しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

農閑期

2016年06月17日 | 父の話

談・2002.10.14


農閑期

男は冬は剪定、女は袋貼り。
剪定くずを拾う
牛は藁ばあ、芋を混ぜる、芋つるの葉、大根の葉、糠、コメの磨ぎ汁、
喉を詰まらせんように気を付け、かわいがりょうた。
(糞は?)人間の方がずっとええ。
人間のでも、田舎よりも町の方がよう効く。

母・戦争中に一回芋つるの葉を出せいいわれて、出したことがある。
この前テレビで村おこしで佃煮にして食べるのをしょうた。


造船場所

(平の漁船の新造はどこで造っていたか?)
みな金浦の造船じゃ。
うちの達磨船もそうじゃ。


国道二号線の労務宿舎

(用之江の旧・隔離病棟が国道二号線の工事の作業員宿舎となった。
茂平から小学校への通学は、その宿舎とは30~40m離れてはいたが、生まれて初めて見るよそ者だった)
PTAでも心配した。
子供には個人行動のないように。
通行するときは親も注意するように、という取り決めをしとった。


銅山の井戸

(水尻の裏側に、おいしいと言われる共同井戸があった)
あれは銅山の人が昔掘った。
銅山の人はだれでも飲んでもええ井戸じゃった。
個人の井戸はどこの家も皆、塩辛かったんで、「飲む」水を汲みにいきょいうた。


食器洗い
(母)
昔の人は灰がええようた。
洗剤はなかった。
油もんは卵や灰をつけてみがきょうた。
ぴかぴかになりょうた。

油もん以外は水か湯で落としょうた。
よごれがひどいのは「いしのこ」を使ようた。
よく落ちるが、使うと傷むものもあるので気をつきょうた。
どこにも「いしのこ」を買ぉとった。
コメを搗くにもいしのこを使ようた。

鍋には炭、消し炭を使ようた。堅炭でも。
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戦死者の骨

2016年06月17日 | 父の話

父の話・2002.10.14

脚の骨を入れて、頭の骨を入れていた。が
しまには焼けても全部焼けん、焼けた人の骨だけを入れていた。
(遺族から)骨が違う言われることはないので、一人の人間の骨を死者ぶん分散していた。
進軍中の死者、はそこへ(焼かないで)埋めて行く。
駐屯する場所で焼く。そこで死者分を分散して送る。


死者の報告

部隊の中隊長が人事をもっとる。処理は中隊でする。
中隊長が骨箱に名を書く、「何々の戦闘で戦死した」

男が女(おなご)を探しにこっそりゆく。ごつんとやれれて死ぬ。
年上の兵にはそうなんがだいぶとおった。
戦闘の状態を作って「何々討伐戦において勇敢に戦死した。。。」という報告書を書いて送る。

火葬
いっぺんに大勢焼く。焼けた人、焼けたところを送る。
人の骨でも嘘をして送っとる。

戦病死は、
何何作戦中に戦病死。当たったら戦死。


おじいちゃん(父)は、
なんども、「もうしめいじゃ」と思うたが、
敵もそうで引き上げて助かった。攻められたら死んどった。
万がええ。

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復員(軍靴、軍服、自転車を持って帰る)

2016年06月17日 | 父の話

父の話・1999.10.3


復員(軍靴、軍服、自転車を持って帰る)


練兵場の倉庫は焼けたことになっていて帳面には何も残っていない。
無いことになっとる。
軍靴、軍服、毛布、コメ、菓子をトラックに積んで持って帰った。
あっちコッチちいとづつ分けてやった。病院のはえかった。

家に帰って自転車に乗ろうと思ったら(軍人時のと比較できないほどボロで)乗れなんだ。
それで、ふうが悪いがもう一度病院に行って事情を話した。
山口のええ自転車に乗りょうた、班長が探してきてくれた。
戻る時は飯盒へ飯をいっぱい持たせてくれた。
(百姓の家でさえも)米がないときじゃった。

ウチでさえ、コメが少ないから芋や豆を入れて食ようた。



新憲法公布

昭和22年
(市町村長が公職から追放、次いで軍人会や警察署長が追放された。
県下で3200人が追放された。
憲法により地方自治法ができた)

この時に村会議員になった。


農地改革
昭和25年、

小作をしょうた人は、ちゃんと国から決まった相場で(地主に)払うた。
ウチには、とられも、もらいもしなかった。
小作をしょうたもんが大きょうなった。
ひっくりかえった。

漁師は・・・なんも変わらん。


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戦前のこと

2016年06月17日 | 父の話
父の話・1999.10.3


(長髪にしたのは?)
兵隊から戻ってから


服装
学校へ行く前に服を買うてもろうた。
それまでは着物を着ていた。


目玉の松ちゃん・・知らん


人見絹江・・覚えとる。

新聞の定期購読は・・戦争のあとじゃ

昭和5年陸軍特別大演習
城見の学校の前を西軍は通りょうた。

昭和8年国連脱退・・ そのへんはわかる。

昭和9年瀬戸内海国立公園(最初の3公園のひとつ)・・百姓にゃあ関係ねぃ。
竹久夢二没・・関係ねえ。
戦争が始まりょうたから、頭の中ににゃ軍事訓練のことばっかしじゃ。
軍の情報ばっかりはいりょうた。

昭和10年、11年にゃあ戦時体制になりょうた。


昭和14年・マッチ一日4本

(タバコを吸う人は火打石をもって歩いていたのか?)
畑へ行く人はのうこまい缶へ炭をいれてもって歩きょうた。
やっさん方やこ、火種をもって下げとった。

火薬を造らにゃあいけんけい、(マッチは)なかった。

大政翼賛会・・本部は役場。成人した人はみんな入る。政治的な機関。住民を指導する。


昭和16年金属類供出
金属類 銅の火鉢、まじめな人は家にあるもの皆出した。


昭和17年衣料切符
品がのうなった。ツギを買うてみんな自分で作りょうた。


イナゴの回収・・・ありゃあ取りょうたことがあるぞ。今でも薬になる人ゆんがおるじゃろう。
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岡山大空襲~玉音放送

2016年06月17日 | 父の話
当時父は岡山に居た。
岡山県史によると、
「中国軍管区歩兵五補充隊(中部第48部隊)
終戦時将校189人、下士官384人、兵1004人計1577人。」
に属していた。

父の話・1999.10.3

青年学校のみやまに行くゆうて、
うちに戻って泊まっとった。

朝電報があり「すぐ帰れ」、倉敷までは汽車で帰った。
握り飯をよおけい作り、背中におうて、歩いて岡山へ戻った。

おじいちゃん(父のこと)がおった部屋も焼けてしもうとった。
(家に持って帰っていた)軍刀とカバンだけが残った。
まんがええ。

看護婦が一人死んだ。

奉還町が残って。
南方より向こうは全部焼けとった。まだ燃ようた。

岡山駅の横の倉庫に、よおけい小麦の俵を積んどった。
そりゃあ病院で飼うとった牛、乳をとる牛を20頭ばっかし飼ようた。
俵は燃えてくさかったが、それを食わそう。
ひやいだり、粉にしたりして。
煙をまいてとるんでくさい。下の方はなんともないゆうてもにおう。
軍医さんの偉い人が食わした、それで(病人に食べさすものがないので、くさいけど)全部食べさせた。無いときじゃけぇの。


玉音放送

わぁわぁ、天皇陛下のほんとの声を聴いた。
12日にゃ、ほんとのことがわかっとった。
(業務で行く)県庁の人から「もうおえんで、負けたでぇ」いわれた。
そうゆうことは、軍隊内部ではぜったい言わん。

中には元気のええのが「まだやる!」ゆうて息巻きょうた。「ヨンパチは中隊ごとやるんじゃ」。
・・・・・・
言うたばあじゃ。

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茂平の松根油

2016年06月17日 | 父の話
昭和19年12月、政府は「松根油」の緊急増産を開始した。

子供の頃、今は茂平会館がある場所に松の木に何か所が皮を剥いだ跡があった。
上級生が「戦争中に松脂を採っていた」と話していた。

松ヤニと松根油は少し別物のようだが、父は同一のものとして話している。


談・1999.10.3


あれを採れゆうてのう、
松に切ってニヤを採る、ゴムといっしょじゃ。
大けい木じゃないと採れなんだ。
大人がしょうた。
荒神さん、八幡さん、稲荷さんの松を採りょうた。
ちょっと中じゃった。すぐ負けた。

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