昭和20年、食べもの・着るもの・住む場所、すべてが不足した夏。
伝染病が流行った。
父の話・2000年10月08日
「城見村の施設としてあった隔離所はウチでもおばあちゃんが一時はいっていた。
赤痢や疫痢になった人は普通家で看病していたが隔離するよううるさく指導され、連れて行くようになった。
軍隊にいるとき家に(一時)帰宅する場合”家に伝染病のひとはいない”ことを確認してからでないと帰れなかった。
看護婦・・といっても見習いにけのはえた程度の・・・もその際は常駐していて医者は適時にきて帰っていた。」
下記は福山空襲直後(=終戦前後)の広島県深安郡引野村の郷土史本。
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「戦争の中の子供たち」福山市引野学区まちづくり推進委員会 2015年発行より転記する。
赤痢、焼け跡に猛威をふるう
空襲の4~5日後から赤痢を訴えるものが続出し、患者は谷地池の上手にあった隔離病舎に収容された。
戦災をこうむった被災家族は二重の悲しみを受けることとなった。
隔離病舎に収容された患者の看病は、ほとんど家族の者に任された。
十数名に一人くらいの看護人の数では手が回らない。
家族の健康な者が病舎に寝泊まりし、患者の食事から便の処理一切をの世話にあたった。
当時、医薬品は極度に不足しており、家族は八方に手を尽くした。
夏の暑さに加え、戦災による疲労、さらに食糧難のための栄養不足も多くの命が失われる要因になった。
体力がない子供や老人は、発病後2~3日で息絶えた。
当時でも赤痢に有効な薬はあった。
戦争が医療環境を悪くし、救える命を奪ったと言える。
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