しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

特攻④戦艦大和の水上特攻

2020年08月11日 | 昭和20年(終戦まで)

(2012.10.16 愛媛県西条市「神風特攻記念館」)


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「特攻」 栗原俊雄著 中公新書 2015年発行


フィリピンのあと、主戦場は沖縄である。
特攻は主として南九州の特攻基地を拠点に繰り返されていく。
大日本帝国陸海軍には、ほかに取りえる作戦が無かった。
頼るのはただ「精神力」であった。
生命の犠牲をいとわず忠節を尽くす精神だが、米軍に対する物量と科学・技術力の劣勢は不可能であった。

空母の回りに護衛艦を配置し、レーダー網を駆使して、手前200~300キロに護衛機を飛ばした。
この結果、特攻機は目標の空母に突っ込むどころか、その上空にたどり着くことさえ困難になった。

もはや米軍と戦える状態ではなかった。
「海軍はこれ以上戦えない」。
連合艦隊司令長官として豊田はわかっていた。
その事実を、政府に対して豊田以上に説得力をもって言えるものはいなかった。
しかしそれを言わなかった。
犠牲になるのは末端の兵である。
特攻は戦果そのものより、出撃すること、敵に突っ込むことが自己目的に転化していた。




大和の特攻
大和は大日本帝国海軍の象徴であった。
それに乗ることは、誇りである。
だが、膨大な燃料を消費する巨艦は、戦争末期には「厄介者」視されていた。
海軍は「沖縄水上特攻」を決める。
第二艦隊では伊藤整一司令長官以下、勝算のない特攻への反対論が強かった。
説得のため草鹿龍之介参謀長(中将)らを説得に向かわせた。
「要するに、一億総特攻のさきがけになってもらいたい」。


戦艦大和は実質2時間程度の戦闘で撃沈された。
乗員3.332人のうち、3.056人が散った。
艦隊全体では4.044人が死んだ。
米軍は計10機で、12人が死んだ。
上官から「特攻」艦隊へ参加を聞かれた人はいなかった。
特攻戦死者は「二階級特進」が原則だが、特進の対象とはならなかった。
2008年、生還者や遺族の強い要望により”準特攻”として特攻名簿に加えた。



人間魚雷回天
母潜水艦が敵の至近距離まで近づくことを前提としている。
回天を出動させる以前に、母艦自体が敵艦に近づくことさえ難しかった。
回天を積んだ潜水艦8隻が撃沈され、845人が戦死した。
戦果に比べ、その損失は大きすぎる。

水上特攻機「震洋」
エンジンは自動車用を転用、製造は容易で6.200艇が完成した。
戦死者は2.500人以上。フィリピンと沖縄での出撃が記録されている。



(2012.10.16 愛媛県西条市「神風特攻記念館」)
(碑文は、源田実で「人類六千年の歴史のなかで、神風特攻隊ほど人の心をうつものはない・・・」で始まる。本心で思っていたなら、
源田実は自ら実践していたであろう)




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特攻③特攻は「志願」か・・・その2

2020年08月11日 | 昭和20年(終戦まで)
これは、あくまで、ほんの一つの場合にすぎないたが、
自分が直接聞いた唯一の話なのでページにする。


(おじ16才・松山予科練生)

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おじ(母の弟)の話

募集じゃなあなかった。希望は募らなんだ。
事務局がわかる。
個人の家族状況、兄弟。
成績もわかる。


年齢が若い
成績がよい
長男・ひとり子をはねる

特攻に選ばれるには三つの条件がある。
ワシはこれに選ばれた。
すぐに選ばれた。
三拍子揃うとったんじゃ。


韓国の鎮海。
鎮海いうのは日本の海軍の要港じゃった。
呉・横須賀・佐世保・舞鶴
要港が今の陸奥の大湊それとならんで要港じゃった。
昭和20年8月15日付で「鎮海海兵団付け勤務」を命ずる、という辞令を受けた。
それが、(8月の)6日か7日ごろ。一時中止になった。
ワシは(名誉の特攻に選ばれ死に行くことに)張り切っとったんじゃ。

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特攻②特攻は「志願」か

2020年08月11日 | 昭和20年(終戦まで)

2012.10.16 愛媛県西条市「神風特攻記念館」


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「特攻」 栗原俊雄著 中公新書 2015年発行

大西はこう述べた。
「戦局はみなも承知の通りで、今度の『捷号作戦』にもし失敗すれば、それこそ由々しい大事を招くことになる。
したがって第一航空隊としては、ぜひとも栗田艦隊のレイテ湾突入を成功させねばならいが、敵の機動部隊を叩いて、少なくとも一週間くらい、敵の空母の甲板を使えないないようにする必要がある。
そのためには、
零戦に250キロの爆弾を抱かせて体当たりをやるほかに、確実な方法はないと思うが・・・どんなものだろうか」
正攻法では、米軍にとうていかなわない。そのことは、大西ならずとも知っていたことだ。

連合艦隊のレイテ湾突入は迫っている。
単座で、副座の爆撃機よりも軽量で高速な「零戦」は機動性に優れ、敵艦に突入する可能性が高いとみられていた。
昭和19年10月19日夜10時、
甲種飛行予科練習生10期生23人を集合させた。
「感激に興奮し全員双手を挙げての賛成である。
小さなランプ一つの薄暗い室で、キラキラと目を光らせて立派な決意を示していた顔つきは、今でも私の眼底に残っている」

だがこの時集合させられた一人、の回顧には
思いがけなない話に、返答ができず棒立ちとなる10期生たちに
「行くのか、行かんのか!」と怒鳴ると、
隊員たちは反射的に全員手を挙げたとうのだ。



特攻は搭乗員らの「志願」によったものという証言、記録は多い。
一方で志願ではなく事実上の強制もしくは強制そのものであったという報告も多数残っている。
さらに戦艦「大和」以下第二艦隊10隻の沖縄水上特攻の場合、命令そのものが特攻であり、兵士は参加の意思を聞かれることはなかった。
生き残った者たちには、部下の「自発性」を縷々強調する機会があった。
死んでいった部下にその機会は永遠にない。



1/3は希望していなかった?
強制的であったとしたら、強制した者たちの責任が厳しく問われる。
自発的でなければ都合の悪い者たちがいた。

死へのカウントダウン
編成から出撃までの時間が長いと、士気を維持するのが難しい。
時間を短くするしかない。
命中率
フィリピン戦線では、命中率27%。
沖縄戦以降は8%という統計がある。

戦果とコスト
撃沈合計47隻
航空特攻は、海軍2431人、陸軍1417人 計3.848人
1隻沈めるために81人の兵士が死なねばならなかった。


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特攻①関行男海軍中佐

2020年08月11日 | 昭和20年(終戦まで)
関海軍大尉は初の特攻隊長として知られている。
戦死後、二階級特進して中佐となった。

なぜ関大尉が選ばれたのか?
割と醜い事情があったようだ。

①来たばかりの人を選んだ②戦闘機乗りでない人を選んだ。
③独り子なのに選んだ④海兵出で選んだ。
このうち、やむをえないのは④の海兵卒という事情くらいだ。

特攻の始まりからして、特攻の悲劇をあらわしている。




2012.10.16 愛媛県西条市「神風特攻記念館」

関大尉は新婚だった。
戦後、妻は再婚した。
戦後、母は学校の用務員で暮らした。遺族年金制度が始まるころ亡くなった。
関家は途絶えた。



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「特攻」 栗原俊雄著 中公新書 2015年発行


関は1ヶ月ほど前、台湾からマバラカットへ移動してきたばかりだった。

もともと艦上爆撃機乗りで、零戦乗りではない。

「指揮官には、兵学校出のものを選ぼうじゃないか。」
同じ士官でも大学出なで出身の士官とは、はるかにその地位は高かった。
「九死に一生」どころか「十死零生」の特攻は、戦争中といえども異常な作戦である。階級の低い兵士だけにやらせたら士気が下がるかもしれない。
死ぬことがわかっている作戦に、わざわざ腕利きの零戦乗りを使う必要はない。


『神風特別攻撃隊の記録』のなかで、関はたった5秒間で「ぜひ、私にやらせて下さい」と従容として死を決意する、若い士官に描かれている。

同盟通信の記者によれば、「日本もおしまいだよ。」




初めての特攻隊を送り出した参謀・副長・飛行長は戦死することなく、戦後を生きた。
23歳で死を選ばされた関には、事実を伝える機会が無かった。
生き残った者にとって都合のいい記憶と記録は語り継がれ読み継がれて「史実」になってゆく。



海軍省は1944年10月26日「必死必中の体当たり攻撃をもって、航空母艦一隻・・・・、の戦果を収め悠久の大義に殉ず。忠烈万世に燦たり」と布告した。

「毎日新聞」 
「神風隊こそは日本人のみ敢行し得る至誠の華である。
われわれはこの最後の軍神によって吹き起こされた神風に一億必死必中の新たな決意を以て続かねばならない、そこにのみ神風は吹く」
新聞は事実上、政府の広報紙だった。
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