父は学校を出た時分に、山の畑で
「炭を作ってみたが、いいのはできなんだ」
と話していた。
たぶん、中国地方では「たたら製鉄」に必要な木炭作りのプロが、
その技術を生かして「たたら製鉄後」の仕事に従事したのではないだろうか。
家では木炭を「ケシズミ」と「カタズミ」と分けていて、
お金で買った「カタズミ」は客がある時、火鉢に使うくらいで、大切に利用していた。
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「昭和の消えた仕事図鑑」 澤宮優 原書房 2016年発行
炭焼き(すみやき)
明治の中期以降、道路など交通網が整備され、炭の都市への販売が可能になった。
木炭は薪に比べて、火が安定し、長持ちで、空気によって湿度を調整できるという利点があった。
炭焼きを行うには、まず谷間に窯を作り、原木を伐採する。
これを窯まで運搬し、
大きさがばらばらな材木を直角に切って、
表面を磨き、適当な大きさに揃える作業する。
窯焚きは一週間ほど。
炭木を縦に並べて焚口で火をたく。
炎をたてず、消えない程度に空気を与え焼く。
その間、
「焼子」と呼ばれる焼き係が小屋に泊まって昼夜、火の管理を行う。
煙の色で状態を判断し白煙から青い煙になると消化する。
窯から出して炭を切って選別する。
その後、梱包して出荷する。
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「中央町誌民俗編」 岡山県美咲町 平成29年発行
炭焼き
木炭は、昭和30年代後半にプロパンガスが普及するまで燃料として欠かせないものであった。
そのため、中央町でも
冬場には炭焼きが盛んに行われた。
コンロや火鉢、炬燵に使用された。
多くの家では、共同で作ってもらった40俵くらいの釜で炭焼きを行っていた。
自家用として作ったが、
専門で作る人もいて農家の現金収入となった。
冬場に切った雑木のうち、
太い木は炭とし、
細い枝は各家の薪とした。
戦時中、子どもは木炭を背負う手伝いをよくした。
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「中央町誌民俗編」 岡山県美咲町 平成29年発行
製炭
山間地域では、農閑期の仕事として、一冬に複数回(3~4回)炭焼きをするのが一般的であった。
山を持たない家であっても、他家から山を借りて炭焼きをしたり、請け負ったりして、多くの人が製炭に関わっていた。
そのため山中には点々と炭窯があり、その横には製炭に関る作業をこなすための炭小屋が建てられていた。
こうした炭焼きは、単独の家で行うよりも、近隣の何軒かでグループを作って行われることが多かった。
また、
出荷前の木炭を集積する倉庫を複数の家で共有することもよくあった。
炭焼き作業の手順
原木を切り倒す。ナラやクヌギなど木質の固いものが向いている。
原木を1.5m程度に切る。丸太、または割る。
窯の中に運び込み、奥から隙間なく詰めていく。
詰めたら石などを入れて練った土で焚口との間に壁を作る。
焚口に火をつけて窯の過熱を始める。
煙突から継続して煙が出るようになると、焚口を小さくまで閉じていく。
煙の色や量で、炭の焼き上がりを判断する。
煙の色が白から灰色になり、最終的に青い煙になる。
さらに量が少なくなると焼き上がりと判断する。
焚口と煙突を土で塞ぎ酸素を遮断して、木を炭化させる。
火気が残らないよう、一週間から10日間は決して窯を開けない。
焚口を開けて木炭を取り出す。小屋に運び、並べる。
炭挽き鋸や金挽く鋸などで、木炭を適切な長さに切る。樹皮を落とす。
上等な炭は炭俵に隙間なく丁寧に詰める。
普通の炭や雑炭は、藁で作った丸い俵に割りながら詰めていく。
木炭検査員による検査を受けて、主に農協へと出荷された。
炭焼きの炭窯は、良くできた炭窯であれば3~4年耐久性を有すが、
原木場所が移動した場合は放棄された。
移動性を有する産業だった。
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「岡山県史民俗Ⅰ」 岡山県 昭和58年発行
炭焼き
中国山地でタタラ製鉄が行われていた時代には、
炭は鉄山の「炭焼き」がタタラ用として専門に焼いていた。
「たたら三里に炭八里」といわれたように、大量の炭を必要とした。
各家庭での炭は、
主に消し炭が利用され火消し壷で熾火を消し、
たまると叺(かます)に入れて保存し、
これを冬季に火鉢や炬燵で、熾火を入れた上に、つぎ足した。
炭は、主として中国山地と吉備高原の村々で焼かれた。
今のような大窯を築くようになったのはそう古いことではない。
都市で、炭を使って調理するようになったからである。
さらに、炭焼きの技術が明治の中ごろから普及したからである。
火鉢の使用が一段と多くなるのはカタズミ・木炭を使うようになってからである。
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