しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

増川女学校~結婚までの頃

2016年06月14日 | 暮らし

おばの話(父の妹・大正12年8月16日生)
談・2015.7.21


父の野戦出兵時
(父は日誌に「大門駅でご両親にお別れし・・」と書いてあるが、おばは居たのか?)
覚えてない。



(城見村の村葬は?)
記憶ない。

(金属類は)
金の火鉢を全部出した。

(茂平の実家の防空壕)
記憶にない
※できる前に嫁入りした。

(武漢三鎮陥落の祝いは?)
おぼえてない

(茂平婦人消防団への入隊は?)
入ってない。


青年団もはいってない。



父の戦友「よねいさん」のこと


(毎年の夏休み遠方より、よねいさんという人が訪れていた。
よねいさんは父が兵隊の時の友人と言うことだった)

(母は「よねいさんより人がいい人はいない」とよく話していた)

岡山の駅から兄貴といっしょに東京へ行った。
岡山の駅には、茂平から両親と「よねいさん」がきてくれた。

よねいさんが見舞いにもよくきてくりょういた。
茂平の母が「結婚するならよねいさんのような人にもらうてもらえりゃあええ」ようた。

兄にほんとにようしてくれた。

夜でもこつこつ顔をだして見にきてくりょうた。
或る夜、兄が呼んでも起きなんだ。そしてら紐をさばる。
そろっと顔を見てくりょうた。


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城見小学校の頃

2016年06月14日 | 暮らし

城見小学校の頃

おばの話(父の妹・大正12年8月16日生)
談・2015.7.21

※おばは城見小・城見高小、併せて8年在学している。


保育園
保育園も幼稚園もない。

給食
ない。あるもんですか。

正月にはお餅を醤油をつけて焼いて、三つほど入れてもってくる。口に環ができょうた。
麦をはねて入れてくりょうたが、いくらか弁当に入りょうた。


着物を着た記憶はない。
小学生からズロース。


陶山小学校
珠算の競技会があり、金浦や陶山の小学校に行くことがあった。
先生に連れられて5人ほど陶山の学校へ裏の峠を越えて。
陶山の学校は障子じゃった。城見はガラスじゃった。

それで「陶山の学校ボロ学校、つっぱりこけて、こけこっこー」歌いながら帰りょうた。
陶山に勝てば金浦、金浦に勝てば新山に行きょうた。


(旅行は)
遠足は茂平の皿山。
吉浜の天神。


(皇太子の誕生祝い)
あった。
皇太子が生まれたときはすごいにぎやかじゃった。
そりゃあみんあ喜んでなあ。


(昭和5年の陸軍大演習の記憶は?)
ぜんぜん覚えてない。


用之江のアメリカ屋

小学校に行きょうる時にはもうあった。
『アメリカでお金を儲けて戻って、あそこで家を建って店をはなえた』のは子供にも有名じゃった。


お歯黒
(曾曾祖母のお歯黒について)

もの心ついた時にゃあしてなかったが、「嫁に来た時にはお歯黒をしょうた」言う話はよう言ようた。「朝起きたら、せにゃあいけなんだ」ようた。
(晩年)畑へ出たり、草を取ったりするのは見たことがなかった。
留守番だけしょうた。

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玉音放送

2016年06月14日 | 暮らし

おばの話(父の妹・大正12年8月16日生)

談・2015.7.21


玉音放送

満州(吉林)で聞いた。天皇の声で聴いた。
その時、
「戦争が負けたんじゃけぇ、夫の○○が死ぬのは覚悟しとけえ」言われた。
日本が負けたらロシヤ兵から指輪や腕時計を盗られた。露坊主は動かし方がわからん。
聞いてきた。ネジを巻いておしえた。
めぼしいもんは全部取られ、
市場にいけば満人から馬鹿にされ・・・・。
乞食になった思うた。



満州への嫁入り

(昭和18年の事)
(おばの祖父の)利三郎じいさんが父に「どしてたった一人の娘をなんで満州に嫁にやるんじゃ」「これから戦争が始まるかも知れんのに」ようた。
父は黙って頭を下げとったままじゃった。
利三郎じいさんは直接私に「もう生きて死に目に会えん」言うた。(←結果は、会えなかった)

(復員)
葫蘆島へ出るまで一か月かかった。野宿をしいしい帰った。若かったけえできたんかなあ。
戦争だけはしたらいけん。

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