しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

「湖畔の宿」

2021年08月14日 | 昭和の歌・映画・ドラマ
動画サイトの「湖畔の宿」では、50代の高峰三枝子が歌う前に、
本人が、次のように曲を紹介している。

特攻隊慰問に唄った歌
「日の丸の鉢巻きをきりりと結んだ特攻隊員が、こぶしをぎゅっと握り締めて、一生懸命に私の湖畔の宿を聴いてくださいましたかたがた、今でも目にちらついております。
夜明けともに飛び立っていってしまう、二度と還ることのできないかたがた。
「湖畔の宿」は、戦争のつらい思い出とむすびついて、私の心から離れることはありません。」




東条首相「湖畔の宿」を所望

昭和18年に入って相次ぐ悲報に、国民の気持ちは沈む一方だった。
だが日本が米・英・蘭などと開戦した理由は、欧米各国からアジア解放であったから、
なんとか隠蔽しなくてはならなかった。
5月31日の御前会議で、占領下のインドネシアやマレー半島は日本領土に編入され、ビルマとフィリピンに「独立」政府がつくられ、
さらにインド仮政府も結成された。

そして11月5,6日には、これら諸政府代表を東京へ招いて、大東亜会議なるものを開催したのだった。
東条英機首相の晴れの舞台であった。
実はこの時、東条は遠来の客を歓迎する晩餐会に、女優高峰三枝子を招いて、「湖畔の宿」を歌わせたのだという。

孫の東条由布子さんの『祖父東条英機』の中に、次のように書かれている。

祖父は高峰三枝子さんの歌が大好きで、タイの首相の歓迎晩餐会でも高峰さんは「湖畔の宿」を歌った。

高峰三枝子の自伝を読むと、
「湖畔の宿」を所望したのはビルマのバーモウ長官だったと述べている。
退廃的につき発禁を喰った軟弱な「湖畔の宿」を歌った経緯は↓

東京は空襲にさらされる日々が多くなりました。
ちょうどその頃のことですが、大東亜省からの電話で
「東条閣下が、ぜひ「湖畔の宿」を聞きたいとのこと・・」と連絡がはいりました。
湖畔の宿がビルマですごく流行していて、日本の兵隊さんが愛唱しているこの歌を、長官がぜひ聴きたいと東条首相に懇望されたのだそうです。
あの歌はお国の指示で発禁になったはずなのに、それを国の首相から唄ってほしいと言われたのは本当に驚きました。

由緒ある料亭に招かれて行ったが、灯火管制課、部屋は黒布を張りめぐらされていたという。

電灯はついていましたが、人の顔がかすかに見える程度の明かりです。
東条首相のにこにこ顔と、頭にターバンを巻いたバーモウ長官がうつりました。
そこで灰田勝彦さんのギター伴奏で、「湖畔の宿」「純情二重奏」「南の花嫁さん」の三曲を歌いました。
唄い終わって家に帰る時にいただいたお土産は、もう私たちの手に入らなくなったお砂糖やチョコレート、お米などで、
そのありがたかったこと。

「昭和の戦時歌謡物語」 塩澤実信  展望社 2012年発行






「わが人生の歌がたり」  五木寛之  角川書店 平成19年発行
湖畔の宿

昭和15年のヒット曲に、有名な高峰三枝子さんの『湖畔の宿』があります。
戦意高揚でアドレナリンがどんどん分泌していくような時代に、こういうさびしい、
センチメンタルな歌が大衆の間で支持されたことがおもしろいと思います。
また、軍部や当時の支配層が、こうゆう歌を頭から「そんなのはだめだ。もっと元気な歌にしろ」と弾圧しなかったことも不思議です。

「湖畔の宿」 作詞:佐藤惣之助 作曲:服部良一

山の淋しい 湖に
みずうみに ひとり来たのも 悲しいこころ
胸のいたみに たえかねて
昨日の夢と 焚きすてる
古い手紙の うすけむり

水にたそがれ せまるころ
岸の林を しずかに往けば
雲は流れて むらさきの
薄きすみれに ほろほろと
いつか涙の 陽が堕ちる

ああ、あの山の姿も、湖水の水も、静かに静かに黄昏れて行く、この静けさ、この寂しさを抱きしめて、わたしはひとり旅をゆく、誰も恨まず。
みんな昨日の夢とあきらめて、幼児のような清らかなこころを持ちたい、
そして、そして、静かにこの美しい自然を眺めていると、只ほろほろと涙がこぼれてくる。

ランプ引きよせ ふるさとへ
書いてまた消す 湖畔のたより
旅のこころの つれづれに
ひとり占う トランプの
青い女王(クイーン)の 淋しさよ







(榛名湖 2017.9.8)



(Wikipedia)
曲は1940年の2月には完成していたが、戦時色がないとの理由でレコード会社が難色を示し、発売は晩春頃となった。
その後、前線の兵士からのリクエストに応じる形でラジオ番組では高峰にこの曲を歌わせるようになり、最終的には内地でも大ヒットしたという。
曲はヒットしたが、感傷的な曲調と詞の内容が日中戦争戦時下の時勢に適さないとして、まもなく発売禁止となった。
しかし前線の兵士には人気があり、慰問でも多くのリクエストがあったという。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「明日はお立ちか」

2021年08月14日 | 昭和の歌・映画・ドラマ
この歌は母を唄っているのではないかと、自分で一人思っている。
たぶん、日本中の女性が家族を兵隊として送り出すときはこの歌と同じ気持ちだっただろう。
それが妻であれば、まだ嫁ぎ先の家族や地域も不慣れ、残されて家事や農作業や子育てもいっさいが身に降りかかる。
不安と、その日から始まるであろう激務に、夫の見送りは晴れの日の真逆であった悲しい歌のような気がする。


「昭和の戦時歌謡物語」 塩澤実信  展望社 2012年発行

明日はお立ちか

戦争は激化の一途を辿っていた。
働ける男性は赤紙一枚で、いつ召集されるかわからない。
銃後に残されるのは妻や子、母や姉妹、老幼の男たちの様相が濃くなった。

しかし、召されて征くのは大和男児の晴れ姿ではないのか。
この別れの悲しみを秘めて、夫や子の無事を祈る女ごころを歌った「明日はお立ちか」が、
小唄勝太郎の美声で流れるようになったのは開戦から数か月後である。

「明日はお立ちか」

明日はお立ちか お名残り惜しや
大和男児(おのこ)の 晴れの旅
朝日を浴びて いでたつ君よ
拝むこころで 送りたや

駒の手綱を しみじみとれば
胸にすがしい 今朝の風
お山も晴れて 湧きたつ雲よ
君を見送る 峠道

時計みつめて 今頃あたり
汽車を降りてか 船の中
船酔いせぬか 嵐は来ぬか
アレサ夜空に 夫婦星






(戦地慰問の小唄勝太郎)




「わが人生の歌がたり」  五木寛之  角川書店 平成19年発行

明日はお立ちか

当時、大変人気のあった小唄勝太郎に『明日はお立ちか』という曲があります。
この歌を聴くと、ああ、こういう気持ちに支えられて男たちは戦場に向かったんだなあと、
当時のことを思いだします。
見送る女性たちもこんな気持ちで手を振って、夫や恋人を戦場に送り出したのかと、
深い感慨を覚えますね。
いい歌ですが、罪深い歌だとも思いますよ。


「戦争が遺した歌」 長田暁二 全音楽譜出版社 2015年発行

明日はお立ちか
ビクターから発売された軍国歌謡の秀作。
表面的には応召の夫を戦地に送り出す若妻の気持ちを心強く詠いながら、裏面では哀れ深い女心の嘆きと感傷をさり気なく詩情豊かに詠い上げている。
この歌詞の中には”軍”という文字も”戦””兵”という文字も一字も出てないが、一番で”大和男児の晴れの旅”と間接的に歌い、その後も”拝む心で送りたや”と歌い終わらせている。
二番の”お山も晴れて湧き立つ雲よ”の辺りも生かされていて,如何にも軍国妻らしい凛々しさを思い浮かばせる。
三番は一転して“汽車を降りたか船の中船酔いせぬか嵐は来ぬか”と真に夫を思う若妻らしい気の遣い様を描いている。

この頃になると町でも村でも一家の働き手を戦争に取られ、生活の重荷は総て主婦の肩に伸し掛かかって来た。
強くなければ生きて行けず、女性ももてる力のことごとくを発揮して”御国のため”と、戦争協力を強制させられた。
男性を赤紙一枚で戦場に狩り出し、悲しみの心も”名誉”に置き変えて、
何の感傷も批判も口に出すことが許されなかった時代、
大衆の心のはけ口となってこの唄がヒットして行った。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「若鷲の歌」

2021年08月14日 | 昭和の歌・映画・ドラマ
若鷲の歌は、まちがいなく当時の少年たちを大空へ駆り立てるほどの影響があったに違いない。
予科練にいったおじは
「まだ子供じゃった。入ったら隔離された塀の中で教育される。
世間の事はまったくわからない」と言っていた。
純な少年を”命惜しまぬ”少年に変えるのは、国家にとってたやすいことだったようだ。


「わが人生の歌がたり」  五木寛之  角川書店 平成19年発行

予科練の歌
私たちのような子どもでも『予科練の歌』などを聴いているうちに、いつのまにか自分たちも一日も早く少年飛行兵になりたいと考えるようになりました。
『予科練の歌』は「七つボタンは桜に錨」と勇壮ないい歌ですが、ただ元気がいいだけではなく、叙情的でセンチメンタルなところがあって、大衆の心の琴線に触れるのです。
そんなことで、国民の思想が無意識のうちにどんどん戦争の方へ向いていく。
歌の持つ力は大きいものだとつくづく思います。




(おじ=母の弟=松山予科練)



「戦争が遺した歌」 長田暁二 全音楽譜出版社 2015年発行

若鷲の歌(予科練の歌)
太平洋戦争の戦局が不利に傾き始めた昭和18年、海軍は航空隊甲種予科練習兵(通称・ヨカレン)の大募集を始めた。
戦意昴揚映画「決戦の大空へ」、その主題歌「予科練の歌」として親しまれ18年9月コロンビアから霧島昇、波平暁男の歌唱で発売した。
作曲は古関裕而で「露営の歌」「暁に祈る」とともに、古関の3大名作軍歌のひとつにあげられている。
制服が7つ釦になったのは昭和17年からで、戦後までに20万人以上の飛行兵を養成し巣立っていった。
西條は「ぼくは流行歌、軍歌の如き歌謡は、芸術品でなくとも、これらは百万人の人間を動かす力があるのだ。
そういう点で男子一生を賭ける仕事として価値がると信じたのだ」と書いている。





「昭和の戦時歌謡物語」 塩澤実信  展望社 2012年発行

若者を駆り立てた「若鷲の歌」

「若鷲の歌」は、戦時下に生まれた五指に入る傑作歌謡だった。
西条八十、古関裕而が霞ケ浦航空隊に一日入団の体験を生かしてつくったもの。

映画とその主題歌に刺激されて、甲種飛行予科練習生を志願する中学生が激増した。

若鷲の歌

若い血潮の 予科練の
七つボタンは 桜に錨
今日も飛ぶ飛ぶ 霞ヶ浦にゃ
でっかい希望の 雲が湧く

燃える元気な 予科練の
腕はくろがね 心は火玉
さっと巣立てば 荒海越えて
行くぞ敵陣 なぐり込み

仰ぐ先輩 予科練の
手柄聞くたび 血潮が疼く
ぐんと練れ練れ 攻撃精神
大和魂にゃ 敵はない

生命惜しまぬ 予科練の
意気の翼は 勝利の翼
見事轟沈した 敵艦を
母へ写真で 送りたい






コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする