しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

満洲国建国と「試験的移民期」

2024年07月29日 | 昭和元年~10年

「満蒙開拓団」は、
農民家族ごと移民する「分村移民」と、未成人・青年による「青少年義勇軍」がある。

時期的には、
昭和11年までを「試験的移民期」で、昭和12年以後の「20ヶ年100万戸移住」移民がある。

移民の勧誘は、国からのノルマ数があり、達成に苦慮したようだ。
日米開戦後は「分村移民」と「義勇軍」とは同じ移民扱いに統一される。
移民は終戦の年までつづいたが、
ソ連の侵攻後は逆に国から棄てられ、さまざまな苦難と悲劇が生じた。

 

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「在郷軍人会」 藤井忠俊 岩波書店 2009年発行


満洲国建国

つぎの大きなエポックは、またも突如として日本と中国の秩序関係をくずした「満洲国」の建国、
すなわち中国からの分離である。
日本陸軍が満洲の領有計画を修正したものの分離独立を強引にすすめた結果であった。 

その建国式典は1932(昭和7)年3月1日にあげられた。 
満洲国の最高の地位についたのは、 日本軍によってつれてこられた溥儀元清国皇帝で、執政として、一応の形をととのえた。
しかし、日本陸軍(関東軍)が経営するのは誰の目にも明らかだった。
世界のほとんどすべての国がこれを日本の傀儡国家と見て、日本の敗戦までその評価は変わらなかった。
結局これはアジア・太平洋戦争の遠因になるが、日本国内は湧いた。
というべきか、少なくとも表面的には祝賀行事一色になるが、識者の見方はもはや表面には出なかった。
日本の帝国主義的行為を批判する社会主義者は、この期間を通じて回復不可能な弾圧を蒙っていた。
この陸軍的植民地の出現は、在郷軍人にも影響を与えることになる。
卑近な事例では、満洲国に必要な 警察官への転職斡旋を本部はしてくれるかという問い合わせがふえてきたというのである。
日本人一般においても、ここで一旗あげられるかと思う者もでてきた。
農村の恐慌はまだつづいていたのだった。
そしてこれより少し後になるが、満洲国軍がつくられると、日本陸軍の指導のもとに補助軍隊として利用されることになる。
その軍隊への就職の道も開かれた。
日本陸軍で下士官だった者は満洲国軍の将校に任用されることになる。

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試験移民

「第一回満蒙移民」の現況と募集が発表された。 
現在、満蒙にある第二、第八、第一四の東北各師管から農業従事者で既教育在郷軍人の中から選定されたとした。
気候風土が似ていること、移住した時風俗習慣を同じくすることで、統制、親和に便利であるという理由であった。
選定された者は9月に予備教育を受け、10月中旬に移住地へ行く予定とされた。
移住者には、旅費、農具費、家畜費、被服費、家屋建築費など計635円相当の移住関係費補助が見積もられた。
ほかに、移住してからの月間補助、収穫までの補助若干もみられた。
これが満蒙武装移民のはじまりである。

この第一次武装移民416人は10月中に満州佳木斯に到着した。
以後この実験的満州移民はなくなり、やがては日本農村の分村移民が主体になり、
村を二分して満州に移住した。
百万戸移住が拓務省の移民政策であった。

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どこまでつづくぬかるみぞ

日本軍が満洲での軍事作戦をほぼ終了し、満洲国を建国した後も、満洲は不安定な治安状況であった。 
パルチザンによる抵抗がつづけられ、在満の日本軍は絶えず戦闘をつづけていた。
日本軍による表現でいえば、匪賊の討伐である。
その表現は早くから使われた。 
満洲国内に出没する匪賊の潰滅をはかる軍事行動がとられた。
その作戦を討匪行という。
満洲在地中国人の表現では反満抗日運動(戦争)とする。 
満洲国の樹立に反対し日本軍と戦うの意である。
藤原義江が歌った「討匪行」はそのころ国民の間でも広く歌われるようになった。

どこまでつづくぬかるみぞ
三日二夜を食もなく
雨降りしぶく鉄兜

という歌詞が哀調のあるメロディにのって歌われた。

この匪賊=反満抗日軍は、当初は中国軍隊の残存兵だったが、
やがて、日本人移民が極めて安い土地代を与えて収奪した土地で農業を営んでいた現地農民、生業を奪われたものたちが主体になっていた。
「住民は匪賊の群に投ずるか或はこれと連絡をとらねば生命、財産の安全は期し得られないやうな悲惨な境遇にあった」。
そういう状況で何度か匪賊の襲撃にあい、屯墾団も何人かの死者を出した。

 

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「芳井町史 通史編」 井原市 2008年発行


満州へ

昭和初期の世界恐慌は日本にも及び、昭和恐慌となって企業倒産や失業者の増大が相次いだ。
それは全国の農村においても米やその他の農産物の価格が下落し、農家の生活は慢性的に困窮していった。
その上人口増による耕地面積の不足が予測されるようになると、満州への移民が考えられるようになってきた。
特に昭和6年(1931)の満州事変、
そして翌年日本によって作られた満州国の建国によって、国民の間に満州進出への機運がたかまり、
農業移民の送り出しが関東軍や拓務省によって進められるようになってきた。

 

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「井原市史Ⅱ」 井原市  平成17年発行

満蒙開拓団


日本では満州と内蒙古を満蒙(中国東北部)と称し、昭和6年(1931)の満州事変以後、
満蒙の安定支配を目指した関東軍の要請を請けて農業移民送出論が高まっていった。
また相次恐慌の打撃をうけて農産物価格の下落が激化して、慢性的な疲弊が深刻化した農村の経済問題の打開策が求められた。
政府は満蒙の開拓武装集団として治安維持・支配強化をはかるとともに、
農山村救済の一端として過剰人口の解決をはかるために次男・三男を農業移民として集団的に送り出した。

昭和7年6月、自治農民協議会が3万2千人の署名を添えて農民救済請願書を衆議院に提出した。 
農家負債の三年据置き、満蒙移住費5千円などを請願した。 
破綻した農家や零細農民に広大な満蒙の地への移民による再出発、自作農民になれるとの幻想を抱かせたのであろう。
同年9月、拓務省は第一次移民団を大連に送り出し、満州移民が始まった。

 

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「金光町史・本編」  金光町  平成15年発行


農村窮乏の緩和、
満州での日本人の増加、
さらに、関東軍の戦力の補助をも兼ね、
現地人の土地を収奪した後に、
昭和7年から昭和11年にかけて 4次にわたる武装移民団が試験的に満州に送り込まれた。

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