場所・高知県宿毛市宇須々木 宿毛海軍航空隊・第21突撃隊特攻基地本部
訪問日・2018年10月2日
宿毛市史
宇須々木の海軍基地
宇須々木の海軍基地については当時軍の機密保持が厳しかった為、資料はほとんどない。
聯合艦隊がひんぱんに宿毛湾に投碇しはじめたのは、昭和7年頃からである。
宇須々木の基地使用は昭和8年頃からで兵舎2棟の完成は昭和11年で、司令は海軍大佐が来ており兵員約200名。
おもに艦載機の寄港基地として利用され陸揚げ、給油、整備をしていた。
昭和13年頃より艦隊の入港も少なくなり、入港しても小艦艇が主であった。
訓練は定期的でなく、訓練日程も知らされず、実戦が主になったもようである。
もともと海軍基地だったが、特攻基地化していった。
昭和20年日本敗戦が必至頃になるころ、
米軍の上陸が予想される地域は”竹槍訓練”に励んだ。
宿毛湾には、ベニヤで造った爆弾付き一人乗りのボートが配置され、16~17歳の少年兵が特攻隊員として必死の攻撃を待っていた。
べニヤボートは”震洋”と呼ばれ、上陸阻止のための日本海軍の最大戦力だった。
高知県内には数カ所にわたり震洋基地があった。
岩穴に隠れ、上陸用舟艇が陸に向かってきたら爆弾抱えた小船で体当たり攻撃をして死ぬべニヤボート。
終戦時には高知県や千葉県などに5.000艇程度配置されていた。
「しらべる戦争遺跡の事典」 柏書房 2002年発行
海軍航空隊宿毛基地
四国西南端に置かれた海軍航空隊と特攻基地
豊後水道に向かって開口する宿毛湾は、天然の良港として知られている。
須々木にはアジア太平洋戦争時、海軍航空隊が置かれ、
戦争末期には特攻基地となり司令部が置かれていた。
海岸部は戦後埋め立てが行われ、周囲の景観はかなり変貌しているが、
海軍の諸施設が遺構として数多く残っている。
(弾薬庫跡)
もともと宿毛湾は自然条件がよいのと、場所的に瀬戸内海の玄関口になるので軍事基地が設けられた。
宿毛湾は水深もあり、大正より日本海軍の艦隊基地の一つとなり
昭和8年には海軍航空隊も設置された。
宿毛沖の沖の島~鵜来島間は戦艦大和の試験航行に使われた。
昭和20年3月、第21突撃隊特攻基地本部となった。
(宇須々木公民館にある宿毛教育委員会の説明版より)
(1)海軍航空隊以前の遺構
宿毛湾はしばしば連合艦隊の寄港地となっていた。
1933年頃からは艦載機の訓練や補給、搭乗員の休養のために頻繁に利用されるようになった。
1936年頃には小学校を含む周囲一帯を海軍用地として買収して本格的な基地整備が急速に進むのである。
桟橋が残っており、今も利用されている。
(2)海軍航空隊の遺構
宿毛湾航空隊は、1943年4月1日に開隊し、44年1月に指宿に移動するまで水偵搭乗員の練成教育が行われた。
隊員250名を有し、滑走台(地元ではスベリと呼んでいる)の残存状況は良好で、
岸壁から5.5度で傾斜して海面下に延びている。
駐機場には水上機を固縛するためのアンカーも随所に認められ、中には鉄製のリングがそのまま付いているのもある。
弾薬庫は延長57m、奥行10m以上、高さ3.3m、厚さ23cmのコンクリート製の外壁が巡り、内側には赤煉瓦の建物がある。
(3)特攻基地の遺構
航空隊が移動した後、須々木は水上・水中特攻訓練のための訓練基地、宿毛派遣隊となる。
45年3月に特攻戦隊が編成され、呉鎮守府突撃隊に編入される。
45年7月30日には第八特攻戦隊司令部が須々木に置かれた。
震洋や回天などが配置され土佐湾と豊後水道の守りについた。
ほとんど岩盤に掘られた横穴である。
海軍跡地は宿毛市街地から数キロ離れている。
住民はここで見た、
兵器や兵隊や訓練を、話すことは禁じられていた。
極力見ないようにした。
戦後、開発等で各地の軍事遺蹟がなくなったが、
ここ宿毛市宇須々木は地理的にも大きな変化がなく遺構は残った。
配置された震洋は終戦ににより出撃(=死)を免れた。
宇須々木は静かな漁師町。
当時の面影を偲べる宇須々木だった。
(水上機のスベリ跡)
宿毛市史
昭和20年5月初旬頃における第2総軍の情勢判断では、
敵は南部九州と共に南部四国に対し、同時又は相前後して作戦する公算が大であるとした。
宿毛湾に一個兵団を配備して持久する計画であった。
また高知、須崎、宿毛、小松島等には海軍特攻部隊が配置された。
6月上旬に編成完結、陣地構築もなく部隊を配置したばかりで市内の各学校を兵舎に使用、学校はお寺や神社等で分散授業をするというような状態であり、
小銃等も数が不足して歩兵全員に支給できず、
竹光の銃剣、竹製の水筒等その装備は極めて劣っていた。