しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

風船爆弾の矢掛小田工場・・・その3

2020年09月03日 | 昭和16年~19年
「風船爆弾」吉野紘一著 朝日新聞社 2000年発行




風船爆弾




無音でアメリカ大陸のあちこちに連続的山火事を起こさせ、敵に十分な恐怖感を抱かせる。
少なくとも、最低でも30kgを超える爆弾または焼夷弾を吊るして放球する必要があると考えられた。

高度維持装置や砂袋などの重量も合わせて200kg近い重量を、高度10.000m帯の偏西風に乗せるための浮力が逆算された。
結局、気球の直径は10mと決まった。

気球には水素ガスを充填した。

高度10.000mの標準大気は約260ヘクトパスカルで、風船に充填する水素ガスに自由な膨張を許すならば地上にくらべで約4倍の体積に膨らむことを意味していた。

もしも水素ガスを満杯にして放球したならば、気球はたちどころに上空で破裂することになる。
かといって、気球の内部の膨張をおそれるあまり水素ガスの量をすくなくすると浮力が落ちて、低層の地上風にあおられて爆弾や焼夷弾が基地の建物や周辺の山などに激突して危険なのである。

結局「排気ガスバルブ」を気球の下部にとりつけることにした。


気球に使われた和紙の原料は100%楮(こうぞ)である。
水素ガスの膨張に耐える耐圧強度に優れている。
手すき和紙の工程は手の込んだ作業の連続だ。
毎年晩秋から冬にかけて、楮の生木を伐採し、
煮え立つ大釜の上で蒸したあと、表皮を手作業ではがす。
これを天日乾燥する。「黒皮」という。
黒皮を流水にひたしながら、足踏み作業と包丁を使って丁寧に表面の黒皮部分を除去する。
これを何度も水洗いし、再び天日で乾燥させると「白皮」になる。
白皮を水に浸したあと、長時間大鍋で煮沸する。
煮沸の完了後は川の浅瀬や人工プールなどの「晒し場」に楮を出して二昼夜ほどさらす。
晒し場から取り出した楮を、水分を残した状態で木製の棒でとんとんと叩く。この作業を叩解と呼ぶ。
これでようやく楮が紙すきの原料の状態になる。


気球紙づくりでは、この叩解にたっぷりと時間をかけることを軍からやかましく指導されている。


こんにゃく糊は97%水でできている。
二枚の楮和紙に水の分子を敷きつめた状態は、水素ガスを通さないのである。
しかも何層にも重ねて貼り合わせてある。
ただし、貼り合わせの作業中に空気が混入してはいけなかった。



10m気球の生産態勢

姿を消したこんにゃく

和紙産地で、死に物狂いの気球和紙生産が本格化してきた。
こんにゃく粉も、にわかに生産量が増えるものではない。

生産地はもとよりすでに粉末に加工されたこんにゃく粉もすべて差し押さえられた。
こんにゃく問屋は手もちの、こんにゃく粉をすべて陸軍に供出した。
民需用はいっさい考慮の外である。

こんにゃく問屋組合の勤労奉仕隊員の話
「昭和19年の4月か5月にかけてでした。
東宝劇場、有楽座、日劇、国技館などに大量のこんにゃく粉を届けました。
それと、日劇の窓という窓を、防諜用だといって刷毛で塗ったものです。
日劇は完全に外部と遮断されて、作業場として使われました」。


基地の決定

風船爆弾の攻撃時期は、偏西風の風速が高まるシーズン、つまりは晩秋から冬にかけての時期しか考えられなかった。
和紙気球も70時間を超える飛翔は不可能だろうと思われた。
晩秋から冬となると、ロッキー山脈はもちろん大森林地帯も雪で覆われ、当初陸軍が想定していた山火事を連鎖反応的に起こして、
敵国民がパニック状態に陥るといった図は想像しにくかった。
しかし、もはや選択の余地はなかった。

放球直後に地上風の影響を受けにくい。
防諜の配慮が加えられた。
一・福島県勿来
二・茨城県大津
三・千葉県一宮

一宮と勿来は海岸に向かって線路が建設された。

土地接収
基地予定地の地権者は陸軍将校の「10日以内に家と土地を軍に明け渡す」よう通告した。
うむをいわせぬ命令である。


水素
大津基地には水素発生装置が配置されていた。
勿来と一宮は毎日、昭和電工などから運ばれた。
東京の空襲激化後ボンベの輸送はままならなくなった。

「ふ号」の放球数

1944年11月 700
1944年12月 1200
1945年1月 2000
1945年2月 2500
1945年3月 2500
1945年4月 400
という。

函館に一つ、
秋田県に二るの気球が迷って着地したため、憲兵が回収にまわった。

放球基地の近くを通過する列車はブラインドを下げるよう憲兵に命じられた。
住民には公然の秘密だったが、しゃべれば憲兵の厳しい検索があるためだれもが口を閉ざして生活した。

この時代、アメリカ軍でさえ本確的な高層気象の観測はおこなっていなかった。
したがって、「ふ号」に伴う高層気象観測をおこなっていた日本の陸軍気象部は、当時としては最高水準の貴重なデータを残していたはずなのだが、
敗戦とともにすべての書類を焼却してしまい、まったく現存していない。

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