(2012.10.16 愛媛県西条市「神風特攻記念館」)
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「特攻」 栗原俊雄著 中公新書 2015年発行
フィリピンのあと、主戦場は沖縄である。
特攻は主として南九州の特攻基地を拠点に繰り返されていく。
大日本帝国陸海軍には、ほかに取りえる作戦が無かった。
頼るのはただ「精神力」であった。
生命の犠牲をいとわず忠節を尽くす精神だが、米軍に対する物量と科学・技術力の劣勢は不可能であった。
空母の回りに護衛艦を配置し、レーダー網を駆使して、手前200~300キロに護衛機を飛ばした。
この結果、特攻機は目標の空母に突っ込むどころか、その上空にたどり着くことさえ困難になった。
もはや米軍と戦える状態ではなかった。
「海軍はこれ以上戦えない」。
連合艦隊司令長官として豊田はわかっていた。
その事実を、政府に対して豊田以上に説得力をもって言えるものはいなかった。
しかしそれを言わなかった。
犠牲になるのは末端の兵である。
特攻は戦果そのものより、出撃すること、敵に突っ込むことが自己目的に転化していた。
大和の特攻
大和は大日本帝国海軍の象徴であった。
それに乗ることは、誇りである。
だが、膨大な燃料を消費する巨艦は、戦争末期には「厄介者」視されていた。
海軍は「沖縄水上特攻」を決める。
第二艦隊では伊藤整一司令長官以下、勝算のない特攻への反対論が強かった。
説得のため草鹿龍之介参謀長(中将)らを説得に向かわせた。
「要するに、一億総特攻のさきがけになってもらいたい」。
戦艦大和は実質2時間程度の戦闘で撃沈された。
乗員3.332人のうち、3.056人が散った。
艦隊全体では4.044人が死んだ。
米軍は計10機で、12人が死んだ。
上官から「特攻」艦隊へ参加を聞かれた人はいなかった。
特攻戦死者は「二階級特進」が原則だが、特進の対象とはならなかった。
2008年、生還者や遺族の強い要望により”準特攻”として特攻名簿に加えた。
人間魚雷回天
母潜水艦が敵の至近距離まで近づくことを前提としている。
回天を出動させる以前に、母艦自体が敵艦に近づくことさえ難しかった。
回天を積んだ潜水艦8隻が撃沈され、845人が戦死した。
戦果に比べ、その損失は大きすぎる。
水上特攻機「震洋」
エンジンは自動車用を転用、製造は容易で6.200艇が完成した。
戦死者は2.500人以上。フィリピンと沖縄での出撃が記録されている。
(2012.10.16 愛媛県西条市「神風特攻記念館」)
(碑文は、源田実で「人類六千年の歴史のなかで、神風特攻隊ほど人の心をうつものはない・・・」で始まる。本心で思っていたなら、
源田実は自ら実践していたであろう)