しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

南京虐殺(小説より)

2021年08月01日 | 昭和11年~15年
城山三郎「落日燃ゆ」新潮社より転記


「落日燃ゆ」

朝香宮がが司令官として着任され、まだ十日と経たない中での出来事だった。

南京に突入した日本軍は、数万の捕虜の処置に困って大量虐殺をはじめたのをきっかけに、殺人・強姦・略奪・暴行・放火などの残虐行為をくりひろげた。
市内はほとんど廃墟同然で、逃げ遅れた約二十万人の市民が外国人居住区に避難。
ここでは、約三十人のアメリカ人やドイツ人が安全地帯国際委員会を組織していた。
残虐行為はこの地区の内外で 起こり、これを日夜目撃した外国人たちは、その詳報を記録し、日本側出先に手渡すとともに、各国に公表。
日本の新聞には出なかったが、世界中で関心を集めていた。

現地から詳細な報告が届くと、広田はまた杉山陸相に抗議し、陸軍省事務局に強い抗議を繰り返した。
朝香宮は外務省に広田を訪ね、広田に詫びた。
現地南京では、ようやく軍規の立て直しが行われ、軍法会議も行われた。

主力部隊は中国の奥地めがけて進発した。
戦局は拡大されて行く。行く先々に日の丸がひらめき、「万歳!」の声が上がる。
それは和平をいよいよ遠のかせる声でもあった。




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日中戦争と四十一連隊・・・福山市

2021年08月01日 | 昭和11年~15年
「福山市史・下」 福山市史編纂会編 昭和58年発行 より転記


昭和12年(1937)7月7日
いわゆる日中戦争がはじまった。
四十一連隊も応召することになり、7月31日夕刻福山駅から出発した。
第五師団の先頭部隊で、朝鮮を経由して8月11日天津に入った。
連隊長山田鉄二郎大佐の手記「支那事変の思い出」をもとにふれよう。

山田部隊3.000人は8月長城戦、9月涞源城戦(戦死120人)、11月杭州線(戦死4人)などをへて
12月上旬から南京総攻撃に参加して中国軍に大損害(遺棄死1.500人 武器など多数押収)を与え(死者16人)、13日に南京を占領した。
いわゆる大虐殺事件はこのとき起こった。

南京で新年を迎え、「慰問の日本酒に半年振りの労を慰して居た」

昭和13年1月3日青島攻略の命を受け、4月まで滞在。
4月7日には徐州会戦に向かった。
5月19日徐州を占領した。死傷者750人、馬145頭失う。
7月山田は少将に昇進し、後任は納見大佐が来任した。
こののち日中戦争は泥沼化し、食糧難、武器不足、病気、ゲリラに悩まされながら17年にマレー作戦に投入された。



(南京虐殺は国際ニュースだったが、日本では終戦まで報道されなかった。国内では”勝った!”と熱狂していた)


福山では四十一連隊勝利の報がもたらされる度に、小中学生を中心とする旗行列が盛大に行われた。
夜に入ると大人たちによって提灯行列が行われた。
この頃から戦死者の扱いに大きな変化が見られたことが注目される。
すなわち、戦死者は「男子の本懐、聖戦の死」「護国の人柱」「壮烈・名誉の戦死」などと言われ、
しかも遺族は「本人も満足でせう」「家門の名誉」などと語らされるようになった。




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南京虐殺⑤(関連か?)--従軍慰安婦

2021年08月01日 | 昭和11年~15年
慰安婦の創設時期が、南京虐殺と重なる。直接のきっかけとはいえなくとも、大きな要因になったことと思われる。

・・・・・

「昭和史4・大陸の戦火」平成7年 研秀出版 より転記。

従軍慰安婦  

 軍が”従軍慰安婦”制度の創設を考えたのは、日中戦争勃発後まもない昭和12年秋のことで、
将兵が現地で暴行、強姦、略奪を重ねるのを押さえ、また将兵に性病が蔓延して兵力の低下をきたすのを防ぐため、軍首脳は軍の厳しい管理下に”慰安所”を設けることとした。

 軍の命を受けた御用商人が北九州各地で女性を募集してまわった。
「前渡金1.000円、全額返済し終わったら自由」という、
内地の売春婦にくらべ、はるかに魅力的な条件であった。
約120人が採用され、上海に渡って第11軍に”配属”された。
その後、各地に軍直営の慰安所がつくられ、内地、朝鮮から慰安婦が集められた。
また、占領下の中国農村から女性を”現地徴用”した部隊もいた。

 こうして集められた女性たちは”天皇の御下賜品(ごかしひん)”として、将兵の慰み物になった。
彼女たちが一日に相手をする将兵の数は数十人、多いときは100人にものぼった。
 従軍慰安婦の数は定かではないが、10万人とも10数万人ともいわれる。




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南京虐殺④  --研秀出版 

2021年08月01日 | 昭和11年~15年
"南京虐殺"の④は研秀出版 より転記する。
・・・・・・・・・・・・・・・

「昭和史4・大陸の戦火」平成7年 研秀出版 

戦勝にわく国内

南京陥落の報に日本の津々浦々は戦勝気分の美酒に酔った。
浮かれたのである。
陥落発表は12月13日だった。
しかし国民は待ちきれなかった。
新聞は12月に入ると祝勝気分をあおりたてた。
・・・・全国民は今か今かと「陥落」の二字に集中している。いつでも旗行列ができるよう待機。・・・神田や銀座は「祝戦勝」の装飾文字も朝日に映えて美しい・・・と伝え、
待ちきれなくなった帝都市民は陥落を決めてしまい、七日夜は銀座も浅草も興奮のるつぼと化し、ネオンに旗に戦捷一色にぬりつぶされた。
大本営が首都南京攻略を発表したのは13日深夜だったが、それから東京では三日三晩、旗行列や提灯行列が宮城前や、大本営のまわりを埋めた。
地方各都市、村々でも同じだった。
横浜港では、在泊の船舶はすべて満艦飾のイルミネーション、市電は花電車を走らせた。
しかし、南京ではその頃大虐殺の惨劇が進行しつつあった。
そして戦争の行方が、敗戦の暗黒へとつながっていることなど誰一人として夢想だにしなかったのである。


南京大虐殺

昭和12年12月、南京攻略戦にあたった日本軍が、中国人に対して言語に絶する暴行殺戮を行った。
南京陥落皇軍大勝利に、日本全国が沸きかえっているとき、南京では、恐るべき蛮行が、まさに皇軍将兵によって演じられていた。
この事実は当時南京にいた英米ジャーナリストや宣教師たちによって世界中に伝えられていた。
日本国民だけが、東京裁判で明るみにでるまでその事実を知らなかったのである。
 犠牲者の数は、いまだ明らかでないが東京裁判では
”南京占領後、二三日の間に、少なくとも1万2.000人の非戦闘員が殺され、占領後の最初の一か月の間に約2万の強姦事件が発生、
一般人になりすました中国兵掃討に名をかりて、兵役年齢の男子2万が集団で殺され、さらに捕虜3万が降伏して72時間以内に殺され、避難民のうち57.000が日本軍に捕まり、大多数が死亡したり殺されたりした”
とされる。
中国側では30万人とみているようである。
 馬上堂々南京入場式の栄光を背負った中支方面軍司令官松井岩根大将は、東京裁判で、また攻略戦に参加した第6師団長谷川寿夫中将も、南京法廷で、この事件の責任を問われ処刑された。



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南京大虐殺③ 極東軍事裁判

2021年08月01日 | 昭和11年~15年
下記の本から転記する。

「年表 太平洋戦争全史」2005年 編者日置英剛 図書刊行会

極東軍事裁判における南京大虐殺判決

1937年12月初めに、松井の指揮する中支郡派遣軍(中支那方面軍)が南京市に接近すると、百万の住民の半数以上と、国際安全地帯を組織するため残留した少数のものを除いた中立国人の全部とは、この市から避難した。
中国軍は、この市を防衛するために約五万の兵を残して撤退した。

1937年12月12日の夜に、日本軍が南門に殺到するに至って、残留軍五万の大部分は、市の北門と西門から退却した。
中国兵のほとんど全部は、市を撤退するか、武器と軍服を棄てて国際安全地帯に避難したので、1937年12月13日の朝、日本軍が市に入った時には、抵抗は一切なくなっていた。
日本兵は市内に群がってさまざまな残虐行為を犯した。

目撃者の一人によると、
日本兵は南京市を荒らし汚すために、まるで野蛮人の一団のように放たれたのであった。
日本軍の兵隊は個々に、またはニ、三人の小さい集団で、全市内を歩き回り、殺人、強姦、略奪、放火を行った。
そこにはなんの規律もなかった。
多くの兵は酔っていた。中国人の男女子供を無差別に殺しながら街を歩き回り、通りには死体が散乱した。

ほかの一人の証言によると
動くところを見られたものは誰でも射殺された。
日本側が市を占領した最初の二、三日の間に、少なくとも一万二千人の非戦闘員である中国人が死亡した。
多くの強姦事件があった。
幼い少女や老女でさえも強姦された。
多数の婦女は、強姦された後に殺され、その死体は切断された。
最初の一か月の間に約二万件の強姦事件が発生した。

日本兵は欲しいものは何でも、住民から奪った。
兵が道路で一般人を呼び止め、身体を調べ、価値のあるものが何も見つからないと、これを射殺することが目撃された。
住宅や商店が侵入され、略奪された。物資はトラックで運び去られ、これらに放火した。

南京とその周辺で殺害された一般人の総数は、二十万以上であったことが示されている。
これらの見積もりが誇張でないことは死骸が、十五万五千に及んだ事実によって証明されている。
これらの数字は、日本軍によって、死体を焼き棄てられたり、揚子江に投げこまれたりした人々を計算に入れていないのである。

1948年11月11日判決【極東軍事裁判記録】


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南京大虐殺② 国内の報道

2021年08月01日 | 昭和11年~15年
南京虐殺に関して一般紙は報じていないと思っていたが、
中外商業は記事にしている。
当時の中外商業は東洋経済と並び冷静さを保っていたようだ。


下記の本から転記する。

「年表 太平洋戦争全史」2005年 編者日置英剛 図書刊行会

南京、市民避難で「死の町」となる(12・11・24)

ニューヨーク22発
南京からの報道によれば、抗日の牙城南京が日本軍の攻略するところとなるはもはや時日の問題と見られるに至り、政府各部は奥地に撤収、
一般市民も9割5分まで引揚てしまったので、流石に殷盛を誇った首都南京も「死の町」化すに至ったと報ぜられる。【中外商業】



・・・・・


岩波現代新書「歴史問題ハンドブック」(2015年発行)より転記


南京事件

南京事件は、当時南京に残留していた外国人記者や外国大使館員、さらには救助にあたった南京安全区国際委員会のメンバーたちによって海外に報道され、
国際世論は日本軍の残虐行為を厳しく批判した。
しかし、日本では厳しい報道管理と言論統制化におかれ、南京事件の報道はされず、
南京作戦に参加した兵士の手紙や日記帳も厳しく検閲された。
南京事件を報道した海外の新聞や雑誌は発禁処分、削除などされ、日本国民にはいっさい知られないようにした。


日本において南京事件について最初に書かれたのは洞富雄「南京事件」(新人物往来社・1972年)である。
洞は東京裁判資料、南京安全区国際委員会の記録文書などを使い、敗残兵狩り、無差別虐殺、婦女暴行、略奪・放火などの実態を記述した。

朝日新聞記者の本多勝一が、日本人記者として戦後初めて、南京事件の被害者から聞き取りをおこない、
その被害証言を収録した「中国の旅」朝日新聞社・1972年は日本人に衝撃を与え、南京事件の認識に大きな影響を及ぼした。



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南京虐殺事件①

2021年08月01日 | 昭和11年~15年
岩波現代新書「歴史問題ハンドブック」(2015年発行)より転記



日中全面戦争に移行した日本は11月20日宮中に大本営を設置、南京攻略を正式に下令した。以後総兵力16万とも20万ともいわれた中支邦方面軍の大軍が南京の中国軍に対する包囲殲滅作戦を展開した。
当時、城壁の内部と周辺からなる市部人口100余万、近郊農村と県域からなる県部人口130万をかかえた大都市であり、南京攻略戦の戦域には100万を超える住民・難民が残留していた。


南京事件の第一段階は、12月4日前後より始まる。
日本軍部隊は、南京近郊の農村地域において、農作物や食糧を略奪、家畜を殺して食べ、宿営した農家を移動する際放火した。
村の青年男子は殺害され、女性は強姦・輪姦されたあげく日本軍憲兵に通告されないよう、証拠隠滅のために殺害された。
農民は拉致、連行して使役した。

第二段階は、南京城内と城壁周辺区においておこなわれた。
12月12日深夜に南京は陥落し、13日から日本軍は「残敵掃討」を開始した。
中国軍兵士や市民はパニックに陥り、長江を渡って逃げようと埠頭のある下関へ殺到したが、日本軍は次々に殺害した。折から長江を遡上してきた海軍軍艦が、渡江して逃げようとする小舟・筏・戸板などで川面に漂う兵や市民を機銃で殺害した。
南にある中華門外でも投降勧告にしたがって収容された中国兵が殺害された。

第三段階は12月14日から16日にかけておこなわれた。
日本軍は17日に入城式をおこなうことを決定、それまでに残った中国軍を徹底的に掃討しようと、市街地を虱潰しに探しながら殺害していった。多くの成年男子が軍服から民間服に着替えた「便衣兵」とみなされて殺害された。
欧米人が管理の「国際安全区」にも入り、兵士か民間人かを区別しないまま連行し殺害した。
日本軍は「捕虜はつくらない」という上部の命令で、捕虜・投降兵・敗残兵を数千、数百の集団で次々に殺害し、死体を長江に流した。
城内の大掃討作戦においては「花姑娘探し」をおこない、民家に隠れていた女性を探しては強姦・輪姦した。

第四段階は、入城式以後、長期にわたった軍事占領期間におこなわれた。
市民にまぎれこんでいる中国兵を摘発するため「平民分離」と称して市民登録をおこない、元兵士の疑いをかけた成年男子を連行して下関などで殺害した。
女性を拉致して部隊へ連行し、炊事・洗濯に使役しながら強姦・輪姦するケースも頻発した。
長期駐留した日本兵による商店・倉庫・民家からの食糧や商品さらに財宝などの略奪が横行、略奪後に証拠隠滅の放火も多発した。
1938年2月14日が南京作戦の終了にあたるが、南京での残虐事件はその後もつづいた。
終焉は3月28日中華民国維新政府の成立時と考えることが出来る。




岩波現代新書「歴史問題ハンドブック」(2015年発行)より転記

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南京事件は、当時南京に残留していた外国人記者や外国大使館員、さらには救助にあたった南京安全区国際委員会のメンバーたちによって海外に報道され、国際世論は日本軍の残虐行為を厳しく批判した。
しかし、日本では厳しい報道管理と言論統制化におかれ、南京事件の報道はされず、
南京作戦に参加した兵士の手紙や日記帳も厳しく検閲された。
南京事件を報道した海外の新聞や雑誌は発禁処分、削除などされ、日本国民にはいっさい知られないようにした。


日本において南京事件について最初に書かれたのは洞富雄「南京事件」(新人物往来社・1972年)である。
洞は東京裁判資料、南京安全区国際委員会の記録文書などを使い、敗残兵狩り、無差別虐殺、婦女暴行、略奪・放火などの実態を記述した。

朝日新聞記者の本多勝一が、日本人記者として戦後初めて、南京事件の被害者から聞き取りをおこない、その被害証言を収録した「中国の旅」朝日新聞社・1972年は日本人に衝撃を与え、南京事件の認識に大きな影響を及ぼした。
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鰯豊漁

2021年08月01日 | 昭和11年~15年
茂平の漁業で大漁とか、変わった魚が獲れたことはなかったか?
という質問を父にしたところ、即座に鰯が大量に網に掛かった話をしたことがある。
父が話していた鰯の豊漁は昭和11年5月のことだったようだ。

浜から家に持って帰るのでなく、直接畑に持込み肥料にしたようで下記の記事と同じ時であったと思える。


昭和52年東谷公民館新築記念「ふる里のあゆみ」(福山市大門町)

昭和11年5月7日より一週間、この地方一帯に渉り鰯豊漁あり、最初は食料に後肥料となす。
最低取引十貫匁50銭、漁業者も売り場に困る有様なり各戸に於いて肥料とせし者多し。

昭和12年8月27日
午後11時本村(大津野村)に70名の充員招集令状来る。

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昭和14年の旱魃・倉敷市

2021年08月01日 | 昭和11年~15年
昭和14年の大干ばつはよく知られているが、
現在の倉敷市域では、上流優先で豊作の水田があったようだ。




(「岡山県の昭和史」山陽新聞社 昭和61年発行)

この写真は昭和39年のニュースで、毎日のように笠岡に各市町村から”友情の水”がタンク車で送られてきた。
東京五輪の年、笠岡では飲み水に事欠いた。
しかし、それは笠岡市笠岡限定で、かつ井戸水などが無い家庭に限られた。
この年の夏は暑かったような記憶はあるが、家の稲作や果物・野菜に影響はなかったように思う。




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「新修倉敷市史 第6巻」 倉敷市 平成16年発行

歴史的大干ばつ


昭和14年の大干ばつ
岡山観測所が記録した6~8月の降雨量は、過去一世紀平均の23%に足りなかったのである。

初めは麦やイ草の収穫、製塩などの関係者を喜ばす晴天続きだったが、田植え時期に入っても高梁川の流量は減り続け、用水路の末流にある水田には用水が届かず、低湿な地域でさえ川底が乾く状態になった。
このため玉島町では高瀬通しを切り開いて阿賀崎・柏島方面へ送水したのをはじめ、水車を連ねたり発動機とポンプを動員して川底の溜り水や地下水を汲み上げて灌漑する風景が各地で展開された。
粒江村や茶屋町では古い石油缶を背負って稲に散水しながら歩く給水器も登場した。
長尾町では飲料水さえ欠乏した。
柳井原貯水池も水も貯水は3日間で尽きた。
高梁川水量は減るばかり、8月14日平年の5.47%になった。

この年の干害は全県的だったが、特に岡山県西部で、
浅口・小田・後月の収穫量は前年の半分以下だった。
東西用水は”上流優先・古田優先”で、倉敷100.3%と前年よりも方策の地域もあった。


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昭和14年の旱魃・野々浜の森池

2021年08月01日 | 昭和11年~15年
その年、茂平では八幡様で雨乞いの祈祷して火を焚いたそうだ。
山口では、ため池の工事が始まった。「奥山池」


(奥山池は昭和18年に完成した。 笠岡市山口 2020.4.11)

昭和14年の旱魃は備中日照りでも特筆されるほどの被害であったが、この年を含む前後年、父は兵役中であり
母はまだ結婚していなかった。


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「ふる里のあゆみ」東谷町内会公民館 昭和52年発行

大門町東谷
昭和12年8月27日午後11時本村に70名の充員召集令状来る。
昭和14年村内の旱魃
5月田植えの際はかなり池の貯水もあり、田植えも完了せるに、其の後天候引き続き旱天にて遂に出穂期にも降雨なく、肥料は殆ど全部に渉り施肥ずみなりしも出穂せず。
野々浜、河口池掛及び其の他少々の収穫を得たり。
全村にて91町歩の免租地を出せり。
故に全村にて食料を一か年完全に食する家僅かに数戸なり。
対策として土木事業即ち、池の修繕にて就労す。
男一人 1円20銭~1円30銭
女一人 80銭~90銭
野々浜森池は此の年新たに築造されしと聞く。


・・・・

「野々浜むかし語り」野々浜公民館 1991年発行

森池
昭和14年頃から工事が始まった。
毎日50人位の地元の人が、朝の8時から晩の5時ごろまで働く。
補助金か何かあったのだろう、成人男子で1日1円20銭の手間賃が出た。
婦人や中学生はそれより安かった。
皆人力で、つるはしやモッコ、トロッコなどで作業した。
工事の大半は築堤に費やされ、4反ほどもある堤防の敷地の上に土を運んではつき固め、また土を積む、という作業を繰す。
地固めには松の胴切りに柄を二本付けたのをもって、土をつき固める。
堤防の核として、水の漏れない粘土質の土を使った「千切り(ちぎり)」を入れて築いてある。
森池が完成したのは昭和16年だったと思う。




ここで子供らはよく泳いだ。
わしは子供の頃、6尺ふんどしを垂らしたのを着けて、海の樋門の欄干から外海に飛び込みをしたりしてえっと泳いだ後、タオルをもって森池に入り、立泳ぎをしながら洗って塩を落としたものだ。




「福山市多治米町誌」 多治米公民館  平成5年発行

連隊41連隊
昭和14年の旱魃


41聯隊でも節水を実行。
1日1食はパン食とし、洗濯、水浴のため芦田川上流大渡瀬橋まで度々行軍をしたという。

帝国染料も操業中止となり、井戸を掘り、ポンプ増設した。
新涯のものは、一合の米も取れずに全部買って食べねばならなかった。




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