しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

井伏鱒二と木山捷平

2021年08月23日 | 昭和21年~25年
昭和21年10月14日、井伏鱒二は笠岡の港でママカリを釣っていた。
そこで戦後初めて木山捷平と再会した。




「続 木山捷平研究」 定金恒次 遥南三友社 平成26年発行

捷平は昭和19年の暮れ、自由な文筆活動のできる新天地を求めて日本脱出を図る。単身満州に渡る。
そして現地召集、特攻部隊配属、敗戦、難民生活と辛酸をなめる。

かくして敗戦後の1年間を「百年を生きたほどの苦しみに耐え」た捷平は、
昭和21年8月、妻子の疎開先である笠岡の生家へたどりつく。
豊かな自然と食糧事情にも恵まれた農村で、心身の傷をいやしながら生還できた喜びと平和の尊さをかみしめながら、「帰国」「幸福」「疎開者」などの10編の佳作を発表する。

一方、近郷に滞在中の井伏鱒二、古川洋二、小川祐二、村上菊一郎、藤原審爾、木下夕爾などと笠岡界隈でしばしば会合し、飲食と歓談を楽しむ。
「御大であり長老である井伏鱒二氏のかもし出す雰囲気にわれわれは酔った。
文壇のエース井伏氏をわれわれ疎開組だけで独占しているような快感」
(小説「井伏鱒二」)
を満喫しながら鋭気を蓄える。

昭和24年3月、単身笠岡を離れる。
捷平にとって戦後2年7か月の笠岡滞在は、飛躍に向けてのエネルギーを蓄積していた時期と言ってよいであろう。






昭和21年10月14日、井伏鱒二がママカリを釣っていた場所(多分、この付近)




「井伏鱒二と木山捷平」 ふくやま文学館  二葉印刷 2008年発行


満州から引き揚げてきた木山と、郷里疎開中の井伏とが再開したのは、
昭和21年10月14日のことであった。
戦後初めて二人が再会した。


井伏鱒二「木山君の人がら」1968年10月

終戦直後のころ、私が備中笠岡港でママカリ釣をしていると、
肩章のない兵隊服を着た木山君がひょっこりやって来た。
久しぶりの偶然の出会ひだが、いきなり木山君がかう言った。
「僕はね、こなひだ満州から引揚げて、この近くの僕の生まれ在所にころがりこんじゃった。」
「それで君は、その生まれ在所で何をしているんだ」と聞くと、僕は地主で、家内が小作人だと言った。
これは木山君の郷里に疎開している奥さんが、空閑地利用で菜園か何か作っていて、木山君自身はぶらぶらしているといふ意味に解された。
こんな風に木山君は、お互いに久闊でびっくりしている場合でも咏嘆的な言葉や感傷的な口吻を見せない人であった。
詩や随筆を綴る場合にもその傾向があった。




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