しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

写真を隠す、銅像を隠す、忠魂碑を隠す、鳥居を隠す  

2023年08月22日 | 昭和20年(戦後)

終戦直後は食糧難に代表されるが、あわてふためく行為も多々あった。

家には、天皇皇后の写真を額に入れて飾っていた。
その額は、
「戦後の一時、取り外して押入れの一番奥に隠していた」
と祖母が話していた。
「これを見られたらアメリカに捕まる」
のが、その理由だった。

そんな理由で、戦争直後に、
いろんな物が焼かれたり、壊されたり、隠された。
廃却されたものは戻らないが、
隠されたものの多くは数年後に復活されたものが多い。

笠岡市内では学校の校庭の地中から石の鳥居がでたり、和気清麻呂像が民家に隠されたりしたが、
福山市の備後護国神社鳥居も興味深い。

 

(2021.9.29 福山市草戸町)

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「福山市多治米町誌」

新築中の護国神社は昭和20年8月8日の空襲で焼けた。
戦後「このままだと取り壊されるおそれがある」と市当局者は近くの地中に二基とも解体して埋蔵した。
神社跡は福山市民球場ができ、次いで昭和43年市立体育館が建設された。

その後、備後護国神社として昭和33年福山城背の阿部神社を改築し合祀された。
一基は昭和36年に発掘し現備後護国神社参道に再建された。
もう一基の方は埋めた場所が分からなくなり「幻の鳥居」と呼ばれていたが体育館駐車場下にあると分かり、昭和55年秋の大祭に間に合うよう再建された。

 

・・・

「美星町史」  美星町 昭和51年発行
進駐軍の命令といって忠魂碑がこわされ、
戦争に関係あった書類は次々に焼き払われた。
青年学校にあった教練銃銃剣術用木銃、防具や、女生徒用薙刀は知らぬ間に埋めたり、焼き捨てられた。

・・・

 

 

(学校から庄屋さんの庭に移動して隠し、その後学校に再建された和気清麻呂像=笠岡市立大島小学校)

 

・・・

「岡山県史」
終戦後、天皇の巡幸に関し
天皇の巡幸が小学校であれば、天皇到着以前に次の物を必ず撤去するよう通達が出た。
二宮金次郎像
和気清麻呂像
奉安殿
忠魂碑
御真影
原型をとどめないように撤去すること。

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「岡山県教育史・続編」 岡山県教育委員会  昭和49年発行

戦後の教育・敗戦処理

昭和20年8月16日 学徒動員解除
昭和20年8月24日 学校教訓、防空関係の訓令が廃止
昭和20年8月25日 「対新時局緊急措置に関する件」が、岡山県発令
一 御真影、詔書類は奉安殿、奉安所に奉還すること
二 興亜室は之を撤去すること
三 校内一円に亘り、写真・ポスター・米英ソ支を敵視し、或いは戦意昴揚のための一切の資料は之を撤去すること
四 図書・雑誌や学徒の綴り方・図画・習字にして、右の類するものは適当なる措置をすること
五 戦利品・竹槍塔は改造する等適当に措置すること
六 米英ソ支を敵視する音楽は一切歌踊せしめざること
七 銃器類の措置は県教学課の指示を俟つこと
八 その他、簿冊並びに施設等右に類するものは早急に適当に措置すること
九 米英ソ支の軍隊進駐することあるときは、非礼不遜なる態度言動を慎ましめ、之を刺戟せざること。
十 殊に女子学徒に対しては、最も厳粛なる態度を堅持し、苟も米英ソ支軍民に寸分の間隙を見せざる様訓練すること
十一 保護者・家庭に対しても本通牒の趣旨を徹底せしめること
十二 九月一日以後之を遂行す

・・・

 

 

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