しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

広島捕虜収容所第四分所(向島紡績の赤煉瓦工場)

2021年02月03日 | 「戦争遺跡」を訪ねる
場所・広島県尾道市向島町  元・向島紡績(現エブリイ向島店の敷地)
訪問日・2012年4月28日   

向島の兼吉桟橋の近くに向島紡績があった。







残念ながら、解体撤去されて食品スーパー・エブリイになった。




赤煉瓦がある頃は、中国新聞に
元イギリス兵や関係するイギリス人が訪問し、それが新聞に載っていた。






「続しらべる戦争遺跡の事典」 柏書房 2003年発行

広島捕虜収容所向島分所跡
広島県御調郡向島町兼吉

向島紡績の赤煉瓦倉庫を利用して、1942年(昭和17)11月、八幡捕仮捕虜収容所の分所が設置された。
敗戦時には広島捕虜収容所第四分所と称していた。

捕虜は、最初ジャワ島から送らてきたイギリス兵100人が収容され、
1944年9月にはフィリピンから送られてきたアメリカ兵116人が加わった。
イギリス兵のうち23人は収容中に死亡したため、敗戦時には193人であった。

戦後、何度か元捕虜の訪問があり、市民有志による「日英友好のモニュメントを建てる会」が組織され、
2002年3月、捕虜収容所の建物として現存する向島紡績の赤煉瓦の壁に、死亡した23人のイギリス兵の氏名と死亡年月日を記した銘板を設置した。
また町当局の協力を得て日立造船西工場の南に「平和と友好の記念碑」が建立された。








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倉敷海軍航空隊(倉敷予科練)跡

2021年02月03日 | 「戦争遺跡」を訪ねる
場所・倉敷市松江   王島山
訪問日・2016.7.19


たぶん倉敷市の市民でも「倉敷予科練」のことを知っている人は極少数だろう。
水島地区の人でさえ、存在を知っている人は稀と思う。


「新修倉敷市史6近代」

倉敷海軍航空隊

昭和19年11月1日乙種飛行予科練生の養成を実施するため、
児島郡福田村松江に開隊し、予科練教育を開始した。

当時の住民の記憶によると、
用地買収の説明会は昭和18年11月末から12月にかけて実施され、
それには駐在所の警察官や私服の特高課の警官が同席するなどあった。









「わたしは倉敷航空隊の予科練だった」 高梁川56号より転記。

倉敷海軍航空隊は、昭和19年11月1日に岡山県児島郡福田村松江に開隊された。
兵員は、
飛行予科練習生 21期 500名
飛行予科練習生 22期 500名
航空隊要員(一般兵員) 700名。

当時、倉敷郊外の水島地区には三菱水島航空機製作所を中心として、「水島軍都整備計画」という壮大な計画が海軍の手で進められていた。

急ごしらえの航空隊はいかにも貧相だった。
練兵場(飛行場)はバラストを敷き詰めただけで、これが新設の航空隊なのかとすっかり気落ちしてしまった。

昭和20年3月、学生・練習生の空中教育は一時中止となった。これにより予科練教育は事実上終わりとなった。
翌日から王島山に防空壕を掘ることとなった。
4月になって松山航空隊から2600名が転属入隊し倉敷空の予科練は4500名になった。
山林開墾隊、防空陣地構築隊などのほか、農作業手伝い、軍需工場の構内作業手伝い、工場疎開手伝いなどにも駆りだされた。

6月1日予科練教育は正式に中止となった。
全国数万の予科練生は練度によって、次のような本土決戦配置につくこととなった。

回天特攻隊
こう龍特攻隊
海龍特攻隊
震洋特攻隊
伏龍特攻隊
水際特攻隊
陸戦隊
防空隊
陣地構築隊
雑作業隊

いままで各期ごとになっていた分隊編成が解かれ全期混成の戦闘編成になった。
わたしは抜根隊になり、チーフとして4名を引率して吉備高原の奥深い山村に松根油工場の手伝い作業員として派遣された。
その後、7月15日佐伯空配置になり水際特攻の訓練を受けていて終戦となった。









「わたしは倉敷航空隊の予科練だった」 高梁川56号より転記。

「水島軍都」に対する空襲が必至の見込みとなったので、周辺地区に高射砲陣地及び20mm機銃陣地を配置する事になった。
呉鎮守府からきた砲術科要員の指導のもと急ピッチで防空陣地構築が進められた。
6月1日、予科練教育が正式に中止になると300~400人がこの水島防空隊に編入された。

編成は次の通りである。
王島砲台(王島山山頂) 8インチ砲 5門
中畝砲台 12.7インチ高角砲 3基
連島砲台(箆取山) 8インチ砲 5門
玉島砲台(狐島) 12.7インチ高角砲 3基
機銃座(倉敷空内) 飛行機搭載用20mm機銃 10基
機銃座(三菱滑走路ふきん) 飛行機搭載用20mm機銃 基数不明

また定員分隊では「農耕班」を結成して自給自足体制を備えていく事もしている。
隊内の未整地で食用に牛を飼い、
野菜や稲を植え、
竹竿をたててカボチャをならせ、
甘藷やともろこしも植えた。

残留予科練の陸戦隊は
三菱航空機製作所の雑作業や、
掩体壕の構築、
物資の疎開、
工場の移転手伝い、
塩田開発、
男子のいない農家への手伝い、
といった隊外作業に派遣されていた。









松江の公園は予科練跡の一部。
公園にも、街角にも「予科練」を示す看板や遺構もない。


当時の倉敷予科練生は、その末期設立、”乙種”、練習生というよりも学徒動員的な作業が多い。
”若い血潮の予科練”ではあるが、かんじんの飛行訓練はまったくなく、いい記憶なく、終戦後はすぐに復員したのだろう。




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亀島山地下工場

2021年02月03日 | 「戦争遺跡」を訪ねる
場所・倉敷市連島町亀島新田亀島  「亀島山花と緑の丘公園」
訪問日・2008.11.1


正面の、やや左の山が亀島山。

もともと水島灘に浮かぶ亀島だった。
次第に、東西の高梁川に挟まれた川中島になった。
新田開発で一帯は陸地化された。
近代、大正時代に東高梁川が無くなり、戦時中、東高梁川の廃川南端に三菱重工業が進出した。





東京都知事が学者の美濃部さんだった頃、日本は公害が大きな社会問題化していた。
岡山県水島の亀島山は公害の代表みたいにマスコミに取り上げられていた。
最大の理由は目で見てわかりやすかった。
亀島山は目をそむけたくなるような禿山で、かつ異様な崩れ方の山の姿だった。
乱開発の象徴だった。


その亀島山には、山の地下に地下工場があった。






「新編倉敷市史 6近代」

1945年2月「工場緊急疎開法」が成立に伴い、航空機産業を優先的に地下、半地下工場へ疎開させることを決定した。
これに伴い作られたのが浅口郡連島町の亀島山にある地下工場であった。

「工場の疎開は、友人との対話をはじめ家人や知己」に漏らしている向きがあるので、”断じて漏らすな疎開の様子”
その他大小とりどりの防諜ポスター・ビラを各工場、食堂、寮、道路に貼りだして全従業員の口を誡めることになった」

基本的には秘密裏に実施された工場疎開であったので、住民に公になることはなかった。
昭和21年8月に合同新聞に初めて大まかな地図と写真が掲載された。











「続しらべる戦争遺跡の事典」 柏書房 2003年発行

15年戦争の末期、米軍の空襲を避けるために、三菱重工業水島航空機製作所の疎開工場として亀島山の地下につくられたものである。
その存在は長くベールに包まれていたが、昭和61年頃から、この地下工場を調査・保存しようという運動が提起され、地元の高校生や市民団体によって聞き取り調査が行われ、
朝鮮人の強制連行の状況やその労働の実態が明らかにされた。

現在内部には、ほぼ東西に延びる5本の隧道と、それと約60度の角度で交わる支洞が残されている。
未完成の部分が多い。




「亀島山花と緑の丘公園」から見る、元は航空機を製造していた現在の三菱自動車工業。
EKワゴンやEKクロスを生産している。





現在は、騒がれていた時代とまったく反対に、山は花で埋められている。
山は倉敷市の桜の名所。
桜以外も四季が名前の通りで「花と緑の丘」。
昭和40年代の亀島山は、花で隠されるようにして消え、
一般公開されていない地下工場だけが変わりないようだ。





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串良海軍航空隊跡

2021年02月03日 | 「戦争遺跡」を訪ねる
場所・鹿児島県鹿屋市串良町 「串良平和公園」 
訪問日・2013年8月10日  


桜並木の道が一直線につづく。大隅半島の桜の名所。



かつてこの道は、大戦中は航空隊の滑走路。特攻隊が飛び立ったところ。


慰霊塔が建つ。

  






慰霊塔の下に墓碑があり、
特攻で亡くなった300余名、一般戦闘100余名、計約500名の戦死名が記されている。




「日本の軍事遺跡」 飯田則夫著 河出書房新社  2004年発行

特攻兵器
太平洋戦争末期、通常の戦法で戦局転換を図ることが困難となった日本軍は、
さまざまな特別攻撃を行った。
人間魚雷回天によって具体化した特別攻撃は、
航空特攻・水上特攻へと拡大していき、
非常手段としての戦法から、組織的日常的なものへと、急激に変わっていった。

航空機を爆装し乗員を募れば可能となる航空特攻は盛んに行われている。
航空特攻は、昭和19年10月25日の「第一神風特別攻撃隊」に始まり、
次第に作戦機だけでなく、
旧式の複葉機、練習機も投入し、
練度の低い搭乗員を動員した。
海軍2.500名、陸軍1.900名あまりが散っていった。

本土防衛の最前線となった鹿児島県には多くの航空基地があり、出撃の拠点となった。




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コンクリート船 武智丸(安浦漁港) 

2021年02月03日 | 「戦争遺跡」を訪ねる
場所・広島県呉市安浦町三津口   安浦漁港・武智丸  
訪問日・2015年9月25日  


安浦港に珍しい防波堤がある。
船が二層、横に並んで漁港を守っている。



大戦中にコンクリートで造られた、帝国海軍の貨物船。







戦後廃船になったが、

昭和22年頃、広島県に防波堤の工事を陳情したが予算も乏しく、廃船をリサイクル利用した防波堤に決定。


これが防波堤の内部。





防波堤の上部。








安浦はカキ養殖が盛んな漁港。




近くまで来ることがあれば、一見の価値はある廃船利用の防波堤。
近代歴史遺産と呼んでもいいかな。



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