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2009-2010 冬の旅 11、ロケットの生まれた海 道川海岸・秋田ロケット実験場跡

2010-02-07 | 宇宙
真冬の日本海、道川海岸の秋田ロケット実験場跡
現在、往時を偲ばせるものは何も無く、ただ波が打ち寄せるばかり


2009-2010 冬の旅 10、ニセコの休日・ススキノの夜からの続きです

第5日目 2009(平成21)年12月31日 大晦日

寝台車でぐっすり熟睡したまま青函トンネルを越えて、
まだ真っ暗な早朝05:39、急行「はまなす」は終着駅青森に到着。
暖かいB寝台のベッドから叩き起され、凍える夜明け前のプラットホームに降り立つ。
あまりに早い時間に終着してしまう夜行列車で迎える冬の朝は、結構つらい。
 

ここ青森でこれまで使用していた周遊きっぷ「札幌・道南ゾーン」の「ゾーン券」を使用終了して、「かえり券」を使用開始する。
文字通り、「帰りみち」に就く訳だ。

奥羽本線始発の青森駅06:12発弘前行き普通列車632Mで、帰りみちを日本海側から南下開始。
弘前駅に06:53到着、06:59発の大館行き普通列車1634Mに乗り換え。
ようやく夜が明けてきた。陽が射すと、雪景色が眩しい。
大館駅には07:40到着で、ここで08:06発の秋田行き快速列車3638Mに乗り換える筈だったが、何のことはない、今乗っている1634Mが列車番号を変えるだけでそのまま秋田まで直通するとのこと。
大館では行き違い列車が雪で遅れているとのことで発車を待たされる。やって来た列車は何と、来るとき乗ってきたブルートレイン「日本海」。所定のダイヤでは今頃はもう弘前駅を発車して青森駅までの最終区間を走っている筈だから、随分と遅れている。
結局、3分程遅れて大館駅を発車。終着の秋田駅で羽越本線の09:50発酒田行き普通列車534Mに乗り継ぐ。

車窓に冬の荒れた日本海を望みながら走ること約20分、普通列車534Mは小さな無人駅に停車する。
 
10:11、羽越本線道川駅に到着。ここで下車。
駅前を通る国道7号線を、凍えるような海風に吹かれながら秋田方向へと引き返し歩くこと10分、勝手川という小さな川が日本海に流れ込む河口に辿り着く。


国道から、海に向かって続く小路へと進んで行く。


小路の先には、ただ海が広がる。
「着いた…
ここが、日本の宇宙への最初の入口。
ロケットの生まれた海…」


ついに、ここに来ることができた。
道川海岸。かつて秋田ロケット実験場のあった場所である。



昭和30年4月12日、糸川英夫教授率いる東京大学生産技術研究所AVSA研究班は東京都国分寺市にて戦後日本初のロケット発射実験を行った。
この時、上空ではなく水平方向に向けて発射されたのが全長20㎝余りの超小型実験用ロケット「タイニー・ランス」。
その愛らしい小ささから、誰言うとなく何時しかペンシルロケットと呼ばれるようになった戦後日本初のロケットはその4ヵ月後、秋田県の道川海岸から初めて宙(そら)へと放たれた。

夏海の まばゆきをまへに 初火矢を揚げむとすれば 波は寄る音。 ―糸川英夫

時に昭和30年8月6日、晴れた夏の日の午后の出来事であったという…


だが今、僕の目の前には、訪れる人も無くただ荒涼とした海岸と、荒れ狂い打ち寄せる鉛色の日本海が広がるのみ。

ペンシルロケットと、それに続くベビーロケットの発射実験が行われた道川海岸の秋田ロケット実験場では、その後1957~58年の国際地球観測年(IGY)への日本の参加を目指し開発された地球観測用ロケット、カッパロケットの発射試験が行われた。
そして昭和33(1958)年9月25日、道川海岸から打ち上げられたカッパ6(K-6)型は高度60㎞の上層大気の状態を観測することに成功。
日本は見事に自力での観測ロケット打ち上げに成功し、国際地球観測年へと堂々と参加した。日本は道川海岸から世界の宇宙開発への仲間入りを果たしたのである。

冬空に 河童一閃(かっぱいっせん) 寒さかな―糸川英夫


道川から打ち上げられるK-6型ロケット 画像提供:JAXA

しかし、その後の昭和37年5月24日に打ち上げられたカッパ8(K-8)型ロケット10号機が打ち上げに失敗し爆発するという事故が発生。
幸いにも一人の負傷者も出なかったものの、危険防止上多額の必要経費が見込まれたことから、その後の秋田ロケット実験場での観測ロケット発射実験はすべてキャンセルされ、折しもロケットの性能向上に伴ない「このままでは日本海の向こう岸にロケットが届いてしまう」との問題から新たに建設が始まっていた鹿児島宇宙空間観測所(現・内之浦宇宙空間観測所)に移行する形で、道川海岸の秋田ロケット実験場はその役割を終えた。その後の日本のロケット開発計画に何物にも代え難い教訓を残し、日本で最初の宇宙への入口は閉じられ、歴史の表舞台から去っていった。

現在、道川海岸には秋田ロケット実験場があった頃を偲ばせる遺構は全く残されていない。
ただ、地元の人々が建ててくれたという「日本ロケット発祥記念之碑」がぽつりと一つ、この地を訪れた宇宙とロケットが好きな旅行者を出迎えてくれた。





碑の先に広がる、冬の海岸を暫し歩き彷徨ってみる。

「すべては、ここから始まったんだ…」

現在「日本ロケット発祥記念之碑」がある勝手川南岸からはペンシルロケットとベビーロケットが、その後北岸に場所を移してカッパロケットの打ち上げが行われたという。
日本が世界に誇る固体燃料ロケット。そして、それによって宇宙へと旅立った幾多の科学衛星、探査機たち。
その礎を育んだ海は、ただ鉛色に沈み打ち寄せるばかり。
でも、かつてここには宇宙を夢見る若き者たち、ロケットボーイの熱い夢があった。
それは今、地球周回軌道を遥かに飛び越えて彗星へ、火星へ、そして偉大なる先駆者の名を貰った小惑星へと、力強く羽ばたいている。
この海は、そのことを知っている。いつしか古の夢を、饒舌に語りかけてくるようだった。


 糸川教授とベビー・ロケット 画像提供:JAXA

 糸川先生と日本のロケットボーイたちに、乾杯!


道川駅に戻ってきた。
駅前ある観光案内看板にもしっかりと「ロケット発祥の地」の記載がある。
また、駅前旅館には「成田為三宿泊の宿」との看板があるが、童謡「浜辺の歌」で知られる作曲家の成田為三さんがここを訪れていたということはひょっとして、「浜辺の歌」で歌われている浜辺とは道川海岸の事だったのだろうか?
  

 道川駅11:23発、羽後本荘行き普通列車2538Mに乗車。
しかし、すぐ隣の岩城みなと駅で降りて、駅近くにある「道の駅岩城」へと向かう。
ここには、秋田ロケット実験場に因んでかエントランスホールにロケットの模型が展示されているらしいと聞いていたので、帰る前に見に行くことにする。




何故か、道川海岸ではなく内之浦から打ち上げられた日本初の人工衛星「おおすみ」のL-4S-5ロケットなのは御愛嬌?
ともあれ、秋田ロケット実験場の地元で見ることの出来る資料と呼べるものはこの道の駅にある、ロケット模型と階段に展示されている説明パネルだけのようだ。
これで、見るべきものはすべて見た。
さぁ、帰ろう!

しかし、岩城みなと駅に戻るとインフォメーション表示器に流れる不穏な字幕データが…
「え!?今夜の日本海縦貫線の夜行列車は荒天が見込まれるのですべて運休!?」
猛烈な冬の嵐が、大晦日の日本海からまさに襲いかかろうとしていたのだ。
困ったな、今夜は新潟まで行ってから、大阪行きの夜行急行「きたぐに」号に乗り継ぐ予定だったのに…
委託職員の秋田美人の駅員さんに頼んで、管理局に問い合わせて調べてもらうと、果たして「きたぐに」号は運休決定しているとのこと。

「困った…これからどうしよう?どうやって帰ろう?」

ここまでの鉄旅データ
走行区間:青森駅→道川駅→岩城みなと駅(奥羽本線・羽越本線経由)
走行距離:207.3キロ(JR営業キロで算出)


2009-2010 冬の旅 12(最終回)、旅の終わりは新年の始まりに続きます


2 コメント

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次元じゃないけれど… (MOLTA)
2010-02-07 20:15:41
さぁて、面白くなってきやがった!
という台詞が思わず口をついて出そうな展開になってきました。

やはり、天燈茶房さんの旅行記はこうでなくっちゃ!(笑)

これから、どこまで災難が広がるのか?
そして、それをどう見事に切り抜けるのか?

楽しみにしています!

PS
本題の、道川海岸の日本ロケット発祥の地ルポは、考えさせられました。

こうした、日本科学史上重要な意味を持つ場所が、このような寂しい状況にあることの切なさ。

それでも、こうして訪れる人がいる。
そして、そのルポに感銘を受ける人もいる。

そのことの喜び。

いずれにせよ。
糸川先生も、ひょっとしたら天燈茶房さんの訪問が嬉しくて、一瞬ハヤブサ君の傍を離れて横に付き添ってくれたのかも。
そんなことを、鈍色の空を見ながら思っていました。
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さぁーて、今から捲くるぞぉー!っと… (天燈茶房亭主mitsuto1976)
2010-02-07 22:02:30
MOLTAさん、こんばんは。
道川海岸編、早速読んで下さってありがとうございます!

さぁ、今からお待ちかねの災難脱出編ですよー!
(…何で僕の旅は、最後はいつもこうなるんだ?)

道川海岸は何もない、本当に何もない場所でしたが、そのことがかえって旅愁を誘いました。
ひょっとしたらMOLTAさんの仰る通り、本当にあの時僕は糸川先生やロケットボーイたちと一緒にいたのかも知れない。
そんな気さえします。
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