しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

弾圧、干渉による「翼賛選挙」

2021年08月27日 | 昭和16年~19年
翼賛選挙に非推薦で立候補した人、その家族や支援者は、世を敵に回しての苦しい選挙活動だったと思える。
あの時代でも、非推薦候補の得票総数は全体の約35%あり、当時の表面的な支持にくらべ意外に批判票が多い。

この選挙で非推薦の立候補者(当選・落選問わず)が戦後の日本政治をリードした。
主な非推薦立候補者
鳩山一郎(首相)
三木武夫(首相)
芦田均(首相)
片山哲(首相)
河野一郎
安部寛

・・・・・・・・

「昭和 第6巻」  講談社 平成2年発行

弾圧、干渉による総力戦体制の確立
選挙戦なき「翼賛選挙」


昭和15年10月に結成された大政翼賛会は内務官僚と警察が実験を握り、
単なる「上意下達」の行政補助機関と化していた。
これを不満とした東條英機首相は「大日本翼賛壮年団」(翼壮)を創設させた。
翼壮は翼賛選挙の忠実な実戦部隊となった。
昭和17年、マニラ占領、シンガポール陥落などが次々に報じられ国民は戦勝気分にわきあがっていた。
4月30日が選挙日と決まった。
この選挙は戦時下の選挙であり、かつ議会を政府に協力させる体制の確立を目的に行われたため「翼賛選挙」と呼ばれた。

東條内閣は、帝国議会を政府に協力的な議員で独占したいと考え、異例の推薦候補制度の導入を発表した。
しかし帝国憲法で公選制がうたわれている以上、政府自ら候補を推薦することはできない。
そこで翼賛政治体制協議会(翼協・会長阿部信行陸軍大将)という「政治結社」が設立され、政府に変わり国策遂行に都合のいい人物を推薦することになった。

翼協は帝国在郷軍人・市町村長・大政翼賛会支部役員など地方の有力者で構成され、
各道府県単位に支部を置き、推薦候補の選考と選挙運動の推進にあたった。
議員定数に当たる466人の推薦候補は4月9日までに決まったが、
このとき活用されたのが『衆議院議員調査票』である。
同調査票は、選挙に向けて警察が現職議員を調査し、内務省がまとめたもので、
現職議員は甲乙丙に三分類されており、当落予想まで併記されていた。

猛烈な選挙干渉と、その結果
4月4日に選挙が公示され、466議席に対して推薦候補466人、非推薦候補613人が立候補し普通選挙始まっていらいの激戦となった。
政府は翼賛会・翼壮・在郷軍人会・大日本婦人会・町内会・隣組などのあらゆる組織を通じ推薦候補を後押しした。

選挙期間中、非推薦候補は政府や軍部、警察の指導する、あらゆる組織を動員した選挙妨害を受けた。
非推薦候補者とその支持者に対しては「非国民」呼ばわりや「配給を停止する」など露骨な選挙干渉が行われた。

選挙演説も批判的言論が禁じられ「国民士気抑揚」のための官製演説が強制された。
一方、推薦候補には臨時軍事費の中から資金援助が行われた。

選挙運動は全体に低調だった。
しかし有権者が組織的にかり出されたため、投票率は全国平均83.1%と高かった。
開票結果は、
推薦候補 381人(当選率81.8%)新人195人 翼壮40余人
非推薦候補 85人 主な当選者町田忠治、安藤正純、鳩山一郎、尾崎行雄、浅沼稲次郎、西尾末広
落選者も含む非推薦候補の得票総数は全体の約35%を占めており、
東條内閣に対する批判票が相当多いことが証明された。

翼協は選挙後に解散し、翼賛政治会(会長阿部信行)が発足した。
議会からはほぼ全員が参加し、ここに東條内閣にたいして「イエス」と言うだけの「翼賛議会」が成立した。






「革新と戦争の時代」 井上光貞他共著 山川出版社 1997年発行

昭和17年「翼賛選挙」

東條英機首相はこの機を捉えて、議員構成を東條政権に有利な方向に誘導しよと考えた。
昭和17年2月17日「翼賛選挙貫徹運動基本要綱」を閣議決定し、
推薦候補導入による議会コントロールに乗り出した。
政府の指導の下に翼賛政治体制協議会(翼協)が結成され、候補者の選定にあたることになった。
各道府県に支部が置かれたが、支部長の多くは軍人や大政翼賛会・大日本翼賛壮年団の幹部であった。
翼賛議員同盟は翼協に働きかけ、466名が推薦された。

しかし、鳩山一郎・安藤正純ら同交会の議員は「官選議員出現の虞あり」と反対声明を発し、官憲の推薦参加は憲法違反と断じて翼協の解消を要求した。
中野正剛の東方会も推薦を拒否し、国家主義団体にも推薦制に反発する動きがみられた。
総選挙は4月4日に告示され、非推薦614名を含め1.080名が立候補した。

内務省は演説会で戦争・軍・翼賛選挙を批判することを禁止し、
推薦候補には政府側から資金援助が行われた。
また、非推薦候補が官憲から各種の妨害を受ける例がみられた。
干渉の主役は内務省であったが、一部では憲兵の干渉も認められた。
投票は4月30日に行われ、推薦候補381名、非推薦候補85名が当選した。
推薦候補の議席占有率は8割を超え、東條政権は議会方面でも足場を固めた。

なお、非推薦議員や立候補断念に追い込まれた政治家は、戦後にいたって「軍部」あるいは「軍国主義」に反対したものとして追及を免れ、一変した中央政界で飛躍の機会をえるケースが少なからずみられた。






第21回衆議院議員総選挙・投票日昭和17年4月30日
当選者
(Wikipedia)
岡山県 1区
岡田忠彦・久山知之・森谷新一・片山一男・逢沢寛
岡山県2区
小川郷太郎・ 星島二郎・犬養健・小谷節夫・土屋源市

太字が非推薦者
星島二郎さんは戦後・大臣や衆院議長
犬養健さんは戦後大臣





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戦後初の総選挙・婦人参政権

2021年08月27日 | 昭和21年~25年
女性が初めて議員の選挙に投票したのが、昭和21年4月10日の衆院選挙。
戦後で世は混とん。
管理人の家では、神戸から戦災で焼け出された親戚3人が同居中。家の中は10人同居。
初めての投票した時のことを母に聞けば、
「背中に二子をおんぶ、片手に一子の手をつなぎ」投票に行った。

初の選挙は戦後の混乱の想い出の中の(小さな)一つのようだった。





「昭和 第7巻」  講談社 平成2年発行
実現した婦人参政権
40年間の苦難の道





実現した婦人参政権

終戦の日から10日後の昭和20年8月25日、市川房江が「戦後対策婦人委員会」を結成し、9月11日第一回会合を開いた。
その目的は、戦後における婦人関係の諸対策を考究企画し、政府当局へ進言するとともに、その実現に協力することだっが、
さしあたり政府、貴衆両院、各政党に対して
婦人参政権、男女平等実現のため5項目を申し入れた。

昭和20年10月11日、GHQは五大改革指令を発するが、その第一に婦人解放があげられていた。
このGHQの意向を察知した日本政府は10月9日に成立した幣原内閣が翌10日の初閣議で、婦人参政権と男子の年齢引き下げを全員一致で決定する。

婦人運動家の原田清子は、当時を次のように回想する。
「交通事情の悪いなかを全国から200人近い人が参加しました。
熱気あふれる大会でした。
当時は人口は女の方が多かったのです。
参政権を獲得したからといって女はダメだといわれないようにしなくては・・・婦人の自覚と政治意識を高め、婦人の政治講座を開いたり講演会を次々開催しました」。

昭和21年、この時の総選挙で婦人投票率は66.9%(男子78.53%)
39人の婦人議員が当選した。
初めて投票する喜びを婦人たちは次のように語っている。
「私は非常に感激した。モンペ姿でソロゾロと出かけた」
「一人前になれた嬉しさを感じた。なにしろ一票入れたら全部よくなるという嬉しさを感じた」

ほぼ40年の長きにわたって、連綿と続けられた婦人参政権の獲得運動は、
戦後ようやく実を結んだ。
この背景には、日本の民主化を推進しようとするGHQの強力な指示があった。
戦争の最大の被害者は女性であるとの観点から、婦人への参政権賦与は日本の非軍事化と民主化のために大きな役割をはたすと考えたからである。



・・・・



「昭和時代 敗戦・占領・独立」  読売新聞  中央公論社 2015年発行
昭和20年10月11日、閣議で婦人の参政権付与決定

終戦直後、日本の女性たちに「解放」の追い風が吹いた。
参政権が認められ、男女平等が高らかにうたわれた。

昭和20年10月11日、GHQは日本政府に「五大改革指令」を出した。
その筆頭が「選挙権付与による婦人の解放」だった。

敗戦後、市川房江や山高しげりら婦人参政権の活動家の動きは早かった。
8月25日に「戦後対策婦人委員会」を組織し、
9月に入ると日本政府とGHQの双方に、女性参政権の容認などを要請した。
10月11日の閣議で、選挙権と被選挙権の年齢引き下げげ、婦人の参政権付与を早くも決定した。
 
こうして選挙法改正が日本側の主導で進められた背景には、
戦前からの参政権運動の蓄積だけでなく、戦時中、
多数の女性が職場に進出、地域でも積極的に活動したことが挙げられる。

ただ男尊女卑の風潮のなお強い中、参政権によって「夫唱婦随の醇風美俗が壊れる」といった批判も相次いだ。

改正選挙法は昭和20年12月に公布され、翌昭和21年4月10日、戦後初の衆院選挙が実施された。
文部省は、「新しい日本は何で築く 男の命ばかりでなく女の命で築く」と記したポスターを貼り出した。
選挙権を初めて行使した女性の投票率は、政府が予想した40~50%を超え、67%を記録。市川らの戦前からの努力がここに結実した。





戦後初の総選挙

「岡山市百年史下巻」 岡山市 ぎょうせい 平成3年発行


女性が投票所に行く

25歳以上の男子(戦前の普通選挙) 1241万人 (20.0%)
3688万人 (48.7%) 20歳以上の男女(戦後の普通選挙)
「満18歳以上」に引き下げられました、現在の日本では、満18歳以上の有権者は全人口の80%以上。

皮肉なことに、国民は敗戦を通じてようやく平等な選挙権を手に入れることになったのです。普通選挙の実現により、全人口の約48%が有権者となりました。


昭和21年4月10日には衆議院議員選挙、大選挙区定員10名、2名連記制
昭和22年4月20日には第一回参議院議員選挙、
昭和22年4月25日、戦後2回目の衆議院議員選挙、大正以来の中選挙区定員5人の二区。

戦後初の公選第一回の地方選挙は
昭和22年4月5日、知事、市町村長、
4月30日には県議会議員、市町村会議員が一斉に行われた。


敗戦の年の12月17日選挙法が改正され、婦人参政権が実現することになった。
ようやく完全な普通選挙制が実現する運びとなった。




「マッカーサーの日本」 週刊新潮編集部 新潮文庫  昭和58年発行

「日本の婦人に参政権を与えよう。
女性の参政権が、日本の軍国主義をやっつける力になるだろう」

マニラから厚木に向かう専用機の中で側近に漏らした
(昭和20年8月30日)マッカーサーの言葉は有名である。

昭和20年12月に婦人参政権が確立され、
昭和21年4月10日の初の総選挙で千三百七十万人の婦人が初めて投票権を使い、
婦人候補三十九人が当選した。

また、昭和21年1月23日公娼制度を禁止している。
これらはいづれも新憲法以前に、”緊急命令”として発したものである。






選挙の当選者
(Wikipedia)

第22回衆議院議員総選挙
1946年(昭和21年)4月10日

内閣 幣原内閣
解散名 終戦解散・GHQ解散
岡山県 全県
西山冨佐太・犬養健・近藤鶴代・星島二郎・黒田寿男・若林義孝・中原健次・滝澤修作・ 井上卓一・逢沢寛

・・・
第22回衆議院議員総選挙
1947年(昭和22年)4月25日

内閣 第1次吉田内閣
解散名・新憲法解散
岡山県 1区
黒田寿男・大村清一・小枝一雄・西山冨佐太・榊原亨
岡山県2区
星島二郎・中原健次・近藤鶴代・重井鹿治・多賀安郎





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終戦・倒される忠魂碑

2021年08月27日 | 昭和21年~25年
終戦後、倒されたり、撤去したり、隠されたりしたもの。
GHQが来る前に処理した・・・文書焼却
GHQが来て、思い込みで処理したものと、指示により処理したものがあるが、区分はよくわからない。
学校の大楠公や和気清麻呂や二宮金次郎像は、天皇との関係がない金次郎だけ残った。


大井地区忠魂碑(笠岡市立大井小)



昭和4年に在郷軍人会の手により大井小学校校庭に建立。
終戦により一時小平井光明坊地に移していたが、再び小学校に復元している。
「遺族三十年の軌跡」岡山県遺族連盟発刊





「広島県の歴史」 岸田裕史著 山川出版社 2012年発行

記念碑等
終戦を契機に、戦没者への公葬は姿を消した。
忠魂碑などについても、除去や改革の処置がなされた。
たとえば、原村(東広島市)では忠魂碑(昭和16年建立)が倒壊され、
加計町(安芸太田)で戦役記念碑が取り除かれた。
山本村(広島市)では忠魂碑の文字をセメントで塗りつぶし、平和塔として存置した。
広島市皆実町の日清戦争の勝利記念として建立された「凱旋碑」も平和塔に改変されている。




「しらべる戦争遺跡の事典」 柏書房 2002年発行

忠魂碑

忠魂碑は、台石や基壇の上に大きな板状の石碑を据え、表面に
「忠魂碑」「表忠碑」「彰忠碑」「誠忠碑」「「昭忠碑」などと大書し、
そのわきに題号揮毫者名を刻み、
裏面に多数の戦没者の姓名・官位・死亡年月日・造立年月日、造立者名・造立意趣などを刻むものが多い。

第号揮毫者は乃木希典をはじめとする元帥や大将など軍の最高幹部、
造立者は尚武会や在郷軍人会が多く、
軍部とそれを支える在地組織が造立に深く関わったことが知られる。

高さは2mを越えるものが主体で、5mに達するような巨大なものも稀ではない。
下から仰ぎ見るような位置にあることが特色である。
威圧感を持つ石碑が希求されていたことを如実に示す。
造立場所は、
社寺の境内のほか役場や学校など、公共施設の付近が多く、公共性が付与されていることに気づかされる。
1930年代になると、学校教育の中で忠魂碑への参拝などが行われ、忠魂碑が軍国主義教育の教材に供されるようになる。

1946年にGHQの指令によって軍国主義的性格を持つものとして撤去されることになり、大部分のものは地中に埋められたが、
1951年のサンフランシスコ平和条約締結後に再度掘り出され、再建されたものが多数みられる。
しかも、戦後新たに建設された忠魂碑の存在も少なからず知られており、
忠魂碑が持つ複雑な性格をうかがうことができる。

慰霊碑であり、宗教的・政治的・軍事的な機能を併せ持つ施設であるところに、忠魂碑の特色があるといえる。

・・・


忠霊塔

忠霊塔は昭和14年に設立された大日本忠霊顕彰会が、一市町村一基の忠霊塔を全国に建設する運動を展開するなかで広まった戦没者慰霊施設である。
形式は、規模の大小にかかわらず箱形の基壇上に角柱状の塔身を載せ、塔身に「忠霊塔」の文字を表したものである。
基壇の内部には、納骨施設を持ち、遺骨や戦死者名簿などを安置する。
忠魂碑と墓碑の性格を併せ持った。
忠霊塔に慰霊祭は地元の慣習に任されたので、仏教・神社の双方から反発を招いた。

・・・

招魂社
 
戦没者の霊魂を祀る神社である招魂社は、1869(明治2)年に東京招魂社が創建され、
鳥羽伏見戦争以来の政府軍戦没者の神霊を祀ったのを契機に、管理主体である藩が廃され荒廃していた地方の招魂場を整備する動きが現れたのを享けて、
1874年に内務省が各地の招魂社を官費で維持していく方針を打ち出したことによって制度的に確定した。
1934(昭和9)年内務省は招魂社を一府県一社とする方針を各府県に示し、1939年に制度化し、さらに招魂社を護国神社と改称することを命じ、護国神社制度が発足をみた。
大日本忠霊顕彰会が設置され、忠霊塔の建設が本格化するのもこの年のことであり、日中戦争の膠着状態のなかで国民を戦争協力に掻き立てるべく戦没者慰霊施設の整備が画策されたものと考えられる。






「昭和 第7巻」  講談社 平成2年発行

銅像追放
はじめに広瀬中佐
GHQの指令に基づき、東京都の忠魂碑銅像等撤去審査委員会は、
都内20基の記念碑・銅像の適否を21年12月から検討しており、その結果が5月に発表された。
残置が決まったのは,宮城前の楠公像や上野公園の西郷隆盛像など11基。
7月21日、都建設局は撤去作業を、神田万世橋の「軍神」広瀬武夫中佐の銅像から始めた。







福山市多治米町誌」

備後護国神社鳥居

新築中の護国神社は昭和20年8月8日の空襲で焼けた。
戦後「このままだと取り壊されるおそれがある」と市当局者は近くの地中に二基とも解体して埋蔵した。
神社跡は福山市民球場ができ、次いで昭和43年市立体育館が建設された。

その後、備後護国神社として昭和33年福山城背の阿部神社を改築し合祀された。
一基は昭和36年に発掘し現備後護国神社参道に再建された。
もう一基の方は埋めた場所が分からなくなり「幻の鳥居」と呼ばれていたが体育館駐車場下にあると分かり、昭和55年秋の大祭に間に合うよう再建された。



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