しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

呉鎮守府

2021年02月11日 | 「戦争遺跡」を訪ねる
場所・広島県呉市
訪問日・ 2008年9月25日  


明治から令和まで、呉といえば、”海軍”と”軍港”。



(江田島・小用→呉の)フェリーから見る旧海軍の軍港。後方は休山。






呉鎮守府へ向かう。





「日本の軍事遺跡」 飯田則夫著 河出書房新社  2004年発行
軍港都市呉

第二海軍区の中心機関である呉鎮守府が明治22年に開庁し、呉海軍工廠も設けられた。
戦時中40万人を数える大都市に発展した。
明治40年に竣工した旧呉鎮守府庁舎は、海自呉地方総監部第一庁舎となっている。
また明治38年に建てられた呉鎮守府司令長官官舎は、現在呉市入船山記念館が保存している。





ここが大日本帝国海軍呉鎮守府。現在は海上自衛隊呉地方総監部。





「続しらべる戦争遺跡の事典」 柏書房 2003年発行

呉鎮守府

呉は周囲を山と海に囲まれ、適当な広さの湾があり、かつ前面に広がる芸予諸島の島々によって防衛された、いわば自然の要塞ともいえる
有利な地勢条件をもっていた。

呉鎮守府は1889年に開庁され、造船部と兵器部もあり、その後改組、拡充され1903年には呉海軍工廠が設立された。

呉海軍工廠
呉海軍工廠では、艦艇や各種兵器の製造・修理の他、
軍事用の製鋼、兵器の実験・保管、
艦艇を運営するための必需品調達・供給、艤装などの業務が取り扱われた。
戦艦大和を建造するなど、アジア太平洋戦争中には、日本最大、世界でも有数の軍直轄の兵器生産工場となった。







入船山に行く。





呉港の北に位置する入船山の地には1889年軍政会議所兼水工社が建築された。
その後、歴代の呉鎮守府司令長官の官舎として使用されていた。









呉の街は、戦後平和港湾都市だった。

昭和40年代までは想像もできなかったが、昭和50年代以降は「観光としての軍」の街を目指している部分もあるようだ。





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広島陸軍被服支廠

2021年02月10日 | 「戦争遺跡」を訪ねる
場所・広島県広島市南区出汐  広島陸軍被服支廠 
訪問日・2018年5月3日   


県工(広島県立広島工業高校)の隣にある被爆建物が、1棟を残して解体されるニュースが話題になった。

広島フラワーフェイスバルのパレードの日、広島に行ったついでに、県工目指して行ってみた。
建物はかなり前方から、早々に存在感たっぷりに判明できた。







(Wikipedia)

広島陸軍被服支廠(ひろしまりくぐんひふくししょう)もしくは出汐倉庫

兵員の軍服や軍靴などを製造していた。戦後、建物は様々なものに転用されたが1997年以降閉鎖され遺構として放置されている。
現在は「出汐倉庫」の名で通る。

原爆被災
1945年8月6日に投下された原子爆弾では、爆心地から約2.7km離れていた。被服支廠は外壁の厚みが60cmと厚かった。
焼失や倒壊は免れ救護所として使用され、多くの被爆者がここで息を引き取った。当時の惨状は峠三吉『原爆詩集』に描写されている。

現存する10 - 13番庫は1913年(大正2年)8月に竣工したもので、4つの棟からなり、L字型に並ぶ。
1棟の長辺94m・3階建て高さ17mの鉄筋コンクリート造り煉瓦張り。
1-3号棟は県が、4号棟のみ中国財務局が所有し、4棟とも県が一括管理している。

外観は煉瓦造と変わりないが、内部は鉄筋コンクリートのラーメン構造であり、
1棟あたり20億円を超える耐震補強が必要となっている。









現在、建物は1棟も解体されていない。
保存活動と、耐震工事費用が当初予定より安くなったことが理由。

県と国の所有だが一体化して将来図を検討中である、というような情報になっている。


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戦艦陸奥記念館

2021年02月10日 | 「戦争遺跡」を訪ねる
場所・山口県大島郡周防大島町伊保田 「陸奥記念館」
訪問日・2013年4月25日   


周防大島のほぼ東端。

この海は、山口県・広島県・愛媛県の島々が点在する。国境の海。






”柱島泊地”

この海は戦前、「柱島泊地」と呼ばれる大日本帝国海軍の艦艇停泊地だった。
その海で昭和18年、戦艦陸奥は突然爆沈した。
ここから3kmの沖。







陸奥は
大正10年完成。
大正15年第一次改装。
戦艦陸奥は建造時、世界最強の戦艦として41cm主砲を装備し、
連合艦隊の旗艦としても活躍したが、戦局に寄与することはなかった。
昭和18年6月8日、柱島沖で爆沈。(旧東和町の沖、記念館の沖合3km)
昭和45年からひきあげ開始
昭和47年「陸奥記念館開館」完成












現在も爆沈の原因は謎とされているが、

歴史書よりも、執拗な取材で有名な作家・吉村昭の「陸奥爆沈」に、事情が詳しい。
この小説で、生々しく時代と社会と兵隊の内部が描かれ、読む人も大変参考になる。






深田サルベージは約75%を引き上げ、多くの遺物・遺品、遺骨も引き上げた。
館内は、それを記念して展示している。





引き上げから半世紀が経った。
次世代への伝えや関心が少し気になる。





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芸予要塞・小島砲台

2021年02月09日 | 「戦争遺跡」を訪ねる
場所・愛媛県今治市小島  瀬戸内海国立公園・小島
訪問日・2008年12月27日


瀬戸内海国立公園の来島海峡の小島。渦が巻く。




波止浜港から小さなフェリーに乗って着く。
この島にはかつて要塞が造られ、その後廃止されたが、その遺構は驚くほど保管が保たれている。

当時の町長さんが保存活動に取り組んだのが原因で、大正時代に”歴史保存”運動をする町長さんが日本にいたことにも驚く。







島の北部にある「北部砲台」








今治観光協会
芸予要塞

明治中期の日清戦争(1894-1895年)の後、ロシアの東亜侵略の野望が着々と具体化していくことにおののいていた大日本帝国は、ロシアとの戦争は不回避と判断し、
ロシアの海軍の進攻に備えて瀬戸内海に要塞建設を計画しました。
陸軍の上原勇作は芸予諸島を調査、その後大久野島(広島県)と来島海峡の小島に要塞を建設します。
上原はフランスで構築を学んでおり、その調査に基づき、軍事施設配置計画が立てられ、
明治32年(1899年)に建設が始まり翌年3月に完成したといわれています。
赤煉瓦と御影石を所々に用いたヨーロッパ式の建物は、「芸予要塞」と名づけられ海の守りについていましたが、
東郷平八郎や秋山真之らの活躍によりロシア軍が日本に攻め入ることはなく、この要塞は軍縮小により役目を終え、大正15年に当時の波止浜町に払い下げられました。
後に日露戦争(1904-1905年)では、旅順攻撃の時に、ここの28cmの榴弾砲が運ばれて使われたと言われています。







小島の砲台は戦争・軍事の遺跡だが、
頑丈な構造や遺構がしっかりしていることなどから「日本土木遺産」に認定された。




発電所跡





日本土木学会推奨・土木遺産
選奨年 2001年 平成13年度
選奨理由 わが国に現存する最大級、かつ保存状態の良い明治期の石造り砲台






24センチカノン砲と9センチカノン砲がそれぞれ四門ずつ配置されていた北部砲台跡。
北部砲台は,南部砲台同様花崗岩の石造りであり,砲台の一部には,爆撃演習による傷跡が今も残っている.その脇を抜け,突き当りの急な階段を登ると,
もう一つの司令塔跡がある.しかし,こちらの司令塔の周囲はすっかり竹藪と化し,往時の展望を臨むことはできない。

砲台の島 芸予要塞小島砲台跡(土木紀行)




前方は来島大橋。








中部砲台へ向かう。


28センチ榴弾砲)六門が配置されていた中部砲台跡。
中部砲台の砲座は二門ずつ一列に並ぶように構成されている.ちなみに南部砲台と中部砲台に配置されていた砲身は
日露戦争の際旅順に運ばれ,203高地の攻撃に使用されたといわれている。
砲座の先には,山腹に横穴を掘るようにして地下兵舎が設けられている。
地下兵舎の壁は美しい煉瓦造りで,天井はコンクリートヴォールト(曲面天井)である、築造から一世紀を経ているにもかかわらず,地下兵舎の天井からは一滴の雨漏りもない。
砲座と地下兵舎の間の狭く急な階段を登り詰めると,島の最も高い位置にある司令塔跡に至る。
司令塔はコンクリートの土台を残すのみだが,晴れた日にはここから来島海峡が一望できる.










中部砲台から来島大橋と来島海峡の渦潮。













南部砲台
火力発電所跡が現われる.発電所は煉瓦造りの平屋建てで,
他の煉瓦造りの建物にも共通することだが,煉瓦の積み方は長手と小口を一段ずつ交互に積むイギリス積みである。
発電所跡の先には,12センチカノン砲二門が配置されていた南部砲台跡がある。
砲台は花崗岩の石造りで,砲座は一段高いところに二門並んで設けられ,海上からは砲身が見えない構造になっている.
発電所跡から遊歩道をさらに進むと,弾薬庫跡に至った.山腹を削り周囲を崖で囲むようにして建てられた弾薬庫は
屋根が落ち内部はすっかり草生していたが,さすがに危険な弾薬を扱う建物である.分厚い煉瓦壁は健在で,壁だけがそり立つその姿はかえって頑強さを印象づけた.




南部砲台跡からの眺め







周囲3kmほどの小島の地図。







「続しらべる戦争遺跡の事典」 柏書房 2003年発行

芸予要塞
広島県、愛媛県にまたがる多島海域も要塞地に指定され、芸予要塞が設定されたのは1899年で、
本土の忠海港に芸予要塞司令部と芸予重砲兵大隊本部が置かれ港の脇に冠崎砲台が設けられた。
大島と四国との間の来島海峡に浮かぶ小島も、この要塞に含まれる。


国を護ること
明治の軍人が、どれほどロシアを恐れていたか(わきまえていたか)がよくわかる。
また昭和の軍人が、どれほどアメリカを恐れなかった(わきまえない)がよくわかる。
進歩でなく退化している。軍人も、そして普通の日本人にも言えたと思う。




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陸軍第十七師団跡

2021年02月09日 | 「戦争遺跡」を訪ねる
場所・岡山市北区津島   岡山大学 
日時・2015.4.4


岡山大学は構内が広いので旧陸軍十七師団や歩兵十聯隊の遺構も点在している。

広島の被ばく施設が壊され消えていくのがニュースになるが、岡大にある旧陸軍施設も同じで減っている。




補給廠倉庫





兵器本廠





「続しらべる戦争遺跡の事典」 柏書房 2003年発行
第十七師団関連遺跡




日露戦争前後の6個師団を増師する決定に伴い、明治40年岡山市の西北に新設された。
用地は旧御津郡伊島村の土地を買収する。

1918年(大正7年)の市内の米騒動、
1919年朝鮮の三・一独立運動鎮圧、
に派遣された。

第一次大戦後のワシントン軍縮会議で日本陸軍は4個師団を削減した。
その一つは、宇垣陸相の地元岡山の第十七師団だった。
師団跡には姫路の第10師団から歩兵第10聯隊などが転営した。
同連隊は岡山県下から徴兵する「岡山郷土部隊」となり、
1931年には中国東北部、
1937年には華北・華中に出兵した。

現在岡山の17師団の建物跡地の多くは岡山大学に、
練兵場後は岡山県総合グラウンドの用地になっている。

岡山大学では、当時の建物の多くは老朽化や新しい校舎建築などで消失している。






軍人勅諭の50週年記念碑





・・・



練兵場は岡山県総合グラウンドになった。
弥生時代の水田遺跡もあり、
今は岡山県民のスポーツと古代遺跡を併せた公園になっている。








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旧・陸軍東京第一衛戍病院

2021年02月09日 | 「戦争遺跡」を訪ねる

場所・東京都新宿区戸山  「国立国際医療研究センター病院」
訪問日・2018.3.9 


父は「東京第一衛戍病院」とは呼ばずに、「陸軍東京第一病院」と言っていた。
傷病兵として昭和15年頃、入院生活をしていた。

紀元2600年のお祭りの年で、日本中が祝賀ムードだったが帝都で体験している。



父のゆかりの、というより大恩がある陸軍東京第一病院に行ってみたいと思っていたが、
場所がわからなかった。


本にも、ネットにも「東京陸軍第一病院」が出てこない。
父が、
「戸山じゃ。戸山学校や音楽隊があった」
という話を思い出し、探すと新宿区戸山の陸軍施設で、そこに第一病院があった。



現在は、国立国際医療研究センター病院」。






(ネットに陸軍戸山の施設は星の数ほどあるが、
そのほとんどが”731部隊”に関したものだった)




白衣で軍人帽子の父がいる。
昭和15年東京第一衛戍病院。
歴史写真として添付する。




・・・


東京陸軍第一病院のこと

昭和15年、父は岡山陸軍病院から東京の陸軍第一病院へ転院した。
女学校を卒業したばかりのおば(父の妹)が東京へ付き添いに行った。

以下はおばの話し。
2018.4.2 花見をしながらの会話。

「母親が行かれんゆうんで半年おった。
病院の高いところに陸軍戸山学校があった。広いグランドがあり。
赤坂へ買い物に行きょうた。
グラウンドの横は戸山学校の生徒が歩きょうた。体操したり訓練しようた。

(おばさん、どこに寝ようた?)
兄貴が個室におった。その部屋に寝ようた。」

 

・・・

 

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第十三師団(高田城跡)

2021年02月09日 | 「戦争遺跡」を訪ねる
場所・新潟県上越市高田  高田公園(高田城跡)
訪問日・2015.3.8


徳川家康の子・松平忠輝が75万石の居城、越後の高田城。堀の幅がすごい。
堀には蓮が植えてあり、レンコンは高田の名産品。







城内は桜の名所。「日本さくら百選」、特に夜桜が有名。
大きな城郭だが、石垣は一切ないのも特徴。







「日本の軍事遺跡」 飯田則夫著 河出書房新社 2004年発行 

上越市
旧第十三師団

明治41年、長野・松本・新発田などに競い勝って城下町高田に陸軍十三師団が入城した。
高田城跡には司令部、歩兵第二十六旅団司令部、高田聯隊区司令部が本丸跡に、
それを囲んで、兵器支廠や騎兵第十七聯隊、弾薬庫などが城内に配置された。
また城の南側には、野砲兵第十九聯隊、歩兵第五十八聯隊、衛戍病院が分散して置かれた。
その後、軍縮で大正14年には師団は廃止され、旅団のみになってしまう。


戦後は、連合国軍や国鉄などに使われ昭和25年から警察予備隊が入り、現在は第2普通科連隊など1.200名が勤務している。










宇垣軍縮で第十三師団は廃止されたが、
昭和12年に復活。
上海・南京・徐州、以後中国戦線で戦った。





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海軍大津野飛行場

2021年02月08日 | 「戦争遺跡」を訪ねる
場所・広島県福山市大門町津之下  JFE福山構内(駐車場)
訪問日・2016.5.8  「2016 JFE西日本フェスタ in ふくやま」


津之下の飛行場が予備隊の病院だった時、小学校の遠足で歩いていった。
終戦で兵隊が復員した後、朝鮮人がその付近であやしい酒(カストリ)を造って売っていたようで、父も何度か買って飲んだそうだ。



経済成長期に日本鋼管が進出し、海に囲まれた飛行所跡から、海が消えて、建物もすべて消え、飛行場跡の面影は今まったくない。







「野々浜むかし語り」 野々浜公民館 1991年発行

水上飛行場

大津野に水上機の飛行場があり、村の上空を飛行機が飛び回っていた時代がある。
しかしそれは昭和18年から20年までのほんの僅かな短い期間でしかなった。

昭和16年、牛ノ首の山を崩してその土で海を埋め、飛行場を建設する工事が始まった。
昭和18年には、飛行場はほぼ完成して4月に飛行機がきた。

ここの飛行機は複葉単発で、フロートのついた二人乗りの水上機だ。
黄色の帆布張で、その色から「赤トンボ」と呼ばれていた。
これが当初は16~17機が配備され、毎日のように飛行訓練をする。

天気のよい風のない日には、赤トンボがブルブル爆音を響かせながら、上がったり下りたりを繰り返す。
降りるときは、大津野湾にザーッと水煙を上げながら着水する。

戦争が激しくなってきてアメリアの飛行機が飛んでくるようになると、飛行機をあちこちの島に持って行き、隠すようになった。
やがて飛行場の飛行機も実戦に使われるようになった。
練習機だから爆弾を付ける装置はない。
そこで夜間にそれを付け、次の日壮行の式が行われた。

飛行場は2回の空襲を受けた。
真昼間に単発の艦載機が、
1回目は4~5機、
2回目は2機が東や北の方から飛んできた。
沖山の上空でくるりと反転すると、飛行場に降下してバリバリと銃撃を加え、箕島の方へ飛んで行った。
銃弾が格納庫の鉄骨に当たると、真昼間なのに火花が上がるのが見えた。

当時の飛行場の山腹には、防空壕が3つも4つも掘られていたし、山の上には対空機銃もあった。
いかし撃ちあったらやられるとうことで、敵機が飛び去る頃に射ち始めたという事だ。












戦後まもなく大津野の航空隊は解散し、代わって進駐軍が飛行場に進駐してくる。
進駐軍の後、広島大学の水畜産学部が置かれた。
今度は自衛隊の駐屯地となる。
そして日本鋼管がくると製鉄所の一部となり、前面の海は埋め立てられて陸地となり、
水上飛行場の痕跡は全く消えてしまった。






(「野々浜むかし語り」)




「特攻」 ふくろうの本・河出書房新社  2003年発行

全機特攻

フィリピン特攻が終わったあと、
「陸海軍のすべての飛行機を特攻として使用する」
全機特攻化が1945年3月26日陸海軍局部長会議で決定した。

3月初め、連合艦隊に所属する航空部隊の指揮官など300人以上が木更津に集められた。
「航空燃料が底をつき、
今後は一機当たり一ヶ月に15時間しかない。
そこで赤トンボの4.000機を含め、全航空兵力を特攻とする」と訓示した。

「敵の速力は300ノット(時速540km)です。
100~150ノットの赤トンボは、バッタのように落とされます」
拒否する指揮官もいた。2名だが。

「要するに死ねばいいんだ」
と思わなければ、特攻には飛びたてない状況も生まれてきていた。



大津野飛行場からは9人が九州の基地を経由して沖縄へ出撃し、死んだ。






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昭忠碑ほか(青葉城跡)

2021年02月08日 | 「戦争遺跡」を訪ねる
場所・宮城県仙台市青葉区川内   陸軍第二師団・青葉城跡
訪問日・2018.8.6


仙台の観光名所・青葉城。
一番人気の独眼竜正宗の騎馬像。







その独眼竜の銅像近くに、もっと大きな記念碑が建っている。

お城のガイドさんがいたので聞いてみた。
「明治35年、日清戦争の慰霊碑として建てられました。
建設に明治天皇がからんでいるので、(昭和の)戦争中も金属類供出の対象となりませんでした」とのことだった。






続しらべる戦争遺跡の辞典」柏書房 より転記

昭忠碑

仙台市内観光の中心地・仙台城の真ん中にそびえている。
1899(明治32)年、地方の有志と第二師団有志が「昭忠会」を組織し、昭忠標(金鵄塔)を建設した。
仙台の街々からよくみられるように設計された石碑で、天皇への忠義をあらわした碑である。

前面のパネルには「昭忠」「元帥大勲位功二級彰仁親王書」とあり、高さ20mもある碑の上部には翼の幅6.7m、重さ17.5tの羽を広げた青銅製の「金鵄」(金の鵄)の像が置かれている。

「金色の鵄(とび)」は明治天皇の「神格化」政策のもとで象徴化されたものである。

経費総計2万3200円、うち9.000円は鋳銅金鵄等の金属部分であった。
碑の脇に明治天皇からの「金一封下賜」の碑があり「金百円」と記されている。


金属供出を免れている。招魂社完成までこの場所で毎年慰霊祭が行われた。






これも城内にある記念碑。

「満州事変軍馬戦没之碑」、陸軍第二師団は満州事変へ出兵。人も馬も戦没した。






青葉城の跡地は「城址」「神社」「文化施設」「東北大学」」等が現在使用している。
護国神社の占める場所や影響が強すぎるように感じた。




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宿毛海軍航空隊・第21突撃隊特攻基地本部

2021年02月08日 | 「戦争遺跡」を訪ねる
場所・高知県宿毛市宇須々木  宿毛海軍航空隊・第21突撃隊特攻基地本部
訪問日・2018年10月2日

宿毛市史
宇須々木の海軍基地
宇須々木の海軍基地については当時軍の機密保持が厳しかった為、資料はほとんどない。
聯合艦隊がひんぱんに宿毛湾に投碇しはじめたのは、昭和7年頃からである。
宇須々木の基地使用は昭和8年頃からで兵舎2棟の完成は昭和11年で、司令は海軍大佐が来ており兵員約200名。

おもに艦載機の寄港基地として利用され陸揚げ、給油、整備をしていた。
昭和13年頃より艦隊の入港も少なくなり、入港しても小艦艇が主であった。
訓練は定期的でなく、訓練日程も知らされず、実戦が主になったもようである。



もともと海軍基地だったが、特攻基地化していった。

昭和20年日本敗戦が必至頃になるころ、
米軍の上陸が予想される地域は”竹槍訓練”に励んだ。
宿毛湾には、ベニヤで造った爆弾付き一人乗りのボートが配置され、16~17歳の少年兵が特攻隊員として必死の攻撃を待っていた。
べニヤボートは”震洋”と呼ばれ、上陸阻止のための日本海軍の最大戦力だった。
高知県内には数カ所にわたり震洋基地があった。
岩穴に隠れ、上陸用舟艇が陸に向かってきたら爆弾抱えた小船で体当たり攻撃をして死ぬべニヤボート。
終戦時には高知県や千葉県などに5.000艇程度配置されていた。







「しらべる戦争遺跡の事典」 柏書房 2002年発行

海軍航空隊宿毛基地
四国西南端に置かれた海軍航空隊と特攻基地


豊後水道に向かって開口する宿毛湾は、天然の良港として知られている。
須々木にはアジア太平洋戦争時、海軍航空隊が置かれ、
戦争末期には特攻基地となり司令部が置かれていた。

海岸部は戦後埋め立てが行われ、周囲の景観はかなり変貌しているが、
海軍の諸施設が遺構として数多く残っている。






(弾薬庫跡)







もともと宿毛湾は自然条件がよいのと、場所的に瀬戸内海の玄関口になるので軍事基地が設けられた。
宿毛湾は水深もあり、大正より日本海軍の艦隊基地の一つとなり
昭和8年には海軍航空隊も設置された。
宿毛沖の沖の島~鵜来島間は戦艦大和の試験航行に使われた。
昭和20年3月、第21突撃隊特攻基地本部となった。

(宇須々木公民館にある宿毛教育委員会の説明版より)







(1)海軍航空隊以前の遺構
宿毛湾はしばしば連合艦隊の寄港地となっていた。
1933年頃からは艦載機の訓練や補給、搭乗員の休養のために頻繁に利用されるようになった。
1936年頃には小学校を含む周囲一帯を海軍用地として買収して本格的な基地整備が急速に進むのである。
桟橋が残っており、今も利用されている。

(2)海軍航空隊の遺構
宿毛湾航空隊は、1943年4月1日に開隊し、44年1月に指宿に移動するまで水偵搭乗員の練成教育が行われた。
隊員250名を有し、滑走台(地元ではスベリと呼んでいる)の残存状況は良好で、
岸壁から5.5度で傾斜して海面下に延びている。
駐機場には水上機を固縛するためのアンカーも随所に認められ、中には鉄製のリングがそのまま付いているのもある。
弾薬庫は延長57m、奥行10m以上、高さ3.3m、厚さ23cmのコンクリート製の外壁が巡り、内側には赤煉瓦の建物がある。


(3)特攻基地の遺構
航空隊が移動した後、須々木は水上・水中特攻訓練のための訓練基地、宿毛派遣隊となる。
45年3月に特攻戦隊が編成され、呉鎮守府突撃隊に編入される。
45年7月30日には第八特攻戦隊司令部が須々木に置かれた。
震洋や回天などが配置され土佐湾と豊後水道の守りについた。
ほとんど岩盤に掘られた横穴である。












海軍跡地は宿毛市街地から数キロ離れている。
住民はここで見た、
兵器や兵隊や訓練を、話すことは禁じられていた。
極力見ないようにした。

戦後、開発等で各地の軍事遺蹟がなくなったが、
ここ宿毛市宇須々木は地理的にも大きな変化がなく遺構は残った。
配置された震洋は終戦ににより出撃(=死)を免れた。


宇須々木は静かな漁師町。
当時の面影を偲べる宇須々木だった。




(水上機のスベリ跡)




宿毛市史

昭和20年5月初旬頃における第2総軍の情勢判断では、
敵は南部九州と共に南部四国に対し、同時又は相前後して作戦する公算が大であるとした。
宿毛湾に一個兵団を配備して持久する計画であった。

また高知、須崎、宿毛、小松島等には海軍特攻部隊が配置された。
6月上旬に編成完結、陣地構築もなく部隊を配置したばかりで市内の各学校を兵舎に使用、学校はお寺や神社等で分散授業をするというような状態であり、
小銃等も数が不足して歩兵全員に支給できず、
竹光の銃剣、竹製の水筒等その装備は極めて劣っていた。





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