しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

蚶満寺

2022年07月27日 | 【史跡】を訪ねる

場所・秋田県にかほ市象潟町象潟島

 

高校生の時、古文の教科書で”象潟”を知り、地図を見ればはるかに離れた秋田県の秋田市からも遠い場所だった。
その象潟に初めて地を踏むと感慨を覚えた。
かつての九十九もの島々は、今も浮島のように、
緑の田園の中に松林の小山として残されていた。

 


「秋田県の歴史」  今村義孝  山川出版社  昭和44発行

象潟の景色は古くから世に知られていたようである。
鎌倉時代の歌人西行法師も遊歴の途中に立ち寄っている。
室町時代の著名な連歌師梵灯庵もまた象潟を訪れ、蚶満寺(かんまんじ)に古歌をしるした。
象潟を東の松島の風景と対比するのは松尾芭蕉の「奥の細道」をまつまでもなくさらに古かったわけである。
芭蕉によって象潟の声価がさらにたかまった。
その後も文人墨客のこの地を訪れるものは多かった。
それゆえ、六郷氏も島守をおき島内・潟端の新田開発を禁止するなど、
その維持管理につとめた。
しかし文化元年(1804)滄海桑田の変がおこった。
象潟は陸地となり、
その面影は本荘藩の画工狩野永昌の画いた「象潟図屏風」に見られるだけとなった。

 

文化の大地震と蚶満寺

(Wikipedia)

象潟は「九十九島、八十八潟」、あるいは「東の松島、西の象潟」と呼ばれたように、かつては松島同様無数の小島が浮かぶ入り江だったが、
文化元年(1804年)の大地震(象潟地震)で干潟に変わった。
陸地化した土地問題で本荘藩と紛争となったが、二十四世全栄覚林(生年不詳-1822年、仙北郡角館生まれ)は、命がけで九十九島の保存を主張した。

象潟地震後の潟跡の開田を実施する本荘藩の政策に対し、
覚林は蚶満寺を閑院宮家の祈願所とし、朝廷の権威を背景として開発反対の運動を展開、文化9年(1812年)には同家祈願所に列せられている。
覚林は文政元年(1818年)江戸で捕らえられ、1822年、本荘の獄で死去した。

 

 

訪問日・2022年7月11日

 

 

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千住大橋

2022年07月26日 | 【史跡】を訪ねる

場所・東京都足立区~荒川区  千住大橋        

 

千住大橋には「千住大橋駅」から行った。
橋の袂には、多くの記念碑があり、
橋の下におりると絵図による説明板などがあり、
さすがに古くからある千住大橋は今も大切にされていることを感じた。

橋を渡ると(足立区→荒川区)、大きな素戔嗚神社があり、
南千住駅前には芭蕉の出立の像が建っていた。

 

 


「街道をゆく・本所深川」  司馬遼太郎 朝日新聞社 1992年発行

千住大橋

千住大橋がみえてきた。

隅田川がまがっている両岸の低地を千住という。
江戸から奥州(あるいは日光や水戸)へゆく最初の宿があったところである。

江戸時代、幕府は隅田川に五橋を架けた。
千住大橋、吾妻橋、両国橋、新大橋、永代橋。

千住大橋は江戸時代を通じ、幾度か架け替えられたが、洪水で流出すということは一度もなかったといわれる。
家康が架けた千住大橋は、架けられてから二百七十四年後の慶応四年四月十一日、
最期の将軍慶喜がこの橋をわたって退隠の地である水戸にむかったとき、江戸がおわった。



千住大橋

(Wikipedia)

橋の歴史


最初に千住大橋が架橋されたのは、徳川家康が江戸に入府して間もない文禄3年(1594年)11月のことで、隅田川最初の橋である。

「大橋」とよばれ、渡しを経由していた佐倉街道、奥州街道、水戸街道の街道筋が、この橋に移った。
江戸幕府は江戸の防備上、隅田川にはこの橋以外の架橋を認めなかったが、後に明暦の大火等もあり交通上、安全上のため
両国橋等が完成してから「千住大橋(小塚原橋とも)」と呼ばれていたようである。

千住大橋は何度も改架、改修が行われ、計6回に及ぶ。
なお、明和の架け替えの際に、ほぼ現在の位置に架け替えられた。
最初の架橋から明治18年(1885年)7月1日の台風による洪水まで、流出が一度も無く江戸時代の300年近くを生き抜いた名橋と言われる。
明治18年の流出の際、下流の橋を守るために多くの水防夫が活躍した。

その後、明治19年(1886年)に 二重の太鼓橋様式の木橋として再架橋され、関東大震災後の震災復興事業の一環として、昭和2年(1927年)に現在の鉄橋が架橋された。
タイドアーチ橋としては日本最古のものである。昭和48年に交通量増大のために、下流側にぴったり接して新橋が架橋された。

 


訪問日・2022年7月13日  

 

 

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旧酒田灯台

2022年07月26日 | 【史跡】を訪ねる

場所・山形県酒田市日吉町  日和山公園

広い日和山公園に白亜の灯台が目立つ。
六角形の木造建築。
明治28年建造物だから、鉄道以前で、
酒田港には多くの北前船などで賑わっていた時代に造られたもの。

 

 


「日本近代建築大全・東日本篇」 米山勇 

旧酒田灯台

日本最古の木造灯台の一つ
明治27年に起きた庄内地震の翌年建てられたのが、この木造六角の洋式灯台である。
内部は2階。
その上が展望台となっている。
灯台は、大正2年、対岸に移された後、大浜、ついで現在地の日和山公園内に移築された。
モダンな外観の旧酒田灯台。
明かりは灯されないが、港町酒田のシンボルとして町を見守っている。

 

 

 


訪問日・2022年7月11日

 

 

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湯殿山本宮      

2022年07月25日 | 【史跡】を訪ねる

場所・山形県鶴岡市仙人沢  湯殿山本宮          
 

「語るなかれ 聞くなかれ」の湯殿山本宮にお参りした。        
ご神体は世にも不思議な思いがした。

 

 

羽黒町観光協会

湯殿山

古は本地仏として永遠の生命の象徴である大日如来(だいにちにょらい)と全てのものを産み出す山の神(大山祗命・おおやまづみ)が垂迹(すいじゃく)神として祀られたことから、
「未来の世を表す山」といわれる。

野性味あふれる自然が広がる湯殿山(標高1,500m)は、月山に連なり、湯殿山神社はその中腹の渓流のほとりに鎮座している。
古来、出羽三山の奥の院とされ、修行した山伏が即身成仏する場所とされ、今もなお山伏が修行をする「行場(ぎょうば)」でもある。

湯殿山神社の御神体は、熱湯の湧き出る茶褐色の巨大な霊巌である。
「語るなかれ、聞くなかれ」といわれ、神秘のヴェールに包まれてきた。
自然崇拝の原型を今に留めている。

 


「山形県の歴史」  誉田・横山共著  山川出版社  昭和45年発行

湯殿山神も”山の神”で、輝石安山岩塊を含む泥流の一堆頂から温泉が湧出し、
堆面をつたわって流れており、これがご神体とされる。
湯殿山は農業と関係が深く、土民の信仰をあつめていた。

 

山形県公式観光サイト「やまがたへの旅」

湯殿山神社
出羽三山の奥の院 神秘が息づく行の山

「語るなかれ」「聞くなかれ」修験道の霊地・湯殿山は、標高1,504m、月山南西山腹に連なる なだらかな稜線の山。

出羽三山の奥宮とされる湯殿山神社本宮は、写真撮影禁止、参拝は土足厳禁という厳しい戒めで知られる神社。

湯殿山神社には社殿がなく、ご神体は熱湯の湧き出る茶褐色の巨大な霊巌です。

江戸時代には、西の伊勢参りに対して、東の奥参りと称して、両方をお参りすることが「人生儀礼」の一つとされ全国からの参拝者で賑わいました。

 


 語られぬ 湯殿にぬらす 袂(たもと)かな  芭蕉

 

 

 

 


訪問日・2022年7月12日

 

 

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 旧鐙屋(きゅうあぶみや)

2022年07月25日 | 【史跡】を訪ねる

場所・ 山形県酒田市中町            

井原西鶴の『日本永代蔵』に登場するほど、酒田では別格の大商人。
酒田市が”史跡”改修工事中で、工事幕で覆われていた。

 


酒田市役所”酒田さんぽ”Web

旧鐙屋
酒田を代表する廻船問屋

今も昔も本間家旧本邸や鐙屋がある通りは「本町通り」と言われ、酒田の中心でした。
本間家とともに酒田三十六人衆のひとりとして酒田の発展につくした豪商 池田惣左衛門(屋号:鐙屋“あぶみや”)。
江戸時代には本町通りに何軒もの廻船問屋が連なっていましたが、その中でも鐙屋は別格。
井原西鶴の『日本永代蔵』に「北の国一番の米の買入、惣左衛門という名をしらざるはなし」と紹介されるほどでした。

 

 

「山形県の歴史」山川出版 昭和45年発行

鐙屋(あぶみや)

酒田豪商の一人である鐙屋の繁栄については、
井原西鶴がその著「日本永代蔵」につぎのようにかいている。

『世に船ほど重宝なる物はなし。
酒田の町に鐙屋といへる大問屋住みけるが、
昔はわづかなる人宿せしに、其身才覚にて近年次第に家栄え、
諸国の客を引請け、北の国一番の米の買い入れ、惣佐衛門といふ名をしらざるはなし。
表口30間、裏行65間を家蔵に立つづけ、台所の有様目を覚ましける。
米味噌出し入れの役人云々。』

酒田は、問屋商人の発達と共に、町全体の人口も急激に増加した。

 

 

訪問日・2022年7月11日

 

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本間家旧本邸

2022年07月25日 | 【史跡】を訪ねる

場所・山形県酒田市二番町    

 

「本間様には及びもせぬが せめてなりたや殿様に」で知られる、
庄内藩の本間家。
多くの地主が明治以降に土地を増やしたのと違い、本間家は増やしていないそうだ。
本間家三代目の光丘が隆盛を築き、その時代に日本海の庄内砂丘に植林した功績が今も住民に感謝されているようだ。

 

 

酒田市役所”酒田さんぽ”Web

本間家旧本邸
武家造りと商家造りが1つになった珍しい建築様式

1768(明和5)年、本間家3代光丘が藩主酒井家のため、幕府巡見使用宿舎として建造したお屋敷で、
書院造りの武家屋敷と本間家が生活した商家造りが一体となった全国的にも珍しい建物です。

その後拝領し、本間家代々の本邸として使用されてからも、武家造りの建物は特別な時にしか出入りできない場所でした。
商人が幕府巡見使を迎える藩のためにこのようなお屋敷を建造して献上するのは珍しいこと。
本間家の繁栄ぶりをうかがい知ることができます。

※幕府巡見使…将軍の代替りごとに特派された役人
※書院造り…平安時代の公家住宅の寝殿造りを基とし、近世初頭に確立をみた武家住宅

 

「山形県の歴史」山川出版 昭和45年発行

本間光丘の登用

本間家は明治2年に、小作米31.000俵をもって、日本一の大地主といわれた。
光丘(1732~1801)は本間家の3代目にあたり、
それ以前は酒田の一問屋商人として、資力をのばしつつあったが、地主としては光丘の代にはじまっている。
光丘は明和4年(1767)庄内藩の藩政に参与することになった。

 

地主王国

地主の系譜はいくつかの類型にわけられるが、日本一の大地主として有名な、酒田の本間家の発達過程をみることにしよう。
同家は元禄頃、商業と海運業をいとなみ、18世紀中ごろの庄内藩財政窮乏には酒田36人衆中、最高の合力金をだしている。

近代地主の基盤ができたのは、三代光丘の時代で、一代で一万俵以上集積した。
その後、幕末まで庄内から秋田まで三万俵の年貢米を収納するに至っている。

本県全体としては明治20年代から30年代において大地主の成長が決定的であった。
大地主の系譜は江戸時代に土台を築いたものが極めて多い。

日本一の大地主として有名な、酒田の本間家は幕末には庄内一円から秋田にわたり、31.000俵の年貢米を収納するにいたっている。
明治以後は土地購入は消極的になり、近代地主とことなる。


酒田市役所”酒田さんぽ”Web

山王森


本間家の植林の功績を伝える。

風砂の被害に悩まされていた人々のために私財を投じて2kmもの距離に松を植林した本間光丘。

 

 

訪問日・2022年7月11日

 

 

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笠岡市でプロ野球の試合があった

2022年07月23日 | 令和元年~

日時・2022年7月23日 13:00試合開始

場所・岡山県笠岡市走出 古代の丘スポーツ公園「どんぐり球場」

 

 

去年に続いて二度目、笠岡市の「どんぐり球場」でプロ野球があった。
プロ野球といっても1軍の試合ではない。
2軍(ウエスタン)の試合でもない。
ソフトバンク3軍vs四国IL高知の試合で、両チームともプロ野球。

前半は両チーム、白熱した試合だったが、次第にソフトバンクが押して、7対0で勝った。
ホームランが2本出た。

ソフトバンクの選手は有名どころが多く出場した。
1塁の中村晃、DHの牧原。
投手では嘉弥真、甲斐野、それに入団したばかりの秋吉。

 

(入団したばかり、秋吉投手)

 

試合の中盤にくじがあり、当選者となり、景品をもらいに行ったら「今治タオル」1枚だった。
なお、観衆は約250人。
入場料は1.000円。

両チームの選手が命がけで勝負のプレーしているのを目の前で見ることが出来た。
よかった。

 

(ヒーローインタビュー「まだ17歳」の選手)

 

 

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ニコライ堂   

2022年07月23日 | 【史跡】を訪ねる

場所・東京都千代田区神田駿河台 

 

初めて、近くでニコライ堂を見た。
高層ビルに挟まれ、更にも高層ビルが建築中の神田駿河台のニコライ堂だった。

 

 

「日本近代建築大全・東日本篇」 米山勇 講談社 2010年発行

日本ハリストス正教会教団復活大聖堂(ニコライ堂)

わが国では珍しいビザンチン洋式の教会堂。
ニコライは文久元年(1861)にロシアから来日。
最初は函館、明治5年に東京に居を移す。
駿河台を布教の拠点と定め、大聖堂を建設することにした。
明治24年に完成。
ところが、関東大震災で大きな被害を受けた。
昭和4年に復旧工事を完了したのが、おおむね現在のニコライ堂の姿である。

 

 

「大江戸発見散歩」   松本こーせい  アーク出版  2002年発行

ニコライ堂

聖橋の向うにニコライ堂のドームが姿をのぞかせている。
聖橋は、
関東大震災復興事業の一環として昭和2年に架けられた。
聖堂とニコライ堂の二つの聖堂を結ぶことから聖橋と命名された。
ニコライ堂のある駿河台は、本郷台地の南端部だ。
御茶の水のランドマークだったが、周りをビルに囲まれてすっかり目立たなくなった。

御茶の水は、
将軍家御用の水になったために、その地名がついた。
神田川は、
空堀だったが、神田上水の余水をこの谷に流して、東京湾から舟を入れる工事を伊達綱宗に命じて神田川が誕生した。

 

 

訪問日・2022年7月10日

 

 

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北前船

2022年07月23日 | 【史跡】を訪ねる

場所・山形県酒田市南新町  日和山公園 

 

北前船は瀬戸内海では、最初沿岸沿いに航海し、後に「沖乗り」と呼ばれる航路を通った。

しかし、東西からの潮の満ち引きに、最適な条件を持ちながら笠岡や白石島に、北前船が寄港することはなかった。

現代でもそうだが、港間の競争は、江戸時代もそうとう激しいものがあったように思える。

 

「瀬戸内諸島と海の道」編者・山口撤 吉川弘文館 2001年発行

西廻り航路の発達

「沖乗り」をおこなうようになった背景には海上輸送量の飛躍的増大があった。
幕府や大名の財政は、年貢米を大坂や江戸に運んで売却することで成り立っていた。
酒田から下関をまわって大坂・江戸を結ぶ西廻り航路が整備され、これ以後
西国だけでなく東北・北陸地域からも続々と年貢米を積んだ廻船が瀬戸内海にやってくるようになる。
やがて年貢米だけでなく各地のさまざまな特産品も大坂に集まり、大坂から桧垣廻船や樽廻船で江戸に回送されるという構造ができあがっていく。
塩飽の廻船は幕府御用船として寛文から元禄にかけて栄えた、のち特権的地位を失った。
年貢米に代表される領主的流通が中心とされるが、後期には広範な商品生産の展開を背景とした商品流通のうねりが押し寄せてくる。
たとえば、畿内・瀬戸内地域にひろがる綿作地帯では大量の魚肥を必要とし、従来の干鰯(ほしか)のほかに北海道産ニシンの〆粕(しめかす)などが求められた。

初夏、あるいは秋に蝦夷地の産物を積んで西廻り航路を瀬戸内海にやってきた北前船は、船頭の裁量で積み荷の米・ニシン・数の子・〆粕・昆布などを各地で売却し、大坂でひと冬越したのち翌年春には、大坂周辺あるいは瀬戸内各地の塩・砂糖・紙・木綿・古手・甘藷などの産物を積んで北国に向かう。
また大坂・瀬戸内各所の廻船も北国・蝦夷地とを結ぶ交易に進出していく。
九州・中四国と大坂を結ぶ廻船もいっそう盛んに往来した。

 

 


酒田市役所”酒田さんぽ”Web

「北前船」を見に行こう

北前船は単に荷物の運搬をしていたわけではなく、
寄港地で安くて良い品物があれば買い、船の荷物に高く売れる物があればそこで売る。
さまざまな商材を取り扱い「商売」をしながら日本海を航海する、まさに「総合商社」と言える船です。

また、北前船は「米を1千石(150トンの米)積むことができる大きさ」という意味から千石船ともよばれ、
北前船史上最大の船は、2,400石も積むことができ、巨大な帆1枚で逆風でも進むことができる、すぐれた帆走性能のある船です。

北前船の国内最大1/2スケールの模型船が日和山公園で見ることができます!

 

 

 

北前船

東廻り航路と西廻り航路で使用された主要な船舶は、
船の型からもっぱら「弁財船」(べざいせん)と呼ばれ、
東北・北陸ではこの呼称が多く使われた。
ただ大坂や瀬戸内の商人の間では「北前船」と呼ばれる。

とくに大型の「千石船」は、全長80尺(24m)、船体の幅30尺(9m)、
帆の横幅は63尺(19m)、積載量は1000石(約150トン)、
船員は15人ほどであった。

北前船は時代が進むにつれて輸送量の拡大や操船技術の向上によって大型化が進み、
最大級のものでは積載量が2400石(約360トン)もあったという。

航行速度は、潮流や風向きが理想的な海域では3~4ノット(時速5.6~7.4km)、
最大6ノット(時速約11.1km)ほどであった。

廻船業者は「一航海千両」といわれるほどの巨利を得ていた。

 

訪問日・2022年7月11日

 

 

 

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小鵜飼(こうがい)船

2022年07月23日 | 【史跡】を訪ねる

場所・山形県酒田市山居町 「山居倉庫」

 

酒田市のシンボルでもある「山居倉庫」に行くと、小鵜飼(こうがい)船が新井田川沿いに展示してあった。

「小鵜飼船」は、それまで「ひらた船」のライバルとして最上川水運に登場しスピードを武器に栄えた。

明治以降は自由化によりさらに発展したが、鉄道の登場ともに、船は消滅し、水夫は失業していった。

 

・・・・


「流域をたどる歴史二東北編」 豊田武  ぎょうせい 昭和53年発行

 山形県のおよそ8割を潤す最上川は、全長229km、流域面積7.040km2の大河である。
人々は山形県の「母なる川」と呼んでいる。

ひらた船


ひらた線には5人乗り米350俵積の大船、縦横18.2m*2.7m、
の他に中船、小船があった。
大船は今の、10トン積トラックの2台ぶんの輸送力である。
元禄10年頃大小652艘の船が最上川に浮かんでいた。
城米は赤字で、商荷輸送でカバーしていた。

 

小鵜飼(こうかい)船

江戸末期になると、最上川の急流に適合する改良船が増加した。
これが小鵜飼船である。
阿武隈川で導入され、舳先がとがり、スピードも出て、上流向きであった。
ひらた船が左沢~酒田間を往復1ヶ月かかったが、小鵜飼船は10~12日間と大幅な短縮であった。
特に明治になって河岸場の統制が解かれてから、需要が高まった。


明治30年代にはいると蒸気船が航海するようになり、
明治32年には鉄道が山形県まで延長され、大正2年酒田まで延長された。
船運は急速に衰えた。

 

 

(三人乗り、生々しい迫力があった)

 

 

「山形県の歴史」  誉田・横山共著  山川出版社  昭和45年発行


最上川舟運


西廻り航路の発達とともに、最上川舟運も一大発展をみた。
幕領、諸藩の年貢米のほとんどが上方へ運ばれた。
輸送路に恵まれない米沢藩は、仙台や新潟など一定していなかったが、巨費を投じて難所黒滝を開削をして、最上川下しとした。

 

鵜飼(こうがい)船時代

酒田港は、江戸時代以来、山形県唯一の物資の集散地であり、表玄関であった。
庄内をはじめ、最上川流域にある内陸の物資の大部分は、この酒田港を通過したのである。

なかでも大半は米であるから、米倉庫と米会所は、酒田におけるもっとも重要な経済的機能をもっていた。
庄内藩の新井田(あらいた)蔵は、維新後官有になり、地租の金納化で減少したので豪農への払い下げを経て、のちには本間家の手にわたっている。
米商会所は、明治26年のちに山居倉庫と呼ばれる保管蔵を新築した。
山居の米は他の納入米と区別して、格差を設けて取引された。
山居倉庫は、明治26年の創立当時は7棟であったが、明治30年には15棟、
羽越線各駅に設けられた支庫をふくめると大小62棟をかぞえた。

明治5年、最上川運行の大小船は自由とし、藩船は廃止された。
明治7年の県の調査では、ひらた船101艘にたいし、小鵜飼船274艘に増加している。

 

奥羽線の開通


米沢に明治32年、新庄に明治36年、秋田県とは明治38年全通した。酒田線は大正3年に開通した。
最上川水運でにぎわった河岸場町のさびれようははなはだしかった。
本合海は、火が消えたようにさびれ
大石田は、船乗り・船大工は人力車夫や荷車引きになったり、移住していった。

 

 

訪問日・2022年7月11日

 

 

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