しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

羽柴秀吉 (長浜)

2021年05月11日 | 銅像の人
場所・滋賀県長浜市







「歴史よもやま話」 池島信平 文春文庫  1982年発行 
南條範夫・井上靖

井上
だいたい秀吉は家柄のいい人を選んでいますね。
家康の方はあまり選り好みしていない。

南條
秀吉はことに織田家の関係の女を要求していますね。
淀君は信長の妹の娘でしょう。
織田信長の5番目の娘も妾にしています。
信長の弟信包の娘も妾にしている。
みな織田関係ですよ。
若い頃、草履取りでこき使われた主人の娘や姪を閨房に侍らすことによって、憂さを晴らしたいというようなところがありますね。

井上
淀君だけに子どもを生ませてますね。
しかし淀君というのは,戦国時代の一つの象徴ですね。
あれほど激しい一生を渡った女は、ほかにはちょっと考えられられないですね。
死んだときの年齢がどうしてもわからないんです。


南條
もう50近いでしょう。
それでは話にならないから私は書くときには32~33ぐらいに書くけれども。

・・関白秀次。自分の甥ですね。
ああいうものすごい殺し方。
本人を自殺させ、その側室、子ども、20何人を三条河原で全部殺して畜生塚としたという。


井上
秀吉が生まれてから狂いましたね、秀吉は。


南條
秀吉は残酷なことをやってますよ。
鳥取城攻めのときなんかでも、罪もないものを1500人もいっしょに叩き殺しています。

井上
秀吉が死んでいくときに、秀頼を頼む、秀頼を頼むと遺言して・・・武将に誓わせたり、文書を取ったり、
秀吉がほんとうにつまらなくなる。
秀吉の光彩がなくなる。
「5人衆頼み申し上げ候」とある。頼み申しあげる候ですよ。








「教養人の日本史3」 脇田修  脇田修 昭和42年発行

出世太閤記

豊臣秀吉という人物ほど、人気のある男は少ないであろう。
尾張中村の在に生まれ、立身して関白、太政大臣となり、
太閤として知られた伝記は、改めていうまでもないほどである。
もっとも感心するのは、
秀吉があのむつかしい主君信長に仕え切ったという点にあるかもしれない。
信長は能力のある人物を抜擢する目の持ち主であり、
統率力においても抜群の男であるが、それだけにむつかしかったであろう。
草履取りでとして、寒夜主君の草履をふところで暖めた話から、
清州城の割普請の話など、秀吉の奮闘ぶりは並大抵のものではなかった。





撮影日・2011年8月6日


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