しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

満蒙開拓団  分村移民

2024年07月30日 | 昭和16年~19年

大正時代に農家の長男に生まれたので、人生は決められたように農業いっぽんだった父には、
たまに口癖的に話す言葉があった。
「国が作れいゆうて作ったもんで、儲かったもんは何んもねえ」
両親が手掛けたが、僅かの期間で止めた
豚・ひつじ・養鶏・ミカンなどが代表と思える。
だが、それは儲からないだけで済んだ。


いちばん悲惨なのは、
「国が行ってくれい」と言われて、
行った先が満州だった農家の人。
行って長くて数年、短くて数ヶ月で、
昭和20年8月9日の未明、
国から”棄民”となってしまった。

 

棄民の状態になってからの、本土帰還までの絶望的な、生と死の日々は多くの人々によって語られ、伝えられているが、
結果的に棄民の基になった勧誘者の言葉が聞こえない。
県知事、村長、先生、議員等・・・仕事に忠実だったといえばいえるが、
現地の情報を知らさず語らず、甘い勧誘した責任は大きい。


また、生死をさまよった日々からは解放されたが、
生きて本土帰還した人たちの、それからの日々は、
棄民時代に負けないほどの、生きる・食べる苦労があったはずだか、それもほとんど語られてはいない。
あれから79年、多くの史書がある割には、
決まったような内容の開拓民の本が多く(団長や勧誘責任者の語りや執筆)、知りたいことが書いてある本が少ない。

 

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「笠岡市史第三巻」  笠岡市 平成8年発行

 

浩良大島開拓団


満州事変が終結しても、満州の治安は匪賊などの跋扈によって、厳しいものがあり、
「満州への移民は不可能である。」の世論の中で、政府は昭和9年末「農業移民は困難ではあるが不可能ではない」との結論に達し、
広田内閣(昭和11年3月組閣)により、満州開拓を重要国策として採択され、
20ヶ年100万戸 500万人の移住計画が立てられた。
遂行の機関として満州移住協会が日本側に、現地満州に満州拓殖公社が設立され、以来大量にかつ急速に推進されることになった。
更に満州開拓こそ日本生命線の維持であると教えられ、土の戦士として鍛えられ養成された青少年「満開拓青少年義勇軍」の大量派遣となる。
さらに昭和14年末には「満州開拓基本要綱」も制定され、開拓事業は 「五族協和、王道楽土」建設の中核として着実かつ本格的なものとなった。

昭和12年(1937)は日中戦争が始まり、厳しい世の中となっていたが、
海外発展の使命と光栄を持ち、特に満州は国づくり要員として、開拓団という性格を持っていたのである。
大島村は農村の余剰労働力の解消と、国策にそう両面から真剣に大島村分村の計画を考えることとなった。
大島村は当時浅口郡に属し、平凡ながら進取的な農村であった。
村勢昭和12年現在の人口は、7142人 戸数1321戸 農家一戸当たり4反2畝(42アール)の零細な規模であった。
しかも農地の生産力については「米麦作中心のしかも用水が掛かりで、水利の不便なるをもって早損の恵ある条件の下で、ほとんどの農家が1町以下の零細規模であるため、
農間男子は出稼ぎ、
女子は白布を制しあるいは酒造りに出稼ぎしなくては生計を維持できないという自給的零細農村ということができるのである。
一方出稼ぎの酒造りは「正頭出身の浅野弥治兵衛 (通称忠吉)が元禄年間に酒造り場の臼踏みとして雇われ、
次いで杜氏となり、広島県忠海の酒場を振り出しに各地を転々とし、その間に郷里の人々を杜氏に育成したといわれている」。
その杜氏の2/3が、大島村零細な農家から出ている。
杜氏は格別に優遇されて賃金も高かったので、それを知った若者が杜氏を志して、酒屋へ出稼ぎに行ったもので、大正12年には156名であった。

村議会で村長坪田旭一は次のように述べてい
「国家が我々に何を要求し、我らも又何を為すべきかを考えるならば、
大島村が現在のような過小農地によって、生活の安定をはかるよりも、
もっと多くの農業生産によって国家に御奉公せねばならぬ。
急々にも300戸分村を満州に行なうの要あることを覚るべきである。」
皆を力説し、村民も一刻も早い分村を望んで昭和15年11月分村決議をしたのである。


村長に対する絶対的な信頼は全村民を動かし、日本一の理想農村建設のための、先遣部隊20名の派遣は、
満州東北部ソ連の国境近い佳木斯(チャムス)の北西に位置する所に決定した。

時は昭和16年(1941)4月1日
団名を「第10次浩良大島開拓団」とした。
北満の大原野にトラクターの響き、耕された黒土はやがて二頭立て、三頭立ての馬・牛が、往復し、更に土を小さく砕き大豆、馬鈴 麦、麦、とうもろこしの穀物や、野菜が作られ、水田も造成されていく。 
備中杜氏の本場から来た隊員にとって良質の水、米のとれることから酒造りの夢も広がる。

気候風土に恵まれた大島村出身の開拓団員も、広い未開の大地に放り出された寂しさから脱落者が続出して、
先遣隊20名はわずか8名に減じた。
後続の隊員を迎え、国民学校の開設を見たのが昭和17年(1942) 5月5日、 生徒は小学1年の女子1名、
あとは4年から高等2年まで9名であった。

しかし赤痢の大流行があり、団も滅亡の危機に瀕した。母村に分村を見殺しにするのかと訴え、
後続の団員募集を続けたが、皮肉なことに、軍需経済の発展につれて、農村の労働力は吸収され、戦況が激しくなるにつれ、村の青壮年労働力は兵役に動員されることになったから、鐘や太鼓で誘っても派遣が困難とったので、
寄島、里庄、鴨方、六条院、黒崎の隣接町村にまで募集をした。

昭和20年(1945) 8月ソ連の宣戦布告によって、17歳以上45歳までの開拓男子は、根こそぎ動員され8月14日避難を始めた。
団長はハルピンに拉致され、取り残された老人婦女子は、幼児のハシカ大流行、死亡続出と苦難を克服しながら南下して、
新京に着いた途端発疹チフスが流行し全員その洗礼を受ける。 
長い長い苦難の道程を経て、8月23日博多に上陸、大島村に帰着したのである。 

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「福山市史」


満州分村計画

内地の人口過剰・食糧不足の解決策として満州入植が奨励された。
誰でもすぐに自作農になれるという「甘い勧誘」で、小作農の応募が期待されたのである。
なかでも芦品郡は、拓務省から満州開拓指導郡とされ、1.400戸移住の計画を立てるなど、各地で移住の計画が立てられた。
この地方では福山市を中心に300戸渡満させ、 備南村を建設することが計画された。
満州は
「設備もゆきとどき水田牛馬も豊富」と宣伝され、
昭和18年3月には第一陣が北安省太平荘に送り込まれた。

しかしあとが続かず、19年11月までに移住したのはわずか56戸で、そのため、
20年3月までに1市2郡で少なくとも150戸、1町村4戸以上の移住を募集したが、わず3名の申し込みがあっただけであった。
この間、入植者向けに「花嫁候補」を送ったり、写真結婚を行なったり、
また備南村は「生活に不自由はなく内地に比べると天国である」などと宣伝したが、まったく効果はあがらなかった。 
市大津野など5ヶ村の村長が、
「本事業(分村計画)、所期ノ目的到達セザル様考ヘラレ候」と県拓務課長に報告しているのをみても、
その効果のほどは知られるであろう。 


入植者の生活が伝えられるほど「天国」ではなく、
移住場所が軍事目的も兼ねて北満の荒地であり、そのうえ、農地は現地人の土地を奪ったものが多く、
採草地は原野に近いものであったから、それは当然の結果であったともいえよう。
なお、これら移住者のうち、敗戦後無事故郷に辿りつくことができたのは約半数といわれる。

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「井原市史Ⅱ」 井原市  平成17年発行


対満蒙移民政策は、4ヶ年の試験移民期をへて、
昭和11年、広田弘毅内閣が20ヵ年100万戸移民計画を策定し、本格的に移民政策は実施され、終戦まで継続していった。

昭和14年3月、大阪朝日新聞岡山通信局が、本紙に連載するため各通信員に帰還軍人の体験談の記事を募集した。
特色ある面白い題材の一つとして、
「日露の老勇士である父親ともに一家を挙げており、報道機関は国策としての満蒙開拓団募集の一翼を担っていたと言える。
同15年の青野村方面委員会・同村報国連盟本部は方面事業の具体策として、
「健康ナル貧困家庭」はなるべく満州農業移民に送出する計画とした。 
30戸余りを予定し、すでに2家族を送出した。


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「芳井町史 通史編」 井原市 2008年発行

 

昭和11年に成立した広田弘毅内閣は満州開拓移民推進計画をたて、
国策として今後20年間に100万戸を送り出すという計画を策定した。
目的は耕地の乏しい農村の分割で分村移民の形をとったものが多く、府県・都・町村を単位として構成されていた。
昭和20年の敗戦まで日本全国の農村部から送り出された満州民は約27万人に達している。
その中には16歳から19歳の青少年達からなる満豪開拓青少年義勇軍があり、
戦後移民とともに帰国に当たって辛酸を舐めることになる。

岡山県の場合敗戦までに開拓移民と青少年義勇軍は合せて約3.500人といわれている。
この移民について芳井町をみる前に、大政翼賛会文化部が編集している啓蒙書があるので紹介しておきたい。

昭和17年 高陽村(現赤磐市)、農民文学を得意とする小説家丸山義二が書き上げた著書
「高陽村」(翼賛図書刊行会) から抜き出してみると、

校長は高陽村の将来をして、「この村は、今、非常によくなりつつあります。
しかし、このまま進んでいって、30年後には、かならず、ゆきつまるでせう。
それは耕地不足といふ問題から、ゆきつまるのです。 
夫婦2人に子供1人ぐらゐの労力で、すくなくとも1町8段歩の自作ができるといふのでなければ、
この村の農家経営が理想的にいかないといふ計算が立つからです。
それが現在では1戸あたり平均が、田畑あはせて1町4敵なのですから、どうしても、農家数がおほすぎるのです。
この解決を国塩村長は、どう考へておいでか? 
私は、分村計画をたてて、第二高陽村を満州大陸にうち樹てよ! 
さうして、あとの元村では、耕地整理をし、土地の交換分合を断行し、労力の合理化をはかるのでなければ、
眞の、理想農村は完成しないと、考えてゐます。」

満州に日本人を移住するに当たって、いかなる土地取得が現地民との間に行われているのか、
その辺りの充分な思慮はなく、 国策に沿った政策を地方に実施させようとしている。
では後月郡下ではどうであろうか。
昭和14年9月27日に明治村の明治青年学校女教室で満開拓女子青年募集懇談が行われ、
大陸開拓民結婚相談所の係員を囲んで座談会があった。
その年12月にも明治村では同村小学校で満蒙移民開拓懇談が開かれ、 
第8次満蒙開拓民の募集と分村計画などについて話し合いが持たれている。

開拓民の送り出しが本格化するのは、日中戦争と同時であったが、
昭和16年に太平洋戦争が始まっても 依然衰えることはなかった。
昭和18年1月18日に開かれた後月郡町村長会の協議では、満州開拓移住の件は
後月郡130戸、小田郡70戸に決定した。
また同年12月28日の合同新聞によると、同19年度の送り出し予定の青少年を対象とした満蒙開拓義勇軍の選考が行われ、
志願者706名中合格者658名に達し、然に2ヶ中隊編成が可能になったとある。
特に岡山、小田、後月、川上、真庭の各郡市は小隊編成ができると報じている。 
ちなみにこのときの小田・後月両郡の合格者は49名であった。

明治村からの入植は昭和15年より始まり、満州国三江省柳の開拓に向かった。
ここは佳木斯の東南45kmの地点で地勢は良く、大変肥沃の地質・水質も良いであったので、
同年春早々に先遣隊4名が渡満して、受け入れ準備をした。
参加者は県道場である上道郡角山村(岡山市)の三徳塾で訓練を受け、開拓士の資格を得た。
出発に当たって 明治村の忠魂碑の前で村長 村会議員、学校児童など多くの見送りを受けて出発し、
10月15日鼻が刺すように 感じる寒さの中に到着した。
翌年春には岡山の本隊の入植があり、結局125戸、450名となった。
子教育の学校も作られ、岡山病院もできた。
農地は昭和18年には1戸当たり10町歩を得て自作農として完成した。
しかし、戦の悪化によって男たちは現地招集を受け12~13人の老人を残すだけになった。

昭和20年8月9日のソ連参戦によって避難が始まり、
死亡者は出征軍人を併せて140名を数え終戦後の翌21年8月、帰国したのは300名余であった。

 


芳井町からの入植は、
柳樹河開拓団の団員家族70名と阜新芳井開拓団の団員家族約300名の2回に分け送り出しと
県単位で送られる満蒙開拓青少年義勇軍の約15名で、
満州各地で推定385名であったという。
阜新への渡満の契機は太平洋戦争が熾烈になり、多くの青年は戦場に出て、
銃後を守る者のほとんどは老人と婦人になり、勉学中の高学年は学徒動員で軍需工場で働き、
食糧事情は年々低下していく事情にあった。
耕地面積は狭隘で、農業経営には苦労も多かった。
こうした一般的状況の中で昭和16年の終りごろから17年にかけて、当時芳井町長であった藤井円太郎が中心となって計画を立案、
町会の議決を経て戦時下の農村振興計画を樹立した。
これが満州分村の計画で、同町1030戸(農家771戸) 中200戸の農家を、満州国錦州省阜新にある約二千町歩の分郷に入植させることとなっていた。
国は芳井町を「興国農村」に指定し満州開拓は具体化にむかって歩みはじめたものの、
芳井町のみで団員の確保がむずかしく、芳井町を中心に後月郡で希望者を募ることになった。

『合同新聞』によると昭和19年2月6日、第一次先遣隊45名は午後零時20分から同町氏神で祈願祭を執行し、
1時から町国民学校で壮行式をあげて直ちに井笠鉄道で笠岡町へ向かい、1泊の上7日に出発勇躍渡満した。
2月11日の紀元節の良き日に役所、現地人代表を招いて形ばかりの入所式を挙行している。
阜新市は人口13万人、内日系人は1万5千人もおり、炭鉱の町で阜新炭鉱は撫順炭鉱を凌ぐともいわれ、
日本軍の部隊もおり地方産業の中心地で気候も満州国内では一番住みよい所といわれていた。
そして入植地はすべて既耕地ばかりであったという。
こここでの農業は炭都阜新に対する新鮮野菜、その他食料品の供給を主たる目標としており安定感はあった。
しかし、昭和20年になると毎日の如く召集令状が届き、兵役対象者は根こそぎ動員となった。
そして8月15日終戦を迎えた。
終戦時には136戸320人の団員・家族が居た。
5月14日現地を離れ、葫蘆島乗船、5月31日博多上陸、6月2日送出母体の芳井町に帰った。
帰還できた者は247人であった。

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コメント (2)
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