しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

九軍神・・・その1

2020年08月28日 | 昭和16年~19年
「軍神」  山室建徳著  中公新書 2007年発行



九軍神誕生
昭和17年(1942)3月7日の各新聞は、一面のすべてを割いて、前日に大本営から発表された真珠湾攻撃での特殊潜航艇の作戦の詳報を掲載した。
真珠湾攻撃に特殊潜航艇が参加していたことは、10日後の大本営海軍部がすでに発表していた。
そこには「警戒厳重を極むる真珠湾内に決死突入し、少なくとも戦艦アリゾナ型一隻を轟沈したるほか大なる戦果を挙げて敵艦隊を震駭せり」とある。
この時、国民は知ったのである。
「我が方の損害」は攻撃機29機と特殊潜航艇5隻が挙げられていた。




(「甲標的」江田島市 元・海軍兵学校 2013.1.15)


特殊潜航艇

特殊潜航艇はどんなものか公にされていなかった。
潜水艦育ての親・末次大将も、
「特殊潜航艇がどんなものか僕にもわからない。
しかしアリ一匹も通さない真珠湾港口をくぐり港内ふかく突入し、
万死あって一生さへないところへ彼らは飛び込んでいったのである。
大君のしこのみ盾でなくてどこの国の人間が出来るわざか」と賞賛する。
死を強要する作戦だったのでなく、参加者たちはそもそも生還など眼中になかったというのである。
「殉忠無比の攻撃精神は、実に帝国海軍の伝統を遺憾なく発揮せしるもの」と結ばれている。
気なるのは、5隻と公表されていた潜航艇の数に、まったく言及していない点である。


九軍神一捕虜

海軍省は大本営発表と同時に「九勇士」の名前を発表している。
生前の階級別にみると
大尉1、中尉2、少尉1、一等兵曹2、二等兵曹3で、
将校が4名、下士官が5名である。
当時の日本で軍人が捕虜になることは、たいへんな不名誉なことであった。自決してくれることを願ったかもしれないが、生き延びて戦後帰国している。(平成11年死亡)
しかし輝かしい九軍神と屈辱的な一捕虜という組み合わせは、絶対に認められない事態である。
このため特殊潜航艇の形態はぼかされたままで、軍神たちの生い立ちや出撃直前の様子といった事柄の方に焦点が当てられてゆく。
3月6日の夜のラジオで海軍大佐が九軍神の詳細を話した。
冷静沈着に出撃、さらに辞世の句『靖国で会ふ嬉しさや今日の空』が紹介された。
強調されたのは、
「自己のより幸福な生活を追求する人生観という米英軍人気質」との戦いで、
「一死奉公の尽忠に燃える大精神」
「戦の神」は、大東亜戦争後の世界永遠の「平和の神」となると展望されている。


戦争理念

東京日日新聞 1942.3.7
「勝敗を定めたるは兵器の優劣に非ずして兵士愛国心の厚薄如何にあり」
菊池寛
楠木正成から明治の軍神までと比較し、
「長時間に亘って死を覚悟は、ちょっと真似のできない本当に尊い気持。
この壮烈さに匹敵する勇士はを過去に求めることは困難だ」
吉川英治
「古今のいかなる純忠にくらべても比すべきものなし」
「勇士を生んだ母なる人々にも掌を合わせたい心地がします」
百年後までを見通すと
「世界人から平和の軍神として仰がれる日がある」だろうという。


偉大なる母たち

朝日新聞 1942.3.12
小楠公の母、吉田松陰の母,乃木将軍の母らと同じように「この母人の大いなる尽忠、愛国の血」が育てた。
「暁から楮の皮剥ぎ」「笈を背に力仕事」「夫を説き伏せ中学へ」「星空に痩田を耕作」といった見出しが並んでいる。
子供のために全部を無条件に捧げつくす。
軍人が国家のために捧げつくすのと、いささかも変わりない。
「自分の子供」だからでなく「国の子供、陛下の子供」なのだ。

コメント
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