しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

風船爆弾の矢掛小田工場・・・その4

2020年09月03日 | 昭和16年~19年
「風船爆弾」吉野興一著 朝日新聞社 2000年発行



気球兵器の裏面
「ふ号」は、爆弾投下後は自爆して「消える」はずだった。
可燃性の素材ででき、器材もマグネシウム合金を使う試みもあった。

「ふ号」と生物兵器
細菌・害虫などは処女地へ行くと外敵がいないため予想外の繁殖を来すことがある。
研究も行われていたが、攻撃の企画が確立されたとき、使用してはならいないと上から達せられた。
研究は進められた事実はある。

常石敬一は「登戸研究所が、牛に死をもたらすウイルスを風船爆弾に積み込む研究していた」と書く。



アメリカ側の被害

モンタナ、ワイオミング、オレゴン、アラスカ、カナダなどで巨大な紙風船が発見され始めた。
これらの情報は、軍や警察、FBIにも届けられていた。
「ふ号」はアメリカに到着していたのである。

1945年1月4日、決定的な報告が届く。
オレゴン州で気球の焼夷弾が炸裂したのが目撃された。
おなじ日、カリフォルニアで金属装置をつけた紙気球が完全なかたちで捕獲された。
この物体が日本軍による無差別攻撃兵器であることはもはや間違いなかった。
米軍は紙気球の情報を一本化するのを決めた。

もっとも警戒されたのは、日本軍が生物・化学(バイオ・ケミカルいわゆるBC)兵器を使用することである。
すでにルーズベルト大統領が、1942年BC兵器の先制不使用の声明を出していた。
アメリカ側の抱いていた危惧は的を得ていた。
陸軍省は、家畜や農業作物の病気が発生するのを監視する大量のスタッフを西部各州に配置した。

火災の早期発見のため、空軍機とパイロットを各地に配置した。
飛んでくる気球の発見にも全力を挙げた。

200基のレーダーと高射砲を緊急に配備させた。
これは徒労に終わった。
和紙とコンニャクでできた「ふ号」はレーダーには映らないのである。


到着した「ふ号」の数
アメリカ軍が把握した報告例は345例であったとし、戦後361個としている。




「ふ号」の調査
紙と紙の接着剤がどのような素材かわからなかった。こんにゃく芋はアメリカになかった。
東洋の神秘と思えた。


放球場所
偵察機の写真が徹底的な分析が行われた。
砂が海砂、微小な化石分析で一宮基地が判明。
スラグが含まれていることから大津基地が判明。


オレゴンの悲劇
爆弾に手を触れ、牧師家族(夫人・妊婦と子供5人)の6人または7人が亡くなった。
第二次大戦で外国軍による攻撃で、市民が亡くなった唯一の例となった。


気球攻撃の中止
約6.000といわれる気球が残っていたが、水素の供給が間に合わない。
アメリカから被害状況が伝わらない。
東京空襲で大量の未完の「ふ号」がすべて焼けた。
偏西風の弱まる時期になった。

4月になっても大津基地からは水素ガス装置があるので放球していた。
4月10日ごろの気球が最後になった。



終戦

玉音放送の直前、陸軍省から極秘の指示が出されていた。

「方針
敵に証拠を得らるる事を不利とする特殊研究は全て証拠を隠滅する如く至急処置す。
実施要領
ふ号、および登戸関係は・・」
全体を見て、生物兵器関係の証拠を隠すことで一貫している。
この指示が伝達されるやいなや、関係者はいっせいに書類の焼却を始め、きれいさっぱりと焼却してしまった。
おかげで今日まで「ふ号」関係の命令書や受領書はむろんのこと、原料の調達や物源を示すデータなどがほとんど存在していない。



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