翼賛選挙に非推薦で立候補した人、その家族や支援者は、世を敵に回しての苦しい選挙活動だったと思える。
あの時代でも、非推薦候補の得票総数は全体の約35%あり、当時の表面的な支持にくらべ意外に批判票が多い。
この選挙で非推薦の立候補者(当選・落選問わず)が戦後の日本政治をリードした。
主な非推薦立候補者
鳩山一郎(首相)
三木武夫(首相)
芦田均(首相)
片山哲(首相)
河野一郎
安部寛
・・・・・・・・
「昭和 第6巻」 講談社 平成2年発行
弾圧、干渉による総力戦体制の確立
選挙戦なき「翼賛選挙」
昭和15年10月に結成された大政翼賛会は内務官僚と警察が実験を握り、
単なる「上意下達」の行政補助機関と化していた。
これを不満とした東條英機首相は「大日本翼賛壮年団」(翼壮)を創設させた。
翼壮は翼賛選挙の忠実な実戦部隊となった。
昭和17年、マニラ占領、シンガポール陥落などが次々に報じられ国民は戦勝気分にわきあがっていた。
4月30日が選挙日と決まった。
この選挙は戦時下の選挙であり、かつ議会を政府に協力させる体制の確立を目的に行われたため「翼賛選挙」と呼ばれた。
東條内閣は、帝国議会を政府に協力的な議員で独占したいと考え、異例の推薦候補制度の導入を発表した。
しかし帝国憲法で公選制がうたわれている以上、政府自ら候補を推薦することはできない。
そこで翼賛政治体制協議会(翼協・会長阿部信行陸軍大将)という「政治結社」が設立され、政府に変わり国策遂行に都合のいい人物を推薦することになった。
翼協は帝国在郷軍人・市町村長・大政翼賛会支部役員など地方の有力者で構成され、
各道府県単位に支部を置き、推薦候補の選考と選挙運動の推進にあたった。
議員定数に当たる466人の推薦候補は4月9日までに決まったが、
このとき活用されたのが『衆議院議員調査票』である。
同調査票は、選挙に向けて警察が現職議員を調査し、内務省がまとめたもので、
現職議員は甲乙丙に三分類されており、当落予想まで併記されていた。
猛烈な選挙干渉と、その結果
4月4日に選挙が公示され、466議席に対して推薦候補466人、非推薦候補613人が立候補し普通選挙始まっていらいの激戦となった。
政府は翼賛会・翼壮・在郷軍人会・大日本婦人会・町内会・隣組などのあらゆる組織を通じ推薦候補を後押しした。
選挙期間中、非推薦候補は政府や軍部、警察の指導する、あらゆる組織を動員した選挙妨害を受けた。
非推薦候補者とその支持者に対しては「非国民」呼ばわりや「配給を停止する」など露骨な選挙干渉が行われた。
選挙演説も批判的言論が禁じられ「国民士気抑揚」のための官製演説が強制された。
一方、推薦候補には臨時軍事費の中から資金援助が行われた。
選挙運動は全体に低調だった。
しかし有権者が組織的にかり出されたため、投票率は全国平均83.1%と高かった。
開票結果は、
推薦候補 381人(当選率81.8%)新人195人 翼壮40余人
非推薦候補 85人 主な当選者町田忠治、安藤正純、鳩山一郎、尾崎行雄、浅沼稲次郎、西尾末広
落選者も含む非推薦候補の得票総数は全体の約35%を占めており、
東條内閣に対する批判票が相当多いことが証明された。
翼協は選挙後に解散し、翼賛政治会(会長阿部信行)が発足した。
議会からはほぼ全員が参加し、ここに東條内閣にたいして「イエス」と言うだけの「翼賛議会」が成立した。
「革新と戦争の時代」 井上光貞他共著 山川出版社 1997年発行
昭和17年「翼賛選挙」
東條英機首相はこの機を捉えて、議員構成を東條政権に有利な方向に誘導しよと考えた。
昭和17年2月17日「翼賛選挙貫徹運動基本要綱」を閣議決定し、
推薦候補導入による議会コントロールに乗り出した。
政府の指導の下に翼賛政治体制協議会(翼協)が結成され、候補者の選定にあたることになった。
各道府県に支部が置かれたが、支部長の多くは軍人や大政翼賛会・大日本翼賛壮年団の幹部であった。
翼賛議員同盟は翼協に働きかけ、466名が推薦された。
しかし、鳩山一郎・安藤正純ら同交会の議員は「官選議員出現の虞あり」と反対声明を発し、官憲の推薦参加は憲法違反と断じて翼協の解消を要求した。
中野正剛の東方会も推薦を拒否し、国家主義団体にも推薦制に反発する動きがみられた。
総選挙は4月4日に告示され、非推薦614名を含め1.080名が立候補した。
内務省は演説会で戦争・軍・翼賛選挙を批判することを禁止し、
推薦候補には政府側から資金援助が行われた。
また、非推薦候補が官憲から各種の妨害を受ける例がみられた。
干渉の主役は内務省であったが、一部では憲兵の干渉も認められた。
投票は4月30日に行われ、推薦候補381名、非推薦候補85名が当選した。
推薦候補の議席占有率は8割を超え、東條政権は議会方面でも足場を固めた。
なお、非推薦議員や立候補断念に追い込まれた政治家は、戦後にいたって「軍部」あるいは「軍国主義」に反対したものとして追及を免れ、一変した中央政界で飛躍の機会をえるケースが少なからずみられた。
第21回衆議院議員総選挙・投票日昭和17年4月30日
当選者
(Wikipedia)
岡山県 1区
岡田忠彦・久山知之・森谷新一・片山一男・逢沢寛
岡山県2区
小川郷太郎・ 星島二郎・犬養健・小谷節夫・土屋源市
太字が非推薦者
星島二郎さんは戦後・大臣や衆院議長
犬養健さんは戦後大臣
あの時代でも、非推薦候補の得票総数は全体の約35%あり、当時の表面的な支持にくらべ意外に批判票が多い。
この選挙で非推薦の立候補者(当選・落選問わず)が戦後の日本政治をリードした。
主な非推薦立候補者
鳩山一郎(首相)
三木武夫(首相)
芦田均(首相)
片山哲(首相)
河野一郎
安部寛
・・・・・・・・
「昭和 第6巻」 講談社 平成2年発行
弾圧、干渉による総力戦体制の確立
選挙戦なき「翼賛選挙」
昭和15年10月に結成された大政翼賛会は内務官僚と警察が実験を握り、
単なる「上意下達」の行政補助機関と化していた。
これを不満とした東條英機首相は「大日本翼賛壮年団」(翼壮)を創設させた。
翼壮は翼賛選挙の忠実な実戦部隊となった。
昭和17年、マニラ占領、シンガポール陥落などが次々に報じられ国民は戦勝気分にわきあがっていた。
4月30日が選挙日と決まった。
この選挙は戦時下の選挙であり、かつ議会を政府に協力させる体制の確立を目的に行われたため「翼賛選挙」と呼ばれた。
東條内閣は、帝国議会を政府に協力的な議員で独占したいと考え、異例の推薦候補制度の導入を発表した。
しかし帝国憲法で公選制がうたわれている以上、政府自ら候補を推薦することはできない。
そこで翼賛政治体制協議会(翼協・会長阿部信行陸軍大将)という「政治結社」が設立され、政府に変わり国策遂行に都合のいい人物を推薦することになった。
翼協は帝国在郷軍人・市町村長・大政翼賛会支部役員など地方の有力者で構成され、
各道府県単位に支部を置き、推薦候補の選考と選挙運動の推進にあたった。
議員定数に当たる466人の推薦候補は4月9日までに決まったが、
このとき活用されたのが『衆議院議員調査票』である。
同調査票は、選挙に向けて警察が現職議員を調査し、内務省がまとめたもので、
現職議員は甲乙丙に三分類されており、当落予想まで併記されていた。
猛烈な選挙干渉と、その結果
4月4日に選挙が公示され、466議席に対して推薦候補466人、非推薦候補613人が立候補し普通選挙始まっていらいの激戦となった。
政府は翼賛会・翼壮・在郷軍人会・大日本婦人会・町内会・隣組などのあらゆる組織を通じ推薦候補を後押しした。
選挙期間中、非推薦候補は政府や軍部、警察の指導する、あらゆる組織を動員した選挙妨害を受けた。
非推薦候補者とその支持者に対しては「非国民」呼ばわりや「配給を停止する」など露骨な選挙干渉が行われた。
選挙演説も批判的言論が禁じられ「国民士気抑揚」のための官製演説が強制された。
一方、推薦候補には臨時軍事費の中から資金援助が行われた。
選挙運動は全体に低調だった。
しかし有権者が組織的にかり出されたため、投票率は全国平均83.1%と高かった。
開票結果は、
推薦候補 381人(当選率81.8%)新人195人 翼壮40余人
非推薦候補 85人 主な当選者町田忠治、安藤正純、鳩山一郎、尾崎行雄、浅沼稲次郎、西尾末広
落選者も含む非推薦候補の得票総数は全体の約35%を占めており、
東條内閣に対する批判票が相当多いことが証明された。
翼協は選挙後に解散し、翼賛政治会(会長阿部信行)が発足した。
議会からはほぼ全員が参加し、ここに東條内閣にたいして「イエス」と言うだけの「翼賛議会」が成立した。
「革新と戦争の時代」 井上光貞他共著 山川出版社 1997年発行
昭和17年「翼賛選挙」
東條英機首相はこの機を捉えて、議員構成を東條政権に有利な方向に誘導しよと考えた。
昭和17年2月17日「翼賛選挙貫徹運動基本要綱」を閣議決定し、
推薦候補導入による議会コントロールに乗り出した。
政府の指導の下に翼賛政治体制協議会(翼協)が結成され、候補者の選定にあたることになった。
各道府県に支部が置かれたが、支部長の多くは軍人や大政翼賛会・大日本翼賛壮年団の幹部であった。
翼賛議員同盟は翼協に働きかけ、466名が推薦された。
しかし、鳩山一郎・安藤正純ら同交会の議員は「官選議員出現の虞あり」と反対声明を発し、官憲の推薦参加は憲法違反と断じて翼協の解消を要求した。
中野正剛の東方会も推薦を拒否し、国家主義団体にも推薦制に反発する動きがみられた。
総選挙は4月4日に告示され、非推薦614名を含め1.080名が立候補した。
内務省は演説会で戦争・軍・翼賛選挙を批判することを禁止し、
推薦候補には政府側から資金援助が行われた。
また、非推薦候補が官憲から各種の妨害を受ける例がみられた。
干渉の主役は内務省であったが、一部では憲兵の干渉も認められた。
投票は4月30日に行われ、推薦候補381名、非推薦候補85名が当選した。
推薦候補の議席占有率は8割を超え、東條政権は議会方面でも足場を固めた。
なお、非推薦議員や立候補断念に追い込まれた政治家は、戦後にいたって「軍部」あるいは「軍国主義」に反対したものとして追及を免れ、一変した中央政界で飛躍の機会をえるケースが少なからずみられた。
第21回衆議院議員総選挙・投票日昭和17年4月30日
当選者
(Wikipedia)
岡山県 1区
岡田忠彦・久山知之・森谷新一・片山一男・逢沢寛
岡山県2区
小川郷太郎・ 星島二郎・犬養健・小谷節夫・土屋源市
太字が非推薦者
星島二郎さんは戦後・大臣や衆院議長
犬養健さんは戦後大臣