しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

陸軍第十師団跡(姫路城)

2021年02月14日 | 「戦争遺跡」を訪ねる
場所・姫路市本町68 姫路城   「姫路市立美術館」ほか
訪問日・2018年4月3日


姫路城が今に残ったのは、運が良いとしか言えない。

①江戸時代から地震・雷・火事に遭わなかった。
②それに加えて、昭和の戦災から危機一髪的に免れたこと、これは奇跡的。

山陽道には姫路城、岡山城、福山城、広島城と日本10名城に値する天守閣が、明治維新後も聳えていたが
昭和20年6月・8月に空襲で倒壊や炎上してしまった。

姫路城は天守閣のある本丸が、陸軍第10師団に取り囲まれていた。



三の丸御殿。
戦後は、「三の丸広場」。
ここは、「歩兵第十聯隊跡」だった。





歩兵10聯隊は岡山に移動して、岡山の郷土聯隊となった。







「大手前公園」や「イーグレ姫路」や「武家屋敷」は練兵場があった場所。

「姫路城南陸軍練兵場」





練兵場の西側、現在白鷺小学校や白鷺中学校などがある場所は
「歩兵39聯隊」があった。






内堀。

左・三の丸、右・東曲輪(出丸)。
左・歩兵10聯隊、右・10師団や倉庫。

現在は、
左・動物園、右・緑地。









東側の「外曲輪」。

「第十師團兵器部 西倉庫」。






内部は、現在「姫路市立美術館」







(Wikipedia)
第10師団

概要
1898年(明治31年)10月に編成された。近畿地方の西部と中国地方の東部にまたがり、時期により変動がある。

日露戦争
第4軍隷下部隊として遼陽会戦・沙河会戦・奉天会戦に参加し、戦闘する。

大陸戦線
1931年(昭和6年)9月に満州事変勃発後、第8混成旅団を編制し12月に出動し吉林省で掃討戦を実施後、1934年(昭和9年)3月に帰国した。

支那事変
1937年(昭和12年)7月支那事変に動員される。台児荘の戦い・徐州会戦・武漢攻略戦に参加し、1939年(昭和14年)10月帰国。
支那事変では徐州会戦はじめ、第10師団は広島の第5師団などと共に奮戦し功績を残す。
1940年(昭和15年)8月から満州に駐留する。

太平洋戦争
太平洋戦争開戦後には関東軍の直属兵団として、佳木斯に駐屯していた。
満州国内にて対ソ戦の訓練や抗日パルチザン掃討等の治安維持活動に従事していた。
1944年(昭和19年)2月から師団の一部が太平洋方面に配置され、同年7月には師団主力も南方派遣が決定された。
フィリピンルソン島に投入、尚武集団としてバレテ峠、サラクサク峠で約半年に渡る持久戦を展開。
衆寡敵せず壊滅状態となり、そのまま終戦を迎える。




お城の外曲輪には、

「第十師團司令部」
「歩兵第八旅團司令部」
「姫路聯隊區司令部」
「第十師團長官舎」
「第十師團長官舎」
「第十師團兵器部 倉庫」
「姫路陸軍病院」
「第十師團兵器部」が建ち並んでいた。
近接して、川西航空機姫路製作所もあった。

その現在を車窓から見る。


(JR播但線より)







現在はお城まで真っすぐ行けるが、終戦までは国道2号線でT字路になっていた。(練兵場に突き当たる)



(JR姫路駅から)




姫路城は姫路市の中心にあり、しかも師団があり、広大なお城兼軍事施設となっていた。
師団も聯隊も離れていた、岡山城や福山城が焼失したことに比すと、まさに奇跡のお城だ。






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