しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

9月3日  ロシアの「対日戦勝記念日」

2022年09月04日 | 昭和20年(戦後)

日本の書物では、
日ソ中立条約を突然破棄して攻め込んだ
終戦後も攻撃した
シベリアへ60万人抑留した
と書かれているが、
ロシアでは、”侵攻”でなく”解放”と書かれているようだ。


山陽新聞・記事(2022.9.4)

ロシアが太平洋戦争での対日戦勝記念日としている3日、
北方領土の択捉島や国後島、色丹島で記念行事が行われた。
ロシアは旧ソ連が日本統治下の満州や樺太南部、千島列島に侵攻したことを
「軍国主義からの解放」
と位置付けており、実効支配を誇示した。
ロシアは米戦艦ミズーリで降伏文書に調印した9月2日を大戦終結の日と定めたが、
2020年になって
9月3日を「対日戦勝記念日」に変更した。

 

(朝日新聞web 戦勝記念パレード 2022.9.4)

 

・・・


「大日本帝国崩壊」  加藤聖文 中公新書 2009年発行

樺太

昭和20年8月11日、ソ連軍は本格的な攻撃を開始した。
8月14日午後6時、ポツダム宣言受諾が伝えられた。
ソ連軍の攻撃は依然として激しく続き、16日夕になって古屯は占領された。
第八八師団は、停戦と戦闘という相反する命令によって現場で混乱が生じていた。
8月17日太平洋炭鉱病院の看護婦による集団自決が起きている。
8月20日未明、要港であった真岡に艦砲射撃を加えた後、上陸しその日のうちに制圧した。
真岡から豊原に進撃を続け、23日まで激戦が続いた。


北千島

8月18日未明、今度は北千島の占守島に上陸したとの報がもたらされた。
千島攻略にとりかかったのである。
占守島での戦闘は21日の停戦まで続いた。

 

北海道の占領要求

8月16日スターリンは、
日本の降伏地域に、千島列島全部を含めること、
釧路と留萌を結ぶ線以北の北海道を含めること
を要求した。
北海道占領を求める根拠は、
1918年から22年にわたった日本軍が行ったシベリア出兵の代償であると主張した。
トルーマンは、
全千島をソ連軍の担当とすることを認める一方、
北海道占領は拒絶する返信をした。
ヤルタ協定で千島列島をソ連に引き渡すことを取り決めている以上、拒絶することは困難であった。

 

在留日本人

ソ連は在留日本人の送還にはまったく興味を示さなかった。
反面、在留邦人に対して
ロシア人と同じ労働条件、同じ給与、同じ職場を与えた。
実生活の面では大きな違いはほとんどなかった。
学校も、神社も、日本人の習慣に対して寛容であった。
ロシア人の間では、日本人がソ連国民になると見ていたようで、
多民族国家であるソ連にとって、とくに日本人を外国人扱いして排除する必要性もなかった。
樺太は米を生産できなかったので、ソ連は満州や北朝鮮から、米や大豆を移入し日本人へ配給した。

 

「引揚」

米国は、占領地や植民地に在住する日本人を本国へ送還することにこだわっていたが、
ソ連は逆に日本人の送還に無関心であった。
しかし日本人は、日本への引揚を望み、日本政府もGHQに促進を働き掛けた。
1949年7月の第五次引揚までに292.550人が引揚げた。
共産主義国家ソ連の内実を実体験を通じてもっとも知っていたのは彼らだった。
しかし彼らの生活者の目線は、戦後日本社会で理解されることはなかった。
樺太には敗戦時に約23.500人にのぼる朝鮮人がいた。
ソ連は国交を結んでいる北朝鮮への帰国は認めていた。
しかし彼らの多くは南朝鮮出身者であり、韓国への帰国を希望した。
彼らの多くは帰国できず、
1990年の韓ソ国交樹立まで待たねばならなかった。

・・・

 

 

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