高校の古文の先生は、授業中にふと「燃え盛る福山城」の話をすることがあった。
福山を象徴するものが炎上するのは衝撃だったのだろう。
ところで、白亜の天守閣には、どんな防災措置がなされていたのだろう。
そのことを記した本に出合っていない。
2021年8月4日 「山陽新聞・備後版」
福山城には焼夷弾2発が落ちたという記録もある。
当時の様子は「続福山空襲の記録」(1985年)二之丸に住んでいた故村上正名・元市立女子短大教授の証言が掲載されている。
「五層の天守の最上階が崩れると、火は四層へ、そして三層へと土けむりと火の粉をふきあげて、火炎天に柱す」状況で、
「本丸の諸建築を天守閣の火の粉から護るべく防火用水からバケツリレーで消火に努めた」としている。
笠岡町で結納専門店を営む星野さん(90)当時14歳で、線路をつたって山手町に逃げる途中、後ろを振り返ると城が火柱のように燃え上がっていた。
「見たとき、城がぐらっと傾いて倒れた」と振り返る。
天守北側の三蔵稲荷の石川宮司(81)は燃える福山城をすぐそばで眺めていた。
当時5歳、境内には20発の焼夷弾が落ちたといい、避難していた防空壕で「強い夕立のような音」を聞いていた。
城を消化するため父親と親戚の2人が向かうと、その後ろを追いかけた。
天守北側から城を見ると、「一番上の屋根が見えるくらいで、下はぼうぼうと燃えていた」
その後、城はほぼ垂直に崩れ落ち、北側などに欄干や建材が燃え落ちていったという。
数日後、焼け跡を確認すると天守石垣に建材がもたれるように崩れてあった。
記者メモ
市人権平和資料館によると米軍のB29は鞆町方面から北上し、
現在の天下橋跡(船町)を中心に半径約900mを標的に攻撃した。
福山城は範囲内だが、攻撃対象の市街地からそれていたため積極的な攻撃は受けなかった。
天守へ落ちたのは流れ弾とみられるという。
「戦争の時代」 つぼう郷土史研究会 青葉印刷 平成7年発行
福山城炎上の夜
当時19歳の私は、坪生村役場に勤務していた。
6月ころから、敵機が西日本一帯にたびたび襲来するようになり、福山上空へもグラマン戦闘機が大門を目標に襲来するようになった。
7月上旬福山周辺の山間部に錫箔のテープが投下されるようになる(電波探知機を妨害するためのものであることがわかった)
山の木の間に、蜘蛛の巣が張り巡らされたような情景であった。
7月31日頃であったと思う。紙ビラが撒かれた。
紙ビラを拾って見て驚いた。
当時は、このようなビラを拾っても密かに隠し持っていた状況で、憲兵にでも見つかると大変なことになる。
8月になり、6日に広島に新型爆弾が投下され、広島は一瞬にして破壊したとラジオは報道した
予告通り福山へは空襲に来なければよいがと祈る気持ちであった。
8月8日の夜は、私は役場の宿直であった。
警戒警報をラジオが放送した。
『福山方面に敵機編隊が襲来。空襲警報発令』と2~3回繰り返し放送した。
直ちに役場屋上のサイレンを鳴らす。
周辺のあちこちでサイレンがウーッウーッと重苦しく10回鳴り渡り、山間にこだまして響きあった。
西の空がパーッと明るくなり、敵機だと知った。
一路福山へ向かって走り続けた。
浦上を走るとき、宇山から最初に火の手が上がった。
市村沖を走るころは、もう花火が落下するように、青白い光が流星のごとく絶え間なく落ちる。
深津の辻の坂まで来たときは、周囲は火の海と化し、方角すらつかめない状態で、やっと三枚橋の鉄橋近くへ来た。
爆音と家屋の焼け落ちる音。突然風を呼び、大夕立の雨の音のようにザーッという音に、思わず地に伏せた。
もうここまでで進退極まった。
「目的地の日本火薬へは行けんのう」深津川のほとりに座り込んだ。
盈進商業が焼けていく。寺町、三吉町あたりは火の海。
三枚橋近くの川には逃げ惑う人でいっぱい。防空頭巾をかぶり飛び込む人、着のみ着のままでやっと川辺にたどり着いた人、また人。
火は風を呼び、火勢は強まるばかり。
福山練兵場からであろうか、機関砲が時折打ちあがる、火の玉が小さく点々と昇っていくのが見える。全く届かない。
目の前で、三吉酒造の酒が音を出して燃え上がる。
向かいの日本火薬のベンゾールが、ドラム缶ごと空中に舞い上がり、吹き飛ぶ。
呆然と立つのみ。
この時、西方遥か高く、福山城天守閣が燃え上がる。
五層の姿を浮き上がらせ、火の手が描く線像は誠に見事で、壮観極まりなく、午前3時ごろだったか、上から折り重なるようにして天守閣は消えた。
夜明けごろ、一時雨が降った。
市内は延々と燃えくすぶり続けた。
半焼した家の軒先の防火水槽の中へ、頭を突っ込んでいる人の死骸を何体も見た。
焼けくすぶり異様な臭いの中で、冥福を祈りながら、まず道路が通れるように整理作業を続けた。
(義兄のアルバム・昭和17年または18年福山城にて)
福山を象徴するものが炎上するのは衝撃だったのだろう。
ところで、白亜の天守閣には、どんな防災措置がなされていたのだろう。
そのことを記した本に出合っていない。
2021年8月4日 「山陽新聞・備後版」
福山城には焼夷弾2発が落ちたという記録もある。
当時の様子は「続福山空襲の記録」(1985年)二之丸に住んでいた故村上正名・元市立女子短大教授の証言が掲載されている。
「五層の天守の最上階が崩れると、火は四層へ、そして三層へと土けむりと火の粉をふきあげて、火炎天に柱す」状況で、
「本丸の諸建築を天守閣の火の粉から護るべく防火用水からバケツリレーで消火に努めた」としている。
笠岡町で結納専門店を営む星野さん(90)当時14歳で、線路をつたって山手町に逃げる途中、後ろを振り返ると城が火柱のように燃え上がっていた。
「見たとき、城がぐらっと傾いて倒れた」と振り返る。
天守北側の三蔵稲荷の石川宮司(81)は燃える福山城をすぐそばで眺めていた。
当時5歳、境内には20発の焼夷弾が落ちたといい、避難していた防空壕で「強い夕立のような音」を聞いていた。
城を消化するため父親と親戚の2人が向かうと、その後ろを追いかけた。
天守北側から城を見ると、「一番上の屋根が見えるくらいで、下はぼうぼうと燃えていた」
その後、城はほぼ垂直に崩れ落ち、北側などに欄干や建材が燃え落ちていったという。
数日後、焼け跡を確認すると天守石垣に建材がもたれるように崩れてあった。
記者メモ
市人権平和資料館によると米軍のB29は鞆町方面から北上し、
現在の天下橋跡(船町)を中心に半径約900mを標的に攻撃した。
福山城は範囲内だが、攻撃対象の市街地からそれていたため積極的な攻撃は受けなかった。
天守へ落ちたのは流れ弾とみられるという。
「戦争の時代」 つぼう郷土史研究会 青葉印刷 平成7年発行
福山城炎上の夜
当時19歳の私は、坪生村役場に勤務していた。
6月ころから、敵機が西日本一帯にたびたび襲来するようになり、福山上空へもグラマン戦闘機が大門を目標に襲来するようになった。
7月上旬福山周辺の山間部に錫箔のテープが投下されるようになる(電波探知機を妨害するためのものであることがわかった)
山の木の間に、蜘蛛の巣が張り巡らされたような情景であった。
7月31日頃であったと思う。紙ビラが撒かれた。
紙ビラを拾って見て驚いた。
当時は、このようなビラを拾っても密かに隠し持っていた状況で、憲兵にでも見つかると大変なことになる。
8月になり、6日に広島に新型爆弾が投下され、広島は一瞬にして破壊したとラジオは報道した
予告通り福山へは空襲に来なければよいがと祈る気持ちであった。
8月8日の夜は、私は役場の宿直であった。
警戒警報をラジオが放送した。
『福山方面に敵機編隊が襲来。空襲警報発令』と2~3回繰り返し放送した。
直ちに役場屋上のサイレンを鳴らす。
周辺のあちこちでサイレンがウーッウーッと重苦しく10回鳴り渡り、山間にこだまして響きあった。
西の空がパーッと明るくなり、敵機だと知った。
一路福山へ向かって走り続けた。
浦上を走るとき、宇山から最初に火の手が上がった。
市村沖を走るころは、もう花火が落下するように、青白い光が流星のごとく絶え間なく落ちる。
深津の辻の坂まで来たときは、周囲は火の海と化し、方角すらつかめない状態で、やっと三枚橋の鉄橋近くへ来た。
爆音と家屋の焼け落ちる音。突然風を呼び、大夕立の雨の音のようにザーッという音に、思わず地に伏せた。
もうここまでで進退極まった。
「目的地の日本火薬へは行けんのう」深津川のほとりに座り込んだ。
盈進商業が焼けていく。寺町、三吉町あたりは火の海。
三枚橋近くの川には逃げ惑う人でいっぱい。防空頭巾をかぶり飛び込む人、着のみ着のままでやっと川辺にたどり着いた人、また人。
火は風を呼び、火勢は強まるばかり。
福山練兵場からであろうか、機関砲が時折打ちあがる、火の玉が小さく点々と昇っていくのが見える。全く届かない。
目の前で、三吉酒造の酒が音を出して燃え上がる。
向かいの日本火薬のベンゾールが、ドラム缶ごと空中に舞い上がり、吹き飛ぶ。
呆然と立つのみ。
この時、西方遥か高く、福山城天守閣が燃え上がる。
五層の姿を浮き上がらせ、火の手が描く線像は誠に見事で、壮観極まりなく、午前3時ごろだったか、上から折り重なるようにして天守閣は消えた。
夜明けごろ、一時雨が降った。
市内は延々と燃えくすぶり続けた。
半焼した家の軒先の防火水槽の中へ、頭を突っ込んでいる人の死骸を何体も見た。
焼けくすぶり異様な臭いの中で、冥福を祈りながら、まず道路が通れるように整理作業を続けた。
(義兄のアルバム・昭和17年または18年福山城にて)