しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

終戦前後の坪生村、「名誉の戦死おめでとうございます」

2021年08月13日 | 昭和20年(終戦まで)
三度目の応召される前、岡山県の農業指導員をしていた父は、城見村役場に在籍していた。
その時、「戦死広報」をもって大冝の戦死者宅まで持っていったことがあるそうだ。
終戦後、その”戦死者”は、無事に生きて帰ってきた。父はそのことをよく覚えていた。
戦死で訪問した際「おめでとうございます」は、言えない、言ってない、と話していた。
しかし、そうゆう言葉を言う人が当時いただろう事は認めていた。




「戦争の時代」 つぼう郷土史研究会 青葉印刷 平成7年発行

 坪生村書記

私が坪生村書記として村役場に就職したのは、昭和18年8月、応召で欠員ができた。
当時は村長、助役のほか6名であったと思う。
当時坪生村に電話があったのは、役場のみであった。
坪生からも次々と召集令状を受け応召者が続出した。
神森神社で壮行式を行い、歓呼の声に送られて、参道の一本杉のところからバスで召集地へ向かった。

昭和19年後半ともなると、予備役として残っていた年長者にも召集令状がきた。

戦死の公報が来たのを、助役より届けるように命を受けた。
「名誉の戦死おめでとうございます、というんだぞ」と教えられ、広報を届けた。
家族の方が涙される姿が痛々しくてやりきれない気持ちで、
命を受けた通りに言いながらも、もらい泣きしたものである。



昭和19年後半ごろから、航空燃料がないということで肥え松の根を掘り出し松根油を造るということで、肥え松の根をこっぱにして、蒸し器で蒸して油を取り出していた。
また、松の樹脂を取れということで、生松に、ゴムの樹液を取るように木に斜めに切り傷をつけ、缶を吊るして松ヤニを取っていた。


(松根を掘る「戦争中の暮らしの記録」 暮らしの手帳編)


昭和20年10月になると、
学徒等が訓練に使っていた三八式の銃および短剣を焼却処分ということで、小学校の校庭で差銃を組み、在郷軍人旗とともに焼却した。
その後、豪州兵がジープで坪生にも巡回してくるようになった。
ジープは,神森神社の石段を平気で登っていったのには驚きいった。




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防空監視哨(岡山県新庄村)

2021年08月13日 | 昭和16年~19年
先に北木島・バックリ山の防空監視哨を書いたが、
岡山県北の新庄村の監視哨も勤務形態はほぼ同じ。

国民学校高等科を卒業後、青年学校へ行っている男女(村で一番若い青年団)が6人一組で山に登り、24時間勤務して、翌日交代する。


「新庄村の暮らしと俗信」  立石憲利 2020年発行

昭和18年に新庄防空監視哨ができた。
監視員は、のべ30人で交代で行う。
6人が一昼夜を、三交代で1時間おきに2人ずつが監視する。
監視員は新庄村と美甘村の者で、5日に1日ずつ任務についた。
朝8時から翌朝8時までで「異状なし」などと申し送りをして帰る。

通称「宝田の監視哨」と言っていた。宝田の山頂付近にあったから、現在の道の駅の裏山。

私は監視哨ができてから、出征する昭和20年3月まで2年半ほど監視員をしていた。
飛行機の識別などは、監視哨手帳があって、機体や標識、方位などが記されていて、それによって行った。
監視哨には、監視舎と聴音壕とがあった。
聴音壕のあとは、現在も残っている。
監視舎は4間*2間くらいの小屋で、寝泊りができる畳の部屋があり、炊事場があった。
壕は深さ3mほどのコンクリートの円筒になっていて、高さ60~70cmの台があり、その上に立って勤務した。









円筒の外側は30cmの空間があって、飛行機の音がよく響くように作られた。
その音で飛行機の飛来を知った。
監視哨は哨長が1人で伍長以上の軍人、退役軍人だった。副哨長は1班に1人ずつ。
監視員は、青年学校に行っている者が中心で、
2年生までは3週に2回、3年生以上は3週に1回の勤務だった。
監視業務をするとき以外は、学校に行ったり、百姓をしたりした。
監視員はお互いによく知っていた。哨長が、人選をしたと思う。
監視哨の管理は警察がしていた。
警察へは電話がついていて、すぐに連絡が取れた。




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