しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

徐州の女

2021年02月16日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)
前線で撃ち合う兵は、生死が紙一重で極度の緊張と半狂の状態となるが
駐屯地における生活は、その真逆になる。
基地で1時間程の歩行訓練で、1日の業務は解放される。
となると、まだ若い20~25才の兵士が行く場所といえば、ほぼ限られる。

・・・・・・・・・


「憲兵よもやま物語」 山内一生著 光人社 1988年発行







徐州の女

慰安所は東門に近い域内で、大通りから坂を下ったところにある。
同じように区割りした小さな店がつづいているが、
ほとんどは韓国人の店だった。
ここは下士官兵専用で、将校は常磐街へ行くのであろう。
花子の店と書いてあったように思う。
やはり韓国の女性だった。
一軒一間の狭い店だが、中はやはり、なまめかしい女性の雰囲気がある。
しかし,当主の花子はいたって快活の感じの女だ。
「私のポンユー。かんげいするよ」とまず頬にキスした。
厚くて熱い唇であった。
そして茶ダンスから、出るわ出るわ。
あめ玉、せんべい、かりんとう、塩豆、ピーナッツ、甘なっとう。
「まだまだあるヨ」

・・・・・

慰安所界隈は兵隊の姿であふれている。
こうゆう場所では、
敬礼するのも答礼するのも、目が合うと、なにかテレくさい。

・・・・・・

それにしても、兵隊には、酒と食と性しか楽しみがないのだろうか。








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矢掛町商店街の電信柱

2021年02月16日 | 無くなったもの
場所・岡山県小田郡矢掛町矢掛  
無くなった日時・2021年2月
撮影日・2020年2月16日   「第32回矢掛本陣マラソン全国大会」


2020年、矢掛町商店街は”宿場町”の面影を残していることから”重伝建”に認定された。


本陣・石井家の前。








宿場町のほぼ中央、旅館・矢掛屋の前ふきん。







脇本陣・高草家の前。





重伝建になったことや、観光のより推進のため、矢掛町は無電柱化を去年の暮れから始め、
今年の2月には電信柱はなくなった。


併せて「道の駅」を新設工事中。5月頃には完成しそうだ。



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陸軍桟橋(宇品港)

2021年02月16日 | 「戦争遺跡」を訪ねる

場所・広島県広島市南区宇品海岸
訪問日・2016年11月2日   
 

宇品港。







港にある凱旋記念碑。

ここから外地へ出兵し、凱旋帰国をする。

「宇品凱旋館建設記念碑」。








宇品線。
明治から終戦まで、ほぼ軍用の路線。戦後は旅客、その後廃線した。








「陸軍桟橋」
ここから輸送船に乗って外地へ出発。



父も昭和13年、宇品から出兵し、14年末に宇品へ帰国した。
父の足跡も残る桟橋。

 

 

陸軍桟橋記念歌碑
1998年(平成十年)十二月

石積の突堤が沖に向かっていた。
広島市民はそれを陸軍桟橋と呼んだ。
そうして日清戦争から太平洋戦争にかけて、
兵らはその突堤から沖に待つ輸送船に乗り移り、
遠い大陸と島の戦場に送り出されるのが例となっていた。
彼らの多くが戦死し、再びこの突堤には戻らなかった。
わたしたちは平和のために、
ここに陸軍桟橋があったことの記憶を受け継がなければならない。
・・・


「広島県の歴史」 岸田裕史著 山川出版社 2012年発行

昭和6年(1931)9月、満州事変がおこり、以後15年にわたる戦争の発端となった。
11月広島の宇品は増援軍の乗船場として利用され、
12月には第5師団の一部が天津・北平(北京)方面の警備に出動した。
この時、第41聯隊(福山)は、市民が提灯行列で門出を祝った。宇品港出発に際しては、
1.000隻の船が歓送し、宇品付近には13万人の人出がみられた。
こうした、宇品港・広島駅での歓送迎は、事変後から翌年10月まで462回にも達している。






暁橋(めがね橋)。
橋の名称は陸軍暁部隊が建設したことから。





そらも みなとも よははれて
つきに かずます ふねのかげ
はしけの かよい にぎやかに
よせくる なみも こがねなり

童謡「みなと」は、めがね橋から見た宇品を歌っているそうだ。
橋は戦後、観光地の元宇品と本土を繋いでいる。



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アレイからすこじま

2021年02月15日 | 「戦争遺跡」を訪ねる
場所・広島県呉市昭和通り 「アレイからすこじま」
訪問日・2012年2月9日  


ここは呉軍港にある公園、「アレイからすこじま」。



魚雷積載用クレーン






Wikipedia
アレイからすこじまは、広島県呉市にある公園。

概要
海上自衛隊第1潜水隊群司令部のすぐそばにあり、日本で唯一間近で潜水艦を見ることができる公園である。
戦前この地は呉海軍工廠本部と兵器製造所前の岸壁で、切石積護岸は1895年(明治28年)に作られたもの。
戦後は1956年(昭和31年)まで呉市に進駐したイギリス連邦占領軍が用いていた。
呉市が公園として整備したのは1985年(昭和60年)のことになる。
アレイの名の通り護岸沿いに整備された細長い公園で、煉瓦色のインターロッキングブロックが敷き詰められている。
潜水艦見学用に突き出したデッキもある。
また園内には、魚雷積載用クレーン、係船柱など旧海軍が用いていたものをモニュメントして置かれている。
旧呉鎮守府兵器部護岸および関連施設」として2009年土木学会選奨土木遺産選定。





「アレイからすこじま」は軍事遺産と都市公園を兼ねる公園。













海の反対側道路向かいが「昭和町れんが倉庫群」は、
旧呉海軍工廠電気部の建造物で、明治30年代(1897年~)に作られたものである。
イギリス産のレンガ、基礎には国会議事堂と同じ倉橋島産の御影石が使われた建物もある。
呉空襲によって半壊したが、戦後民間の手によって補修され、ダイクレ、呉貿倉庫運輸などの民間会社が工場や倉庫として使用している。
2018年9月には、倉庫の1つを利用して観光客相手の商店がオープンしている。






もっとも呉らしい場所ともいえる「アレイからすこじま」だ。



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歩兵第34連隊跡(駿府城)

2021年02月15日 | 「戦争遺跡」を訪ねる
場所・静岡県静岡市葵区  駿府城公園
訪問日・2014.10.8


静岡市の駿府城には、陸軍歩兵34聯隊が置かれていた。







明治30年、聯隊設置
明治37年、日露戦争に従軍
大正3年、青島の戦いに従軍
昭和12年、9月、上海での戦いに参加、12月、南京攻略戦に参加
昭和13年、徐州会戦などに参加
昭和14年、襄東会戦に参加
昭和16年、第一次長沙作戦などに参加
昭和18年、大別山作戦に参加
昭和19年、湘桂作戦に参加
昭和20年5月、湘桂反転作戦を開始
Wikipedia



最も有名なのは、日露戦争の遼陽会戦での「橘周太第1大隊長」が戦死。
後に、講談社の絵本で”軍神橘中佐”と有名になった。





城内にある軍の遺構は少ない。
これは「天守台跡」で、陸軍が邪魔なので天守台を壊した遺構。






これは「やすらぎの塔」、



将兵の塔でなく、学徒動員など、”銃後”の犠牲者を弔う塔。
じつは、これは台座のみで、この上に二人の銅像があった。10年前の地震で倒壊しままだそうだ。

再建には、市民のさまざまな意見があり今に至っているようだ。



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陸軍第十師団跡(姫路城)

2021年02月14日 | 「戦争遺跡」を訪ねる
場所・姫路市本町68 姫路城   「姫路市立美術館」ほか
訪問日・2018年4月3日


姫路城が今に残ったのは、運が良いとしか言えない。

①江戸時代から地震・雷・火事に遭わなかった。
②それに加えて、昭和の戦災から危機一髪的に免れたこと、これは奇跡的。

山陽道には姫路城、岡山城、福山城、広島城と日本10名城に値する天守閣が、明治維新後も聳えていたが
昭和20年6月・8月に空襲で倒壊や炎上してしまった。

姫路城は天守閣のある本丸が、陸軍第10師団に取り囲まれていた。



三の丸御殿。
戦後は、「三の丸広場」。
ここは、「歩兵第十聯隊跡」だった。





歩兵10聯隊は岡山に移動して、岡山の郷土聯隊となった。







「大手前公園」や「イーグレ姫路」や「武家屋敷」は練兵場があった場所。

「姫路城南陸軍練兵場」





練兵場の西側、現在白鷺小学校や白鷺中学校などがある場所は
「歩兵39聯隊」があった。






内堀。

左・三の丸、右・東曲輪(出丸)。
左・歩兵10聯隊、右・10師団や倉庫。

現在は、
左・動物園、右・緑地。









東側の「外曲輪」。

「第十師團兵器部 西倉庫」。






内部は、現在「姫路市立美術館」







(Wikipedia)
第10師団

概要
1898年(明治31年)10月に編成された。近畿地方の西部と中国地方の東部にまたがり、時期により変動がある。

日露戦争
第4軍隷下部隊として遼陽会戦・沙河会戦・奉天会戦に参加し、戦闘する。

大陸戦線
1931年(昭和6年)9月に満州事変勃発後、第8混成旅団を編制し12月に出動し吉林省で掃討戦を実施後、1934年(昭和9年)3月に帰国した。

支那事変
1937年(昭和12年)7月支那事変に動員される。台児荘の戦い・徐州会戦・武漢攻略戦に参加し、1939年(昭和14年)10月帰国。
支那事変では徐州会戦はじめ、第10師団は広島の第5師団などと共に奮戦し功績を残す。
1940年(昭和15年)8月から満州に駐留する。

太平洋戦争
太平洋戦争開戦後には関東軍の直属兵団として、佳木斯に駐屯していた。
満州国内にて対ソ戦の訓練や抗日パルチザン掃討等の治安維持活動に従事していた。
1944年(昭和19年)2月から師団の一部が太平洋方面に配置され、同年7月には師団主力も南方派遣が決定された。
フィリピンルソン島に投入、尚武集団としてバレテ峠、サラクサク峠で約半年に渡る持久戦を展開。
衆寡敵せず壊滅状態となり、そのまま終戦を迎える。




お城の外曲輪には、

「第十師團司令部」
「歩兵第八旅團司令部」
「姫路聯隊區司令部」
「第十師團長官舎」
「第十師團長官舎」
「第十師團兵器部 倉庫」
「姫路陸軍病院」
「第十師團兵器部」が建ち並んでいた。
近接して、川西航空機姫路製作所もあった。

その現在を車窓から見る。


(JR播但線より)







現在はお城まで真っすぐ行けるが、終戦までは国道2号線でT字路になっていた。(練兵場に突き当たる)



(JR姫路駅から)




姫路城は姫路市の中心にあり、しかも師団があり、広大なお城兼軍事施設となっていた。
師団も聯隊も離れていた、岡山城や福山城が焼失したことに比すと、まさに奇跡のお城だ。






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古鷹山 (江田島)

2021年02月13日 | 「戦争遺跡」を訪ねる
場所・広島県江田島市江田島町  古鷹山
訪問日・2013年1月15日

古鷹山の山頂には、
江田島健児の「五省」が建つ。


一、至誠しせいに悖もとる勿なかりしか
真心に反する点はなかったか
一、言行げんこうに恥はづる勿なかりしか
言動に恥ずかしい点はなかったか
一、氣力きりょくに缺かくる勿なかりしか
精神力は十分であったか
一、努力どりょくに憾うらみ勿なかりしか
十分に努力したか
一、不精ぶしょうに亘わたる勿なかりしか
最後まで十分に取り組んだか
(Wikipedia)








古鷹山         

「古鷹山(ふるたかやま)」【標高394m】は、江田島市のシンボル的山であり、本校の背後に屏風絵のように聳えている秀峰です。
明治21年の旧海軍兵学校江田島開校以後は、心身鍛錬のために兵学校生徒が登りはじめ、
小説「坂の上の雲」の登場人物で有名な広瀬中佐も兵学校在学中に100回以上登ったという逸話もあります。
現在でも、多くの海上自衛隊員が登っています。

頂上からの眺めは、素晴らしく眼下に広がる江田島湾をはじめ、
大小様々な島々が浮かぶ瀬戸内海の多島美が、登山時の疲れを癒してくれます。
天候に恵まれると、遠くは四国連山まで遠望することができる絶好のロケーションに位置する山です。
約50分で頂上に立つことができます。登るときは、ご安全に。

【360度のパノラマビューは必見です。】

 出典:第1術科学校ホームページ 
https://www.mod.go.jp/msdf/onemss/info/furutaka.html





広島港、元宇品。後方は広島市中心部。







金輪島、マツダ、黄金山方面。








能美島、倉橋島方面。









呉市の休山。IHIや海上自衛隊の艦船。








登山道。
海兵の人たちが登った小用からの登山道。



道は整備されている、山頂手前には鎖場がある。
(切串港からの登山道とは8~9合目付近で合流する)





広島県100名山。
登ってみる価値はある山。


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海軍兵学校(江田島)

2021年02月13日 | 「戦争遺跡」を訪ねる
場所・広島県江田島市 海上自衛隊幹部候補生学校
訪問日・2013年1月16日  

大学進学可能は極限られた貧しい時代、
日本の子供(男)の進学コースの一番人気は、海軍兵学校であっただろう。

終戦により学校は無くなったが、
卒業生は、戦後に産業エリートとして日本の経済復興や成長に大きく寄与した。





明治26年にイギリス製煉瓦を使って建てられた旧生徒館。


旧生徒館は赤煉瓦造り。現在は幹部候補生学校として使われている。



江田島は瀬戸内海に浮かぶ小さな島ではあるが、呉鎮守府と至近の位置にあり、しかも軍艦の出入りできる湾もあり、
都会を離れて自然豊かな環境のもとで教育を行うのに適していたことで選ばれた。
以後、江田島は海軍兵学校の代名詞となった。

兵学校の生徒は、おもに16歳から19歳までの少年。
一般教養とともに外国語や理工系教科に重点がおかれ、軍事学や精神教育、体育訓練など独自の方針に基く教育が行われた。
修業年限は3~4年であった。


旧海軍兵学校時代の多くの建物がそのまま残されており、歴史の証言者としての役割を果たしている。
「続しらべる戦争遺跡の事典」 柏書房 2003年発行








大講堂は、入校式や卒業式に利用されている。
外観には国会議事堂にも使われている倉橋島産の御影石が用いられたと言われている。





大正6年に完成、以後入校式や卒業式が行われている
御影石で造られた大講堂










NHK「坂の上の雲」の場面に欠かせない長い廊下。(もっくん廊下の別名があるそうだ)














特殊潜航艇「甲標的」、
事実上特攻艇で、真珠湾攻撃に出撃して9名戦死。9名は大東亜戦争初の軍神となり、生存した1名は初の捕虜となった。
後にY標的が開発され、人間魚雷”回天”と呼ばれた。










教育参考館は巨大な円柱が特徴。
ギリシャ神殿を思わせる。海軍関係の資料が多数展示されている。






多くの戦死者や特攻兵の手紙も展示しているが、少し美化しているように思った。


・・・・・


構内の見学は毎日3回、
予約不要、無料、元隊員のガイドさん付き。

江田島は今は離島でないので、ドライブでも、船でも行ける。
一度は見学しておくのもいいかな。





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陸軍第九師団跡(金沢市)

2021年02月12日 | 「戦争遺跡」を訪ねる
場所・ 石川県金沢市 「石川県立歴史博物館」 いしかわ赤レンガミュージアム ほか
訪問日・2016.2.2



赤煉瓦の兵器庫が3棟あり、明治末から大正初期の建物。
平成に修復し、現在は国の重文。







歴史博物館 旧金澤陸軍兵器支廠兵器庫
明治42年から大正3年にかけて3棟建てられた煉瓦造の旧師団兵器支廠兵器庫。
創建当初の姿に復元し、現在県立歴史博物館に使われている。
国の重要文化財。

「日本の軍事遺跡」 飯田則夫著 河出書房新社 2004年発行 




歴史博物館 旧金澤陸軍兵器支廠兵器庫








金沢市の中心部にあり、美術館・金沢城・兼六園と一帯になっている。







左・第九師団司令部、右・偕行社。


(この2棟は移転して2020年「国立工芸館」として完成している)

「しらべる戦争遺跡の事典」 柏書房 2002年発行
偕行社
偕行社は、高級将校たちのクラブとして、1909年(明治42)に竣工した。
木造二階建でて、当時は玉撞き(ビリヤード)、囲碁、将棋などの娯楽に使用され、
二階のホールでは宴会や講演会も開催された。










「日本の軍事遺跡」 飯田則夫著 河出書房新社 2004年発行 
第九師団跡
城跡周辺に残る近代建築群


加賀百万石の金沢城、
明治8年歩兵第七聯隊が入り、明治31年には第九師団が置かれた。

城内には師団・聯隊区・憲兵隊の各庁舎や兵舎、被服庫、雪中演習所などの近代建築が建ち並ぶようになった。
藩政時代の三十軒長屋や鶴丸倉庫、石川門は引き継いで使用された。

金沢は空襲を受けなかったため、敗戦後も旧軍遺構はほぼそのまま残った。
戦後は平成7年まで45年間、金沢大学のキャンパスとして使われた。

ちなみに第九師団は日露戦争で旅順・奉天の激戦を経験し、シベリア出兵、上海・支那事変の戦闘にも参加した。


金沢城へ登城する。







旧第六旅団司令部。




金沢城は戦後、師団が廃止され金沢大学の用地になった。
金沢大学は平成7年に移出した。金沢公園。
金沢市は従来から観光都市だったが、さらに古都の魅力が増しているような気がする。




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大刀洗陸軍飛行場跡

2021年02月11日 | 「戦争遺跡」を訪ねる
場所・福岡県朝倉郡筑前町高田・三井郡大刀洗町    筑前町立「大刀洗平和記念館」
訪問日・2016年2月15日  


大刀洗は東洋一の飛行場といわれた時代があったが、戦後は、その多くが民有地化され
飛行場の跡形は点在するにすぎない。


こちらは「第五航空教育隊正門」、
これより前にある「大刀洗平和記念館」に入館する。




記念館の最大の売り物は”ゼロ戦”。









「日本の軍事遺跡」 飯田則夫著 河出書房新社  2004年発行
大刀洗飛行場跡
最大規模を誇った陸軍航空隊の一大拠点

大刀洗飛行場は大正8年(1919)10月に完成、
中国大陸へ向かう飛行隊の中継基地としての役割が期待された。
大正14年には聯隊に昇格した。
以後、数多くの飛行機が立ちより、ここから中国大陸で起こった数々の事変に出撃していった。

昭和に入ると、偵察機に加えて戦闘機も配置され、昭和12年1月には九州関係飛行集団の司令部が設置された。
同年、太刀洗航空機製作所、大刀洗航空支廠発足。
昭和14年、日本最大規模の第五航空教育隊が開隊し、飛行養成所の色彩も濃くなった。

太平洋戦争が進展するにつれ、将兵や軍属のほか、修理・部品製造などに従事した女子挺身隊や動員学徒をあわせて、
1万人あまりが常駐する大所帯となっていった。












大刀洗憲兵分遣隊跡のレンガ塀。











慰霊塔左の白い塔は「慰霊塔」その場所は「時計台跡」、
時計台は陸軍当時は隊員のランドマークだったそうだ。

右は「西日本航空発祥地」、初めは軍でなく、民間の飛行場だった。













陸軍飛行第四連隊の門跡、後に陸軍飛行学校の門になった。
昭和14年には日本最大の航空教育隊である第五航空教育隊が開隊し、帝国陸軍の重要拠点となった。












監的壕、軍用機の射撃訓練の着弾を観測する。







「しらべる戦争遺跡の事典」 柏書房 2002年発行
陸軍大刀洗飛行場跡
点在する東洋一といわれた航空隊の遺構

旧陸軍大刀洗飛行場は、1919年(大正8)、当時の大刀洗村、三輪村、馬田村にまたがって、その広大な平野部の地形と気流の安定していることが着目され、
陸軍飛行第四大隊として開隊した。

当初は偵察が主な任務で、久留米第12師団の歩行部の支援を行った。
1925年には台湾飛行第8聯隊も駐屯し、定員1.500名の日本最大の飛行聯隊基地となった。
1937年の盧溝橋事件を契機に中国大陸への全面侵略の火ぶたを切った日中戦争では97式戦闘機が使用され、皇民化政策の一環として朝鮮人航空兵による初飛行も行われた。
1939年には、第5航空教育隊が開隊し、日本最大の航空教育隊となった。

15年年戦争末期には、全2.571機による菊水作戦と称した沖縄決戦の特別攻撃隊が編成され、
知覧、鹿屋、新田原などを中継基地として、多くの特攻隊員がアメリカ艦隊に体当たりして非業の死を余儀なくされた。

東洋一の航空機の補給基地となった大刀洗飛行隊に対する二度にわたる爆撃は激烈を極めた。
合わせて180機のB29による空爆により兵隊や住民が犠牲になった。
大刀洗飛行隊跡には遺跡・遺構が風化に耐えて散在する。
その数は30か所を超える。






東洋一の飛行場跡は広大で、
大刀洗飛行隊跡には遺跡・遺構が風化に耐えて散在する。
その数は30か所を超える。

30か所を巡るにはバイクの他に事前の十分な下調べが必要だ、そう思うほど広い。



・・・・


甘木線・大刀洗駅(写真・左)
駅舎の右、飛行機が空を飛ぶように展示した民間の記念館。




甘木線は大刀洗飛行場の軍用線として敷設された。
今はカラフルな色の車両が運行されている。




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