しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

比島決戦の歌、西條八十「私の履歴書」

2021年08月15日 | 昭和の歌・映画・ドラマ
「昭和の戦時歌謡物語」 塩澤実信  展望社 2012年発行


♪いざ来いニミッツ マッカーサー

昭和20年1月、マッカーサー率いる米軍がフィリピンのルソン島に上陸した。
この期に至って、ラジオの国民合唱で良識を疑わざるを得ない「比島決戦の歌」が流し始めたのであった。

作詞界の大御所西條八十と、軍歌戦時歌謡作曲の第一人者古関裕而が作曲していた。

「いざ来いニミッツ マッカーサー」痩せ犬の遠吠えに似た品のないこのフレーズは、軍部将校から敵将を入れてくれとの要望に発している。


西條八十は、「私の履歴書」の中で戦後に次の通りに述べている。

終戦直後、ぼくが疎開地で読んだ新聞紙には西條八十が進駐軍によって絞首刑にされるだろうと書いてあった。
それはぼくが読売に発表した「比島決戦の歌」の中にある、
出て来いニミッツ マッカーサー
出てくりゃ地獄へさか落とし
というひどい詞句のためだと添え書きしてあった。
それを読んだ読売記者で評論家の吉本が、ぼくに手紙をくれて
「あの繰返句はあなたの創作ではありません。
参謀本部の軍人たちが創作して無理に入れさせたものだ。
いざという時には、ぼくが生証人になります」といってくれた。
それでもぼくは一時多少の覚悟はしていたが、幸い事実にならずにすんだ。



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公職追放 「好ましからざる」21万人

2021年08月15日 | 昭和21年~25年
「昭和時代 敗戦・占領・独立」  読売新聞  中央公論社 2015年発行

公職追放 「好ましからざる」21万人

GHQによる公職追放は1945年10月、特高警察関係者ら6.000人の追放から始まった。
同年末には軍国教育を行った教員の追放も行った。
これらの追放処理はポツダム宣言第6項〈日本国民を欺瞞し、これをして世界征服の挙に出の過誤を犯さしめたる者の権力及び勢力は、永久に除去せられざるべからず〉に基づいていた。
追放が本格化したのは46年1月4日、日本政府はGHQから「公職追放に関する覚書」を受け取り、驚愕する。
追放されると、その時の地位を追われるだけでなく、将来も「公職」に就けず、退職金や恩給、さまざまな手当ても受け取れなくなった。

GHQは「間接統治」方式を採用したため、公職追放でも、該当人物か否かをまず日本側に審査させ、これを了承するという形をとった。

・・・




交渉追放「奇々怪々」政治家パージ
鳩山一郎

戦後初の衆院選で第一党になった自由党の総裁、鳩山一郎は、首相就任を目の前に、
突然、公職追放された。
日本側の審査委員はシロと判定したが、衆院選前に打ち出した「反共スローガン」が左翼陣営を刺激した。当時朝日新聞編集局長だった細川隆元は自著で「でっちあげられたもの」と書いてある。
石橋湛山
東洋経済新報社の社長だった石橋湛山は第一次吉田茂内閣の蔵相に抜擢された。
日本側はシロだったが、民生局は強権発動した。
面政局は後年「戦前軍部を批判したリベラリストであるとは知らなかった」と証言したという。



作家たち
G項=その他の軍国主義者や超国家主義者は、
軍需関連産業の役員や、国粋主義を鼓舞した言論人などを追放するための強力な武器となった。

新聞・出版社から約1.000人が追放。
企業人では、
東急電鉄の五島慶太・・・東條内閣の運輸逓信大臣
阪急の小林一三・・・近衛内閣で商工相
西武鉄道の堤康次郎・・・衆院議員
朝日新聞の緒方竹虎
読売新聞の正力松太郎
ジャーナリスト・評論家
徳富蘇峰
山岡荘八
尾崎士郎
菊池寛


無名の人々
大政翼賛会の支部長に自動的に就任していた市町村長が、D項=大政翼賛会などの有力分子)を適用されて軒並み対象となった。
就職もままならず生活に窮した多くの人々とその家族にとって、公職追放はまさに「格子なき牢獄」だった。


公職追放を受けたのは約21万人で、うち16万7千人が陸海軍人、
これに対し、官僚は1.800人程度。
占領軍の間接統治要員として温存されたためで、
これが戦後の官僚主導政治の要因になる。

GHQは昭和23年5月パージ終了を宣言した。




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終戦直後の指令②公文書焼却  文書を焼く煙が幾日となく続く

2021年08月15日 | 昭和20年(戦後)
終戦後、日本の役場が行った最初のことは文書を焼却したことはよく知られている。
以前読んだ何かの本には、終戦後の郡役場の官吏が自転車に乗って、管轄内の町村役場を回って口頭で指示したとあった。
役人は、こっそりと、証拠を残さないように焼いた。

この本の↓、著者は参謀本部の課長や阿南陸相の秘書官を務めた人。
巻頭に書かれている。

「太平洋戦争陸戦慨史」 林三郎  岩波新書  1951年発行

本書では、太平洋戦争間における陸軍統帥部の動きにつき、
「当時はこうであった」ということを、忠実に伝えようと私は務めた。
資料の収集と利用には非常な苦心を要した。
というのは、ほとんど大部分の資料が敗戦とともに焼かれてしまい、
書中の記述については、見る人によってはなお不備な点があるであろう。


・・・・・・・・・・・・・・・・・


「福山市引野町史」 引野町史編纂会 ぎょうせい 昭和61年発行

引野村

昭和20年11月2日、連合軍歩兵大隊1.000人がノートン隊長に率いられて大津野海軍航空隊に進駐した。
幹部宿舎として戦災を免れた数軒が接収された。
図書・文書・什器類を焼く煙が幾日となく続き、昨日まで祖国の光輝ある歴史を物語るものとされた忠魂碑の類も続々と棄却されていった。

進駐軍を迎えて困ったのは便所であった。
市は市内9ヶ所に進駐軍用便所を造ってこれに供した。
もちろん水洗であったから、占領軍専用の水道管を敷設したりした。

今日になって悔やまれるものの一つにはこの時期における文書類の過度なまでの焼却廃棄で、
戦災による損傷焼失とともに、悔やんでも悔やみきれない文化財の喪失がその中に含まれていた。

昭和21年5月24日、米軍に代わって豪州軍が進駐した。
絶対勝者の進駐にしては総じて紳士的、特に米軍の場合がそうだった。




「特高警察」 萩野富士夫 岩波新書 2012年発行
特高警察
8月15日前後から、多くの特高の関係資料が証拠隠滅のために焼却された。
内務省では各県に奥野誠亮や原文兵衛らを派遣して、文書の焼却などを口頭で連絡している。



「戦争調査会」 井上寿一著 講談社現代新書 2017年発行


戦争原因の追及はむずかしい。
敗戦国は責任回避に走り、証拠の隠滅を図る。

陸軍は早くも8月14日の午後から機密文書の焼却を始めている。
翌日正午の「玉音放送」後、中央官庁街を見渡すと、
外務省・内務省・大蔵省から公文書の焼却による煙が立ち上がっていた。



・・・・・・
(転記先・不明)

焼却文書

証拠隠滅を図る目的で焼却された文書が発掘された


日本陸海軍は敗戦とともに多くの公文書を焼却処分にした。
戦争犯罪追及に直結するからである。
このことは後の実証的な歴史研究に大きな障害となった。
ところが、発掘調査では時としてその焼却された公文書や書籍類の焼け残りが発掘されることがある。

東京都目黒区大橋遺跡等の調査では、陸軍の公文書や書籍類が多量に発掘された。
これらは、ゴミ穴・防空壕・地下壕などから出土したものである。
いずれも昭和20年8月15日の敗戦にともなって、証拠隠滅を図る目的で陸軍によって組織的に焼却されたものであったが、
公文書の綴りは大部なために、また書籍も比較的厚いために、完全燃焼に至らず残ったものである。

出土状況はガラス瓶、炭化した木材と共に検出された。
文書類は一気に投じられたため、多くの文書が焼けたものの一部は原型を留め文字の判読できるものが多々みられた。


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「公職追放」と「追放解除」 (岡山県)

2021年08月15日 | 昭和21年~25年
「岡山県史現代Ⅰ・公職追放と選挙」
公職追放

いわゆる公職追放は、非軍事化・民主化のための最も重要な占領政策の一つであった。

昭和20年10月4日に連合国総司令部は、治安維持法その他の自由抑圧法規の廃止、政治犯の即時釈放、思想警察の廃止、内務大臣をはじめとする特高警察官の罷免などを使命した。
岡山県では当時の県警部長、特高課長以下特高関係警察官69名が罷免された。

愛国的労働団体の役職員の労働界からの追放。大日本産業報国会、大日本労務報告会、日本海運報国団などの主要役職員が解任された。

第一次追放
ABCDEFG(前述)の一切の者を公職から罷免し、かつ官職に就かせないように命じた。
当時公職にあって、明らかに覚書に該当すると思われた者の多くは、自ら辞職した。
岡山県知事・安積徳也も、大政翼賛会県支部長の経歴があり、他の27人の府県知事らとともに1月25日辞職した。
公職適否審査委員会は、昭和22年1月4日までに3759人の審査を行い264人を該当者と判定した。
以上第一次公職追放の該当者1067人のうち807人が公職から罷免され、260人が政府機関への就職を禁止された。

第二次追放
総司令部は公職追放を地方と経済界まで拡張するよう命じた。
昭和21年10月30日の合同新聞は「公職追放範囲拡大の声におびえて岡山県下の町村長が続々辞表を提出、供米その他の地方自治の運営に支障を来しつつあり」と報じている。
昭和22年1月施行令が公布され、追放が実施されることとなった。
これによって県会議員は主要公職とされ、該当者は退職させらることがはっきりした。
33議員のうち24名が該当するとわかり、審査を待たずに辞職した。
中央公職適否審査委員会は昭和23年5月10日に廃止されるが、それまでに57.116人を審査し、3633人を該当者と決定した。
県選出の犬養健はG項該当者と判定され、立候補できなくなった。


地方公職適否審査委員会
地方には県と5万人以上の市に委員会が置かれた。
全国の審査総数は651.000人。該当者は4081人であった。

潜在的該当者の追求
公職に就いていないため、指定を免れている潜在的該当者にも指定が行われることになった。
193.000人のが指定を受けた。
岡山県地方課が、県内の潜在的該当者を取りまとめたのは、大政翼賛会支部長610人、大政翼賛壮年団長735人、在郷軍人分会長1508人、大政翼賛協力会議長353人、極右団体32人、昭和17年総選挙の翼賛会推薦議員11人、同推薦団体16人、計3265人。このうち死亡264人、既指定25人、未復員41人であった。




「岡山市百年史下巻」 岡山市 ぎょうせい 平成3年発行

明らかに覚書に該当すると思われた者の多くは、自ら辞職したが、
岡山県知事安積得也も大政翼賛会県支部長の経歴があり、昭和21年1月25日に辞職した。

昭和21年11月8日政府は「地方公職に対する追放覚書の適用に関する件」を発表した。
すでに地方政界には波紋が広がっていた。
合同新聞は、「公職追放範囲拡大の声に怯えて岡山県下の町村長が続々辞表を提出」(昭和21年10月31日)
「近く発令される公職追放令該当予想町村長は県下365町村のうち、
かつての翼賛会支部長225人、翼壮8人、計233人。61%の多数にのぼり、同日までの辞表提出者は124人で、許可済が72人、保留52人。
該当しない人は昨年8月15日敗戦後就任したものが大部分を占め、
4市も津山市長辞任、倉敷市長辞表、橋本岡山市長は22年2月22日一身上の都合で退職し、翌年公職追放になった。

22年1月4日、普通公職にあるものでも退職させられる、ということになった。
(※県内等の追放者数は記述されていない)





「金光町史」 金光町 平成15年発行

公職追放

内務相の解体、特高警察の廃止、
手始めは、戦争指導者の各界から除去するという公職追放である。
特高警察の追放が始まりとなった。
昭和20年10月30日、教職員の追放に関する覚書が発せられた。
12月14日には産業報国会、労務報告会などの主要役員が解任された。町内に結成されていた各種報告会も解散に向かった。
12月15日、国家神道に対する政府の保証・支援・監督等が廃止。
昭和21年1月、大政翼賛会の活動者が対象となり、岡山県知事をはじめ県内で該当者1.067人のうち807人が公職から罷免された。
11月8日、「地方公職に対する追放覚え書」で、翌22年初めまでに県内の町村長は122名が辞表提出した。
金光町では5期務めた町長が辞任した。




「倉敷の歴史 18号」 2008年発行

聞き書ぎ昭和史・私の歩んだ道

叔父も親父も神職でしたので東京の国学院大学に進学しました。
ルソン島のジャングルの中、食べるもの、薬もなく、みんなばたばた行き倒れになっていきました。
昭和20年9月に士官から「日本軍は負けた、戦闘任務を解除した」、で復員した。

復員してきて、とりあえず召集を受ける前に勤めていた学校に電話で挨拶したら、
君は追放がかかっているから、学校へは出てくるなと言われたんです。
公職追放も知らないし、理由も聞かされてないんです。
ただね、私は国学院を出ているでしょう。
そこが引っかかったのかもしれないですね。
それで野菜売りの商売をしました。

6年間追放を受けていてね、それから昭和26年に玉島高校に勤めました。
兵隊上がりで動くのは苦じゃなかったから、考古学の発掘調査をよくやりました。





・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

追放解除

「岡山県政史」  岡山県 昭和44年発行

公職追放の解除

昭和25年6月に朝鮮戦争が勃発し、国際情勢は急速にその様相を変えた。
とくにわが国には、その影響が大きく、GHQの占領政策は、日本政府の国連への協力決定および
講和条約の早期締結の対応する挙国体制の必要などから転換されることになり、公職追放者の大量解除方針が伝えられるにいたった。
かくして、昭和25年10月の解除発表(本県関係者191名)を初めとして、翌26年6月(本県関係者2.300名)、
同年7月と解除がつづき、昭和27年4月の平和条約発効直前までに、全国の被追放者21万余人のうち20万余人の解除が行われ、
平和条約発効とともに公職追放はすべて消滅した。






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(昭和20年)八月十七日の開戦  

2021年08月15日 | 占守島の戦い
占守島(しゅむしゅとう)の軍の最高責任者は、笠岡市ゆかりの杉野巌旅団長であるが、物の本には登場しないことが多い。
最大の理由は、本人が書き残したり、語ったりすることがなかったからであろう。
北海道分割を阻止した功績から離れ、戦後は笠岡市で隠遁的な生活をされた。



「歴史街道 令和2年9月号」  PHP 2020年発行
八月十七日の開戦  早坂隆




樋口季一郎

8月15日を迎えても、戦争は終わったわけではなかった。
8月17日、
北海道に野心を持つソ連が、千島列島の占守島に上陸したのである。


占守島での自衛戦争

「ヤルタ密約」
米英ソによる「ソ連はドイツ降伏後3ヶ月後に対日参戦する」という密約が交わされていた。
日本はこのような国際社会の奸計に翻弄された。
占守島への不意打ちも、こした流れの中で始まった。

当時、第五方面軍の司令官となっていた樋口は、ソ連軍の侵攻を札幌の方面軍司令部で知った。
「断固、攻撃に転じ、上陸軍を粉砕せよ」と打電した。
ソ連の最高指導者であるスターリンは、釧路と留萌を結んだ北海道の北半分を占領する野望を有していた。
占守島を占領した上で、千島列島を南下し、一気に北海道に上陸する構想を有していたのである。





戦車隊の神様・池田末男
こうして占守島での戦いが始まった。
18日、午前1時過ぎソ連軍の上陸部隊は艦砲射撃の援護の下、占守島北端の竹田浜に殺到した。
竹田浜でソ連軍を迎え撃ったのは、村上則重少佐率いる独立歩兵第282大隊である。
竹田浜一帯は熾烈な戦場と化した。
村上少佐は四霊山への後退を余儀なくされた。
その後、ソ連軍は四霊山へ肉薄、日本軍は押され気味であった。
そんな戦況を一変させたのが、池田末男大佐率いる戦車第11連隊である。
同隊は、満州から移された虎の子の精鋭部隊であった。
午前5時30分、池田戦車隊は出撃。
占守街道を北上し四霊山へと向かった。到着したのは午前6時20分ごろである。
この池田戦車隊の活躍により、ソ連軍は大きな打撃を被り、深刻な混乱に陥った。
天候不良のため、ソ連軍は航空兵力を十分投入できなかった。
結局ソ連軍は竹田浜へと後退、池田大佐の戦死はあったものの、日本軍は以降も総じて同島での戦いを優位に進めた。

大本営の決定によって「終戦後の戦闘行為は、それが自衛目的であっても18日午後4時まで」と定められていた。
日本軍は優勢のまま、18日午後4時をもって積極的な戦闘を控えた。
以降も散発的な戦闘は起きたが、最終的な停戦が成立したのは21日であった。
武装解除は23日から行われた。
同島で捕虜になった日本兵はその後、シベリアなどに抑留された。

分断国家となる道から救った戦い

占守島の激戦によってソ連軍が足止めされている間に、米軍が北海道に進駐した。
こうしてスターリンの「北海道の北半分占領」という計画は完全に頓挫した。
樋口が自衛戦争としての抗戦を命じず、占守島が一挙にソ連軍に占領されていたとしたら、その後の日本はどうなっていたであろうか。
占守島における兵士たちの奮闘と犠牲がなければ、戦後日本はドイツや朝鮮半島のような分断国家になっていたはずである。
占守島の戦いは小さな島での戦いであったが、日本という国家にとっては極めて大きな意味を持つ戦闘であった。








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(昭和20年)八月十五日「負けたら殺される」

2021年08月15日 | 昭和20年(戦後)
祖母が亡くなるまで、家には天皇・皇后の写真を掲げてあった。
戦前に購入したご真影だが一時(終戦直後)は、どこかに隠していたそうだ。アメリカ軍に持っているのを見つけられたら、「何をされるかわからん」と心配していたようだ。

父は岡山の軍にいたが、仕事で近くの県庁(当時は天神山)に行くことが多く、
8月になると、県庁の人から「負けるよ」と教えてもらっていて玉音放送の内容は事前に知ってした。

作家・五木寛之さんが書いている、終戦前に政府・軍人の高官が、市民に知らせることなく自分たちだけ逃げたのは日本人として情けない。
満州でも、同じように市民から脱出するマニュアルがあるにも関わらず、現実は「最後に逃げる人」が「最初に逃げた、しかもこっそり」と。
今でも国家のエライ人の言うことを、どこまで信じていいのか、よくわからない。





(「一億人の昭和史」 毎日新聞社 1975年発行)


「美星町史」 美星町史編集委員会 山陽印刷  昭和51年発行

終戦の時
国民の生活は日増しに苦しくなり、疲労と飢えにあえぎながらも「負けたら一人残らず殺される」という宣伝がされて一段と緊張を増した。
山野で働いているものも田畑を耕作しているものも、戦場のようなすさまじい音を耳にすることがあり、夜は遠くの空が真っ赤に染まり、どこかが焼けていることを感じた。
ついに昭和20年8月15日をむかえた。
丁度その日、私どもの周囲に「降伏せよ」と印刷したビラが飛んできた。
母が「戦争が終わったら電灯が点けられるかなあ」といった。
外へは出せない悲しみの一つ、それは妊婦の苦しみであった。
妊産婦は栄養もとれず、特に動物蛋白源は何一つなく、煮干しさえ一週間に一度、食べるか食べないかの生活、胎児の順調な発育等は望むすべもない。



・・・・

「勝央町史」 勝央町  山陽印刷 昭和59年発行

戦後の混乱
やがて進駐してくる外国軍隊についての恐怖心は相当なものであったようだ。
「男子はキンを抜かれる。娘は慰安婦に供出させられる」などというデマが乱れ飛んで、娘たちを田舎に移住させた親もあった。
また「戦争に関係ある書類は焼却せよ」という上からの指令があって関係のない書類まで焼き捨てた役所や学校も多く、これが戦時中の記録をなくした大きな原因になった。



・・・・

「奥津町史 下巻」 奥津町 平成17年発行

敗戦

正午の時報に続いて和田信賢放送員がマイクに向かい、
「ただいまより重大なる放送があります。
全国聴取者の皆様、ご起立願います」
続いて下村宏情報局総裁がマイクに向かい
「天皇陛下におかせられましては、全国民に対し、かしこくもおんみずから大詔を宣(の)らせたもうことになりました。
これより、謹みて玉音をお送り申します」。
詔書は次のとおりである。
  朕深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セムト欲シ茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告グ(以下略)

当時国民学校4年生の少年は、玉音放送の内容は解らなかったが、
大人たちは一様に虚脱状態で「ついに敗れた」と教えてくれた。いち早く母に知らせたら「やれやれ、これで安心できる」と一言つぶやいた。
墨汁で塗りつぶした教科書を用いて5年生になった。


・・・・


(「一億人の昭和史」 毎日新聞社 1975年発行)

「わが人生の歌がたり」  五木寛之  角川書店 平成19年発行

玉音放送を聴く
当時・ピョンヤン一中学校の1年生。

敗戦の直前には、四十を過ぎた父親までが「教育召集」といって、召集されたのにはびっくりしました。
兵隊に行くのは若い人たちばかりだと思っていたら、いい年をした学校教師まで引っ張りだされたのですから。
それでも一般の国民は「神風」を信じていたのです
漠然と信じていたんです。
「神州不滅」と子どものときからたたき込まれていましたから、この国が負けるなんて絶対あり得ないと思っていました。
8月15日に「今日は大事な放送があるから」と、学校の先生に言われて、校庭に集合したときは、
まさか日本が敗れるなどということは想像もしていませんでした。
それが玉音放送だったのです。
校庭に全員集合して、ラジオから流れる雑音の混じった放送を聞きました。
あ、これでもう苦しい作業はしなくていいんだ。
何か長い夏休みが始まるような、開放感のような、空しさのような、ポカンとした空白感がありました。
そしてこの後、何が来るのかまったく予想もつかない不思議な感じでした。
父は「神州不滅」を信じていた教師でしたが、本当に茫然自失で、
どう判断していいのかわからずに立ちすくんでいました。


ところが戦局の情報を把握していた人は事前からうまく対応していたようです。
敗戦の時にはすでに、
軍部の上層部の家族や、財閥、高級官僚の家族は、山のように家財道具を積んで、ピョンヤンから南下していたようです。
上の人たちは、列車が動いている間にソウルへ、内地へ向かっていたのです。

やがて朝鮮人たちの民主組織などが、どんどん活発になってゆき、身の危険を感じるような雰囲気でした。
軍歌がまったく聞かれなくなったのは、やはり驚くべき変化でした。



(「一億人の昭和史」 毎日新聞社 1975年発行)

・・・・


「革新と戦争の時代」  井上光貞他共著 山川出版社 1997年発行 

15日正午、ラジオから玉音放送が流れた。
次いで、
同夜のラジオと16日の新聞各紙で終戦に関する内閣告論が発表された。

軍人・軍属を中心に終戦に、抗議・絶望、あるいは敗戦責任を負っての自決が相次ぎ、
その数は軍人・軍属だけで600名を超えた。

大本営は16日午後4時、全部隊に対して停戦命令を発した。
停戦は、おおむね滞りなく実施されたが、ソ連軍の侵攻が続いた満州・樺太ではなお一週間も戦闘が続いた。

無条件降伏が正式に布告されたのは9月2日のことである。

8月15日午後、鈴木内閣は敗戦責任をとって総辞職した。
木戸内大臣は平沼と協議の上、皇族、陸軍大将の東久邇宮稔彦王を後継首班として、近衛文麿に後援を求めることにした。
16日、東久邇宮に天皇の組閣命令が下った。




(「一億人の昭和史」 毎日新聞社 1975年発行)




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「露営の歌」~死んで還れと励まされ

2021年08月15日 | 昭和の歌・映画・ドラマ
笠岡市西本町のの古刹・威徳寺に生まれた音楽評論家長田暁二さんは、”露営の歌”は
「軍国歌謡の最大傑作の一つと称された」と記述されている。

管理人が幼いころ、戦争は終わっていたが、近所の年上の男の子は「勝ってくるぞと勇ましく」と歌いながら遊んでいた。
よほど大ヒットし、国民の愛唱歌となっていたのだろう。

映画やテレビでも、村の神社や駅や港での出征兵士を送るシーンでは、決まったようにこの歌が画面に流れる。





「太平洋戦争下の学校生活」  岡野薫子 平凡社 2000年発行
※著者は昭和4年(1929)生まれ。

露営の歌


提灯行列も旗行列も、子どもにとっては、お祭りに似た面白い行事だった。
出征兵士は神社で武運長久を祈ってから、駅で電車に乗る。
この時、
駅頭で決まって歌われるのが、『露営の歌』だった。


勝ってくるぞと勇ましく・・

勇壮というよりは悲壮だ。
二番以下の歌詞になると,歌詞そのものにも悲壮感がみなぎってくる。
そのためかどうか、一番の歌詞のみ繰り返し歌っていた。 

ちなみに四番と五番は、

思えば今日の戦いに

戦する身は予てから

一緒によく歌ったもう一つの軍歌は、
『日本陸軍』

天に代わりて不義を討つ 

出征兵士の見送りに小学生がぞろぞろついていくことは、特別な時以外、次第に見られなくなった。
特別な、というのはその小学校の先生の応召の場合である。
つまり、それだけ出征は日常的になってきていた。
普通の出生は、家族と近所の人たちの見送りだけで、あとは、
かっぽう着にたすきをかけた国防婦人会の人たちが、線路際に並んで、日の丸の小旗を振る程度になった。
電車はあっという間に走りすぎてしまう。
出征兵士が、普通の乗客と同じ電車に乗っていくことが、子どもの私には不思議でならなかった。






「昭和の戦時歌謡物語」 塩澤実信  展望社 2012年発行

露営の歌

支那事変は、
「暴戻支那の膺懲」が合言葉であった。
連日新聞の紙面は戦争記事で埋められ、”暴支膺懲(ぼうしようちょう”の強硬論で統一された。
新聞の戦争支持ぶりは熱狂的であった。

支那事変から大東亜戦争の間に、最も愛唱されたのが「露営の歌」。
歌詞は一番から終番まですべてに「死」の影が揺曳していた。

露営の歌  作詞:薮内喜一郎  作曲:古関裕而


勝って来るぞと 勇ましく
ちかって故郷(くに)を 出たからは
手柄たてずに 死なりょうか
進軍ラッパ 聴くたびに
瞼に浮かぶ 旗の波

土も草木も 火と燃える
果てなき曠野 踏みわけて
進む日の丸 鉄兜
馬のたてがみ なでながら
明日(あす)の命を 誰が知る

弾丸(たま)もタンクも 銃剣も
しばし露営の 草まくら
夢に出てきた 父上に
死んで還(かえ)れと 励まされ
醒(さ)めて睨むは 敵の空

思えば今日の 戦闘(たたかい)に
朱(あけ)に染まって にっこりと
笑って死んだ 戦友が
天皇陛下 万歳と
残した声が 忘らりょか

戦(いくさ)する身は かねてから
捨てる覚悟で いるものを
ないてくれるな 草の虫
東洋平和の ためならば
なんの命が 惜しかろか


東京日日新聞の「進軍の歌」懸賞募集の第2席の詞について選者の一人北原白秋が、
「優れている、もし曲がつくなら」と発表された。

満州から帰途の船内で古関裕而は依頼の電報を受けた。
山陽線の各駅ですでに見られた光景で、武運長久の旗をなびかせたり、日の丸の旗をふるリズムの中で、
ごく自然に作曲してしまった。
十五年戦争下の最高の傑作とされる「露営の歌」は、発売二か月後、前線の兵士が合唱する風景が夕刊に報道された。




(岡山駅)



「千田学区地域誌」 福山市千田学区町内会  2008年発行

召集と出征
体験・男性 大正15年生れ

 
突然、赤紙が届きました。
入隊に際しては、町内の人々や婦人会の方々など大勢の見送りで、壮行会をして頂き、私は次ような挨拶をしたのを思い出します。
「男子の本懐、これにすぐるものはございません。
入営した暁には、一意専心、軍務に勉励し、皆さまの万分の一にも報いる覚悟でございます。
皆さま方におかれましても、銃後の守り、よろしくお願いします。
”今日よりは顧みなくて大君の醜の御楯と出立つ吾は”
では、行って参ります。」
昭和20年初め、19歳で大坂の聯隊に入営する前日、日の丸の旗を振りながら、
福山駅まで坂田の方の見送りを受けました。

私は家族と隣人たちに「武運長久」の寄せ書きをしてもらった日の丸の旗を肩にかけて出発しました。
福山駅では、出征する仲間が多くいて、日の丸の旗がうちふられ、
「天に代わりて不義を討つ忠勇無双の我が兵は・・・」
「勝ってくるぞと勇ましく 誓って国をでたからにゃ 手柄たてずに死なりょうか・・・」
の大合唱。
大勢の見送りを受けました。
ぼくの姿を見つめていた母の姿が思い出されます。
息子を戦場へ送る母が、人前で泣くのは許されなかった時代でした。






「戦争が遺した歌」 長田暁二 全音楽譜出版社 2015年発行

露営の歌

日支事変が勃発すると各新聞社等のマスコミは挙って,沢山の時局歌・愛国歌を募集選定した。
「露営の歌」は毎日新聞の公募入選2位の作品。
北原白秋が「2席に上手く曲が付けば第二の「戦友」になるとコメントしていた。
古関裕而が作曲、
コロンビアの第一線男性歌手を総動員、中野忠晴、松平晃、伊藤久男、霧島昇、佐々木章が歌唱、大衆は飛びつき発売後半年で60万枚を売るレコード界の新記録を作る大ヒットになった。
軍国歌謡の最大傑作の一つと称された。
「死んで帰れと励まされ」の文句に人気が出て仕舞ったのである。


コメント
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