉が丸く付いた体格の相撲取りとの印象。
NHKの番組で、親方が「この子は、心臓が小さいから、早い相撲しか取れないんですよ」と言ってたので、何だろうと思って調べてみたら、
心臓に先天的疾患の疑いがあって、心臓の壁に穴が開いているために血液の循環が悪くなり、体に酸素を取り込みにくくなる病気だそうだ。
それで、運動すると息が上がるのが極端に早く、すぐに動けなくなり、体重180キロの舛ノ山の場合、活動できなくなるまでの時間は20秒。

更に泣けることに、現在日本で介護士をしている母親がフィリッピン人で母子家庭で育ち、フィリピンに住む母方の祖父母や10人の家族には、
「治安が悪いから」との理由で入門からずっと仕送りをしてきたそうだ。一時はフィリピンに住んでいたこともあって、自身も英語とフィリピン語に堪能。
心臓病にあえぎながら必死の勝負をしている姿に惚れ込んでしまうが、こんなに心臓が悪くても力士を続けていられると言うことにもびっくりした。
しかし、舛ノ山のド迫力の相撲は、病気というフィルターを通さずとも、心に響く。
こんな激しい相撲を取る力士が現れたら、ファンになるしかないだろう。
10日目、大関琴奨菊に勝って5勝5敗と五分に戻したが、勝利者インタビューでは息も絶え絶えに苦しそうだった。
初日痛めた左肩のテーピングが痛々しいが、テレビから離れるわけにはいかなくなった。・・・期待大の力士!

       

10月9日、13日の日経の「駆ける魂」記事は泣けるほどに面白いので借用した。
「境遇恨まず、土俵楽しむ 大相撲・舛ノ山」「治療は引退してから」と覚悟を決めている。
■勝負の世界に珍しい純粋さ
 話し上手ではないが、問いかけられれば相手の目を見てにこにこ笑う。勝負の世界には珍しいほどの純粋さだ。
 スタミナが乏しい原因である、心臓の疾患とも正面から向き合ってきた。自分の体が人と違うことには、幼い頃からうすうす気づいていたという。
 どんなスポーツをやってもすぐに疲れる。小学校の相撲クラブでは2番取っただけでへとへとになり、指導者に「どうしてこれくらいで息が上がるんだ」と叱られた。
「本当にきついんだけどな」と思いつつ、「みんなも同じくらい苦しいんだから」と自分に言い聞かせていた。
 15歳で角界入りしてから着実に番付を上げてきたが、昨年9月、息苦しさが悪化して病院へ行った。
最初は肺の疾患の可能性も指摘されたが、最終的に心房中隔欠損症の疑いと診断された。
 それでも身の不運を恨む気持ちは一切なかったという。「しょうがない。治療は引退してから。現役の間は今まで通りの速攻相撲を極めればいい」とすぐに覚悟を決めた。

■病気が相撲にプラスの部分も
 長い相撲の後、どんなに息が乱れて顔をしかめていても、悲壮感をあまり感じさせないのはそのせいだろう。
 ある日はガソリンのメーターになぞらえ、「今日は(スタミナの)ゲージが半分くらいになった」と周囲を笑わせる。
「(病気のために長い間動けないことが)突きの必死さにつながっているし、プラスになっている部分もある」と本気で語る。
 9歳で相撲を始めたのは体が大きかったのと、フィリピン出身の母、マリアが相撲好きだったから。
小学校では地元の相撲クラブで汗を流し、全国大会で3位になったこともある。

体重180キロの舛ノ山の場合、活動できなくなるまでの時間は20秒。
限界が近づくと、突きを繰り出す両手が重くなり、全身がだるくなる。「海で溺れているような苦しさ」を味わう。
土俵の上では相手の力士だけでなく時計の針とも戦う。だから、得意の押し相撲で早く決着をつけることに全てを懸ける。
立ち合いで頭からぶつかり、両手の突きを連打して一気に押しこむ。引き技もあまり使わず前に進む一本やりの相撲だ。

■親方に自ら連絡取って入門決める。
 「相撲取りになって自分が稼いで楽をさせたい」と、現地の中学校を卒業した後、知り合いだった千賀ノ浦親方(元関脇舛田山)に自ら連絡を取り、入門を決めた。
 2010年九州場所では十両に昇進。高安とともに平成生まれ初の関取になった。
新入幕の昨年秋場所は左足首を痛めて途中休場。十両に転落したが、今年の名古屋場所で幕内に復帰すると、2場所連続で勝ち越した。
 今も毎月の給料からフィリピンにいる母や祖父母の元に仕送りをしている。
「母も相撲取りになったことを喜んでくれる」と笑顔で話すその傍らでマゲを結ってくれるのは、部屋の床山として働く千晴だ。
 番付が上がるにつれ、体への負担は確実に増す。相手が強くなった影響もあるし「研究されている」とも感じる。
 それでも、自分が勝つことで喜んでくれる人がいる。今は土俵に上がるのが楽しい。

21歳と幕内では最年少ながらも、工夫した稽古で培った押しは十分通用するようになってきた。
2度目の幕内だった名古屋場所では11勝を挙げ、平成生まれで初の三賞となる敢闘賞を手に入れた。
自己最高位の前頭6枚目で迎えた秋場所も8勝で勝ち越し。平成生まれ初の三役も視界に入る。
若々しい相撲と戦い終えた後の苦悶(くもん)の表情。土俵に懸ける気持ちがストレートに見て取れる、今の角界では貴重な個性。このまま一気に「コイの滝登り」といけるかどうか。

コメント
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