しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

コレラで死ぬ

2022年03月20日 | 暮らし
東大戸の木野山様

明治9年を皮切りに猛威をふるったコレラ病は一大惨事を巻き起こし、
この病業を免れようとする人々が昼夜の別なく参拝し、
ご分霊の請待も相次ぎ格別のご神威の発揚がありました。
当地方でも疫病が流行し実業家・高橋律太翁が高梁から分霊を請待してこの地に神社を建立されました。
人々はご利益を願って次々氏子になり現在も祀られています。

「大井の史跡・石碑・3」  大井文化探訪の会  2022年発行


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(笠岡市東大戸・木野山神社  2021.3.14)




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「生きることの近世史」 塚本学 平凡社 2001年発行

コレラと戦争

蒸気船は「文明」とともにコレラを全世界に広げたのであった。
安政5年8月、江戸では1町に多い所では百余人、少ない町でも五、六十人の死者が出た。
土葬が一般的だった江戸で、悪疫を恐れて火葬を急ぎながら、施設不足からかえって放置死体が路上で臭気を発し、そこから伝染に怯える事態だったのである。

伝染性の病気であることは経験的に理解できていたから、隔離が有効な対策だったが、
それはまた患者やその周辺への過酷な目となって悲劇を生んだ。
疫病や田の虫などの災いを村界の外に追う古くからのオクリガミないしオクリビの行事が、一面でもっていた排他的な性格は、コレラ災害の中で強められたのではなかろうか。

コレラ禍は、安政、文久にもみられ、明治10年西南戦争従軍者からの流行被害が大きかった。
戦争による軍隊の移動が疫病の伝染役となるのは通例だったが、コレラの場合、
当初の大流行による恐慌以来、戦乱の不安を意識させる事態の進行をともなっていた。

西洋医学に依拠しての不潔退治、公衆衛生事業がやがて明治政府の重要な政策になっていく。
警察官によるコレラ患者宅の封鎖をはじめてとして、国家強権によるコレラ封じ込めが推進された。






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(Wikipedia)
コレラ

コレラ菌を病原体とする経口感染症の一つ。治療しなければ患者は数時間のうちに死亡する場合もある。
日本で、最初に発生した文政コレラのときには、他の疫病との区別は不明瞭であった。この流行の晩期にはオランダ商人から「コレラ」という病名であることが伝えられた。
「虎列刺」と当て字がなされた。一方、民衆の中では語感から「コロリ」と呼ばれていた

症状
潜伏期間は普通は2~3日。
治療を行わなかった場合の死亡率はアジア型では75~80パーセントに及ぶ。
現在は適切な対処を行なえば死亡率は1~2パーセントである。


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「日本医療史」 新村拓著 吉川弘文館 2006年発行


伝染病と衛生行政

幕末から明治初期における急激な社会変動がもたらした人口の大幅な流動化によって、伝染病は全国に蔓延した、死者数も増加した。
住民の糞尿が肥料として使用されることが多く、コレラ・腸チフス・赤痢など消化器伝染病が発生すると、感染は一気に拡大した。
患者が発生すると自然治癒をまつしか手がなかった。

コレラ

コレラは、安政5年(1858)に大流行。
治療法・薬はなく、庶民の間では村境で鉄砲を打つコレラ退散祭りなどした。
人々はコレラを「トンコロ」と称して非常に恐れた。
政府の対策は検疫強化と侵入後の消毒・撲滅・遮断・隔離に重点がおかれた。

患家には縄が張られ、目印の黄色い紙が出された。
患者を天井裏に隠す例も少なくなかった。
文久2年1862)7月にも大流行、9月に入り衰えた。


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