茂平の苫無の松林の西側(内海=うちうみ)に沿って、塩田跡が残っていた。
「戦争が終わって2~3年ほど、ここで塩を作っていた」という話だった。
茂平の塩田は入浜式の塩田ではなくて、
「安寿と厨子王」の、安寿がしていた桶で汐汲みの”揚浜式”の製塩だった。
戦中から戦後の一時期は、原始時代に戻ったようなことを、
大真面目に、そして一途にして、その日の生活をやりくりしていた時代だった。
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「岡山の女性と暮らし 戦前・戦中の歩み」 岡山女性史研究会編 山陽新聞社 2000発行
自家製塩の奨励
塩田労働者を徴兵・徴用で奪われて、塩の生産も落ち込んだ。
前年晩秋から、漬物用の塩の不足が問題となり、
この5月、国は専売法での製塩制限を撤廃して、自家用製塩の奨励を始めた。
曲折した斜面を作り、何度も海水を流して17度程度のかん水にして、煮詰めれば一日一キロの塩は取れると指導したが、燃料不足で不可能とわかった。
かん水をそのまま利用せよ、という指導に変わった。
さらに輸送不足も加わり、漬物用塩の特配が遅れ、山間部で深刻な問題となった。
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「瀬戸内の産業と交通」 横山昭市 瀬戸内海環境保全協会 昭和54年発行
塩飢饉
第二次大戦が激しくなると、
入浜式塩田も資材や労働力の不足で荒廃し、
塩の生産量も激減した。
戦時中から戦後にかけての塩飢饉の苦い経験から、政府も食塩の増産に本腰を入れた。
昭和25年頃にはほぼ戦前の生産量に復興した。
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「福山市引野町誌」 引野町協議会 昭和61年発行
戦後の自給製塩
第二次大戦末期から終戦直後にかけての塩の需給
殊に民需関係は急迫状態に陥っていた。
味噌醤油の製造販売を期生したほどであったから、
始めから専売の塩は手にはいらない状況であった。
戦争、直後の思い出に、
海水を汲んできて煮詰めて塩を作ったとか、
蓆(むしろ)に海水をかけ、乾くのを待ってパッパとふるって塩を作ったなどという話がたくさん残っている。
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「金光町史民俗編」 金光町 平成10年発行
沙美まで行って樽に海水を汲んできて煮詰め、塩の代わりにしたこともある。
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父の話 (2005.1.15)
小迫に塩田もあった、若いもんがしていた。
野々浜の塩田はあったが、作る仕事をしょうるのを見たことはない。広かった。
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「岡山県史・現代Ⅰ」
昭和5年第二次塩業整備が行われた。
小田郡神島内村の神島浜や横島浜などが廃止された。
塩田で働く労働者を浜子、
塩田での作業のことを採鹹(さいかん)作業と言った。
入浜式塩田での採かん作業には長年の経験が必要であるうえ、
夏の炎天下の重労働でもある。
第二次世界大戦中には多くの浜子が徴兵され、労働力不足から塩田が荒廃し、
塩の生産量も著しく低下した。
いったん廃止されていたものが、
戦後の塩飢饉時代に自給製塩と言うことで復活した。
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「戦争中の暮らしの記録」
海水のおかゆ
私の生家は、岡山県笠岡市の隣村で、旧制中学の先生をしていた父は、
ヤミ物資には絶対手を出さぬようにと、いつも母にいっておりました。
味付け用の塩が、配給だけではとても足りません。
困った挙句の果て、母は一里ほど先にある瀬戸内海の海水利用でした。
近所の人二人を誘って三人で、大八車に二斗樽を三つ積み込んで出かけて行きました。
帰りは一人が梶を持ち、二人が後押しです。
フタのない樽もあり、車が揺れるたびにポチャンと海水がはねます。
顔は汗とほこり、
モンペは、はねた海水と汗で白く、
こうして、
海水で味付けしたお粥が夕食なのです。
現在、私が主婦となり、あの頃の母の年齢に近くなってきますと、
あの苦しい暗い時代を、よくぞ病気もしないで、みんなをみんな守って来てくれたものと
つくづく思います。
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