(JR松永駅前 2012.1.7)
管理人は農家に生まれ、「百姓にはなるな」(仕事はしんどく、収入は少ない)と言われて育った。
隣の家は漁業だったが、これもしんどそうな仕事だった。
当時瀬戸内海地方は塩田が盛んだったが、この仕事も重労働。
日本経済を牽引していた繊維産業には「女工哀史」、黒いダイヤの炭鉱は命がけの重労働。
学校に行くには踏切を渡らねばならなかったが、機関車にスコップで石炭をくべる乗務員からは汗が飛び散っていた。あの仕事もきつい。
結局、思うに、高度経済成長以前の日本は、どの仕事も
毎日10数時間働いても、一日三回麦飯を腹に通すのが精いっぱいだった。
(青佐山お台場から寄島塩田跡地を見る。面影はまったく残っていない。浅口市寄島町2020.4.4)
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「鴨方藩」 藤尾隆志 現代書館 2021年発行
塩田
天保年間(1830~1844)に寄島塩田が開発された。
明治初年には全長二キロに及ぶ塩田が形成された。
寄島には鴨方藩の「御用場」が設置され、
生産された塩の管理が行われていた。
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「寄島風土記」昭和61年 寄島町発行
塩田に働いた人々
海水を桶で汲み上げ、粘土を敷き固めた上に砂を播いた塩田に海水を撒き、砂についた海水が日光と風によって塩分が濃くなってから砂を集め、
ろ過して釜に入れ煮詰める製塩法であった。
入浜式塩田が造成されたのは天明3年(1783)に青佐沖の古新田が最初であった。
この時初めて近代的合理的な入浜式製塩が始まった。
海岸の堤防に樋門を設けて海水を塩田に入れ、塩田作業により濃い鹹水(かんすい)を採って釜で煮詰める効率的な方法である。
明治元年までに約26ヘクタールが造成され内海屈指の生産高を誇る寄島塩田ができたのである。
塩田で働いた人たちの労働は厳しかった。
天候が相手で、やけつく夏も、凍りつく冬も、盆も正月もない。
雨さえ降らねば朝5時から晩の6時まで、1日6回の飯を食べるきつい仕事であった。
塩田は1町5反、2町を短冊型に区画し、これを1塩戸とし経営された。
塩戸毎に
棟梁(2交代で塩を焚く、夜勤を夜釜という)
上浜子(ばんこ)浜子の頭
浜子 1戸5~6人。作業の中枢となって晴雨にかかわらず出勤する。
きっぷ 女や子供・老人で寄せ子といって浜持ち作業の日だけ出勤する。
計約10人くらい。
浜子の月給が5円70銭できびしい過酷な労働であったが、報酬としては恵まれていたという。
味噌・醤油まで給付された。
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「新修倉敷市史第八巻」 倉敷市 1996年発行
元野崎浜二十三番地。
JR児島駅の辺りは、かつてこう呼ばれていた。
労働者たちは”浜子”と総称されていた。
師走の声を聞くようになると、その年の収支も明確になり、浜の評価も決まってくる。
浜子にとっては来年の契約・給金額等が気にかかる落ちつかない時期である。
それぞれの浜には大工(または棟梁)と呼ばれる責任者がいた。
大工は作業の責任者であり、浜子の雇用について決定権を握っていた。
この時期、優秀な浜子の「引き抜き」は相当激しかったようである。
技能に秀でた浜子を集めることは親方である大工の評価にもかかわる。
また浜子の側は少しでもよい条件の浜と契約することが実生活につながるので、
お互い必死であったという。
好条件を求めて十州の各塩田を渡り歩く者もいたという。
年末に翌年の給金額が定められ、何割かを前金として受け取っていた。
さらに浜子一人一日当たり米九合と味噌・醤油が支給された。
一浜に平均七名の浜子が就業していた。
彼らは原則として各浜に付設された浜子小屋に居住していた。
浜子は他所からの出稼ぎが多かったが、
中でも瀬戸田・越智大島等の芸予諸島の出身者が大半を占めていた。
中には夏だけ浜子を努め、冬場になると杜氏として酒造業に携わる者もいた。
塩田の一日
正月が過ぎると、塩田作業が始まる。
この時期は道具の修理、塩田地場の整備が主な仕事であった。
「床入」
年に一回床入と称する浜鋤きを行った。
カチカチになった塩田を牛三~五頭を使用して鋤き起こすもので、
地盤を軟らかくし水分蒸発を促すため定期的に行っていた。
最盛期
塩分濃度の高い灌水が採収される七~九月であったが、
三~十一月にかけて通常の作業が行われた。
採鹹(さいかん)
濃縮した鹹水を採収する。
採鹹作業を取り仕切る浜子を上浜子(じょうはまこ)と呼び、大工に次ぐ立場にあった。
煎熬(せんごう)
釜の中で鹹水を煮詰めて結晶塩をつくる。
大工と夜釜焚きが二交代で担当した。
塩の生産量、品質、燃料費の節約が大工の裁量の要素であった。
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