しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

「砂に消えた涙」

2022年03月17日 | 昭和の歌・映画・ドラマ
「砂に消えた涙」は、なにか乙女ごころを上手く表現しているなと高校生の時に思った。
曲も感傷ムードがある洋楽で、歌唱力に定評があった弘田三枝子が歌いヒットした。

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砂に消えた涙 訳詞・漣健二

青い月の光を浴びながら
私は砂の中に
愛の形見をみんなうずめて泣いたの
ひとりっきりで ア、ア、ア、
あなたが私にくれた
愛の手紙 恋の日記
それのひとつひとつのものが
いつわりのプレゼント
白い波の打ちよせる海辺で
私は砂の中に
恋の想い出みんなうずめて
泣いたの ひとりっきりで


・・・・・・

飯田久彦(チャコちゃん)や坂本九(キュウちゃん)や弘田三枝子(パンチのミコ)の歌う歌の詞は、そのほとんどが漣健二だった。
洋楽は漣健二がいないと成り立たない、と思えるほど有名な訳詞家だった。
洋楽を聴く初め頃、森山佳代子の「月影のナポリ」という曲があった。
まだ小学生だったが、リズムやテンポはいいが歌詞はでたらめなような気がした。

訳詞家は直訳ではなく、実際はどんな感じで訳すのだろう?
数々の訳詞で知られるなかにし礼氏から転用した。

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「生きるということ」 なかにし礼  毎日新聞出版  2015年発行

(シャンソンとの出会いは)
18歳後半でした。食うや食わずでアルバイトのシャンソン喫茶「ジロー」のボーイでした。
シャンソンを日本の歌手が歌って、へぇー、日本語の歌詩があるんだと知るわけです。
フランス文学が好きだったからフランス語の基礎勉強はしていた。
そんな時、石井晶子というシャンソン歌手から「あんた訳詩やってみない」と言われました。
当時店の時給は23円でした。
訳詩をやって石井さんがくれたのは一曲五百円。
石井さんが僕の訳したシャンソンを歌って、僕のところに注文がくるようになった。

(「なかにし礼」の誕生ですね)
異常なほど売れたんですよ。
一曲千円になり、月に七十曲のときもありました。
自力で大学を卒業できた。
日本語のアクセントを壊さずに向こうの歌にのせて、原詩の意味と哲学を殺さずにやっていくといのうは、難しいけれど面白いわけね。
小さな歓喜が積みあがって大きな歓喜に至るという体験を毎晩味わっていました。

(裕次郎との出会い)
僕は訳詩がフランス文学の流れを汲んでいてインテリジェンスにみちた仕事だと思っていて、歌謡曲を書くなんて考えもしかった。
まったくの偶然で、ホテルで裕さんに会い「なんで日本の流行歌を書かないのよ」と。
裕さんの映画「太平洋ひとりぼっち」に「王将」を歌うシーンをみて、
歌謡曲というのも状況により人の心にしみるんだなあと感じ、
日本人の心を動かしてみようじゃないか。
僕が書いた歌が売れて本当にうれしかった。


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