しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

芸予要塞・小島砲台

2021年02月09日 | 「戦争遺跡」を訪ねる
場所・愛媛県今治市小島  瀬戸内海国立公園・小島
訪問日・2008年12月27日


瀬戸内海国立公園の来島海峡の小島。渦が巻く。




波止浜港から小さなフェリーに乗って着く。
この島にはかつて要塞が造られ、その後廃止されたが、その遺構は驚くほど保管が保たれている。

当時の町長さんが保存活動に取り組んだのが原因で、大正時代に”歴史保存”運動をする町長さんが日本にいたことにも驚く。







島の北部にある「北部砲台」








今治観光協会
芸予要塞

明治中期の日清戦争(1894-1895年)の後、ロシアの東亜侵略の野望が着々と具体化していくことにおののいていた大日本帝国は、ロシアとの戦争は不回避と判断し、
ロシアの海軍の進攻に備えて瀬戸内海に要塞建設を計画しました。
陸軍の上原勇作は芸予諸島を調査、その後大久野島(広島県)と来島海峡の小島に要塞を建設します。
上原はフランスで構築を学んでおり、その調査に基づき、軍事施設配置計画が立てられ、
明治32年(1899年)に建設が始まり翌年3月に完成したといわれています。
赤煉瓦と御影石を所々に用いたヨーロッパ式の建物は、「芸予要塞」と名づけられ海の守りについていましたが、
東郷平八郎や秋山真之らの活躍によりロシア軍が日本に攻め入ることはなく、この要塞は軍縮小により役目を終え、大正15年に当時の波止浜町に払い下げられました。
後に日露戦争(1904-1905年)では、旅順攻撃の時に、ここの28cmの榴弾砲が運ばれて使われたと言われています。







小島の砲台は戦争・軍事の遺跡だが、
頑丈な構造や遺構がしっかりしていることなどから「日本土木遺産」に認定された。




発電所跡





日本土木学会推奨・土木遺産
選奨年 2001年 平成13年度
選奨理由 わが国に現存する最大級、かつ保存状態の良い明治期の石造り砲台






24センチカノン砲と9センチカノン砲がそれぞれ四門ずつ配置されていた北部砲台跡。
北部砲台は,南部砲台同様花崗岩の石造りであり,砲台の一部には,爆撃演習による傷跡が今も残っている.その脇を抜け,突き当りの急な階段を登ると,
もう一つの司令塔跡がある.しかし,こちらの司令塔の周囲はすっかり竹藪と化し,往時の展望を臨むことはできない。

砲台の島 芸予要塞小島砲台跡(土木紀行)




前方は来島大橋。








中部砲台へ向かう。


28センチ榴弾砲)六門が配置されていた中部砲台跡。
中部砲台の砲座は二門ずつ一列に並ぶように構成されている.ちなみに南部砲台と中部砲台に配置されていた砲身は
日露戦争の際旅順に運ばれ,203高地の攻撃に使用されたといわれている。
砲座の先には,山腹に横穴を掘るようにして地下兵舎が設けられている。
地下兵舎の壁は美しい煉瓦造りで,天井はコンクリートヴォールト(曲面天井)である、築造から一世紀を経ているにもかかわらず,地下兵舎の天井からは一滴の雨漏りもない。
砲座と地下兵舎の間の狭く急な階段を登り詰めると,島の最も高い位置にある司令塔跡に至る。
司令塔はコンクリートの土台を残すのみだが,晴れた日にはここから来島海峡が一望できる.










中部砲台から来島大橋と来島海峡の渦潮。













南部砲台
火力発電所跡が現われる.発電所は煉瓦造りの平屋建てで,
他の煉瓦造りの建物にも共通することだが,煉瓦の積み方は長手と小口を一段ずつ交互に積むイギリス積みである。
発電所跡の先には,12センチカノン砲二門が配置されていた南部砲台跡がある。
砲台は花崗岩の石造りで,砲座は一段高いところに二門並んで設けられ,海上からは砲身が見えない構造になっている.
発電所跡から遊歩道をさらに進むと,弾薬庫跡に至った.山腹を削り周囲を崖で囲むようにして建てられた弾薬庫は
屋根が落ち内部はすっかり草生していたが,さすがに危険な弾薬を扱う建物である.分厚い煉瓦壁は健在で,壁だけがそり立つその姿はかえって頑強さを印象づけた.




南部砲台跡からの眺め







周囲3kmほどの小島の地図。







「続しらべる戦争遺跡の事典」 柏書房 2003年発行

芸予要塞
広島県、愛媛県にまたがる多島海域も要塞地に指定され、芸予要塞が設定されたのは1899年で、
本土の忠海港に芸予要塞司令部と芸予重砲兵大隊本部が置かれ港の脇に冠崎砲台が設けられた。
大島と四国との間の来島海峡に浮かぶ小島も、この要塞に含まれる。


国を護ること
明治の軍人が、どれほどロシアを恐れていたか(わきまえていたか)がよくわかる。
また昭和の軍人が、どれほどアメリカを恐れなかった(わきまえない)がよくわかる。
進歩でなく退化している。軍人も、そして普通の日本人にも言えたと思う。




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陸軍第十七師団跡

2021年02月09日 | 「戦争遺跡」を訪ねる
場所・岡山市北区津島   岡山大学 
日時・2015.4.4


岡山大学は構内が広いので旧陸軍十七師団や歩兵十聯隊の遺構も点在している。

広島の被ばく施設が壊され消えていくのがニュースになるが、岡大にある旧陸軍施設も同じで減っている。




補給廠倉庫





兵器本廠





「続しらべる戦争遺跡の事典」 柏書房 2003年発行
第十七師団関連遺跡




日露戦争前後の6個師団を増師する決定に伴い、明治40年岡山市の西北に新設された。
用地は旧御津郡伊島村の土地を買収する。

1918年(大正7年)の市内の米騒動、
1919年朝鮮の三・一独立運動鎮圧、
に派遣された。

第一次大戦後のワシントン軍縮会議で日本陸軍は4個師団を削減した。
その一つは、宇垣陸相の地元岡山の第十七師団だった。
師団跡には姫路の第10師団から歩兵第10聯隊などが転営した。
同連隊は岡山県下から徴兵する「岡山郷土部隊」となり、
1931年には中国東北部、
1937年には華北・華中に出兵した。

現在岡山の17師団の建物跡地の多くは岡山大学に、
練兵場後は岡山県総合グラウンドの用地になっている。

岡山大学では、当時の建物の多くは老朽化や新しい校舎建築などで消失している。






軍人勅諭の50週年記念碑





・・・



練兵場は岡山県総合グラウンドになった。
弥生時代の水田遺跡もあり、
今は岡山県民のスポーツと古代遺跡を併せた公園になっている。








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旧・陸軍東京第一衛戍病院

2021年02月09日 | 「戦争遺跡」を訪ねる

場所・東京都新宿区戸山  「国立国際医療研究センター病院」
訪問日・2018.3.9 


父は「東京第一衛戍病院」とは呼ばずに、「陸軍東京第一病院」と言っていた。
傷病兵として昭和15年頃、入院生活をしていた。

紀元2600年のお祭りの年で、日本中が祝賀ムードだったが帝都で体験している。



父のゆかりの、というより大恩がある陸軍東京第一病院に行ってみたいと思っていたが、
場所がわからなかった。


本にも、ネットにも「東京陸軍第一病院」が出てこない。
父が、
「戸山じゃ。戸山学校や音楽隊があった」
という話を思い出し、探すと新宿区戸山の陸軍施設で、そこに第一病院があった。



現在は、国立国際医療研究センター病院」。






(ネットに陸軍戸山の施設は星の数ほどあるが、
そのほとんどが”731部隊”に関したものだった)




白衣で軍人帽子の父がいる。
昭和15年東京第一衛戍病院。
歴史写真として添付する。




・・・


東京陸軍第一病院のこと

昭和15年、父は岡山陸軍病院から東京の陸軍第一病院へ転院した。
女学校を卒業したばかりのおば(父の妹)が東京へ付き添いに行った。

以下はおばの話し。
2018.4.2 花見をしながらの会話。

「母親が行かれんゆうんで半年おった。
病院の高いところに陸軍戸山学校があった。広いグランドがあり。
赤坂へ買い物に行きょうた。
グラウンドの横は戸山学校の生徒が歩きょうた。体操したり訓練しようた。

(おばさん、どこに寝ようた?)
兄貴が個室におった。その部屋に寝ようた。」

 

・・・

 

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第十三師団(高田城跡)

2021年02月09日 | 「戦争遺跡」を訪ねる
場所・新潟県上越市高田  高田公園(高田城跡)
訪問日・2015.3.8


徳川家康の子・松平忠輝が75万石の居城、越後の高田城。堀の幅がすごい。
堀には蓮が植えてあり、レンコンは高田の名産品。







城内は桜の名所。「日本さくら百選」、特に夜桜が有名。
大きな城郭だが、石垣は一切ないのも特徴。







「日本の軍事遺跡」 飯田則夫著 河出書房新社 2004年発行 

上越市
旧第十三師団

明治41年、長野・松本・新発田などに競い勝って城下町高田に陸軍十三師団が入城した。
高田城跡には司令部、歩兵第二十六旅団司令部、高田聯隊区司令部が本丸跡に、
それを囲んで、兵器支廠や騎兵第十七聯隊、弾薬庫などが城内に配置された。
また城の南側には、野砲兵第十九聯隊、歩兵第五十八聯隊、衛戍病院が分散して置かれた。
その後、軍縮で大正14年には師団は廃止され、旅団のみになってしまう。


戦後は、連合国軍や国鉄などに使われ昭和25年から警察予備隊が入り、現在は第2普通科連隊など1.200名が勤務している。










宇垣軍縮で第十三師団は廃止されたが、
昭和12年に復活。
上海・南京・徐州、以後中国戦線で戦った。





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