場所・広島県尾道市向島町 元・向島紡績(現エブリイ向島店の敷地)
訪問日・2012年4月28日
向島の兼吉桟橋の近くに向島紡績があった。
残念ながら、解体撤去されて食品スーパー・エブリイになった。
赤煉瓦がある頃は、中国新聞に
元イギリス兵や関係するイギリス人が訪問し、それが新聞に載っていた。
「続しらべる戦争遺跡の事典」 柏書房 2003年発行
広島捕虜収容所向島分所跡
広島県御調郡向島町兼吉
向島紡績の赤煉瓦倉庫を利用して、1942年(昭和17)11月、八幡捕仮捕虜収容所の分所が設置された。
敗戦時には広島捕虜収容所第四分所と称していた。
捕虜は、最初ジャワ島から送らてきたイギリス兵100人が収容され、
1944年9月にはフィリピンから送られてきたアメリカ兵116人が加わった。
イギリス兵のうち23人は収容中に死亡したため、敗戦時には193人であった。
戦後、何度か元捕虜の訪問があり、市民有志による「日英友好のモニュメントを建てる会」が組織され、
2002年3月、捕虜収容所の建物として現存する向島紡績の赤煉瓦の壁に、死亡した23人のイギリス兵の氏名と死亡年月日を記した銘板を設置した。
また町当局の協力を得て日立造船西工場の南に「平和と友好の記念碑」が建立された。
訪問日・2012年4月28日
向島の兼吉桟橋の近くに向島紡績があった。
残念ながら、解体撤去されて食品スーパー・エブリイになった。
赤煉瓦がある頃は、中国新聞に
元イギリス兵や関係するイギリス人が訪問し、それが新聞に載っていた。
「続しらべる戦争遺跡の事典」 柏書房 2003年発行
広島捕虜収容所向島分所跡
広島県御調郡向島町兼吉
向島紡績の赤煉瓦倉庫を利用して、1942年(昭和17)11月、八幡捕仮捕虜収容所の分所が設置された。
敗戦時には広島捕虜収容所第四分所と称していた。
捕虜は、最初ジャワ島から送らてきたイギリス兵100人が収容され、
1944年9月にはフィリピンから送られてきたアメリカ兵116人が加わった。
イギリス兵のうち23人は収容中に死亡したため、敗戦時には193人であった。
戦後、何度か元捕虜の訪問があり、市民有志による「日英友好のモニュメントを建てる会」が組織され、
2002年3月、捕虜収容所の建物として現存する向島紡績の赤煉瓦の壁に、死亡した23人のイギリス兵の氏名と死亡年月日を記した銘板を設置した。
また町当局の協力を得て日立造船西工場の南に「平和と友好の記念碑」が建立された。