しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

林芙美子の戦争協力

2022年03月15日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)
日中戦争(1932~1945)には、多くの文化人や芸能人、歌手も力士も、軍の要請で慰問等に訪れている。
作詞家・作家の、なかにし礼氏は、著書のなかで林芙美子の行動が許せないと書いているが、彼女が作家として調子に乗りすぎて表現しているに加え、人間としての感性を疑っているからだろう。
ああいう時代ではあった。
でも、言わない自由はあったし、言わない人は多くいた。
なかにし氏も言うように「沈黙の余地」があったのはちがいない。

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「生きるということ」 なかにし礼  毎日新聞出版  2015年発行

林芙美子の戦争協力をいま考える

林芙美子(1903~1951)は自らの貧しい生活体験を赤裸につづった日記体の小説『放浪記』(1930)の成功で一躍売れっ子作家になった。
しかし文壇では貧乏を売り物にする素人小説家などと陰口をたたかれ、なんとか一発、世間をあっと言わせるようなものを書きたいと切歯扼腕する思いでもあった。
そこで林は、時流に乗るようにして自ら進んで名乗りをあげ、1937年、南京攻略戦にひきつづく戦いに大手新聞社の特派員として戦地におもむき、
武漢作戦にも内閣情報部の「ペン部隊」の紅一点として従軍した。

その見聞をもとに『戦線』と『北岸部隊』を書いて文字通り世間をあっと言わせ、女流作家の第一人者となった。
しかし敗戦を迎えたあとは「太鼓たたいて笛ふいて」戦意高揚宣伝ガールをつとめたことを大いに悔い、その慚愧の思いをもとにして、数々の反戦ものを書き、ついには『浮雲』という傑作をものにし、四十七歳で逝った。

林芙美子の「転向」は凛々しいものだったのか、
また「過去のあやまち」は償えるものなのかどうか、考えさせられもした。

・・・

1937年12月、日本軍は南京を占領したが戦火はやまず、戦線は拡大する一方であった。
翌年5月には「国家総動員法」が施行され、国内に軍事色が濃くなっていく。
1938年8月23日、内閣情報部は菊池寛(作家・文芸春秋社長)、久米正雄以下文壇の重鎮12人と相談し
「文壇から20人のペンの戦士を選んで陥落間近な漢口の最前線へ送る」
という文壇動員計画を発表した。
この時、林芙美子が手をあげたのである。
「是非ゆきたい、自費でもゆきたい」
というわけで陸軍(第六師団)の漢口攻略に随行し、従軍記『戦線』を書いた。
それは大ベストセラーになった。



抗戦する支那兵を捕えたら兵隊のこんな会話をきいたことがあります。
「いっそ火焙りにしてやりたいくらいだ」
「馬鹿、日本男子らしく一刀のもとに斬り捨てろ、それでなかったら銃殺だ」
捕らえられた中国兵は実に堂々たる一刀のもとに、何の苦悶もなくさっと逝ってしまいました。


慄然とする光景である。
しかし林芙美子は眉一つ動かす気配もない。


部隊長の話では「味方の戦死者は5名、負傷者は81名です」
そして敵の損害は約7万。

丘の上や畑の中に算を乱して正規兵の死体が点々と転がっていた。
その支那兵の死体は一つの物体にしか見えず、
城内に這入って行くと、軒なみに、支那兵の死体がごろごろしていた。
沿道の死体は累々たるものであった。
しかも我軍勢は、沢山の土民や捕虜を雑役に使っております。
この戦場の美しさ・・・



林芙美子は中国の人々を虐殺する帝国軍閥とともに行動し、
日本の若者たちを戦場に送り込むことに協力したのである。

「戦争中の積極的な協力者が戦後民主主義に改宗したか。
改宗しなければ盗人たけだけしいだろう。
改宗すれば、引退するのが常識だろう」
(加藤周一『戦争と知識人』)

沈黙の余地は最後まであったのだから。


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「作家の使命・私の戦後」  山崎豊子 新潮社 2009年発行

追悼・石川達三

私が、戦時中『生きてゐる兵隊』を書かれた時、掲載誌「中央公論」は発売禁止になり、
石川先生は特高の取り調べを受けられた時のことをお尋ねすると、
作家として筆を持つ限り、それぐらいの勇気と社会的責任は、当然持つべきだと答えられた。
石川先生ほどの深い文学理念には及ばないが、強い共感を覚えたことを、
今もって覚えている。

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