ソ連は一日も早く、参戦し、日本領の奥まで侵攻しようとした。
日本の政府・軍は、居留民のことは議題にもならず、ソ連軍侵攻即、”棄民”となった。
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「一億玉砕への道」 NHK取材班 角川書店 平成6年発行
1945年7月5日「対露作戦計画」が決定された。
いよいよとなったら、新京を頂点とし鴨緑江を底辺とする三角形の地域に陣地を築き、長期持久戦に持ち込もうとするものだった。
満州から朝鮮北部に居住していた約180万の日本人にも、この計画は知らされなかった。
したがって、8月にソビエトが侵攻してきたときには
住民の期待を裏切り、軍隊の方が住民より先に移動していて、
「棄民」といわれるような事態が生じる結果となった。
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「日ソ戦争 1945年8月」 富田武 みすず書房 2020年発行
棄てられた兵士と居留民
1945年5月、ドイツの敗北で日本は同盟国を失い、
連合国が残る一国をいかに降伏させるかに全力集中できたという
絶対的に不利な情勢下で、
二面戦争は何としてでも避けねばならなかった。
しかるに日本は、
4月に日ソ中立条約不延長を通告されたにもかかわらず、
対米英戦争の仲介を依頼しようと絶望的な努力を続けた。
そして7月、
ポツダム宣言を受諾可能と表明すべきところ、抗戦派の圧力下で「黙殺」報道によって原爆投下を急がせ、ソ連の参戦口実を与えた。
ソ連は「ソ連参戦前の日本降伏」は権益確保が困難になるので、参戦を急いだ。
参戦日を繰り上げ「電撃戦」的勝利で満州、南樺太、千島を、それに北朝鮮まで制圧したのである。
およそ日本の政府・軍部には、国力を見極め、国際関係を見通して、
戦争をどのように進め、終わらせるか、
そのための外交的方策は何か
といった政・戦略がなく、ドイツ頼みの他力本願的な期待を持つにすぎなかった。
関東軍は惨めな敗北を喫したのだが、
出さずに済んだかもしれない大量の犠牲者を生み出した。
国境要塞地帯から作戦変更による、守備隊の見殺し。
対戦車特攻は「棄兵」そのものだった。
開拓団に無通告、
なおかつ都市部に避難してきた彼らの列車輸送の後回しは「棄民」に他ならない。
関東軍首脳の責任は免れないが、兵士も開拓民も、
長年の軍国主義教育の結果として「お国のために死ぬのは本望」
「敵の手にかかるよりは自決する」という建前と心情に囚われていたことを指摘せざるを得ない。
集団自決は終戦時には珍しくなかったが、生き残っても書き残す人はいない。
これが日ソ戦争の真実の一端である。
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棄てられた「臣民」は、日ソ戦争だけではなかった。
終戦時、帝国臣民であった朝鮮人も台湾人も棄てられた。
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「大日本帝国崩壊」 加藤聖文 中公新書 2009年発行
「民間人の切り捨て」指示
当時、満州国を含めた中国や東南アジアの占領地は大東亜省の管轄下であった。
日本軍の武装解除と復員については大本営の指令によって行われるが、
民間人は大東亜省の出先機関に委ねられていたのである。
広大な地域に300万を超す日本軍がいて、
300万を超す民間人も同じように各地域に散らばっていた。
とくに日本政府の保護が及ばなくなる民間人の取り扱いが大きな問題になることは明らかであった。
大東亜省は「居留民はでき得る限り定着の方針を執る」とされた。
事実上の民間人の切り捨てを行ったのである。
また朝鮮人と台湾人について「追って何等の指示」を出さないま彼らに対する保護責任は連合国側へ丸投げされた。
「帝国臣民」であった朝鮮人や台湾人の生命財産の保護を日本政府が実質的に放擲したものとなった。
天皇が語り掛けた「帝国臣民」は、
「内鮮一如」「一視同仁」といったスローガンのもとに皇民化され
「帝国臣民」になっていた朝鮮人や台湾人やその他の少数民族は含まれていなかったのである。
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