場所・愛媛県今治市小島 瀬戸内海国立公園・小島
訪問日・2008年12月27日
瀬戸内海国立公園の来島海峡の小島。渦が巻く。
波止浜港から小さなフェリーに乗って着く。
この島にはかつて要塞が造られ、その後廃止されたが、その遺構は驚くほど保管が保たれている。
当時の町長さんが保存活動に取り組んだのが原因で、大正時代に”歴史保存”運動をする町長さんが日本にいたことにも驚く。
島の北部にある「北部砲台」
今治観光協会
芸予要塞
明治中期の日清戦争(1894-1895年)の後、ロシアの東亜侵略の野望が着々と具体化していくことにおののいていた大日本帝国は、ロシアとの戦争は不回避と判断し、
ロシアの海軍の進攻に備えて瀬戸内海に要塞建設を計画しました。
陸軍の上原勇作は芸予諸島を調査、その後大久野島(広島県)と来島海峡の小島に要塞を建設します。
上原はフランスで構築を学んでおり、その調査に基づき、軍事施設配置計画が立てられ、
明治32年(1899年)に建設が始まり翌年3月に完成したといわれています。
赤煉瓦と御影石を所々に用いたヨーロッパ式の建物は、「芸予要塞」と名づけられ海の守りについていましたが、
東郷平八郎や秋山真之らの活躍によりロシア軍が日本に攻め入ることはなく、この要塞は軍縮小により役目を終え、大正15年に当時の波止浜町に払い下げられました。
後に日露戦争(1904-1905年)では、旅順攻撃の時に、ここの28cmの榴弾砲が運ばれて使われたと言われています。
小島の砲台は戦争・軍事の遺跡だが、
頑丈な構造や遺構がしっかりしていることなどから「日本土木遺産」に認定された。
発電所跡
日本土木学会推奨・土木遺産
選奨年 2001年 平成13年度
選奨理由 わが国に現存する最大級、かつ保存状態の良い明治期の石造り砲台
24センチカノン砲と9センチカノン砲がそれぞれ四門ずつ配置されていた北部砲台跡。
北部砲台は,南部砲台同様花崗岩の石造りであり,砲台の一部には,爆撃演習による傷跡が今も残っている.その脇を抜け,突き当りの急な階段を登ると,
もう一つの司令塔跡がある.しかし,こちらの司令塔の周囲はすっかり竹藪と化し,往時の展望を臨むことはできない。
砲台の島 芸予要塞小島砲台跡(土木紀行)
前方は来島大橋。
中部砲台へ向かう。
28センチ榴弾砲)六門が配置されていた中部砲台跡。
中部砲台の砲座は二門ずつ一列に並ぶように構成されている.ちなみに南部砲台と中部砲台に配置されていた砲身は
日露戦争の際旅順に運ばれ,203高地の攻撃に使用されたといわれている。
砲座の先には,山腹に横穴を掘るようにして地下兵舎が設けられている。
地下兵舎の壁は美しい煉瓦造りで,天井はコンクリートヴォールト(曲面天井)である、築造から一世紀を経ているにもかかわらず,地下兵舎の天井からは一滴の雨漏りもない。
砲座と地下兵舎の間の狭く急な階段を登り詰めると,島の最も高い位置にある司令塔跡に至る。
司令塔はコンクリートの土台を残すのみだが,晴れた日にはここから来島海峡が一望できる.
中部砲台から来島大橋と来島海峡の渦潮。
南部砲台
火力発電所跡が現われる.発電所は煉瓦造りの平屋建てで,
他の煉瓦造りの建物にも共通することだが,煉瓦の積み方は長手と小口を一段ずつ交互に積むイギリス積みである。
発電所跡の先には,12センチカノン砲二門が配置されていた南部砲台跡がある。
砲台は花崗岩の石造りで,砲座は一段高いところに二門並んで設けられ,海上からは砲身が見えない構造になっている.
発電所跡から遊歩道をさらに進むと,弾薬庫跡に至った.山腹を削り周囲を崖で囲むようにして建てられた弾薬庫は
屋根が落ち内部はすっかり草生していたが,さすがに危険な弾薬を扱う建物である.分厚い煉瓦壁は健在で,壁だけがそり立つその姿はかえって頑強さを印象づけた.
南部砲台跡からの眺め
周囲3kmほどの小島の地図。
「続しらべる戦争遺跡の事典」 柏書房 2003年発行
芸予要塞
広島県、愛媛県にまたがる多島海域も要塞地に指定され、芸予要塞が設定されたのは1899年で、
本土の忠海港に芸予要塞司令部と芸予重砲兵大隊本部が置かれ港の脇に冠崎砲台が設けられた。
大島と四国との間の来島海峡に浮かぶ小島も、この要塞に含まれる。
国を護ること、
明治の軍人が、どれほどロシアを恐れていたか(わきまえていたか)がよくわかる。
また昭和の軍人が、どれほどアメリカを恐れなかった(わきまえない)がよくわかる。
進歩でなく退化している。軍人も、そして普通の日本人にも言えたと思う。
訪問日・2008年12月27日
瀬戸内海国立公園の来島海峡の小島。渦が巻く。
波止浜港から小さなフェリーに乗って着く。
この島にはかつて要塞が造られ、その後廃止されたが、その遺構は驚くほど保管が保たれている。
当時の町長さんが保存活動に取り組んだのが原因で、大正時代に”歴史保存”運動をする町長さんが日本にいたことにも驚く。
島の北部にある「北部砲台」
今治観光協会
芸予要塞
明治中期の日清戦争(1894-1895年)の後、ロシアの東亜侵略の野望が着々と具体化していくことにおののいていた大日本帝国は、ロシアとの戦争は不回避と判断し、
ロシアの海軍の進攻に備えて瀬戸内海に要塞建設を計画しました。
陸軍の上原勇作は芸予諸島を調査、その後大久野島(広島県)と来島海峡の小島に要塞を建設します。
上原はフランスで構築を学んでおり、その調査に基づき、軍事施設配置計画が立てられ、
明治32年(1899年)に建設が始まり翌年3月に完成したといわれています。
赤煉瓦と御影石を所々に用いたヨーロッパ式の建物は、「芸予要塞」と名づけられ海の守りについていましたが、
東郷平八郎や秋山真之らの活躍によりロシア軍が日本に攻め入ることはなく、この要塞は軍縮小により役目を終え、大正15年に当時の波止浜町に払い下げられました。
後に日露戦争(1904-1905年)では、旅順攻撃の時に、ここの28cmの榴弾砲が運ばれて使われたと言われています。
小島の砲台は戦争・軍事の遺跡だが、
頑丈な構造や遺構がしっかりしていることなどから「日本土木遺産」に認定された。
発電所跡
日本土木学会推奨・土木遺産
選奨年 2001年 平成13年度
選奨理由 わが国に現存する最大級、かつ保存状態の良い明治期の石造り砲台
24センチカノン砲と9センチカノン砲がそれぞれ四門ずつ配置されていた北部砲台跡。
北部砲台は,南部砲台同様花崗岩の石造りであり,砲台の一部には,爆撃演習による傷跡が今も残っている.その脇を抜け,突き当りの急な階段を登ると,
もう一つの司令塔跡がある.しかし,こちらの司令塔の周囲はすっかり竹藪と化し,往時の展望を臨むことはできない。
砲台の島 芸予要塞小島砲台跡(土木紀行)
前方は来島大橋。
中部砲台へ向かう。
28センチ榴弾砲)六門が配置されていた中部砲台跡。
中部砲台の砲座は二門ずつ一列に並ぶように構成されている.ちなみに南部砲台と中部砲台に配置されていた砲身は
日露戦争の際旅順に運ばれ,203高地の攻撃に使用されたといわれている。
砲座の先には,山腹に横穴を掘るようにして地下兵舎が設けられている。
地下兵舎の壁は美しい煉瓦造りで,天井はコンクリートヴォールト(曲面天井)である、築造から一世紀を経ているにもかかわらず,地下兵舎の天井からは一滴の雨漏りもない。
砲座と地下兵舎の間の狭く急な階段を登り詰めると,島の最も高い位置にある司令塔跡に至る。
司令塔はコンクリートの土台を残すのみだが,晴れた日にはここから来島海峡が一望できる.
中部砲台から来島大橋と来島海峡の渦潮。
南部砲台
火力発電所跡が現われる.発電所は煉瓦造りの平屋建てで,
他の煉瓦造りの建物にも共通することだが,煉瓦の積み方は長手と小口を一段ずつ交互に積むイギリス積みである。
発電所跡の先には,12センチカノン砲二門が配置されていた南部砲台跡がある。
砲台は花崗岩の石造りで,砲座は一段高いところに二門並んで設けられ,海上からは砲身が見えない構造になっている.
発電所跡から遊歩道をさらに進むと,弾薬庫跡に至った.山腹を削り周囲を崖で囲むようにして建てられた弾薬庫は
屋根が落ち内部はすっかり草生していたが,さすがに危険な弾薬を扱う建物である.分厚い煉瓦壁は健在で,壁だけがそり立つその姿はかえって頑強さを印象づけた.
南部砲台跡からの眺め
周囲3kmほどの小島の地図。
「続しらべる戦争遺跡の事典」 柏書房 2003年発行
芸予要塞
広島県、愛媛県にまたがる多島海域も要塞地に指定され、芸予要塞が設定されたのは1899年で、
本土の忠海港に芸予要塞司令部と芸予重砲兵大隊本部が置かれ港の脇に冠崎砲台が設けられた。
大島と四国との間の来島海峡に浮かぶ小島も、この要塞に含まれる。
国を護ること、
明治の軍人が、どれほどロシアを恐れていたか(わきまえていたか)がよくわかる。
また昭和の軍人が、どれほどアメリカを恐れなかった(わきまえない)がよくわかる。
進歩でなく退化している。軍人も、そして普通の日本人にも言えたと思う。