しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

金魚売り

2023年10月04日 | 失われた仕事

金魚売りは夏に、毎年来ていた。
天秤棒に担いで、一軒一軒歩いていた。
その金魚売が家に来ると、なぜか嬉しい気分になった。

金魚とガラス製金魚鉢を売っていた。
金魚にも種類があり、
だいたい、
奇麗な金魚は高く、長持ちしない。
メダカを大きくしたような金魚は安く、長持ちする。
という、子供にもわかる傾向があった。
出目金(でめきん)が一番人気で、一番高かった。

では安価な金魚が長持ちするか?
と言えば、そうでもなかった。
たいてい、持って夏休みの終わりまでだった。

親が買ってくれた金魚は、
金魚鉢に入れ、
まず裏の溜池に行き、そこでホテイ草を取ってきて金魚鉢に浮かべる。
(エサは味噌汁に入れる)「ふ」。
「ふ」を小さくちぎったり、そのまま水面に浮かべていた。
金魚鉢の水は毎日、井戸水で取り換えていたが、
日に2~3度取り換えたかと思えば、何もしない日があった。
そして、
一匹死に、
二匹死に、・・・
ついには、夏の終わりに金魚ゼロ。
金魚鉢を倉にしまう。
翌年夏、倉から金魚鉢を出す。
それが少年の日の金魚売りと金魚の想い出となっている。

 

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「失われゆく仕事の図鑑」  永井良和他 グラフィック社 2020年発行

金魚売り
金魚売りは、ある時期まで日本の夏の風物詩であった。
天びんにいくつもの金魚鉢を乗せて、担いで売り歩いた。
東京・愛知弥富・大和郡山・熊本長を中心に全国で飼育され、
大勢の行商人が3月ころから10月ごろまで津々浦々を売り歩いた。
太平洋戦争でいったん壊滅的打撃を受けるが、すぐに復活し、
行商だけでなく、露店売りや縁日の金魚すくいでも人々に愛された。
金魚売りは高い技術が必要な仕事で、
売り声の出し方、
運び方、
金魚の健康状態の見分け方必要。

1970年代に入ると金魚売りは衰退していく。

ペットショップや花屋が金魚売を始めたり、熱帯魚ブームが起こったりした。
伝統芸として、金魚売はほそぼそと続けられている。

 

・・・


「昭和で失われたもの」 伊藤嘉一 創森社 2015年発行
金魚売りは初夏の風物詩
初夏になると、「キンギョー、キンギョー」と張りのある声が通りに響く。
金魚売りは初夏の風物詩だった。

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浜子② ~朝は朝星、夜は夜星~

2023年10月04日 | 失われた仕事

岡山県の特産品であった藺草は、真夏にイ草を刈るが、
その作業は「日本一の重労働」と言われていた。
しかしイ草刈は10日間程度で終了する。

同じく夏が盛りの塩田作業は、夏を挟んで春から秋までつづく。
となれば浜子が「日本一の重労働」だったのだろうか?

瀬戸内海海岸線の平地、そのほぼすべてが塩田だったが、
その跡形は住宅地の中にポツンと堤防が残る程度で、意識してみないと見落とす。
岡山平野のほぼすべて栽培されていたイ草に至っては、今では何一つ残らない。

 

・・・


「瀬戸内の風土と歴史」 谷口澄夫 山川出版社 昭和53年発行

十州同盟

元禄頃から製塩業は異常な隆盛をみた。
しかし生産過剰を招いた。売値が下がった。

こうした塩田不況の対策として考案されたのが休浜法である。
日が短く塩つきの悪い秋冬の間、
塩田作業を休むことによって生産制限と経費の節減をはかる方法である。
安芸・備後の同業者が10月から翌年1月まで4ヶ月の間休む休浜協定を成立させた。
その後、播磨・備前・備中・阿波・防長・伊予が参加し、
讃岐がもっとも遅れて安政(1855前後)に加わった。
これは明治7年までつづいた。

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「寄島風土記」昭和61年 寄島町発行


塩田に働いた人々

毎年梅雨が晴れてから、秋の稲刈り頃まで最も作業が忙しかった。
「朝は朝星、夜は夜星」。
朝4時に起きて裸足に露を踏んで朝浜を引きに塩田に出る。
万牙(まんが)といって24本の爪付きのT字形の重い道具を傾けて塩田に撒かれた砂を掻く。
広い塩田の隅まで紋様ができる。
太陽の方向と風向きを考えた長い間の経験で、縦・横・斜三様の引き方で砂についた海水の濃度を高くする。
熟練を要する作業。
前日の作業の手順によっては、沼井掘りが朝浜の仕事になる。
ろ過がすんだ砂を掘りだして沼井の肩に積み、次の浜持で取り換えられる。
朝浜が終わると、帰宅して東食。

塩田の小溝に海水を入れるのは重要で責任のある仕事とされている。
潮の干満に気を配り堤防の大樋を抜き、中樋、小樋と抜くいて濃い海水を入れる。
この仕事は上浜子が受け持っていた。

広い塩田に万牙を引く。
昼になる。
昼食、昼寝をする。




午後2時、浜持である。
寄せ子が寄板をもって真っ先に塩田におりる。乾いた砂で足の裏が痛い。
寄板を腹に当て手で押して力の限り踏ん張って砂を沼井肩の線に一列に寄せる。
息も絶え絶え。
次に入れ鍬がつづく。寄せ子が寄せた砂を沼井の中へ放りこむ。
最も体力のいる作業で屈強な浜子がこれにあたる。
そのあとに振り鍬が沼井の肩に積んだ散土を長い鍬の爪先にひっかけて塩田にまんべんに撒く。
技術と力が物をいうむつかしい作業で素人にはできない。
続いて沼井踏が沼井に入れられた新しい砂を沼井鍬で踏みならす。
灼熱の炎暑に寄せ子は入鍬に追われ、入り鍬は降り鍬に追われる。
汗を拭く間もない阿修羅の地獄絵である。





次の仕事にかかる。
寄子は大きな勺を持って沼井壷から藻垂れを沼井に汲み上げる。
これもきつい仕事だ。
数多い沼井壷を次々に汲み上げる。
浜子は大きな浜桶(たご)を担いで中溝の海水を一ぱい入れると大変重いがこの仕事を繰り返して作業が終わると
灼熱の太陽が鉢山の端に沈む。
なお、それぞれに整理作業が続く。


寄子が家に帰れば子守、風呂焚き、家事の手伝いが待っていた。
農繁期には月明かりで田畑の耕作や収穫作業を働いた。

浜持のできない悪日和には、のんびりできる。

「明日は雨じゃ」「夕立がくるぞ」となるとさあ大変。
「おえ持ち」といって、三日交替の塩田二日分を一日分としたり、「皆持ち」という塩田全面積を一度に作業することもあった。

・・

流下式枝条架が採用され労力を省いた。
やがてイオン交換膜の製塩法になり、昭和34年に長い歴史の幕を閉じた。

寄島塩業は寄島漁業と二大基幹産業として貢献した。
第二次世界大戦中は軍需産業として重視され、幹部従業員には兵役免除の特権があった。
また戦後の食糧危機には貴重な資源となり、増産がはかられた。
いま、歴史の中で立派な役目を果たして消えていった。

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