しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

ケンペル「江戸参府旅行日記」大坂・大坂町奉行

2021年09月17日 | 「江戸参府紀行」ケンペル&シーボルト
ケンペル「江戸参府旅行日記」  訳者・斎藤信   東洋文庫  昭和52年発行
第9章 大坂・京都 二つの都市について
1691年(元禄4)2月



大坂

大坂は将軍直轄の都市で、囲壁も防塁もなく、平坦で肥沃な平野にある。
船の出入りが多い港湾に臨んでいる。






東側には堂々とした城があり、西側には二つの番所があるに過ぎない。
水量の豊富な淀川という大きな川が北の地区を貫流し、
それが、この土地に盛んな商業をおこし、富を得さしたのである。








掘割や運河を通って入ってくる商品は、小舟で楽々と町に運ばれ、陸揚げされ商人に渡る。
運河は規則正しい幅があり、100以上の立派な橋が架かっていた。









大坂の町や住民は町年寄りや総年寄の支配をうける。
彼らはさらに二人の奉行の監督と命令のもとにあり、
奉行はまた知事として周囲の地方(摂津・河内・和泉・播磨)や村落を支配し、
一年おきにここに駐在しているので、一方の奉行が大坂にいる時には、他方は将軍のいる江戸の家族の所にとどまっていなけらばならない。









私は、時刻がいろいろな方法で告げられることに、特に気が付いた。
日没後、
最初の時間は太鼓で、第二の時は銅鑼で知らせる、第三の時は真夜中で鐘を用いる。これは鐘を鳴らすというのではなくて、木で突くのである。
第四の時は再び太鼓で、五番目は銅鑼である。
日の出の時は、
鐘を打つ。
日本人は一年中、昼夜をだた六つの時間に分けている。







大坂の町は非常に人口が多く、非常に物価が安く生活しやすい。
贅沢をしたり、官能的な娯楽は何でもある。
あらゆる娯楽に事欠かない都市だという。
公の劇場でも小屋掛けでも毎日芝居が見られる。
商人や香具師が露店を出して大声で客を呼び、
奇形児や異国の動物や、芸を仕込んだ動物などを少しでも持っている人は、
他の地方からここに集まってきて、銭をとって芸や珍品を見せるのである。
町には旅行中のたくさんの余所者が逗留している。
大坂以西に住んでいる大名たちは、この地に屋敷と蔵と、江戸まで供をしていく家来たちを置いてはいるが、一日一晩以上はこの町に留まることを許されない。








この地の飲料水は少し泥臭く悪い。
けれども、日本一のよい酒を飲むことができる。
天王寺という村で造られ大量に他の地方に出されている。

市街地の東側に、一周するのに1時間もかかる広い城がある。
方形で堅固な櫓を持つ城で、肥後にある城(熊本城)を除けば、
その広大さ・豪華さ・頑丈さにおいてこれと比肩しうるものは全国でも見あたらない。
外堀は大変広く、七尋の深さがあり、石垣に城壁が高くそびえ、上には松や杉が整然と植えてある。
日本人の談話からなお次のことを知ったのである。
三の丸に入ると、二の丸が見られ、その奥に本丸がある。
数層の高い天守閣があり、その一番上の屋根には黄金の大きな魚が載せてあるが、
陽をうけて輝くさまは兵庫からも見ることができる。
しかし、この天守閣は約30年前、大火事で灰塵に帰した。(1665年落雷で焼失し、以後再建されなかった)







第二の城郭の門の中には、長さ5間で幅4間の磨き上げた黒い石が城壁にはめ込まれているいるのが見えるが、どうしてここまで運んで来たのかは、全く驚くばかりである。
鞆の東方5里にある稲積島から、その大石を、つなぎあわせた6隻の船に乗せ、大変な苦労ののすえにここへ運んできたのである。









この城には将軍の家宝と毎年西方諸国からの年貢米を補完し、
また西方大名の反乱を防ぐために、強力な守備隊を置き、二人の大名にその指揮を命じ、三年ごとに交替させた。
大坂城代は民間、および町奉行の所管事項には、何の権限も持たない。



2月25日

われわれは駕籠に乗って、通詞や従者を伴って、奉行の屋敷に出かけた。
われわれは屋敷の前で駕籠から降り、黒い外套を着た。
こうすることで、日本人が礼服を着るのと同じように敬意を表すことができるのである。
謁見の広間に連れてゆかれた。
謁見の間には7人の小姓が並んで座っていた。
やがて奉行が、前方10歩ほど離れた所に座った。
馬とかその他、旅行に必要なものがある場合には、喜んで力になる旨申し出た。
われわれはこの好意に礼をいい、わずかな贈物(絹布で、書記と、用人にも同様なものを贈った)を納めていただいた。

別れを告げてから、駕籠に乗ろうとしたが、通詞たちが少しばかり歩くことを許したので、立派な城を外からよく観察する機会を得た。




(大坂町奉行は東西2カ所あり、1ヶ月ごとの当番制。元禄時代には東西とも現・中央区大手町にあったそうだ。 あべのハルカスより大手町方面を望む)


2月26日
休息日


2月27日

必要な馬が数頭足りなかったので、休むより仕方なかった。
およそ40頭の馬と41人の人足を雇った。
自分勝手な通詞たちが、品物をあつらえ、われわれの名義を使い、費用を使う。



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